departure

肩を押す。それに気付いたのか、烏間はそっと柴崎の体を離した。目は、まだ合わない。何故なら彼の目は今も腕の中に存在する殺せんせーの衣服に向けられていたからだ。



「……洗濯はしないでおくね」

「……」

「きっとその方が、良いと思うから…」


水に流して消える温もりではないと分かっている。こうして持ち主を失ったとしても、これからだってこの衣服は永遠の温もりを保ち続けるだろう。…しかしそうと分かっていても、この形のまま、今日という日を迎えたままにしておきたかった。

柴崎は目元を柔らかくさせると、優しくその服を手のひらで撫でる。言葉にしないありがとうを伝えるように…。

それから彼は立ち上がる。烏間はそんな柴崎を追うように見上げた。



「ずっとは泣いてられないよ。まだしなくちゃいけない事が沢山ある」


きっと、程無くしてある一つの部隊が此処へやって来る。国の現場検証部隊が。今此処を守れるのは烏間と柴崎のみ。ならばいつまでも悲しみに浸り、嘆いてなどいられない。あの子達を全力で守ってあげられる彼はもう居ないのだ。もう、あの子達の心を守ってやれるのは、自分達だけなのだ。



「…最後まで守ってあげないと。" 四人 "の大切な生徒達でしょ?」

「……あぁ。お前の言う通りだ」


烏間は柴崎の言葉を受けて、小さな笑みを静かに落とした。確かに、此処でこうして居たって時間ばかりが過ぎて行くだけだ。これでは先に逝ってしまった彼に顔向けが出来ない。

腰を上げた烏間は目の前に立つ柴崎を見遣る。もう、彼は泣いていなかった。切り替えて、すべき事に目を向けている。その目を見て烏間は思った。

柴崎は弱い。けれどそれに負けないくらいに、彼は強いと。もう何度、彼の言葉に背中を押されたか分からない。悩んだ時も、迷った時も、いつだって柴崎は烏間の背中を優しく押した。無理強いなく、自然とその足が出るように。



「…柴崎」

「ん?」


感謝の言葉は言い切れない。だから最大限の賛辞を彼に贈ろう。



「お前が俺のパートナーで良かった」



いつだって、どんなことが起きても、彼が隣に居てくれた。だから踏ん張れた。頭を抱えてしまうような案件が降りかかって来ても、肩を叩いて一緒に頑張ろうと励ましてくれた。だから、きっと此処までやって来られた。思い返せば本当に無理難題を突きつけられた事は数知れない。だがそれでも放り投げて背を向けなかったのは、烏間の隣に柴崎という存在があったからだ。



「……俺もだよ。烏間がパートナーで良かった」


ありがとう。ずっと支えてくれて。と、そう掛けられる言葉に烏間は小さく笑った。何故ならそれはこちらの台詞だと、つい心の中で思ってしまったからだ。

静まった月夜の下、遠くから足音が聞こえて来た。しかしそれは一人のものではなく、固まった人数によるもの。二人はそちらへと意識を向ける。お喋りもどうやら此処までのようだ。見えた数十名の姿を目の前に、烏間と柴崎は校舎を背にして彼等を見据えた。

此処から先は行かせない。何があっても、どんな理由を突き付けられても、言葉には言葉を覆い被せ、一歩だって彼等の時間の邪魔をさせてはやらない。託されたのだ。今は亡き、" 彼 "から生徒達を宜しく頼むと。




「…君達はこの度の現場監督を担っていた烏間くんと柴崎くんか」


一歩前へ出て話を始めたのはこの部隊を率いる一人の男性。彼は二人の後ろに見える校舎をちらりと見てから、再び彼等へと視線を戻した。


「分かっていると思うが、我々は現場検証を行いたい。許可は既に上から得ている。そこを通してもらえるだろうか」


数名の自衛隊員がもしもを考えてその手にライフルを持っている。けれどそんなもの、もうこの場には必要ない。寧ろ不必要であり、持っているだけ無駄というもの。何故なら彼等が、いや、世界中が危険だとしていた殺せんせーの存在は、今や空の向こうへと消えていってしまったのだから。




「…申し訳ないが、此処から先へ通す許可を下ろすことは出来ない」

「…何?」

「上からの検証許可は下りていると仰られていましたが、この管轄での指揮権は我々にあります」


あの司令官が持っていた指揮権は今回の" 計画 "のみに於けるもの。…つまり、一年間E組の生徒達が過ごしたこの校舎、この管轄は彼の指揮権内には入らない。故にもう指を指してこれ以上の命令を下すことは不可能なのだ。



「しかし…!」

「私と烏間は現場監督としての任務をまだ終え切れていません。それは即ち此処での指揮権を我々は継続して有されているという事です」


烏間は軽く隣に立つ彼を一瞥する。こういった口での問答は自分よりも彼の方が秀でている。その上出てくる言葉は全て正論。可笑しな点など一つも見当たらない。となると、相手側はそれを捩じ伏せ言い返すことさえも出来なくなるのだ。…現に、今目の前にいる彼等は先程の柴崎の言葉によって口を噤んでいる。大方返す言葉もないのだろう。



「っ、だが上は迅速な対応による現場検証の結果を望んでいる…!それに君達の後ろに居るであろうあの子供達からも詳しく話を聞く必要が…っ」

「貴方方の立場も分かります。上からの命令であるなら仕方ありません」

「!なら…!」

「しかしこちらにも、譲り切れない状況というものがあります」


指揮権は継続。剥奪の命は受けていない。ならばどちらにこの場における言葉に強さがあるのかは、態々比べなくとも分かること。柴崎は一歩前へ歩み寄り、その部隊を率いる男性の前で立ち止まった。



「検証の再開については改めてこちらからお伝えさせて頂きます。それまでは今暫く、貴方方には他での待機を申し入れます」

「…っ、」


しかしそれでも渋りを見せる彼に、烏間は軽く肩で息を吐く。全く命令に従うが最優先だと考えるその思考は宜しいのかもしれないが、その現場での指揮権が今現在どこにあるのかを認識出来ない様ではまるで使えない。忠実である事が全て正しいと思っているのであれば、それは彼に柔軟性がない事を指す。頭が固いばかりではこの先困難な状況に陥ったところでやってはいけないだろう。

烏間は柴崎の隣に立つと、前に居る男性の目を真っ直ぐと捕らえた。



「再三伝えることは俺も柴崎も好まないが、伝わっていないのなら仕方がない。…この校舎内での生徒達は俺達の管轄だ。だからこれ以上の侵入も、進行も許可はしない」

「何もずっととは言っていません。それに今の彼等に話を聞いたところで、貴方方の知りたい事はきっと何一つとして得ることは出来ないと思われます」


まだ混乱している。まだ落ち着けていない。波打って、溢れ出てくる涙を止める術さえも見付かっていない。頬を伝う雫は止まる事を知らず、思い出ばかりが頭を過っていく。その鮮明な記憶に溢れる涙はそのままにして、きっと今も彼の遺したアルバムのページを捲っているに違いない。



「たった数時間で構いません。今のあの子達には、現実を受け止めるだけの時間が必要なんです」


泣いて、泣いて、もういっそ涙が枯れるほどに泣いたって良い。寂しい。辛い。苦しい。会いたい。抱き締めて欲しい。そんな思いを胸いっぱいにして今を過ごしても構わない。…けれど烏間も柴崎も願うのだ。その思い出や記憶を胸に、どうか下を向き続けないでと。そしてどうか、またあの頃のような明るい笑顔を浮かべて欲しいと。

現場検証部隊隊長の彼は二人の言葉に口を噤む。それから少しして、静かにその首を縦に振った。了承したのだ。彼等の思いも、そして言葉も。



「…了解した。此処での指揮権は確かに君達にある。我々はそれに従おう」

「…承諾をしてくれた事、感謝する」

「ありがとうございます」


軽く頭を下げる二人に男性は緩くその首を横に振った。それから後ろに率いる部隊員達に声をかけると、彼は隊員達を連れてこの場を去っていった。烏間と柴崎はそれを見送り、ほっと息を吐く。…これでやっと、あの子達は安心して思い出の中に浸られる。春からの出会いを振り返って、彼と過ごした一つ一つの季節を大切に思い出して行くことが出来る。

そっと後ろを振り返って、二人は月の光に優しく照らされる校舎をその瞳に映した。…本当に、思い返せば色んなことがあった。初めは途方も無い任務を課せられたと荷が重く、どうやって行くかと悩んだ日々もあった。しかしそれに相応の答えが出ないまま、任務は始まりの日を迎えた。

幾つも年の離れた中学生達を相手にし、そんな彼等のサポートもする。書類は山のように送りつけられるし、会議も必ず行われる。尻叩きは毎度の事で、数が増える度に嫌なもので慣れも出てきた。けれどそうしながらも、笑う生徒達の姿を見たり、走り回っている姿を見ると、自然と心は落ち着いていった。




「……随分、忘れられない一年になったね」

「…あぁ。今まで生きてきた中で、これ程に濃い一年は中々無い」


烏間先生、柴崎先生と。初めの頃は違和感の感じていたその呼び名も、今ではすっかり馴染みを持った。逆にさんを付けて呼ばれる事の方に違和感を感じてしまって仕方がない。



「…烏間、ちゃんと泣いたの?」

「……さぁな」

「…嘘吐くの本当下手だよね」

「泣いたとも泣いていないとも言ってないだろう」

「じゃあ泣いた?」

「……、」


黙り込む烏間。柴崎は校舎から目を離すと隣に居る彼の顔を軽く覗き見た。目が合えば僅かな沈黙が生まれて、だがそれは烏間が降参だと瞼を落とした事で途切れた。



「少しだけな」

「…そう」


静かな笑みをそ、と落として、柴崎は姿勢を元に戻す。烏間はそんな彼を目で追う。けれど瞳に映った彼の横顔を知ってしまえば、少しばかりそれに目を奪われた。



「…泣いたなら良いんだ」


切なそうで、けれど安心したような穏やかな笑み。温かな色を灯した瞳は今も校舎を映していて、それは此処で暮らした日々を思い返しているようだった。



「烏間はこういう時、真っ先に気持ちを我慢をしてしまう人だから」

「……」

「他を優先させて、さっきみたいに自分より俺を取ってしまう」


気持ちは嬉しい。けれど少し不安になる。ちゃんと気持ちを吐き出せているのかと。人は永遠に我慢をし続けられない。それをしてしまえば必ずガタが来て、そうしたら色んなものがあっという間に崩れて行ってしまう。

建前も、自尊心も、何もない。心が耐えきれなくなったら、人は全てを受け止められなくなる。…命は大切だ。けれどそれ以上に、人という存在は心が大切なんだ。だから絶対に後回しになどしてはいけない。何よりも先に目を留めて、そして守ってやらなければならない。

柴崎は烏間の方へ体を向ける。目の合った彼に優しく笑いかけて、真っ直ぐと彼を見つめた。



「…苦しくない?」

「……」

「…ここ、我慢してない?」



トン…、と。柔く指先で触れた烏間の胸、心臓辺り。人は此処を心とも言う。傷付いた時、まるで心臓が軋むように痛むことから、いつからかそこは人の心なのだと。そう誰かが言っていた。

柴崎の言葉を聞いて、僅かに烏間の瞳が揺らぐ。惑うように、一度、二度と瞬きがされた。視線を落として、僅かに口を開き掛けるも…彼はそこを閉ざしてしまう。それから暫くして、烏間はゆっくりと映る世界に彼の姿を認めた。…昔から変わらずに温かな色を持ったその瞳が、目元が、今言葉無しに優しくなった。

それを見た時、再び烏間は教えられた気がした。同時に彼の側に居て着飾る必要も、嘘で繕われた偽りを晒す必要も、何もないのだと改めて認識させられた。


気付けばその腕を掴んでいた。気付けばその体を抱き締めていた。気付けば、その肩に顔を埋めていた。…そ、っと。背中に回った腕の感覚。緩やかな律動で、全てを受け止めてくれるような優しい手の振動。それが背中から響いて、心にまで響かせた。



「…良く頑張ったのは、烏間も同じでしょ」


あんなにも辛く、悲しい思いをした。泣きたい気持ちを押し殺して、彼もまた同じことをしていた。気付いていないと思ったのだろうか。…隠していることなんて、直ぐに見破ってしまうのに。



「…もう我慢しないで」

「っ、」


抱き締められる腕が強くて、少し苦しい。でもそんなこと、もうどうでも良かった。素直じゃないと、甘えるのが下手だと。烏間はよく言ってくる。けれど今は、それを少しお返ししてあげたい。いつも人の事ばかり優先して、自分の事は後回し。全く、人の事なんて言えやしない。…しかしそこを、…そこも、全てを引っ括めて、そんな彼を愛おしく思う。



「全部受け止めてあげるから」



優しくて、とても温かい心を持つ人。厳しくて、けれどちゃんとその人のことを見ている。烏間はそういう人だ。だから" 彼 "のことも、よく見ていた。良い意味でも悪い意味でも、" 彼 "は烏間の記憶に深くその姿を残して行った。瞼を閉じれば直ぐに浮かんでくるほどに、鮮明に…。

柴崎は今一度閉ざしていた瞼を持ち上げる。その先に、見えた一つ姿。目が合って、信じられなかった。けれど確かに、" 彼 " は馬鹿みたいに、幸せそうに笑っている。特徴あるその" 三日月 "の口元がもっと深く弧を描いて、特徴あるその" 触手 "が…まるで『ありがとう』と伝えるように横へと振られる。




「……ばか…」


何処までも、どうしてお前はそうなんだと。伝えてしまいそうなその言葉は、小さく、消えかかるような声の中に仕舞われて行った。『ありがとう』だなんて…。こちらの台詞だというのに。

目尻に浮かんだ僅かな雫。それを温かな風が拭っていった。この季節に似合わない、とても温かな…優しい風が。



「……風が、」


それは烏間も感じ取ったのか、彼は頭を持ち上げ辺りに目をやった。今は冬。三月と雖もまだまだ寒い。それなのにあんなにも温かくて、ぬくもりを感じる程の柔らかな風。



「……会いに来たんだね」

「………そうか」


ずっとずっと、泣かなかった彼等を見守るために。ありがとうと、泣いてくれて、嬉しいと…伝えるために…。



「……お前は、会えたのか?」

「……同じだったよ」


体を離して、柴崎は服を持たない片方の手を烏間の頬に触れさせた。


「…相変わらず、幸せそうに笑ってた」

「……あいつらしいな」

「…うん」


空は遠く、月は今日も昨日と変わらず輝き続ける。星は数え切れない程の光で煌めいて、この寒い夜の空を着飾っていた。そんな向こう側に、彼と、彼の愛する人と、そして彼の初めての弟子が…三人並んで笑っていた。

夜が明けるまで、後数時間。烏間と柴崎は今も教室に残る生徒達を守るように、朝日が昇るその瞬間を待ち続けた。

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