網膜を刺激する甘さ


もうすぐ夏も終わり、秋を迎えようとしていても合間にその夏の暑さを思い出させるような日がやってくる。そんな日の太陽の日差しはあの季節のものと変わらない暑さで地面に注がれ、おかげで下から込み上げてくる熱気は上からの暑さと同等に蒸し蒸しとしている。
街を行き交う人の流れを見てみても、誰もが気怠げに、そして立ち込める熱気を煩わしそうにしては流れ落ちる汗をタオルやハンカチで拭っている。もうすぐ秋なのに。誰もがそんなことを心の片隅、頭の片隅で思っているのかもしれない。

片や室内でお茶、仕事をしている者たちの涼しげな顔つき。いや、飲食店などはこの時間帯バタバタと忙しそうにしているあたり彼らは暑いのかもしれない。

烏間は生温い風を肌に受けながら空高い青さと少し秋めいた雲を見上げた。じわりとした熱が十秒と待たずして肌を湿らせる。纏うカッターシャツも朝の頃に比べれば少し疲れているようにも見えた。日陰に逃げるもそれは僅かな遮りでしかならず、いずれまたこの日向の中へ出なければならないと思うと駐車場までの少しの距離さえ億劫に感じる。



「(…あいつは今頃…まだ監査本部か、もしくは…)」


新人教育。ではないが、監督を任されている柴崎のここ最近は非常に多忙なものである。重なる会議と教育のフォロー。上からの指示に資料作成。勿論情報部としての仕事も多少なりとも任されている彼は自宅へ帰るは愚か、睡眠もそれほど取れていない。烏間としてもそれが心配であり、今日だけは定時で上がり帰って来いと約束をさせた。

ずっと夜の9時、10時まで残り帰宅をすれば風呂に入り軽く食べて他愛ない話も出来ないままに舟を漕ぐ。そんな彼をここ数日何度見て、そして何度も寝室へと運んだ。寝坊はしないものの疲れが取り切れていないのかスッキリした様子は見えず、だが仕事となるとそれも切り替わり持って生まれてな集中力を発揮させる。

指示は的確。フォローも完璧。上からの要求にもきちんと答え、後輩たちの書類一つ一つのチェックも怠らない。優秀中の優秀とは彼のことを言い、だが烏間としてはあまり喜べないことだった。
寝かせてやりたい。ゆっくりさせてやりたい。思う気持ちはあるものの、烏間に監査本部の仕事は出来ない。部署外であるし、何より担当外で勝手が分からない。やれる事は高が知れていることは言うまでもないのだ。



「(真面目に輪をかけて真面目だと俺に言うが、あいつは人のことが言えるのか?)」



答えは否だ。柴崎も烏間に負けず劣らず生真面目な部類。息抜きはするも一度取り掛かるとプツリと集中力が途切れるギリギリまで目も、頭も手も止めない。一年間担当し続けたあの任務では隣に烏間がいたから良かったものの、今はそうではない。

だから彼は柴崎が早く、一日でも情報部へ異動してくることを願う。もしくは烏間自身が、監査本部への異動を命じられることを。しかし後者はなかなかないだろう。先輩はいるものの、部署全体的には彼が軸で回っているようなもの。烏間抜きでは情報部の円滑な仕事循環も、そう上手くはいかないだろう。



「…暑いな…」


この思い出させるような暑さにやられて、日々の忙しさにやられて、彼がぶっ倒れていなければいい。烏間は少し緩めたネクタイに指をかけては隙間から風を送り込んだ。



「…烏間先生、ですよね?」


掛けられた声に空へ向けていた視線を横へ動かす。人混みの中、近くに立つ二つの姿。たったまだ数ヶ月。それなのに随分と大人びたように見えた。



「やっぱ烏間先生だ!ちわっす!」

「良かったぁ。もし空似だったらどうしようかと思って」


相変わらずの明るさと、相変わらずの穏やかさと。学校の帰りだろうか。互いに高校の制服を身に纏った状態で彼等は烏間に話しかけた。



「前原くん、磯貝くん…」

「お仕事最中っすか?」


驚いたような顔色を見せている烏間とは裏腹に久々に会えた恩師の一人に二人は喜んでいるのか、日向から日陰へと身を寄せながら烏間の隣に立った。



「いや、今日の分は終えられてな。これから帰るところだ」

「そうなんですね。…柴崎先生は一緒じゃないんですか?」


来ると思った。そう呟いたのは何処の誰か。磯貝がきょろきょろと辺りを見渡す姿を視界に収めながら、彼は軽く首を横に振った。



「あいつとは部署が違うからな。同じ仕事はしていない」

「え?そうなんですかっ?」

「柴崎先生、異動とか…?」

「いや。元々あいつは俺とは違う部署に所属している。とはいえ体の三分の一ほどはこちらの部署所属だがな」


体の三分の一ほどはこちら側…?烏間の言葉にきょとんと小首を傾げる二名にくつりとした小さな笑みを烏間は落とす。そういう反応は久方振りであり、たかたが数ヶ月とはいえ随分と懐かしく感じた。と同時に思うことはもう一人の彼のこと。彼もまた持っていた彼等をとても大切に、大事に思っていた。きっと仕事も何もなければ時間を割いてでも会いたいだろう。




「…今は帰りか?」

「はい。授業を終えたので、前原と待ち合わせして久しぶりに会っていたんです」

「こいつ何も変わってなくて、相変わらずの真面目さだったんすよ」


制服とかきっちり着ちゃってさ。暑くねぇの?と話しかける前原の具合と、暑いけどちゃんと着ないと駄目だろ。と返す磯貝の具合はまるであの頃のまま。確かあの時も着崩す前原ときちんと着ている磯貝とがいて、良く式典などの時には磯貝がキュッと前原のネクタイを上まで締めていた。
その様子を式典の度ごとに見られるものだから柴崎は可笑しそうに笑って、流石は委員長さんだねと褒めていた。



「用事がないなら、少し寄っていかないか?」

「「へ?」」


何処へ。それを聞くよりも少し悪戯らしく笑った烏間の表情に目が止まる。一つの可能性が二人の頭の中を駆け巡る。少しだけ緊張した。嬉しいような恥ずかしいような、決してマイナスではない感情が彼等の心臓の鼓動を緩やかに速める。



「今どうしているかは分からないが、柴崎も君らに会いたがっていた」


運が良ければ会えるかもしれない。なければ、互いに会うことはまたの機会へと伸びてしまうかもしれない。だが今日は何があっても定時で上がれと朝に伝えてきたので、遅くても六時には帰宅をするだろう。
とはいえ烏間もそこまで磯貝と前原を捕まえておこうとは思っていない。この頃の日暮れは早くなった。だから先に言った運があれば、柴崎だって彼等の顔を見ることが出来る。

これは一種の賭けだ。だが一瞥した先に見えた彼等の顔色を見る限りでは了承の色は濃い。快く乗ってくれるようだ。とすればあとは柴崎だけ。烏間は早く帰って来いと彼へ思いを馳せれば、二人が浮かべた笑顔の色を視界に留めて、頷く動作に柔く口元を緩めた。














駐車場まで歩いて、そこから車に二人を乗せて、十五分二十分もする頃には烏間からすれば見慣れたマンションが姿を現した。初めに登録してある番号の位置へ車を停めて、エンジンを切ればそれは到着した合図だ。



「綺麗なマンションっすね」

「まだ新しいらしい」

「築何年ですか?」

「築は…確か二年だったと思う」


え!新品だ!騒ぐ前原の声を背にそういえばこのマンションは新品も同然だったなと今更なことを烏間は思う。決めてからというものあまりそこに意識はなく、引越しやらベッドやら何やらで遠い彼方へと飛んで行っていた。
そのあとは荷物の整理だったり、あとは…ベッドで寝る云々。一つ一つは取るに足りない小さなことなのだが、あの時の烏間と柴崎にとっては全く取るに足りない、小さなことではなかった。寧ろ取るに足り過ぎて大き過ぎた。

あれからもう三ヶ月、四ヶ月が経った。早いものだ。春から夏、夏から秋へと季節が移ろっているのだから当たり前なのだが、ここ最近は特に一ヶ月が早く、また一週間を早く感じる。

部屋のある階へ到着すると烏間はポケットから鍵を取り出す。二つ三つと連なるところから一つを選ぶとそれで鍵穴に差し込み解除する。取手に手をかけ手前に引けば扉は開けられ、烏間は後ろに立つ二人を中へと招いた。それにありがとうございますやお邪魔しますなどの言葉を告げてから磯貝と前原は室内へと足を踏み入れる。



「あれ…、」

「ん?…あ、」


先に入った磯貝が何かに反応を見せる。そのあと前原もどうしたのかと彼の視線の先へ目を移せば、彼もまた似たような反応を示した。



「どうした」


何かあったかと問うように鍵を閉じてから烏間かそちらへと顔を向ける。すると彼の瞳にも彼等と同じものが映ったのだろう。

一組の革靴。一拍を置いて、それからあぁ…と。何処か安心したような声を漏らした。磯貝と前原が烏間を振り返る。
思うことが、ひとつ、ふたつ。
果たしてこれがあっているのかどうかもあやふやだ。だが彼があぁも安堵した、柔らかい声を落とす相手は今の所一人しか見当たらないのだ。



「あの…これって、」


勇気を出した前原が恐る恐る烏間へと尋ねる。しかし本質にはきちんと触れられておらず、その先を言うのに躊躇いと含羞が込められているように感じた。
思い返せばそれを匂わせるような発言を烏間はしており、だがその時二人は気付けなかった。誘われたことが嬉しかったのか、柴崎も会いたがっていると聞けて心が喜んだのか。意識はあの時の彼の言葉に向けられなかった。

烏間は二人から向けられる真剣な、また期待の含まれる視線に一瞥をくれる。それから小さく、音にもならない笑みを零せば彼は靴を脱いで室内へと一歩足を踏み入れた。




「そういうことだ」


数秒を置いて、後ろからは「…ええっ!?」という二つ分の声が聞こえてくる。それに烏間は喉の奥で笑い、早く来いと彼等二人を手招いた。
振り返った先に見えた彼等の頬は分かり易いほどに熱を持っており、それがこの暑さではないことは簡単に察せられた。だからこそ初心さが垣間見え、また年相応の反応には内心微笑ましさすらも感じた。



ゆっくりとした足取りで近づいてくる彼等はこの先のリビングへ向かうことへの確かな躊躇と緊張を表情や行動に含ませている。忙しなく気は漫ろになり、視線が右へ左へと時折移動している。それを知りつつも烏間は取手に触れてはそこを下へ押す。
開いた隙間から流れてくる少しの冷気が、確かにこの先にはもう一人、彼が存在していることを雄弁に教えた。

外から中へ招いたように、烏間は自分が入るより先に磯貝と前原の入室を優先する。若干の戸惑うような視線を二人から受けるも、大丈夫だと伝えるように軽く首を室内へと寄越した。
彼等は互いに目を合わせる。どうしよう、どうしようか。そんな会話を声もなしにすれば、直に心は決まったのか再びお邪魔しますと。何故だかトーンは小さめにして二人は廊下からリビングへと足を踏み入れた。


第一の感想といえばシンプルで、物が少ないせいか奥行きがあるように感じられることだった。しかしそれが何処となく彼等らしく、無駄なものは置かないところが形になっていた。
歩みを進める。磯貝と前原は物珍しそうに部屋の中を見渡して、その先の何かに目が止められた。

好奇心。それに似た感情が胸の奥からじわりじわりと顔を覗かせてくる。二人は互いに顔を見合わせ、そうして足音を極力立てないように忍び足でそこへ向かった。勿論その様子は後ろから見ている烏間には筒抜けであり、だが彼等はそのことに気付いていない。気になるものを求めてただ一心なのだ。
とはいえ烏間もまた彼等が気になるものが気になる。凡その答えは自分の中で出ているも、目で見てみなければ確証は得られない。



「……寝て、る?」

「…寝てる、な…」


だが聞こえたところによると、どうやらあの彼は寝ているらしい。どこで寝ているのかというと、それはこの部屋にある大凡二人半ほどが掛けられるソファでだ。
烏間は磯貝と前原の零した声を耳にしては漸く足を動かす。向かう場所は二人がいる、そして彼が寝ているとされるソファだ。

覗いて見れば帰って来て、恐らく倒れ込むように横になったのだろう。彼らしくないほどに服装はそのままで、カッターシャツに黒のスラックス。ネクタイを解く時間すらも煩わしかったのか、それとも意識が行かなかったのか。エアコンだけはかけて、物音や気配にも目を覚まさないままどっぷりと寝入っている。

ぐっすり、というよりもぐったりという表現が似合うほどの疲れ具合。呼吸が深く、緩やかなところから見るとこれはそうそう目は覚まさない。
烏間は眠る彼、柴崎を見ては疲労困憊な姿に些か眉が下がる。頑張り屋なのは良いが、頑張り過ぎるのは良くない。これは起きて、側に立つ二人が帰った後には少し叱らなければ。



「、…烏間先生…?」


叱らなければ。そう思うのに、頑張り過ぎて、何事にも一生懸命な彼の姿を思い、頭に浮かべると強く出られない自分が居ることに気付く。
滑稽な話だ。止して欲しいと思うのに、目元が緩みそうになるのはどうしてなのか。


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