息衝く未来はきっと君が願うまま。


選択をすることは、勇気がいる。でも今までの人生も、幾つもの出会いも、幾つもの思い出も、全ては自分で選んで決めてきた。だからこれも誰かに委ねるのではなく、自分で選び取り、決めなくてはいけないんだと思う。




「…あのさ、」

「ん?」


夕飯を終えて、もう時刻は夜の10時。柴崎はソファで本を読んでいた烏間に近寄り、その手に二つのカップを持っては声を掛けた。



「今、ちょっと良い?」

「…あぁ。座るか?」

「うん」


譲って空けてくれた隣に腰掛けて、柴崎は持っていたカップの一つを烏間に渡す。温かなその中身は褐色のコーヒー。烏間は受け取り彼に礼を伝えると、その縁に口を付けて中身を喉へ通した。それは隣に座る柴崎も同様で、彼もまた入れ立てであるコーヒーを軽く傾け飲んでいた。



「…どうした?」

「……うん…」


離したカップに目を落とす。少しだけ縁をなぞって、柴崎は立ち上る湯気に視線をやった。けれど本当はそれよりも先に見えているテーブルを見ていて、きっとそれは烏間にも気付かれていることだろう。



「…前に、烏間のご両親に話したでしょ?」

「そうだな。…早いな、あれからもう一月ほど経つのか…」


時の流れは早い。あっという間に時間が過ぎていく。ぼうっとしていたら置いていかれてしまいそうで、気付けばカレンダーも30、31日に近付いていて、あぁ、またあれを捲る日が来るんだなとも思う。



「俺もね、話そうと思って」

「、」

「…ううん。ちゃんと話したいって思ったんだ」


烏間とのことを。柴崎はそ、と顔を持ち上げる。そうして隣に座る烏間の方を向いて、その瞳に彼の姿を映し出した。



「母さんは多分何にも問題はないと思う。話しても、あの人なら喜んでくれる」

「…母さんは、か」


そこまで言って、烏間はやっぱりなと小さく笑う。初めから分かっていた。例えばこの先、柴崎との関係を彼の家族に告白するとしたら。その時の一番の関門がなんであるかは。

柴崎にはたった一人の弟がいる。そしてその弟からすれば、彼はたった一人の兄。幼い頃から彼は自分の父のようで、兄のようで…。だから何処へ行くにも、何をするにも、彼にとって兄の存在は一番だった。
そんな彼から、雄貴から、柴崎を貰う。これは随分と良い言い方の表現だ。だから敢えて、もっと他の言い方をするならば、きっとこれが適している。




「…俺は、雄貴くんからお前を奪うことになるな」


大好きな兄を彼から奪う。間違ってはいない。事実そうなのだから。
そう言葉を落とせば、烏間は足に置いていた手をそっと取られた。優しく包まれ、握られて…。触れてくる柴崎の方へ顔を向ければ、彼は少しだけ眉を下げて緩く、その首を横に振った。



「烏間がそんな顔しないで。それを事実だって言われたら、確かに返す言葉がないけど…。それでも俺が烏間と一緒になりたいって思ったのは、俺自身が選んで、自分の意思で決めたことだよ」

「あぁ、分かっている。柴崎が自分で選んで、その上で俺を選んでくれたこともな」


しかしそれでも、告白をするとなると一瞬でも起こる亀裂は避けられないだろうと、烏間は思うのだ。
雄貴から柴崎を奪うことは、偏に彼にとっての大切な人を奪うことと同意だ。睨まれても、今まで積み重なってきた思い出や信頼が崩れても仕方がない。だから受け入れる覚悟はある。烏間自身、そこから逃げるつもりはない。



「いつかは来ると思っていた。確かに、選択のしようでは避けることも出来る。だがそれを、いつまでもお前が望まないことは知っていた」

「…、」

「それに、柴崎だけじゃない。遅かれ早かれ、俺もお前の両親と、雄貴くんにもきちんと伝えるべきだと考えていた」

「烏間…」

「俺は今でも大衆に認められようとは思っていない。初めから誰に知られずとも構わないと思っていたくらいだからな」


ソファの背もたれに体を預け、烏間は手のひらの中にあるカップを今一度と握り直す。そうして思い返した。隣に座る彼を、柴崎を好きになった時のことを。それから長い、片想いの時期を過ごした時のことを。
望んではいない。多くの人に祝福されることを。拍手を貰いたいわけでも、良かったねとあちらこちらから声を掛けられたいわけでもない。

願うことはいつだって一つだった。昔から長く、長く、気持ちを通い合わせてからもずっと。愛する彼がその生を全うするまで、幸せであり続けること。欲を言って良いのならその幸せを与える人間が自分であればと、そう思うことくらいだった。



「…だがあの教室で、本当の最後の日に、生徒達から祝福された時の柴崎を見て思った」



誰にも知られず、認められずとも良い。その思いは変わらない。けれど…せめて。せめて柴崎の家族には、知っていて欲しい。そして伝えたい。必ず彼は、自分の一生をかけて幸せにすると。きちんと言葉にして誓いを立てたいと思った。
例えその先に待っているものが祝福の言葉でなくても、この想いは嘘でも偽りでもない。心の底から思う、自分の本当の想いであることを…彼の家族に知ってもらいたいと思ったのだ。

我儘な思いなのかもしれない。自分勝手な願望なのかもしれない。しかしそれでも、あの時嬉しそうに、幸せに笑う柴崎を見てはそう思わずには居られなかった。




「ちゃんと話して、お前の家族には知ってもらいたい」

「、」

「それで欲を言うのなら、良かったと言われている柴崎を見たいと思った」


柴崎にとって自分の家族は何を取っても大切な存在。守りたい存在だ。そんな彼等から認めてもらうこと。良かったねと祝福されること。それがどれだけ彼の心に幸せをもたらすか。烏間には想像をせずとも察せられた。
きっと、一番嬉しいはずだ。今までの中で一番、彼からすれば涙が出るほどに、家族から認めてもらうことは。

しかしその一歩というのは勇気がいる。特に彼には弟である雄貴の存在があった。彼がどれだけ自分を好いてくれているか、柴崎自身も分かっている。
雄貴だっていつかは自分の兄が、自分だけの兄ではなくなる日が来ることくらい心算はしているだろう。
それでも、実際と想像は別物だ。心に落ちる衝撃はきっと本人が思う以上のものだろう。それをなんとなく、柴崎も分かっているから言い出せなかった。あの子を傷付けてしまうくらいならいっそ、と。未来の一つに蓋をし掛けていた。

烏間が先に自身の両親に告白したのは、そんな柴崎に気付いていたからというのもある。
一歩を踏み出す勇気。確かに怖く、諦めてしまいそうにもなる。そして可能性として存在する、弟を傷付けてしまう未来。柴崎は今その線の前で迷っているのだ。だから烏間は先に一歩を踏み出す勇気を見せた。そうして言葉なしに彼は柴崎に伝えていたのだ。

引いて守るも勇気。けれど踏み出さなければ、見える未来も見えないことを。事実烏間の両親は祝福をしてくれた。これは烏間が勇気を出して告白する未来を選択したから見えた未来だ。



「雄貴くんを傷付けてしまう未来があるかもしれない。彼を泣かせてしまう未来も、告げれば避けられないかもしれない。…だがその先で彼が俺とお前とのことを認めて、泣いても笑ってくれる未来があるかもしれない」

「…っ、」

「もしもこれを賭けだと言うのなら、俺は後者に賭ける。……いや。後者になるよう努力する。恐らく俺は雄貴くんに認めてもらえて初めて、」


そこまで言って、烏間は隣に座る柴崎を振り向く。少し下がった眉。泣いてはいないが、泣きそうな顔。頬に手を伸ばし触れると、彼はそこに懐くよう顔を寄せた。
柴崎だって思うことはたくさんあるんだろう。けれど烏間の勇気を見て、彼はその背中を押された。そして逃げてばかりいてはいけないと、確かに一つの答えを出したのだ。



「本当の意味で、お前は俺の恋人なんだと胸を張って言える」



きゅ、っと眉を寄せて、何かに堪えるよう柴崎が少し下を向く。静かに閉ざされた瞼。それを知ると、烏間はもう片方の腕を動かした。
肩に触れて、抱き寄せて、頬に触れていた手は頭の後ろに。そうして柴崎の体を抱き込むと、腕の中の彼はその温もりに縋るよう身を寄せそ…、と。烏間の背中に手を伸ばしその服を緩く掴んだ。




「ありがとう柴崎。俺は何処かで、お前のその言葉を待っていた」

「…っ、ごめんね、すぐに勇気出せなくて…遅くなっちゃった…」

「構わない。それにお前ならいつか答えを出すと信じていた」


人からの評価や見え方に怖さを感じる時は、きっと生きていればどこかで経験をする。けれどそれ以上に怖いことは、大切だと思う人を悲しませてしまう可能性を持つ未来だ。
臆病になれば、それだけ答えは遠ざかる。尻込みをすれば、それだけ時間は削られていく。
いつか人は、何処かでけじめをつけなくてはならない。誰かの為にも、自分の為にも、未来の為にも。怖がってばかりいては前には一歩も進めやしないのだから。




「…予定を合わせて、会いに行こう」

「…うん」


未来は誰かが動かすものじゃない。自分の足で、手で、動かすものだ。けれどそこに寄り添える誰かがいるのなら、その人と手と手を取り合って進んで行けば良い。
未来は変えられる。いくらでも、自由に。ただそこへ勇気を持って立ち向かえるかが、行先を動かす鍵となるのだろう。














足取りは決して軽くない。実家へ向かうことにこれ程一歩が重いなんてことも、思えば今までなかった。
柴崎は今日何度目かの息を吐く。きっともう雄貴は実家に居るのだろう。訳も分からず、なんの理由も知らされないままに。

内緒にしていても良かった。知らせないままにしておくことだって出来た。…けれどそれを、結局のところの自分は選ばなかった。
我儘、なのかもしれない。烏間との関係を認めて欲しいという、大きいのか小さいのか、測りきれない我儘。



「いらっしゃい、烏間くん。それからおかえりなさい、志貴」


決意は何度も鈍りそうになった。けれどそれでも、こうして此処まで来れたのは隣に立つ烏間の存在のお陰なんだと、そう柴崎は思った。



「…ただいま、母さん」

「お邪魔します」


笑う香織の姿はいつも通りだ。温かなその笑みは、複雑にも揺れる柴崎の心を柔く包み込む。その時かちゃり、と。扉が開くような音が聞こえた。視線をそちらへ移すと、一瞬柴崎は息を飲む。
分かっていたはずなのに。来て欲しいと言ったのもこちら側で、だから知っていたはずなのに。
心臓が嫌に波打つ。しかしその心の振れを伝染させたくなくて、彼は浅く息を吐いた。



「お。おかえり、兄貴。お久し振りです、惟臣さん」



悲しませたくない気持ちは変わらず大きい。なのに、やはりこの気持ちは我儘なのかもしれない。
柴崎は不意に背中に当てられる温かなぬくもりを知る。刹那過ぎる感情に、彼は漸く己の本心を認めた。

悲しませたくない。けれど、いつの日か彼にも認めてもらいたい。



「ただいま、雄貴」


例えそれに、何年の月日が掛かってしまっても。




家に上がり、通される先はリビングだ。お茶を用意する香織の側に立ち、柴崎は置いてあったコーヒーの瓶を取った。蓋を開け、中の粉をスプーンで掬う。そうしてカップの中へゆっくり落とし入れた。



「あまり見せない顔ね」

「え?」

「今の貴方の顔。……そうね。丁度四年前になるかしら。志貴がアメリカから帰ってきた年のことよ」


カチ、とした音を立ててケトルが沸く。それを持ち上げた香織が柴崎の隣に立ち、彼が用意していたカップの中へとその熱い湯を流し込んでいった。
次第に褐色が浮き上がり、芳醇な香りが立ち込める。しかしただ一つのカップにだけはティーパックが置かれており、香織にはそれが誰に向けて用意されたものなのかが直ぐに分かった。



「なんとも言えない横顔。母親の私がどう声を掛ければ良いのか分からないくらいに、あの時の貴方は何か大切なものを失ったかのような顔をしていたわ」


四年前。アメリカ。それだけで柴崎は直ぐに察した。
思えば早いもので、あれからもう四年になる。あの話は一度たりとも家族にした覚えない。烏間と、彼から話を聞いたらしい今は卒業をしていったあの生徒たちと、粗方のあらましを知ったイリーナ。他にも数名、このことを認識していた者はいたが、その者たちはもうこの世にいない。

だとすれば彼女は話されていなくても気付いていたという訳だ。柴崎の変化に、彼に何かがあったことを。



「…知ってたの」

「そりゃあ分かるわ。だって私は貴方の母親だもの。息子の変化くらい、顔を見ただけでも分かるものなのよ」


一つだけにフレッシュを。もう一つにはミルクを。残り二つはそのままで、香織は白く濁っていく二つのティーカップをスプーンの先で緩く回した。綺麗な琥珀色と褐色が少し色を変え、淡く染まっていく。
香織は役目を終えたティースプーンをシンクの方へ持っていくと、その先を軽く水で濯いで近くに置いてある水切り場に立て置く。そうして掛けてあるタオルで手の水を拭えば、彼女は再び柴崎の側に立った。



「志貴」

「ん?」

「貴方はもっと、自分に我儘になりなさい」

「え、?」

「それを受け止められるだけの許容は私にだってあるわ。だからね、」


少し水に濡れて冷たくなった手。それがゆっくり柴崎の方に伸びると、彼女はその手で優しく彼の頬に触れた。



「今日は我慢しちゃ駄目よ」


一瞬、呼吸が止まった。それが吐き出されるまでにどれだけの秒数が経っただろう。気付けばお盆を持った香織が先に向こうで待ってるわねと言葉を置いて、このキッチンを後にしようとしていた。



「っ、母さん」

「うん?」


知らなかった。いや、知らないことが多かった。気付かなかった。…気付けないことが多かった。
あの時の自分も、今の自分も、実の母親の前では隠しきれていない。本当は隠したって無意味なのかもしれない。
何故ならどんな時でも、母親というものは見てくれている。気付かない間に、知らない間に、優しい眼差しで。



「…ありがとう。色々と」

「、…良いのよ。可愛い息子のためだもの。当然でしょう」


その優しさに何度助けられたか変わらない。だからきっとこれからも、今からも、母である彼女には助けられるのだろう。


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