「………ねぇ烏間」
「…なんだ?」
今は、何処にいるんだろう。イタリアだろうか。アメリカだろうか。それともイギリス?ロシア?将又ブラジル?
…きっと目一杯生徒達を振り回して楽しんでいるんだろう。あの、親馬鹿教師は。彼方此方で写真を撮って、笑って、騒いで…。
「……他に方法があれば、良かったのにね」
「…柴崎…」
空から目を離して、少し遠くを見る。それはまるで今頃何処かで笑って、楽しんでいる彼等から目を背けたようだった。
視線が、下を向く。国からの言葉が頭を過る。命令としてのあの言葉が張り付いてくる。中身はわからない。ただ伝えられたのだ。
───「…3月5日を予定としている。全貌の内容を伝えられない事は申し訳ないが、君達の何方でも構わない。奴が一人になった時。校舎に” 人間 ”が誰一人としていなくなった時。電話一本を寄越してくれさえすれば構わない」
───「…これは命令だ。必ず遂行すべき最重要任務であり、国を守る為の最大防衛だ。…その事を踏まえて頼んだよ。烏間くん、柴崎くん」
それを聞いた時、思ったのだ。…一体何が、国の為なのだろうかと。元はと言えば人間が犯した罪のせいなのに。隠蔽しようとして出来ずに、その結果が暗殺だなんて…。人が、” 人だったもの ”の人生にピリオドと言う名の終止符を強制的に打とうだなんて…。
「……俺も、そう思うさ」
烏間は寄り添うように、柴崎の肩をそっと抱いた。彼は、優し過ぎる。例え今まで国からの命令で殺せんせーを暗殺しようと目論んでも、生徒達にその技術を与えても、どれだけナイフや銃を手にしても、” 時間 ”が作った” 記憶 ”は酷く根深く残ってしまった。
心の底から憎めたなら良かった。真っ向からこの国を破壊しようとしていると、悪者よろしく踏ん反り返ってくれていれば良かった。…そうしたら、揺らぎそうになる心なんて持たずに済んだ。……けれどアレは優し過ぎるから駄目なんだ。何処までも真っ直ぐで、何処までも生徒思いな親馬鹿教師。見ていて飽きれてしまい、だが終いには笑ってしまうような一生懸命さを持っている。
何度も何度も、律して、目を瞑って。弱さを捨てろ。現実を受け止めろと。そう言い聞かせなければこの世界は、この現状は、あまりにも辛過ぎるものだった。
「…っ、でも駄目だね、こんなこと考えちゃ」
「………」
顔を上げて、前を向く。さっきまでそこには殺せんせーと、生徒達がいた。…笑っていた。はしゃいでいた。馬鹿を言って、笑われていた。けど、誰よりも何よりも彼等はみんな幸せそうだった。
「…お前が辛いなら、俺が連絡をする」
「……」
「上は俺と柴崎、何方でも構わないと言っていた。……この連絡が、恐らく今後を大きく変える事になるんだろう」
しかしどんな風にとは、それは烏間にも柴崎にも分からない。何故なら何一つとして教えられていないから。国が何を企み、何を行い何を成そうとしているのか。
「…あんまり、甘やかさないで…烏間」
「……」
「…お前も俺も、同じ気持ちなんでしょ?」
彼も、烏間も…辛い。柴崎と同じだ。国と、生徒達の心と、自分達の心と。挟まれて挟まれて、息苦しい程に辛い。
柴崎は烏間の方を振り向いて、仄かな笑みを向けた。それはいつものように優しさが込められているものではなくて、何処か、何かを押さえ込むようなものだった。
「……良いんだな?」
「…うん」
これを仕事というならば、そうなのだろう。これを使命だというならば、そうなのだろう。…これを、意思というならば……。それは、果たしてどうなのだろうか。
内ポケットに仕舞われる携帯電話。それにそっと、服の上から手で触れた。何に祈ることもなく、来る現実に覚悟を持って。
最後の進路相談が終わった。明るい笑顔を浮かべた渚は、殺せんせーに向けて「また明日」と行って去っていく。
彼の進路はこうだった。殺せんせーのように速くはない。殺せんせーのように無敵ではない。殺せんせーのように、頭も良くない。けれど…、殺せんせーのような先生になりたい。それはとても素敵な進路であり夢だった。
第二の刃。それはこの一年間で随分磨かれた。だから渚はそれを背負って、これから先、まずは第一の刃を磨いていくのだ。
「…先生になる、か。良い夢だね」
「…そうだな。彼らしい夢だ」
廊下の窓から見えた渚の後ろ姿。駆けていくその足取りは軽い。彼ならば良き教師になれる。これは柴崎と、そして烏間の勘だった。二人はそこから教員室へと足を進める。扉の前まで来て、烏間が先に扉を横へと引いた。中には何やら作業を行っている殺せんせーが椅子に座っていた。
「…彼で全員のようだな。進路相談は」
「えぇ。皆本当に私を感動させてくれます」
烏間の後に続き、柴崎も中へと足を踏み入れる。お互いに机へ向かえば、帰り支度を始めた。
「残る大仕事は卒業アルバムの編集のみ。暫くは学校で寝泊りですねぇ」
何気ない一言。しかしそれは彼等にとってある意味合図のようなものであり、最後の決断をさせるようなものだった。
「寝泊りするなら、風邪引かないようにね」
「おや。心配してくれるんですか?やはり貴方は優しい方ですねぇ」
───…優しい。
「今は冬なんだから、こんなのは当たり前。……だからあんまり、作業に没頭し過ぎないでよ」
……優しくなんてないから、せめてこれだけは言わせて欲しい。思い出に浸り過ぎて、” 夢中にならないで ”…と。
しかし殺せんせーはその言葉へいつもの様に返事をし、また作業へと戻っていた。柴崎はそれを見て、ただ静かに一度瞼を落とす。これで良い。これだけで構わない。これ以上は、もう何も伝えられない。そう割り切り、全てを仕舞い込んだ。
烏間はその姿を横目で見て、どうしようもなく胸の奥がきりりと傷んだ。彼の心境が伝わってきて、覆われた言葉の意味がたとえ伝わっていなくても構わないと、受け入れるようで。
「あ、そうですそうです」
「?」
「…?」
コートに腕を通し、襟元を整える二人は彼に目をやる。
「後でお二人の最近にもインタビューしたいと思っていますので宜しくお願いしますねっ。大体時間にして5時間ほど!」
「っ、お前な、5時間も付き合ってられるか!」
「はぁ…。だから俺と烏間の事は公には出来ないってずっと…」
「いいえ。そんなことはありません」
柴崎の言葉を遮って、殺せんせーは笑顔を浮かべてそう言った。それには彼等も理由が分からず、何故そう言えるのかと問うた。しかし彼は笑うだけ。どうやら烏間と柴崎が望んでいるであろう答えは聞けそうになかった。
「…まぁ、とにかくそのインタビューとやらには答えないからね」
「もー柴崎先生ったら釣れないんですからぁ!」
ぷんぷん、と頬を若干膨らませて話す殺せんせーに、柴崎ははいはいと軽く遇らう。だがそうされてもでもまだ諦めていないのか、殺せんせーは彼の隣に居た烏間にも強請るような、将又乞うような視線をやる。しかし烏間はそれをスルーし、見なかった事にしていた。
そうして二人は机に置いてあった鞄を手に取り、教員室の出入り口まで向かう。…なんとなく、この引き戸に手をかける事に今一瞬迷いが出た。しかしそれを振り切るように、今度は柴崎が扉に手を掛け横へと引いた。そして一歩外へ足を出したと同時に、後ろに立っていた烏間が彼にこう伝えていた。
「………教育に良いアルバムにしろよ」
それが背中から聞こえて、烏間の思いを改めて知って、……切なくなった。殺せんせーが残そうとしている” 最後 ”のアルバム。楽しみも悲しみも辛さも嬉しさも…。全て残さず彼は作り上げようとしている。
烏間は今後それを開いた彼等を思い、そう告げたのだ。…1ページ1ページを捲るごとに少し笑って、少し切なくなって、けれど良い教育を受けた一年間だったと思える。そういうものを作って欲しいと、殺せんせーへと願ったのだ。柴崎はそれが分かって、口下手な烏間らしい言葉だと、どうしようもなく…胸の奥がツキンと痛んだ。
二人は教員室を後にする。校舎を出て、すると冷たい二月の風が頬を掠めて行った。
歩きながら思う。烏間も柴崎も、素直に認めようと。…殺せんせーの作ったこの教室で、どれ程多くを学んだのかという事に。それは生徒も、そして烏間も柴崎も。感謝しているのだ。彼の行った教育に。彼の持つ、信念に。
柴崎は足を止めた。それには烏間も同じように歩みを止め、彼を振り返った。
「……」
胸ポケットから、携帯を取り出す。ロックを解除して、目的の人物を探して…。そして見付けた。…見付けて、しまった。…迷うなと。躊躇などするなと。心と頭に訴える。
一度だけ冷たい空気を吸った。それはひんやりとしていて、体の奥を巡るようだった。心配の目で見つめてくる烏間を、今だけは見ないようにした。…見てしまえば、この携帯を彼に渡してしまいそうで。だから彼は私情を捨てて電話を掛けた。受話口にそっと、耳を当てる。音が途切れた。それは相手が電話を取った事を表していた。
「……柴崎です」
『報告を』
聞こえた声は冷静で、今だけはこれに逆らいたい気持ちだった。
「…奴は単体で教室にいます。この後、動くことはないでしょう」
『…ご苦労』
残酷にも、電話はいとも容易く切られてしまった。本当にただの報告のための連絡だった。…これで実行されてしまう。国が烏間と柴崎にまで隠した、大きな計画が。もう止めれない。国は、” 彼 ”を殺す為に動き出してしまう。
「っ、柴崎」
強引でも良かった。いや、今は強引にならなくてはならなかった。烏間は一歩駆け寄るように柴崎の元へ行くと、その体を抱き締めた。もう誰にも繋がっていない携帯。画面が暗くなってしまった只の通話機。それを未だ途切れても尚耳から離さない彼の姿に、彼自身に、胸が締め付けられた。
「……良くやった。お前の行動は立派だ。国を防衛する一職員として、この任務を授けられた者として」
本当なら彼が手に持っていた携帯を取り、自分が掛けてたって構わなかった。…しかしそれをすることは柴崎の思いを損なわせることになる。どうすることも出来ない、起こり行く未来に向けての決断をした、彼の思いを。
「…本当に、良く耐えたな。柴崎」
「…っ、」
涙は流さなかった。いや、流してはいけないと思った。理由は分からない。ただ漠然と感じたのだ。たとえ流すとしても、それは今ではないと。だって、きっと一番泣きたいと思うあの子達が泣いていない。希望を捨てずに生きているあの子達の涙を、見ていない。だから先に流すわけにはいけないと、ただそう思ったのだ。
今流しては、あの子達が胸に抱く希望も、願いも…。そしてもしも死んでしまうならという、殺せんせーにとって最高の願いと未来を、全て否定してしまう気がした。
「……身勝手なことだけど、願ってるんだ」
「……あぁ、」
「…もし、例え本当に最期の時が来たなら、」
その時は……。
「……俺はあの子達の手で、あいつを死なせてあげたい…って」
国の手ではなくて。機械の手ではなくて…。
「…それの何処が身勝手だ。……お前にとって、十分な願いだ」
…そして、烏間にとっても。
些細な願いなのか、そうでないのか、…分からない。けれどこの世に神様がいるのなら、どうか叶えて欲しい。人の犯した罪を受けて、そしていつしか追われてしまい、先の未来までも決められた。けれど諦めなかった子供達に出会い、一寸の輝く光を得た彼に、…彼の願いを、どうか叶えて欲しい。…と。
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