白のラプンツェル、赤の虚無


 秋風が吹く。カサカサと木の葉をさらった後それは頬を撫で、やがて何処かへと去っていく。
 この頃は寒さが一段と増してきて、マフラーなしで出歩くのは少しばかり辛かった。鼻の頭と残った方の耳が冷えてじんじん痛む。きっと今自分の鼻の頭は赤くなっていることだろう。
 ジョージにそれを確認する術はなかった。自分の鼻を笑ってくれる人は今やいない。
 ジョージは林の中の荒れた道を一人歩き続けていた。落ち葉だらけの地面は踏みしめる度に小気味良い音がする。
 あの話をしたのも、こんな清々しい秋晴れの日だった――――――



 ホグワーツの最終学年の年、ウィーズリーの双子は家族揃って不死鳥の騎士団の本部に来ていた。黴と埃と、貴重なガラクタばかりの屋敷。シリウスには悪いが毎日毎日こんな場所の掃除ばかりしていては、気が滅いる。
 そんな折、見付けたのは一冊の本だった。

「あら、ラプンツエルを知らないの?」
 ハーマイオニーは本から顔を上げて聞き返した。
 近くにいたハリーとロンも何事かとこちらを見る。ハリーが「僕聞いたことあるよ」とロンに喋っているのが視界の隅に写った。

「知らないから聞いているんだろう」
「本棚の奥に眠っていたんだけれど、この本開かないんだ。だから学校一のガリ勉……じゃなかった、秀才に聞こうと思ってね」
 フレッドはやれやれとわざとらしく肩をすくめてみせて、ジョージは大々的に本を掲げて見せる。
 ハーマイオニーは二人のそんな態度に少し機嫌を損ねたみたいだったが、黙って杖を取り出した。彼女にしては乱暴に本を受取り、呪文をかける。
「はい、どうぞ」
 ハーマイオニーはそれはそれは丁寧な言葉遣いで本を二人へ押しやった。
 彼女の言葉通り、表紙にラプンツエルと刻印された本はいとも簡単に開く。二人は図らずとも口笛を吹いた。
「さっすが!」
「我らがグレンジャー女史!」
 ハーマイオニーのムスッとした顔をものともせずに、双子は言う。
 ハーマイオニーは二人を無視することに決めたらしく、また本に没頭しだした。ハリーはロンにラプンツエルについて説明しているところであった――――…。



 林の中を抜けると、開けた場所に出た。ジョージはローブをしっかり体に巻き付け更に進む。
 こんなに寒くなるならマフラーをしてくれば良かったと思ったが今さら言っても栓なきこと、とローブのフードを被りすっぽりと顔を覆う。耳が急速に暖められて、じわじわと変な感触が広がった。しもやけになるかもしれないな――――――またもそれを笑ってくれる人がいないことに気付き、ジョージは唇を噛み締めた。
 やがて木もまばらになり、柵で囲まれた一帯が見えてくる。柵といってもボロボロの木製で、塗装がかなり剥がれたそれはジョージの腰程までしかなかった。
 柵をヒョイと越える。足元で一際大きく落ち葉が音をたてた。
 ジョージの目の前には、規則正しく並んだ石が静かに佇んでいる。


 開いた本を手に双子は部屋に引き上げるなり、早速それを読み始めた。
 ベッドに寝そべり、本を広げて各々読み進めていく。二人の読むスピードはほとんど変わらないらしく、一方がページを捲る手をもう一方が遮ることはなかった。
 しばらく、部屋には紙を捲る音と秋風が窓を叩き付ける音だけが響く。
 本は子供向けの童話だった。非常にかいつまんで内容を説明すると、だ。昔あるところに、子供のいない夫婦がいた。その夫婦にもやっと子供が出来るが、母親が病気で床に伏すようになってしまう。彼女はラプンツエルが食べたいと言う――――ラプンツエルという果物を食べれば、病気が治るのだと。そして夫は魔女と取引きをする。ラプンツエルを貰う代わりに生まれてきた子供を魔女に差し出すのだ。
 ジョージは最後のページ、最後の行の最後の一文字まで読み終わると顔を上げた。同時に顔を上げたフレッドと目が合う。
「なんだ、ただの童話じゃないか」
 ジョージが思ったそのままのことをフレッドが言った。
「なかなか開かないから、どんな危ない魔法の本かと思ったのに」
 ジョージが続けて言うとフレッドもやはり同じことを思っていたらしく、うんうんと頷く。
 二人は揃って首を傾げた。
「なあ相棒――――思うにこれは、マグルの童話だ」
「そうだ。その上、俺たちが今いるのは純血主義のお屋敷」
「この家でマグルの本を所有する人物なんて一人しか考えられない」
「そう、シリウス・ブラックその人だ。だがマグルの本なんか持っていたらそれはそれはお優しいお母様の逆鱗に触れてしまうだろう」
「だから彼はわざわざ子供の本に大層な魔法をかけて簡単には見れないようにした―――――」
「その通り」
 二人が口々に喋り立てるのに続けてシリウス・ブラックが答えた。フレッドとジョージはいつの間にか部屋の入り口に立つシリウスを見た。彼はフ、と笑うと「人の物を勝手に持ち出すのは感心しないな」 と部屋に入ってきた。
「何、どんな本かと思ってちょいと気になっただけさ」
 双子の片方が言う。
「とんだ肩透かしだよ。ただのマグルの童話だなんて―――なんでこんな物、大事に持ってるんだ?」
 もう片方も、さりげなく話題を反らして聞いた。
 シリウスは二人の冗談じみた言い訳に笑う。それから愛しそうに本を少し見つめてから、口を開いた。
「初めて親友にもらったマグルの物だったからね」
 彼の言葉に、双子は目を合わした。
「彼は冗談のつもりだったんだろう、マグルの童話なんか――――――だが、今になってこの本がいろんな事を教えてくれる気がするよ」
 目を細めてそう言う彼の顔には、くっきりと皺が刻まれている。



 墓石は晩秋の風の中寒々と佇んでいた。
 そっと触れるとザラザラとした。手から感触が伝わり、ジョージの心までを撫でた。
「フレッド」
 自分の声は、喋ることを忘れたかのようにかすれていた。声の出し方を、この名前の呼び方を忘れたみたいだ。
 秋風は木の葉を散らし、墓地を通り抜ける途中でジョージの指先までも冷たくしていく。

 荒涼としたこの場所に、フレッドは眠っているんだ。
 此処は、昔からウィーズリー家の人々が眠る墓地だった。沢山の墓に囲まれて、自身も墓の下に埋められて。寂しいと感じることすらも、今はないのだろうか。
この土の下に自分の相棒が眠ってるなんて、不思議な感覚だ。実感なんてとてもなく、気持ちの悪い違和感しかない。
 双子の兄。片割れ。パートナー。いろんな言葉で表せるけれど、フレッドはジョージにとって唯一の存在だった。また、フレッドにとってもジョージは唯一無二の存在だったはずで。
 彼が死んでからまだ、半年もたってないというのにジョージは何十年も会ってない気がする。あいつは自分の一部で自分はあいつの一部で。お互いに一番近い場所にいた。そのうち二人が一つになってしまうのではないかという程に。――――あるいは、本当にそうなってしまえばいいと、さえ。
「お前がいなきゃ、何も始まらない」
 ジョージは一人、ぽつんと呟く。低い声は墓地に広がり、響くことなく高い空に吸い込まれていった。
「終わることだって、できない」
 ジョージは再び呻くように囁くように言った。
 風が知らない顔で落ち葉を煽る。フレッドがいなくなってからの世界は何もかもがよそよそしかった。
 苦しい。
 痛い苦しい辛い嫌だ気持悪い寒い熱い痛い。
 足りない。フレッドが、足りない。こんなにも必要なのに、お前はもういない。
 どうやら彼がジョージの心ごと何処かへ持って去ってしまったようだ。
 心が、足りない。欠けたパーツはもう二度と戻らないと分かってはいるけど、その隙間が痛くて苦しくて。ギシギシと魂を蝕んでゆく。
 底のない悲しみと、当てのない怒りと、真っ暗な絶望と。あらゆる負の感情がいっしょくたに混ざると、虚無にしかならないことを、ジョージは初めて知った。
「………ラプンツエル、では」
 ジョージは言った。
「ラプンツエルでは、確か何をしてでも見付だすんだよな。そんで、高い塔から助けだすんだ…………」
 ジョージは顔を上げる。まるで薄い雲の中にフレッドの姿を見つけようとしてるみたいだった。風だけが冷たく吹いた。
「でも、お前はいない」
 空を睨みつけたままで、呟く。
「探しようがないじゃないか。いない人間を、何処をどうやって探せばいいんだ」
 一人きりでジョージは次から次へと溢れる言葉を抑えることが出来なくなっていた。
 じわり、熱いもので視界が滲む。
 ジョージが墓石に目を戻すと、ポトリと水滴が落ちた。涙だった。
 水滴が墓石の上をじわじわと広がっていくのをボンヤリと見ながら、随分久しぶりに泣いた気がする、とジョージは思った。それでも涙が自分の心まで潤すことは、決してない。
 墓石の上で染みを作るそれに手を伸ばして触れると、ヒンヤリと冷たかった。この眼から溢れ落ちた時はあんなに熱かったのに。もう、冷たくなってしまったのか。
 ジョージはそのまま水滴を指でなぞり、染みを広げる。すぐに湿り気はなくなり、ザラザラとした感覚が指に残った。
「こんな………まっちろいもんになっちまいやがって」
 ジョージはしゃがみ、墓石に刻まれた名前をじっと見つめる。
「なあ、俺達はこんな弱々しい真っ白いもんじゃなくて………不死鳥のような赤色だったはずだろ?力強く、暖かい勇気の色だ」
 ジョージは今や地面に膝をついていた。[フレッド・ウィーズリーここに眠る]の文字に向かって巻くし立てる彼の姿は、どこか懺悔する人の姿に見えた。
「今のお前は不死鳥なんてものには程遠い………まるで、間抜けなアヒルだな……!」
 溢れ出る涙が口に入り、塩辛い味がする。こんなに寒い日なのに涙はやっぱり熱く。胸は焼かれているかのように痛く。いっそのこと、この体ごと焼かれてしまえたらいいのに。自分もここから消え去って、何も感じることがなくなったら―――――…。
「……ハハッ」
 可笑しい。思わず乾いた笑みが漏れた。
 あれから何度思ったことか――――死んでしまおう、と。自分の一部が欠けた状態で生きているのは、とても辛かった。
 それでも、ジョージがまだ生きているのはフレッドを忘れてしまうことも恐かったからだ。
 死んでしまったら、本当にフレッドから切り離されてしまう。今自分達を繋ぐのはこの胸の痛みだけなのに、死んでしまったらそれさえも失ってしまう。
 それが何よりも怖いのだ。
 結局、フレッドはジョージを動けずじまいにしただけだ。
 探したいのに、いない。
 死んでしまいたいのに、それすら恐ろしい。
 心の隙間を埋めたいのに、月日はどんどん流れて行くばかりで。
 隙間は埋まる所か広がっていく。この墓石のように、真っ白な色で。
 ――――逢いたい
 何処かで犬が吠える音がする。ガサガサと風が吹き荒び、それも次第に聞こえなくなった。
 落ち葉の土臭い臭いは鼻を刺激するばかりでなく、涙までも誘うのか。

「……逢えるものなら、死ぬ気で探すさ」
 分かってはいたが、やはり呟いた言葉に答えてくれる人はいなかった。

 落ち葉はますますその量を増し、冬が深まってゆく。
 お前がいなくなった世界で、果たして寒さに耐えることが出来るのだろうか。









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