朝、雨が降る。もう梅雨の時期だ。ジトジトとしていて、雲も空気もどんよりとしている。
「……」
教員室のパソコンを開くと一通のメールが。中身はこうだ。《6/15、2人目の転校生を、投入決定。満を持して投入する本命である。事前の細かい打ち合わせは不要。全て付添人の意向に従うべし》
「…とうとうか」
「みたいだね。…本命か。どれほどなのか見ものだね」
「あぁ」
烏間は返信部分に了解とだけ書き、返信した。
「初めまして、貴方方が防衛省の烏間さんと柴崎さんですか?」
「はい。私が烏間です」
「私は柴崎です。防衛省の方から報告は受けています。今日から来られるとか」
「えぇ。生憎今日は雨ですねぇ。じめじめとしていて残念だ」
「…その転校生は今どこに」
「あの子なら後で遅れてきますよ。なに、大丈夫。烏間さんと柴崎さんが心配されるようなことは何一つありません」
「はぁ…」
あっけらかんとした様子で話すその姿に烏間も柴崎も少々困惑だ。
「我々は詳しいことを聞いていません。勿論、貴方のことも。上からは打ち合わせ不要との連絡をもらいましたので」
「私はイトナの保護者のようなもの。謂わば親のようなものですよ」
「イトナ?」
「堀部イトナ。あの子の名前ですよ」
「あぁ、転校生の…」
2人はそれさえも上から聞いていない。こんなにも情報が少ないのは初めてだ。どれほどの暗殺者なのか…。
「そうだ。柴崎さん」
「? はい」
「少しですが貴方のことを聞かせてもらいました。なんでも過去にアメリカの連邦捜査局・FBIに居たとかで?」
「えぇ、まぁ…。と言っても、特別派遣で取り立てて何かをしたわけではありませんが」
「そんな謙遜しなくても。…800ヤード先のターゲットを撃てる程の実力をお持ちなのに」
「……」
烏間は柴崎を見る。僅かだが、柴崎の纏う空気が変わったように感じた。けれど、外見にそれを見せていない。相変わらずポーカーフェイスが上手い奴だ。
「…良く、ご存知なんですね。けれど、それはたまたま。そう何度も正確に800ヤード先の獲物を得る事なんて出来ませんよ」
「コードネームは、確か…アドニス、でしたっけ」
「…」
「実名で呼び合えば狙われる確率も高く、個人情報漏洩の可能性もある、故にコードネームで呼び合う。そして、アメリカきっての凄腕スナイパー。その射撃率は高く、非常に優秀」
「本当に、よく知っていらっしゃる。どこでその情報を?FBIは情報を漏洩することはほぼ無いはず」
「なに、風の噂ですよ。しかし…」
保護者と名乗るその者は柴崎の横をゆっくりと通る。そして真横で止まる。
「…暗殺者としての素質がとてもお有りだ。しかし暗殺者とは逆の立場に立たれている。それが非常に残念ですね」
そう言うと、そのまま歩いて行く。その後ろ姿に柴崎は一言声を掛ける。
「…一つ、訂正を」
振り返るその人物に柴崎はゆっくりと口を開く。
「私には暗殺者になれるほどの素質は皆無です。貴方のご期待には添えないかと」
その言葉に暫し笑う。なるほど、面白い。あれだけの実力を持ちながらその言葉を口にするとは。なかなか頭が回る男のようだ。
「そうですか」
ただその一言を言い残した。
「…柴崎」
「ん?」
廊下を歩く。外はまだ雨が降り続く。止む兆しはなく、地面に多くの水溜りを作る。
「…いや、いい」
「気になるなぁ。まぁ、大体分かるけど」
立ち止まれば烏間も立ち止まる。烏間は柴崎の前を歩いていた為、後ろを振り向く。柴崎は僅かに口角を上げていた。
「アメリカ時代のことだろ。あんまり、口に出したこともなかったし」
「…あぁ」
あの男が言った言葉は本当だ。確かに、アメリカの連邦捜査局・FBIでは凄腕スナイパーと言われた。獲物を外すことなく撃ち、任務を遂行する。FBI捜査員は外部に個人個人の情報が漏れないよう、コードネームで呼び合う。本名を知っているのは上の者のみ。
「まぁ、あの男が言ってたことはほぼ事実。けどま、何せ居たのは3年間。しかも特別派遣で正式な捜査員じゃない。帰る時は引き止められたけどね」
「…残ろうとは思わなかったのか?」
「アメリカに?」
「柴崎の実力があれば、十二分にやって行けたはずだ。だから止められたんだろう?」
「なに?烏間は戻って来て欲しくなかったわけ?」
「いや、そうじゃないが…」
「それにアメリカに行く前に言ったと思うけど?」
烏間の方へ歩き、隣に並ぶ。ちらりと横を見て小さく笑う。
「必ず戻ってくるから、って」
忘れた?と聞く柴崎。烏間はもう何年も前のことを思い出す。そう、あの時、アメリカに3年間行くことが正式に決まった夜のことだった。
「アメリカ、行くんだな」
「まぁね。3年だけど」
「お前が抜けるのはこっちが痛手だな」
「そんな大層な存在じゃないって。烏間が居ればなんとかなるよ」
「部下たちも不満たらたらだったぞ。3年も格闘術を教えてもらえないって」
「人をなんだと思ってんだか。普段はスパルタ教官、スパルタ教官って言ってるくせに」
「なんだかんだ、お前を慕っているんだ」
「ふふ、どうだろうね」
飲んでいた酒を一口飲む烏間。柴崎は水を飲んでいる。
「…お前の実力なら、アメリカでもやっていける」
柴崎の視線が烏間に向く。気付いているのかどうなのか、烏間は柴崎の方を向かない。
「FBIから声が掛かるなんてなかなかない。名誉な事だ。あっちもお前の力を買ってくれるだろう」
「…そうだといいけど。なんせ、異国の地で働くわけだし」
「お前ならすぐに馴染める。行くのは一週間後だったか?」
「うん。荷造りしないとなぁ」
「荷物は先にあっちに送るんだろ。行く時邪魔になるしな」
「そうそう。だから行く4日前くらいには送らなきゃね。まっ、3年間だし、そんなに多くを持っていくつもりもあっちで買い足すつもりもないけど」
「…そうか」
暫く沈黙になる。なにを話す事もなく、ただ秒針と指針の音だけがする。
「…ねぇ」
「なんだ?」
「…ちゃんと、背中空けててよ」
「…!」
「俺の背中も、空けとくから」
柴崎を見れば、じっと水の入ったペットボトルを見ている。その目には、一体何が写っているのだろうか。柴崎の世界には、何が見えるのか。これからの日本、これからの世界が、どのように見えるのだろうか。そんなことを、ただぼんやりと考えた。
「…必ず戻ってくるから、空けてて」
そうだ、あの時柴崎はこう言ったんだ。だから俺もこう言ったんだ。
「…あぁ、待ってる。背中は空けておく。だから、早く帰ってこい」
「…いや、忘れてない」
お前は、約束通り3年後に帰ってきた。背丈も、体格も何も変わらないのに、どこか精神的に更に成長しているように見えたんだ。
「約束通り、背中…空けてただろ」
「うん、空けてくれてた。俺も、空けてただろ?」
「あぁ」
同時に笑みを零す。アメリカに行っても、柴崎は柴崎。何も変わらない。何も、変わっていない。優し過ぎで、部下想い。でも命令に忠実であり完全遂行主義。
「烏間が聞いてくれれば俺は話す。お前を信用しているから、こう言うんだ」
「分かってる。これからは聞こう」
「そうして。…じゃ、教室見に行く?噂の転校生、そろそろ来てる頃だと思うけど」
「そうだな」
教室に向かえば、あの男が居た。名前は白いからシロと呼んでくれだそうだ。
「では紹介します。おーいイトナ!!入っておいで!」
誰もが教室の扉から入ってくるものだと思っていた。だが、どうだ。入ってきた場所は壁、しかも真後ろの壁からだ。
「「「「(ドアから入れ!!!;;)」」」」
「俺は…勝った。この教室の壁よりも強いことが証明された。それだけでいい…それだけでいい」
「…あの壁誰が修理すると思ってんだかね」
「…まぁ、国、だろうな」
「ったく、扉があるんだから扉から入れって話だよ。…しかし、まぁ外は大雨。なのに濡れてないとは、また不思議だ」
「あぁ。一滴も濡れていない。傘も持っていないのに何故…」
教室内を見ればなんとイトナと殺せんせーは兄弟だという。これには烏間と柴崎も唖然である。
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