シャワーを浴びて、火照る体を冷ましたくてベランダに出た。
「(……明日は、…特別なにもないか)」
会議もこの間終えたし、書類整理も今日やった。急な出張もなければ大きな仕事もない。…随分平和になったものだ。
開けたペットボトルの蓋。柵を背凭れにし、中の水を飲もうと傾けた。…しかし、自分以外の影が見え、柴崎は後ろを振り返った。
「…これはこれは。お寛ぎのところ申し訳ない。しかし少々疲れてしまいまして。少し羽を休ませて頂いても構いませんか?」
真っ白な、まるで鳥のような”人間”がそこに居た。あまりの突然な事に柴崎はポカンとし、水を飲む事なんてすっかり頭から抜けている様子だ。
「………そこに立ってると、流石に危ないんじゃない?」
やっと出た言葉といえばそんなもの。目の前の彼が立っている場所があまりに危険な為、ついそんな台詞が出てしまったのだ。
「お気遣いありがとうございます。…お邪魔しても?」
「…羽休めにしたいならね」
「貴方はどうやら優しい人のようだ。…ではお言葉に甘えて、暫しの間失礼致します」
軽やかにベランダへと足を付けた彼。その姿を見て、そして遠くから聞こえるサイレンに耳を傾けた。それからやっと、柴崎はペットボトルへと口を付ける。冷たい水が体を巡り、染み渡った。
「……聞かないんですね、何も」
「君は聞いて欲しいの?」
「…いえ。ただこうして不法侵入をしたので、なにかしら問われるんじゃないかと思っていたんです」
「へぇ、不法侵入をした自覚はあるんだ」
これは驚いた、と。そう含んだ笑みを向ければ、白の彼は可笑しそうに笑った。
「…ところで、君は逃走劇でもしてるわけ?」
「、…もしや、私を知りませんか?」
「ん?…何処かで会った?」
「……」
白の彼は思った。驚いた…、まさか自分を知らぬ人が居たとは、と。
「…『月下の奇術師』」
「……」
「…この名を聞いたことも?」
「……あぁ、君が度々新聞に載る怪盗さんか」
「はい」
へぇ、なるほど、彼が…。柴崎は怪盗さん、所謂怪盗キッドを見てはそう思った。
「まさか子供だったとはね」
「え?」
「俺から見れば君はまだ子供だよ。幼過ぎるくらいにね」
「………」
「……分かったら、早くここから立ち去るべきだ。いつまでも俺は君を匿えないよ」
況してや、
「その白は酷く浮いてしまうから、余計にね」
カタ、と部屋の中から音がする。柴崎は扉の向こうの存在に目を向けて、それからキッドへと移した。
「ほら、問い詰めれる前に逃げないと」
「……貴方1人ではなかったんですね、ここに居るのは」
「別にあれはお巡りさんでも何でもないよ。…でもきっと、俺と君がこうして話していることに気付けば尋ねてくる。それに関してこちらは一向に構わないけど、…君には少し分が悪いんじゃない?」
出来ることなら事は穏便に済ませたい。そんな顔をしているから。そう笑って零せば、キッドは肩を僅かに竦めては参った…と苦笑を浮かべた。
「ご忠告、痛み入ります。どうやらここは素直に従う方が賢明のようだ。…貴方のお心遣い、汲ませて頂きます」
そして背を向け、彼はここへ降り立ったように柵へと乗った。
「…1つ、お聞きしても?」
「ん?」
キッドは肩越しに振り向き、自身より幾分か下に居る柴崎を見た。夜の風が吹き、2人の間を駆け抜けていく。まだ、遠くの方から聞こえるサイレンの音は消えていない。
「…何故貴方は私を捕らえないのか。それを知りたくて」
彼は自分のしていることを少なからず知っているようだった。すると、ふと浮かんだのだ。その疑問が。
キッドは静かにそう問えば、目の合う彼は小さく小さく…、くすくす、と笑った。月の光に照らされたその姿。それは酷く端整で、つい柄にもなく見惚れてしまった。
「君は可笑しな事を聞くね」
「…可笑しな、事…」
「どうして俺が君を捕まえないといけないのかな」
「…それは、」
「俺は警察でも刑事でも何でもない」
「…!」
瞼を開き、再び交わる視線。
「ただのしがない、一般人さ」
サイレンの音が遠ざかっていく。重なり合うそれはまるで何かを追っているようだった。
「…、…まだベランダに居たのか?」
「うん」
「あまり長居はするな。体が冷える」
近くにやってきた彼は柴崎の側まで来ると、その肩に羽織を掛けた。
「…?…そんな物、お前持っていたか?」
「…預けもの、かな」
「預けもの?」
手のひらにあるのは素手で持つには気が引ける程の輝きを待つ小さなダイヤ。けれどそれを柴崎はなんの躊躇いもなく手のひらで転がせば、軽く息を掛けた。
「…でも偽物だね」
「……のようだな。本物のダイヤならこうは行かない」
月の光に照らして、濁ったそれを見つめる。
「熱伝導率の低い紛い物のダイヤか…。…ご苦労な事だね。これの為に飛んでいたなんて」
「……その口振りだと、どうやらここにはお前以外の誰かが居た様にも聞こえるが」
「ふふ。…白い鳥が一羽、羽休めに来てたんだ」
「白い鳥?」
「うん。…ほんのついさっきまでね」
そして帰り際にこのダイヤを渡して、去っていった。白い羽を生やして、再びこの夜を舞いに行ったのだ。
「可笑しな鳥だったよ。なかなかここを飛び立たずにずっと居るんだ」
「ほぉ…。鳥も柴崎の纏う空気に居心地の良さを感じたんじゃないのか?」
「っはは、まさか。…きっとただの気まぐれだよ。ここに降り立ったのも、これを渡して行ったのも、全部ね」
そう、気まぐれだ。白い彼、月下の奇術師はただ少し身を隠したかった。けれどいつまでも居られないから、告げられた言葉に背を押され、また飛んで行った。…こんな手土産を、ご丁寧にも置き去りにして。
柴崎は月に照らしていたそのダイヤを見つめたまま、烏間にこれはどうするべきだろうか?と問うた。
「…そうだな。…警察か?」
「あぁ、やっぱり?…ベランダに落ちてたってことにしようか」
「鳥の件は話さなくていいのか?」
「話が長くなりそうでしょ?それならたまたまベランダに行けば落ちていた、って事にすれば、あっちもあぁそうですかで済むさ」
「全く…、お前もなかなかに面倒事を嫌うな」
「下手な事に巻き込まれたくないんでね」
偽物を手の中で転がして遊べば、柴崎は烏間の方を向いた。
「あれ、なんだまだ髪乾かしてないんだ。もう、風邪引くよ?」
彼の肩に掛かるタオルに手を伸ばし、取れば烏間の髪を拭こうとする。しかしその手首を掴まれ、自然と目と目が合った。
「……本当に鳥だったのか?」
「………じゃなかった、って言ったらどうする?」
そう告げればくいっ、と。強めに引かれて、少しお互いの足がぶつかった。
「…白に羽に飛ぶ、か。………まさか、逃げ回った物取りがこんなところに来るとはな」
「だから言っただろ?羽休めに来たって」
鳥でないと分かった烏間は、浮かぶフレーズを繋ぎ合わせある一つの答えに辿り着いた。…その答えとは、ここ最近世間を揺るがすかの有名な月下の奇術師の事であった。
「…なら、また羽休めに来るかもしれないな」
「どうだろう…。…こうして烏間と立っていたら、来ないかもしれないね」
「っふ、空気を読んでか?…それなら随分と察しの良い物取りだ」
彼の手首を掴むのとは反対の手で、少し冷えたその頬に触れる。…包んで、まるで体温を分けてやるかの様に。柴崎は温かなそれに少し頬を綻ばせ、温もりを享受する様に瞼を落とした。
「…烏間の手はいつも温かい…」
だからつい、眠くなる。ホッとして、気が緩んで、仕方ないんだ。
「…寒いなら温めてやろうか?」
「ん?…、」
目の前が暗くなって、唇は温かい。ゆっくりと、視界に差し込む淡い光。
「…夜じゃなかったら蹴ってたかもね」
「くく…っ、それは怖いな。肝に免じておく」
ほら、そろそろ中に入るぞ。これ以上は本当に風邪を引く。と、そう諭されて、それになんの反論もせずにただ頷いては部屋の中へ足を踏み入れた。
「んー、やっぱり少し冷えたかな…」
「何か入れるか?」
「そうする。烏間は?」
「…そうだな。なら、同じものを貰おう」
「ん、分かった。じゃあソファで座って待ってて。今入れてくるから」
「あぁ、ありがとう」
机の上にコロリ、と一つダイヤを置き、柴崎はキッチンへと向かった。その背中を見つめては、烏間は転がるダイヤに目をやった。
「……奪ったのか、奪われたのか…。どちらだろうな」
だが、それも要らぬ考えなのだろう。何せ彼が潔く逃した相手だ。引き止めておく理由も、庇う理由も、責める理由も、得も損も何もないと、そう彼は判断した。というのも、例えかの有名な奇術師であろうと、柴崎の興味には当てはまらなかった。…ただそれだけである。
「烏間?どうしたの?」
「いや、なんでもない」
羽を休めにここへと止まった彼は、さて今頃どうしているのか…。
「(…それこそ、無意味な話か)」
何せ知る必要も、知らねばならぬ義務も…、何もかもが自分達にはないのだから。
title:青藍様