ああ、やっと準備は終わったんだな。そう思った。
「志貴、」
「…夜話すよ。昼間は雄貴起きてるから」
「…ありがとう」
「また追い追い、雄貴にも話そう」
「えぇ…」
部屋に戻って机の上に置いていた携帯を見た。手に取って短い文だけ打って送った。すると少しして返事が来た。
《そうか。分かった。無理はするなよ。》
それにただ一言、《ありがとう》と返した。
「雄貴は寝た?」
「ええ。寝たわ」
「そっか」
ソファに座る母の近くに行き、その隣に腰掛けた。葉月も、薫さんも、慧さんも席を外してくれた。
「…遠回しには言わない。良い?」
「…えぇ。大丈夫よ」
俯いていた母の顔が上がり、その目は自分に向く。その目を見て、この人は強い人だ。と思った。だけど弱いんだ。弱くない人はいないから。
「…4ヶ月」
「…っ」
「長くてそれだって」
「…っつ、…っ、そ、う…っ」
目に涙を溜める。それはゆっくりゆっくり頬を流れて、母は顔を手で隠した。そんな母を抱き締めた。いつの間に、自分は母の背を越したのだろう。
「今ちゃんと泣いて。我慢しないで泣いて」
「っうぅ…っふっ…ッ」
「…でも、次に父さんに会うときは笑ってあげてよ。辛いのは分かってる。だから、残りの時間ちゃんと父さんに笑ってあげて」
「…っつ、ふっ、…っふぅ」
「父さんの大好きな母さんの笑顔、見せてあげてね。…だから今は泣きたいだけ泣いていいよ。気にしなくていいから」
母の手が背中に回ったのが分かった。震える肩が見えて、漏れる泣き声が聞こえて。でも伝えた事は後悔していない。4ヶ月、大切にしてほしい。もしかしたら4ヶ月と1日、4ヶ月と1週間、5ヶ月…伸びる可能性のあるその時間を。
「…はぁ」
部屋に戻って息をつく。母さんを寝かせた。明日は目が腫れているかもしれないと思って冷やさせた。笑ってた。無理して。良いよ、それで。俺にまでちゃんと笑顔を見せなくて良い。その笑顔は父さんの前まで大切にしまってくれていても良いから。
ブーブー…
「、?」
手に取ればそこには良く、比較的良く知る人物の名前が。この間電話番号を互いに交換したんだった。アドレスだけじゃなかったな…。
「はい」
『悪い、夜に』
「良いよ。気にしてない」
『…言えたか?』
「言えたよ。ちゃんと」
『そうか…』
「うん」
電話の相手は烏間。彼は見かけによらず、案外心配性のようだ。窓の外から見える空を見る。ガラリと開ければ、夏の虫の声が聞こえて…温かくも冷たくもない風が舞い込んでくる。
「烏間、ありがとう」
『何がだ』
「残りの時間、大切にってやつ」
『…あれか』
「そうだなって、思ったよ」
『……』
「…本当、大切にしないと後悔する」
空から目を離して窓を背凭れにして部屋の中に目を向ける。
「あの時こうしてれば良かったとか、あまり思いたくない」
『そうだな…』
「でもきっと最期の最期には思うよ」
『……』
「どんなに時間を過ごしても、どんなに大切にしても…きっと思う。あれもすれば良かった、これもすれば良かったって…」
人は亡くしてから気付く。その人の存在の大きさを。手のひらから溢れてから気付くのだ。とてもそれは滑稽で、とても残酷だ。どうして人はそうなのだろうか。
『…柴崎』
「なに?」
『明日の朝10時』
「?」
『防衛学校前だ』
「え、烏間?」
『良いな、絶対に来い』
「あ、ちょっと…!」
『じゃあおやすみ。夜に悪かった』
切られた電話。なんだったのだろう、最後のは。
「明日の朝10時…防衛学校前…」
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