白いカップの中は褐色に染まっていた。
「…貴方の入れるコーヒーはどうしてこんなに美味しいのかしらね」
「そうかな…。普通に入れてるだけなんだけどね」
「あら。私がお世辞を言っているとでも?」
「そうは言ってないさ」
「オメーな、折角柴崎さんが入れてくれてんだから素直に飲めよ」
「なによ、別に貶してなんていないでしょ。それに聞いてなかったの?」
「何をだよ」
「ちゃんと初めに「どうしてこんなに美味しいのかしら」って言ったのを」
「いや、聞いてたけどさ…」
目の前で起きる会話。それはあぁ言えばこう言う。こう言えばあぁ言う。と、まぁ止まらないわけで、見兼ねた柴崎は間に入る事とした。
「まぁまぁ、仲良いのは分かったからさ」
「良くないわ」
「良くないよ」
「はは…;;」
いや、結構良いコンビだと思うけど…。なんて言う言葉は飲み込んだ。
コーヒーの入ったカップを手に彼はソファに腰掛けさせてもらう。今更ではあるが、ここは阿笠邸。訳あって少しお邪魔しているのだ。
「…そういえば本当は幾つなんだっけ」
「私のことを言ってるの?」
「うん」
「女性に年齢を聞くなんて、貴方って見掛けによらないのね」
「ははっ、ごめんごめん。ただ随分と言動が大人びているから気になって」
そう話す柴崎を一瞥する少女・灰原哀。彼女は少し沈黙を生めば、静かにその口を開いた。
「…18歳よ」
「18歳…。…俺の弟とそう変わらないんだね」
「貴方、弟が居るの?」
「10離れたのが1人ね」
今は日々懸命に防衛訓練に勤しんでいる。この間会った時は疲れたやら、やり甲斐があるやら、上達のコツを教えてくれやらと引っ付き虫であった。
「……そう」
コクリ…。飲み込んだコーヒーの苦味が口の中に広がる。
「…貴方は、」
「ん?」
「……貴方は、一体どこまで知っているの?」
「……何処までとは?」
「おい灰原、」
「江戸川くんは黙ってて」
ソーサーに置かれるカップ。静かな空間に混じった灰色の、真実の濁った空気。
「……私は、貴方を巻き込みたくない」
「(灰原…)」
膝に置かれていた手。それをぎゅっと強く彼女は握った。下を向いていた目線。それを上げ、灰原は柴崎を見上げた。
「もし何かの拍子で貴方にまで危害が及んで、そのせいで危険な目に合わせてしまったら…」
「………」
「…っ、私は、」
強く、強く強く、手を握る。
「…駄目だよ」
「!」
「女の子なんだから、いくら手の平でも傷は付けちゃいけない」
小さな傷だって痛いだろう?そう言って、柴崎は彼女の手を取り開かせた。
「…ほら、赤くなってる。痛くない?」
「……痛く、ないわ…」
「そう。なら良いんだ」
ゆっくり手を離し、灰原から温かなぬくもりが離れていく。
「…君の質問に答えるなら、」
「っ、」
「俺は何も知らないよ」
「ぇ…っ?」
「君とコナンくんが『何かのせい』で小さくなってしまった、っていう事以外はね」
「…そうなの…?」
惚けたような表情を浮かべ尋ねてくる灰原に彼は小さく笑って軽く頷いた。
「勿論、それ以上の事を知りたいとも思っていない。聡明な君達が頑なに隠すには、何かしらの大きな理由があるんじゃないかと思ってね」
「………」
「…それに、もし知ってしまった事で俺の大切な人達に被害が及ぶ可能性があるなら、…俺は知らない方を取る」
「「…!」」
温いコーヒー。それは些か苦く、後味が残った。
「ほんの僅かな好奇心で今後を左右する事なら、尚更にね」
秒針が動く音がする。長針も、今一度だけ横にずれた。
「……本当、貴方は良い意味で期待を裏切ってくれるわね」
「そう?」
「えぇ。……今、ホッとしてるわ。凄く…」
これで彼には危険は及ばない。何故なら彼ならば、『知りたい』という小さな好奇心とやらを思い切って捨ててくれるから。保守的になって、彼は彼自身が守らなければならない人達を守れるから。
「(…これで、良いのよ…)」
知らない事で、少しでも遠ざけられるなら。関係ないと、線を引けるなら。
「(……良い、筈なのよ…)」
なのに、なのにどうして、先程感じたあの温もりに…、手を伸ばしたいと烏滸がましく願っているの…?
「っ、え?」
「哀ちゃんは少し考え過ぎだね」
「…考え過ぎって、」
優しく頭に乗った手のひら。いつもなら子ども扱いをするなと払い退けるのに、それをせず享受してしまった。
「確かに俺は必要以上に知りたいとは思わないけど、君とコナンくんが助けを求めるなら幾らでも力になるよ」
「……知らずにどう助けるって言うのよ」
「方法は幾らでもある。何もたった一つしかないなんてことはない筈だ」
人の数だけ知恵は浮かぶ。同じ人間でないのなら方法など何通りもあるのだ。
「…それに、頼れるものは遠慮せず使うべきだよ」
「……、…っふふ、貴方って悉く面白いわね。そういう人、嫌いじゃないわ」
「え、」
「へぇ、まさかそんな言葉を頂けるとはね」
「え、?」
「あら、意外かしら。私がこんな事を言うのは」
「いや。ただ光栄だと思ってね。有難く受け取っておくよ」
応酬される会話。それを側で聞いていたコナンは思わずちょっと待った!と間に入る。
「おい灰原、お前、」
「何」
「…お前、んな素直な奴だったか…?」
掛けられるその言葉に彼女は彼を無言で、尚且つ無表情で見遣る。そして思いっきり、それはもう思いっきり鼻で笑った。
「そりゃあそういう反応をするでしょうね。何せ貴方にはない『大人の優しさ』が彼にはあるんだから」
「っオメーな…っ」
「はいはい、喧嘩しない」
「ほら、『大人』」
「子どもで悪かったな!」
「だからやめなさいって」
全く…と、浮かんだ苦笑いは隠せなかった。けれど砕けて話す2人を見て、そっと目元を緩める。
「(…こう見ると、他の子達とそう変わらないのにね)」
何を背負っているか。何に追われているか。何を、恐れているのか。…詳細など分からないが、それでもいつの日かの未来…、彼等にも平等に幸せが訪れれば良いと思った。
「柴崎くん。携帯の修理が終わったぞ」
「あ、ありがとうございます。すみません、突然頼んでしまって…」
「いやいや!これくらい構わんよ。動きも前より随分良くなっている筈じゃ」
「それは助かります。仕事柄よく使うので。本当にありがとうございました」
阿笠博士から貰い受けるは携帯電話。それが今回、彼がここを訪れた理由であった。実はここ最近どうにも調子が悪く、やっと時間の取れた今日、携帯会社へ向かうところだった。しかし向かう道中コナンと出会い、何をしているのかと聞かれた際に事の次第を話せばそれなら博士に!という事になったのだ。お陰で携帯は元通り。その上動きが速くなったと聞き、柴崎からすれば大助かりである。
「幾らお支払いすれば…」
「あぁ良いんじゃよ」
「え、しかし…」
流石にタダというのは…と言葉を零せば、彼は片手を口元に添えてコソコソ、と何かを言ってきた。
「哀くんと何か話したんじゃろう?」
「…えぇ、まぁ。とはいえ特別なことは何も…」
「全く君は謙虚じゃのぉ…。…あの子の表情がさっき見た時より随分柔らかい。きっと君のお陰じゃな」
そう言って笑えば彼はソファに座る2人に声をかけた。
「コナンくん!哀くん!実はケーキがあるんじゃがどうじゃ、食べんか?」
「ちょっと博士。いつそんなもの買ったのよ」
「(ギクッ)いやぁ、その〜…、っほれ!今日は柴崎くんが…」
「彼は別に前々から約束があって来たわけじゃないわ。江戸川くんにたまたま会って、それで連れられて来たのよ。…さぁ、白状なさい」
「ま、まぁまぁ!細かい事は気にせず!柴崎くんも食べるじゃろっ?」
「え、…あー…、」
「博士、彼を盾にして話を逸らさない」
「ここは白状しといた方が後々楽だぜ、博士」
「〜〜…っ、…ううっ、しょぼん」
「あはは…;;」
子どもに言い負かされる博士の姿に柴崎は苦笑を一つ。とぼとぼと、しかしその足はきちんと冷蔵庫の方へ向かっている為、ケーキを取りに行っているのだろう。結局彼は食べる気だ。せめて一口だけでも。実に卑しい。
「…貴方も食べていくでしょう?」
「ん?…そうだね。じゃあご好意に甘えようかな」
「なら、コーヒーを入れてもらえるかしら」
「俺が入れたので良いの?」
そう尋ねれば、彼女はその顔を少し横へ向けた。
「…私は、………柴崎さんが入れたものを、飲みたいだけよ」
それだけ言うと少々早足でその場を去る。向かうは博士の居るキッチンだ。そして残された柴崎といえば、思ってもみなかった言葉に些か瞠目していた。すると隣にやって来たコナンは彼を見上げ、礼を言ってきた。
「ありがとう、柴崎さん」
「……君も阿笠さんも、なんで礼なんて言うのかな」
「だってあいつがあんな顔してあんなこと言ったんだ。礼の一つや二つ言いたくなるよ」
あんな顔。それはきっと、いつもより穏やかな事を指すのだろう。そして言った事とは、恐らく二つある。一つ目は3人での会話の際に発せられたあの言葉。そして二つ目は、先程の名前を呼んでのあの言葉だ。誰に対しても警戒心を持ち、必要以上に踏み込ませない灰原。そんな彼女が見せたあれらに、コナンも博士も嬉しく思ったのだ。
「博士はこのシフォンケーキね。ちなみに半分だけよ」
「えぇ!わしはこのショートケーキが…」
「駄目」
「ちーん…。…柴崎くんはどれにするかの?」
「え、…あぁ、…そうですね。あまり甘くなさそうなので…」
「あれ、柴崎さんって甘いもの苦手な人?」
「んー、好んでは食べないかな…」
「ならこれなんてどうかしら。チーズが嫌いでなければだけど」
「食べられるよ。ありがとう」
「お、丁度湯も沸いたようじゃ」
「じゃあ江戸川くん、カップ出して」
「へーへー」
「ちゃんと温めてよ」
「わぁってるよ!」
「…いつもこうですか?」
「あー…そうじゃのう…、うん、そうじゃな」
「へぇ…」
title:喘息様