London Bridge Is Falling Down
一限目の魔法史の授業開始時間には間に合ったものの、ピーターはとてもじゃないが授業に集中できる精神状態ではなかった。ジェームズとシリウスは隣同士で座って額を突き合わせ、何やらこそこそと相談している。十分に一回はピーターにも手紙を魔法で飛ばして寄こしてきた。ピーターの隣に座るリーマスはというと、監督生だというのに完全に机に突っ伏して寝ていた。ただでさえ満月の後は疲労が溜まるのに、早朝からバタバタと動き回って限界のようだった。
授業の終了とともにジェームズ達は教室を飛び出した。怠そうにしながらもリーマスも付いてくる。授業中に手紙で指示していた空き教室に入るなり、ジェームズは本を開いた。シリウスは探知呪文をかけたベルを抜かりなく入口に設置していた。
本のページはやはり決まったページしか開かず、それ以外は接着されたかのようにピッタリと張り付いている。今開くことができるのは、“ロンドン橋落ちた”のページだった。
“ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる
ロンドン橋落ちる マイフェアレディ”
読み上げたジェームズだが、魔法界育ちの彼でも何故かこの歌は知っているらしく途中からメロディを付け始めた。ピーターも一緒になって歌うが恐る恐るといった感じで、曲調とは裏腹に全く楽し気な雰囲気ではなかった。
“木と土で建てよう 建てよう 建てよう
木と土で建てよう マイフェアレディ
木と土じゃ流されちゃう 流されちゃう 流されちゃう
木と土じゃ流されちゃう マイフェアレディ
煉瓦と漆喰で建てよう 建てよう 建てよう
煉瓦と漆喰で建てよう マイフェアレディ
煉瓦と漆喰じゃ耐えられない 耐えられない 耐えられない
煉瓦と漆喰じゃ耐えられない マイフェアレディ
鉄とスチールで建てよう 建てよう 建てよう
鉄とスチールで建てよう マイフェアレディ
鉄とスチールじゃ曲がっちゃう 曲がっちゃう 曲がっちゃう
鉄とスチールじゃ曲がっちゃう マイフェアレディ
銀と金で建てよう 建てよう 建てよう
銀と金で建てよう マイフェアレディ
銀と金じゃ盗まれちゃう 盗まれちゃう 盗まれちゃう
銀と金じゃ盗まれちゃう マイフェアレディ
見張りを立てよう 一晩中 一晩中 一晩中
見張りを立てよう 一晩中 マイフェアレディ
見張りは寝てしまう 寝てしまう 寝てしまう
見張りは寝てしまう マイフェアレディ
見張りにパイプタバコをやって 一晩中吸わせよう 吸わせよう 吸わせよう
見張りにパイプタバコをやって 一晩中吸わせよう マイフェアレディ”
「この歌は知っているんだ?」
歌い終わるなりピーターはジェームズに尋ねた。
「うん、家の近所に住むマグルの子達が遊んでいたからね。たまに混ぜてもらったりして」
きっと今と変わらず、どこにでも溶け込んでいって、いつの間にか輪の中心にいるような子供だったのだろうなとピーターは想像した。
「この歌もなぞかけ歌なのか?」
シリウスの質問にジェームズとピーターは首を振る。
「ううん、この歌は皆で遊ぶための歌っていうのかな。こう輪になって、何人かは二人一組で腕を組んで」
ジェームズとピーターは手を取って高く掲げた。
「で、このアーチの下を輪になった皆が歌いながら潜っていくんだけど、マーイフェーアレディーの所で潜った人は捕まっちゃうんだ」
そこだけメロディを付けて、ジェームズががばっと腕を下げたのでピーターは引っ張られる形になって前のめりにつんのめった。
「捕まったらどうなるんだ」
「いや、別にどうも。捕まったらだめってだけで」
それの何が面白いんだ、という顔でシリウスは「ふうん」と曖昧な返事をする。
次の瞬間、それまで眠そうに重い瞼で話を聞いていたリーマスの目が、瞬時に見開かれた。シリウスの設置した探知呪文をかけたベルが、鳴ったのだ。
「マクゴナガルだ」
ピーターは訳が分からず、素早い動きで本をしまい撤収を始めた仲間たちを落ち着かない気持ちで見ていた。
「ど、どういうこと?」
「バカ、早く行くぞ。マクゴナガルがもう向こうの廊下の角を曲がったところだ。じきに着く」
シリウスがピーターの鞄を乱暴に渡してきて、ジェームズのおかげで肩からずり落ちたローブも掛け直してくれた。最後にジェームズがベルの魔法を解除して静かになったそれを鞄に突っ込むと、空き教室を出た。
「一つ一つは基礎的な呪文だけどよく考えたなあ。探知呪文と追跡呪文の応用で、マクゴナガル先生が特定の場所を通過したら知らせるようにベルに呪文をかけていたんだろう。この空き教室を選んだのも、そこまで考えてのことだ」
依然として意味が分からないピーターにリーマスが説明してくれた。魔法史の授業中、二人が一生懸命相談していたのはそれだったのか。しかしピーターは皆に遅れを取らないようにすることに必死で、頷くことしかできなかった。
早足と駆け足の中間くらいのスピードで変身術の教室に向かう。席に付くなりマクゴナガルが教室に入ってきた。間一髪だ。マクゴナガルが肩で息をするピーターをじっと観察している気がしてならなかったが、彼女の方を振り向く勇気はなかった。ジェームズとシリウスは涼しい顔で、しれっとしている。
「皆さんおはようございます。それでは授業を始めます」
詮索されることもなく授業が始まったので、ピーターはほっと胸を撫でおろした。
昼休み、四人は中庭にいた。晴れてはいるものの、今日は北風が吹きつけているためか人気はまばらだ。その中でも顔見知りの何人かに四人は手あたり次第に声をかけた。最初は小さい集団だったのが、また何か面白そうなことをしているぞ、と人だかりが人を呼び、最終的には一クラス分くらいの人数にまでなった。
グリフィンドールの生徒だけでなくハッフルパフと、それにレイブンクローの生徒もちらほらいて、学年が違う者さえいる。ピーターは所在無さげな気持ちを悟られぬよう、出来るだけ堂々と見られるよう心がけながら集まったメンバーを眺めまわした。その中に、リリー・エヴァンズの姿もあって、内心意外に思う。
リリー・エヴァンズといえば、真面目な優等生で、明るく溌剌としていて、そのうえ豊かな赤毛が目を引く容姿も優れた同級生だ。けれど悪事や誰かが傷つくことには一等黙っていられない性格で、ことさらトラブルの中心にいることが多いジェームズとは度々衝突している。こんな人だかりににもツンとすまして通り過ぎそうなものだが、この人だかりが同行している友達のグレースの興味を引いたらしく、仕方なく参加しているみたいだった。
「ようし、じゃあ皆輪になって――一人1シックルずつ集めるよ――払いたくない奴は――ああ、いるね、そこの君と君、君達は二人一組になって手を組むんだ、こんな感じでね――」
ジェームズが手際よく集まった生徒たちをさばいていく。
「それじゃあルールは今説明した通りだ。1シックルずつ、袋に入れて――」
ひとしきり説明が終わったところで、ジェームズは革製の巾着の中に銀貨を回収した。金属音を響かせた巾着を城の壁の縁に置き、自身も輪の中に加わる。リリーの後ろの後ろ、つまりグレースのすぐ後ろだ。
「いいか、捕まった人は順に抜けていくんだ。最後まで残った人たちが、この回収した銀貨分の欲しいものを、クリスマスプレゼントとしてもらえるってわけだから、心してかかれよ」
一人1シックルでも、この人数がいればけっこうな額になる。皆お遊び半分、真剣さ半分といったところだ。
ジェームズが杖を振り、陽気なメロディが流れ始めた。ご丁寧に、宙にネオンの文字色で歌詞まで表示している。マグル生まれの何人かは勿論知っているらしく、歩きながら歌い始めた。それに倣って他の者もおっかなびっくり輪をぐるぐると歩いていく――最初“のマイフェアレディ”で二人捕まった。アーチを作っているのは1シックルを出し渋った二人と、シリウスとピーターの二組なので、一回につき二人が脱落することになる。三回目まではマグル生まれは一人も捕まらず、しかし四回目となるとさすがに皆要領を掴んできたのかうまくタイミングを計るようになった。“マイフェアレディ”の直前でゆっくり歩いたり、はたまた勢いよく通り過ぎようとしたり。捕まるたびにきゃあきゃあと歓声が上がり、ゲームは多いに盛り上がった。
八回目でグレースがシリウスとピーターのアーチに捕まった。捕まる瞬間笑いながらキャーと叫んだ彼女はちら、とシリウスを見上げ、しかししばらくたっても目線が合わず、名残惜しそうに輪から外れていく。シリウス、ピーター組のアーチに捕まり嬉しそうに頬を赤らめたのは彼女で五人目だった(勿論全員がシリウスしか見ていなかった)。
輪も大分小さくなり、つまり捕まる確率も上がり、ゲームはぐっと緊張感を増す。脱落した者達は輪の傍に座り気楽に観戦していた。
「銀と金じゃ盗まれちゃう――盗まれちゃう――エヴァンズ、早く進めってば――」
ジェームズが悪戯っ子の顔で、後ろからリリーの背を押す。ピーターは彼女が怒るんじゃないかと思ったが、意外にもケラケラと笑っていた。
「盗まれちゃう――銀と金じゃ盗まれちゃう――マイフェア――それっ――レディ!」
のろのろと歩いていたリリーが急に速度を上げてすっとアーチを通り過ぎる。しかしジェームズにはお見通しだったみたいで、彼もリリーに続き素早く通り抜けた。ジェームズの後ろに来ていたリーマスが捕まる。心の底から残念そうな顔をするリーマスに、リリーは勝気に笑ってみせた。
「あら、なかなかしぶといのね」
「ふふん、その手には乗らないぞ」
決して仲が良いとはいえない二人が、ゲームの楽しさも手伝ってかとても良い感じに見えた。というか、もしかして、この二人って実はかなりお似合いなんじゃないかとピーターは思った。仮に二人がカップルになったとして、良くも悪くも非常に目立つ二人組になることは間違いないだろう。
全12行の詩を歌い終え、残ったのはジェームズと、一学年上のグリフィンドールの男子生徒だった。リリーは直前の回で捕まってしまった。
「それじゃあ銀貨は残った僕たち二人で山分けだ。欲しいもの考えておいてよ――」
盛り上がったゲームに生徒たちは高揚したまま三々五々に散っていく。
暑そうに髪をかきあげたリリーとジェームズの目が合い二人は笑い合った。
「あー、残念だったけど、楽しかったわ」
「君の欲しいものって、ところで何だったの?」
「そうね、魔女シャイニーのコスメセットかしら」
「コスメセット」
意外な言葉にジェームズはまじまじとリリーを眺める。
「そう。クリスマスの時期に限定販売されるの。自分でわざわざ買おうとは思わないけど、もらえるならやっぱり欲しいわね」
それってどこで売ってるの?と聞こうとしたジェームズの声を遮って、悲鳴があがった。二人ともハッとして悲鳴の方を向く。
「湖の方だわ」
リリーが呟いたのと、グレースが勢いよく駆け込んできたのはほぼ同時だった。
「大変よ!さっきゲームに参加していた二人が湖に落ちたって――」
なかなか上がってこないの、という言葉を聞き終わるより早く、ジェームズは走り出していた。
風のように中庭をすり抜け、湖の縁まで辿り着くと、数人の生徒が湖の中を覗き込んでいた。
「あ、ジェームズ、アイラとレオが――」
これも聞き終わるより早く、ジェームズは湖に飛び込んでいた。晩秋の湖は凍てつくように冷たい。アイラは一学年上のグリフィンドールの女子で、レオは同級生のレイブンクローの男子だ。二人とも、別段ジェームズと仲が良いわけではない。身を挺して助ける義務もない。それでも考えるより先に体が動いてしまうのが、ジェームズ・ポッターという男だった。
反射的に筋肉が縮こまる恐ろしく冷たい暗い水中で、ぽっかりと丸い光源が降りてくる。誰の魔法か分からないが助かった。ジェームズは沈んでいくアイラとレオの元へ泳ぎ、二人いっぺんに抱きかかえた。もたもたしていたら大イカだとかマーピープルが引きずり下ろしに来るかもしれない。杖を自身の足に向け、推進力を生む呪文をかける。かかったが上手く発音できなかったためかさしてスピードは出なかった。
ようやっと水面から顔を出すと、いつも以上に真っ白な顔をしたシリウスが一番に見えた。どうやら湖の中に光源を落としてアシストしてくれていたのはシリウスらしい。引き上げてくれ、と頼んだ覚えはないのにジェームズの体は浮遊感に包まれ、芝生の上にフワフワと着地した。フリットウィック先生だ。彼の少し後ろにいる――シリウスに負けず劣らず蒼白な顔をしていた――リーマスが呼んだのだろう。ジェームズは「僕はいいから二人を早くマダム・ポンフリーに見せないと」と発したつもりが、ただ歯がガチガチと鳴っただけになった。杖を握る手もガチガチに凍えていてなかなか開かなかった。ものの数分もしないうちに、リリー・エヴァンズがマダム・ポンフリーを引き連れてやって来た。
「まあ低体温症になっているわ!」
マダム・ポンフリーは溺れた二人と、ジェームズを暖かい毛布でぐるぐる巻きにした。医務室に運び込めれるまでの間、ジェームズを心配そうに覗き込む学友たちの顔にどうってことないよ、と言おうとしてただ弱々しく微笑むだけになってしまった。
…
溺れたアイラとレオの二人については今晩は医務室で安静にとのことだが、ジェームズは放課後には退院出来ていた。シリウスとリーマスはほっとした表情を見せた後、いつもの調子でジェームズをからかい始めた。ピーターだけはいつまでたっても暗い顔をしていた。
「確かにだいぶ肝が冷えたけど、ジェームズはこんなにぴんぴんしているじゃないか」
リーマスが優しくピーターを励ます。
「そうだぜ、お前溺れた奴らより青い顔して」
「なんだったら僕の温め薬やろうか?」
ケラケラ笑いながら、ジェームズは今さっきマダム・ポンフリーから渡されたばかりの瓶を振る。
「うん……大丈夫、ありがとう」
暗い目で三人を見上げるピーターに、シリウスは呆れた顔をした。
「なにをそんなに怖がっているんだよ。皆無事だっただろう?」
ピーターはもごもご言う。口に出すのを躊躇っているようだった。
「落ちたあの二人はさ……」
皆がじっとピーターの言葉を待っているのに耐え切れず、やっぱりなんでもない、とピーターは首を振った。
しかし翌日、ピーターの不安は確実に実体を伴ってやってきた。マイケルが階段から転落して足を骨折したのだ。マイケルはグリフィンドールの同級生で、彼もゲームに参加した一人だ。
夕方、ピーターは同じくグリフィンドールの同級生であるライアンに声をかけた。彼は談話室でソファに座り、ガールフレンドと話していた。その雰囲気から何やら険悪な雰囲気であることは間違いなかった。
「やあ……どうかしたの?」
ピーターに負けないくらい暗い顔をしたライアンは、珍しい人物に声をかけられたことに一瞬驚いた顔をしたが、すぐに深いため息を吐いて首を振った。
「ちょっと失くしものをしてな」
「失くしものって?」
「お前に言ったところでどうにもならないさ」
「ほら、ライアンそんな言い方しないで」
刺々しい態度のライアンを、隣に座ったガールフレンドがなだめる。
「お母さんの形見の指輪を失くしてしまったんですって」
「形見の……」
「ただの指輪じゃない。家に代々伝わる魔法の鉱石でできた貴重な指輪だったんだ」
ライアンはこの世の終わりという顔をしていた。
「ねえ、もう一度心当たりのある所を探してみましょう?」
努めて優しく話しかけるガールフレンドに、ライアンは苛々を隠そうともせず大きくため息を吐く。
「もう何度も探したって!君が思っている何倍も!いいからちょっとほっといてくれ!」
さすがにこれにはガールフレンドも傷ついた顔をしていた。
「そう!ならもう知らない!勝手にしたらいいわよ!」
泣きそうな顔で叫びながら、彼女は自室に帰っていった。ピーターが何も言えずにおろおろしていると、ライアンも「くそっ」と悪態を吐き、大きな音を立てながら男子寮の自室に戻って行った。
談話室にいたほぼ全員がやり取りに注目していたので、取り残されたピーターは視線を一身に浴びていたたまれない気持ちになる。
「おいピーター、今のは彼女が立ち上がったところでフォローするとこだろう」
後ろから声をかけられて、ピーターは腰を抜かした。シリウスだ。隣では彼の肩に腕を乗せてジェームズがニヤニヤしている。
「そう。それですかさずお茶に誘うんだ。傷ついている女の子は、それでもう優しく慰めてくれる君にゾッコンさ」
ウインクをするジェームズに、「笑い事じゃないよ!」とピーターは半べそで抗議した。
「まあまあ。続きは部屋で聞こうか。いやあ、君がライアンのガールフレンド狙いだったなんて知らなかったなあ」
わざとらしい芝居口調でジェームズは笑う。悪友二人に両側から肩を組まれて、なかば引きずられるようにピーターは部屋に連れていかれた。笑い事じゃない、と憤慨する気持ちの一方で、いたたまれない気持ちになっていたところを笑い事に変えてくれて、さらにはあの場から脱出できて、ホッとした気持ちも少なからずあった。
部屋に入ると、リーマスが床に座り本をそこらじゅうにいくつも広げて読みふけっていた。その中にあのマザーグースの本も開いてあって、思わずピーターは目を背ける。
「おいおい、たった今ピーターが一組のカップルを破滅に導いたってのに、何をやってるんだ?」
リーマスはひどく集中していて、しばらく返事をしなかった。ジェームズとシリウスが目を見合わせて、肩をすくめる。リーマスは集中し始めたら周りが見えなくなるのだ。
ジェームズがローブからお菓子を大量に取出し(また口八丁手八丁で厨房から上手いこと持ってきたのだろう)、それぞれ床に座り、お菓子の袋を開け始めたところでようやくリーマスが顔を上げた。
「ああ、おかえり。ピーターが何だって?」
「鮮度の落ちたジョークほど不味いものはないぞ、ムーニー」
ジェームズは近頃気に入っている呼び方でリーマスを諫める。
「それで?何を熱心に調べてたんだ?」
シリウスが尋ねるとリーマスは凝った肩を揉みながら苦笑した。
「マザーグースについてね……出来た歴史やマグルの伝承なんかを調べてみたけど如何せん、資料が少なくて……あんまり収穫があったとは言えないね」
よく見てみれば、確かに開いている本はマグル学に関するものばかりだ。リーマスもチョコレートに手を伸ばす。
「この“ロンドン橋落ちた”はマザーグースの中でもポピュラーなもので、18世紀からある古いものらしい。この間皆でやったような遊び歌だけど、歌詞の意味には諸説あるね」
説明するリーマスの横顔を、ピーターは口を開けて眺めていた。リーマスも監督生業務もあって忙しいだろうに調べていてくれただなんて――ピーターは感激していた。
「まず、天災やもしくは人の手によって何度も橋が崩壊してきた歴史を単に伝えるというものが有力。次に、歌詞に“金と銀の橋では盗まれるから見張り番を置こう”という箇所がある。この「見張り番」が、橋を造るときの人柱のことを指しているとする主張もある。あと、歌詞の中の“マイフェアレディ”についてもイギリス女王、エリザベス1世をさしているという説、ウォリックシャーの貴族であったリー家の婦人がモデルではないかという説、ロンドン橋の建設の責任者であったことからヘンリー1世の王妃マティルダ・オブ・スコットランドであるという説、あるいは橋の収益に関しての権限を持っていたヘンリー3世の王妃エリナー・オブ・プロヴァンスではないかという説と様々だね」
ううむ、と一同は考える。結局のところ歌詞の意味するところはよく分からない。人柱という言葉から何となく、歴史の裏に葬り去られてきたほの暗い残酷さが感じられて、ピーターはぶるりと体を震わせた。
「この挿絵は実際のロンドン橋で間違いないのか?」
マグル界に疎いシリウスが尋ねる。石造りの、非常に地味な橋だ。
「たぶん実際のロンドン橋だとは思う。けど、石造りだから18世紀頃の橋かな。現在のロンドン橋はコンクリート造だそうだから」
そうすると、この本が書かれたのは昔なのだろうか。しゅぼっとくぐもった音を立てて、ジェームズがパイプ煙草に火を付けた。ピーターは顔を顰める。
「で、シリウスも何か調べていたよね」
ジェームズがパイプ煙草を燻らせながら聞いた。ピーターは驚いてシリウスを見る。
「シリウスも何か調べてくれてたの」
「そりゃこんな不思議な本、気になるだろ。どんな魔法が掛けられているのか――結局は何も分からなかったけどな」
シリウスはジェームズが煙に魔法をかけて色々な形に遊び始めていたのを横目で眺めながら答えた。
「本に魔法をかけ、呪いが持続するような魔法……そう、昨日今日とゲームに参加した奴らが不幸に見舞われているのはどこか呪いに近いような気がする。何か法則性があればもう少し分かりそうなんだが」
シリウスはちら、とピーターを見た。
「何か気付いているんじゃないか?昨日何か言いかけてたよな?」
シリウスの薄いグレーの瞳に見つめられ、ピーターはたじろいだ。
「うん……たぶん、明日本の呪いがかかるのは、コナーとローワンだ」
落ち着きなく視線をキョロキョロとさせながらも断言するピーターに、シリウスは一瞬考える。
「……捕まった順か!」
シリウスは合点し指をパチンと鳴らした。
ジェームズとリーマスは捕まえられる側でゲームに参加していたので捕まった順はすぐには思い出せないようだった。それでも感心して、「おお」と声をあげた。
「ところでそれ、この間も聞いたけどどうしたの?」
ハート形の煙が目の前に漂ってきて、眉間に皺を寄せながらピーターが尋ねる。
「ん、これかい?」
「そうそのパイプ煙草……まさか、あの廃屋から持ってきたんじゃないよね?」
まるでパイプ煙草が今にも爆発するのではないかといような怯えた声をピーターは出した。ジェームズがニヤッとする。
「嘘だろ……やめときなよ、そんなもの使うの。何があるか分からないよ」
ピーターは肯定意見を求めてリーマスを見たが、彼が気にしているのは別のことみたいだった。
「マグル製品に魔法をかけるのは違法じゃなかったっけ」
「おいおい、散々一緒に規則を破ってきて今更何を言うんだ、監督生さま」
シリウスがジェームズに味方したので、リーマスは諦めて肩をすくめるに留まった。
「しかしこの予想が当たるなら被害人数は全部で二十四人か……」
リーマスはパイプ煙草のことなんて鼻からどうでもいいみたいで、神妙な顔で呟いた。
最悪なことに、予想は当たってしまった。
翌日、コナーは魔法薬学の時間に火傷を負い、ローワンはペットのフクロウが怪我をしたそうだ。さらに翌日にはロージーがお祖母さんが危篤だと連絡を受け泣いていたし、シャーロットはクディッチ練習中にブラッジャーの直撃を受けて脳震盪を起こして医務室に運ばれた。無論、ゲームで捕まった順だ。
ジェームズ達も悠々と構えていられなくなってきた。どんどん見舞われる不幸のスケールが大きくなってきているような気がしてならなかった。あらゆる書籍を漁り、何かヒントはないかとマザーグースの本に色々呪文をかけてみたりしたが、何ら進展はなかった。
六日目にはとうとうゲームと、ここ最近怪我をしている生徒との関連に気付いた者が出てきた。リリー・エヴァンズだ。
ジェームズとシリウス、ピーターが談話室の隅で額を付き合わせて相談しているところに、彼女が怖い顔をして近付いてきた。
「ハンプティ・ダンプティの時と同じように考えるなら、やっぱり挿絵の場所に行ってやらなきゃいけないんじゃないのかな」
「ロンドンまで?馬鹿言うなよ」
「うーん、何かカラクリがありそうなんだけどなあ――やあエヴァンズ、どうしたんだい?」
ジェームズがばっと顔を上げ、警戒した目付きでリリーを見た。リリーは腕を組んでジェームズ達を見下ろしている。
「やあ、じゃないわ。ここ最近の怪我人、それから身内やペットに不幸があった人達、みんなあのゲームに参加した人じゃない。一体、何を企んでいるの?」
ずばりリリーに言い当てられて、ピーターはぎくりとした。余計なことを言うんじゃない、とジェームズとシリウスが目で制したのが分かった。
「そうかい?そう言われればそうかもしれないね」
苛々した口調でジェームズが答える。関係のない生徒を多数巻き込んでしまったことに、ジェームズも責任を感じていたのだ。
行こうぜ、とジェームズが男子寮への階段を上り始める。自分の持ち物を乱雑に掴んだせいで、ポロリと何かが落ちた。あのパイプ煙草だ。階段の手すりの脇を通り抜け、魔法使い二人分くらいの高さを、談話室の床まで落下していく。ジェームズが流れるような動きで杖を抜いた。
「アクシオ!」
一拍遅かったのか、パイプ煙草は硬い床に叩きつけられ、しかし幸いにも割れることなく、一回跳ねて再び床に着地した。ジェームズが呪文を外すのは珍しい。流れるような動作でジェームズが巧みに呪文をかけるのを見るのが、ピーターは大好きだった。
ジェームズは呪文を外したことに驚いたのか自分の杖をまじまじと見ている。シリウスがパイプ煙草を拾い上げ、「ほら」とジェームズに差し出した。ジェームズはまだ自分の杖とパイプ煙草とを交互に見ていた。
「ジェームズ?」
シリウスが怪訝な顔で覗き込む。
「ああ、部屋に戻ろう――」
緩慢な動きでパイプ煙草を受け取り、ジェームズは再び階段を上り始める。しかし数歩もしないうちに引き返し、まだ怖い顔をしているリリーの目の前までやってきた。
「いいかい、くれぐれも騒ぐなよ。ゲームに参加した人が不幸に遭うだなんて噂が流れたらパニックになる――この件は、僕が絶対何とかするから」
力強く告げるジェームズに面食らい、リリーは頷く。
「そりゃあ、不必要に不安を煽るようなことを言いふらしたりはしないけれど」
「そいつは良かった。今度また、ちょっと頼むことがあるかもしれないからその時はよろしく」
不覚にも真剣な顔付きのジェームズに妙に感心してしまい、リリーは何も言い返せずに部屋に戻るジェームズ達の背中を見送った。
「何があった?」
部屋に入るなりシリウスが聞いた。リーマスはまだ戻っていないようだった。
「さっき呼び寄せ呪文をかけた時に――こいつが呪文を弾いたように見えたんだ」
ジェームズが部屋の中央に座り、目の前にパイプ煙草を置く。シリウスとピーターもパイプ煙草を囲むように座ったが、ピーターはあまり近付きたくなくて少し距離を取った。
「弾いた?……まあお前が呪文を外すのは珍しいとは思ったけど」
「それにあの高さから落ちて割れないのも何かに守られているような気がして」
ジェームズの言葉にシリウスはうーむと唸る。ジェームズは再び杖を取り出して、コンコンと軽くパイプ煙草を叩いた。
「あっ!」
「な、なに?」
大きな声を出すジェームズに、さらに大きな声でピーターは聞き返した。ジェームズはもう一度杖で叩く。
「やっぱりこれ、魔法がかけられているよ。杖で叩くと、ちょっと反発するような感じがする」
ジェームズに倣い、シリウスも自分の杖で軽く叩いた。
「おー」
傍目には全く分からないが、その反発する感覚を楽しむかのようにシリウスは何度も叩いた。さすがにピーターもどんなものか興味が湧いた。
「僕にもやらせて」
しかしいくらピーターが杖で叩いてみても、その反発する感覚とやらは一向に分からなかった。こういうのは所謂“センス”の問題だ。勉強のできるできないではなく、魔法力に自分は鈍感であると、この二人といるとまざまざと感じさせられた。
早々にピーターが諦めたパイプ煙草を、今度はジェームズが色々呪文をかけて秘密を解こうと躍起になった。しかしどんな呪文がかけられているかは終ぞ分からなかった。
「いっそのことレダクトして砕いちまうか」
「うーん、反対」
「意外に慎重だな」
「砕けて何も解決しなかったら損じゃないか」
最早部屋の中で開けっ放しになっているマザーグースの本をシリウスは脇に引き寄せた。
「ハンプティダンプティの時はこの挿絵の場所で謎かけに答えたらページが変わっただろ……とすると、やっぱりこの挿絵の場所に行くか……しかしこの橋は昔のものだっていうしな……」
シリウスは考えながらぶつぶつと呟く。ジェームズはまたパイプ煙草に火を付けて、魔法で煙の形を様々に変えて遊び始めていた。
「あとは詩に何か意味があるのか……様々な材質で作られて何度も崩壊する橋……見張りの番……寝ないためのパイプ煙草……」
そこでシリウスが顔を上げた。ジェームズがポッと二重丸の煙を吐き出す。
「そう、奇しくも詩の中にパイプタバコが出てくるんだ」
そこでようやくピーターも歌詞の最後にパイプタバコが出てくることを思い出した。
「あの廃屋から持ってきたのはたまたまだけど、もしかしたらたまたまじゃないかもしれない」
「どういうこと?」
ジェームズが次から次へと吐き出していく煙を目で追いながらピーターは聞いた。
「何かしら引き寄せられるものがあったのかもってことだろ。魔力を持つ物は、自然と魔力を持つ者を引き寄せる」
シリウスの言葉に、ピーターは何だか怖くなった。それって、何かしらの見えない力に誘導されているってことじゃないのか。その誘導された先には一体何があるというのか。
「おいこれを見てみろよ」
拡大鏡で挿絵を観察していたシリウスが、驚いたような声を上げた。ジェームズもピーターも勢いよく覗き込んだので、頭同士がぶつかった。
「いてて……どれ?」
「この橋のふもとの所、立っている男がいるだろ?こいつの持っているものをよく見てみろ」
白く長い指でシリウスが指すそこを拡大鏡で覗く。挿絵の中の中世風の格好をした男は、まさしくパイプ煙草を手にしていた。
「これ……なのかな」
ピーターは恐々とジェームズのパイプ煙草に視線を戻した。
「どうだろうな、似ているけど、パイプ煙草なんて大体こんなデザインだろうし」
ジェームズがぽぽぽ、と立て続けに煙を吐き出した。
「……やってみるか」
低いシリウスの呟きにピーターは何を?と聞き返そうとして、ジェームズが微笑んでいることに気が付いた。その目は、あの勝気な光を宿している。
二人は時々こうして、ピーターを置き去りにして二人にしか分からない意思の疎通をするのだった。
次の日の放課後、ジェームズ達四人は再び何人もの生徒に声をかけ、芝生の広がる中庭に集合した。その中にはリリー・エヴァンズもいた。どんよりとした曇り空で、北風が冷たい日だった。日も傾きかけいて、これからもっと気温は下がるだろう。
それでもけっこうな人数の生徒が集まったのは、ジェームズの出したゲームの報酬が魅力的だったからだ。
「はいはいはいよー、それじゃあ今回も一人1シックル集めるよ。初参加の人も、二回目の人も、ルールを説明するからよーく聞いてくれ」
寒さに肩を寄せ合いながらも、皆がジェームズに注目した。
「輪になって歌を歌いながらぐるぐる回る――そう、それはこの前と一緒だねライアン。でもこの間と違うのは箒を使って回るってところ。それから、“マイフェアレディ”のところでアーチの下にいる人を腕で捕まえるんじゃなくて、呪文をかけるよ。呪文が当たれば脱落ってわけさ」
少し間を置いてジェームズは皆の反応を確認した。
「どんな呪文をかけるかは、歌詞を見て予想してくれ。呪文が予測できれば避けることもできるかもしれないね」
ジェームズはウインクした。何人かの女子がくすくす笑う。
「アーチ役――つまり君達に呪文をかける役だが――それを担うのは学内一のハンサムボーイシリウス、それから我らが監督生リーマス」
ジェームズの紹介に男子生徒たちも囃し立てて盛り上がった。
「麗しのエヴァンズ女史、そしてグリフィンドールきってのエース、僕さ」
往年のお色気女優よろしく腰をくねらせてジェームズは二回目のウインクをした。リリーも屈託なく笑っている。大笑いでヒューヒューと盛り上げる観衆を、ジェームズはわざとらしく手を上げて制した。
「そして僕が前回のゲームで手にした報酬を今回の報酬に上乗せする――そして計算上では今回最後まで残るのはたった一人、つまり前回の三倍もの報酬を手にできるってわけさ」
歓声が上がり、生徒たちは盛大な拍手を送った。こんな寒さの厳しい日にこれだけの人数を集められるのだから、ジェームズには全く敵わない。
箒に跨りながら、ピーターは複雑な心持で、しかし心臓はドキドキしていた。ピーターはジェームズ達ほど巧みに呪文をかけられない――肝心なところで外すに決まっている――それはピーター自身が一番分かっていた。だからジェームズもリリーに頼んだのだ。それは仕方ないことだ。ピーターは箒を持つ自分の手の震えを抑えようと努めた。
ジェームズの試みが上手く行ったとして、その先には何が待ち受けているのだろう?いやそれよりも怖いのは――上手くいかなかったときだ――ピーターは唾をごくりと飲み込んだ。もし失敗したらもっと酷いことが起きるに違いなかった。それに今回は自分も捕まえられる側で参加するのだ――…。
無邪気にはしゃぐ他の生徒たちを恨めしい気持ちで眺めながらも、ピーターは地面を蹴って箒の輪の中に加わった。
前回同様ジェームズが呪文で歌詞を表示して、皆が歌いながら箒でぐるぐる回り始める。
“ロンドン橋落ちる 落ちる 落ちる ロンドン橋落ちる マイフェアレディ”
「ディセンド!」
シリウスとリーマスの二人が、一斉に呪文を唱えた。それに当たったエルフィーとアレックスの二人が落下して、他の生徒が悲鳴を上げた。ピーターも一緒になって恐怖の声を上げたが、ジェームズとリリーが呪文で出したふかふかのクッションに乗っかって、二人は楽しそうに地上に降りた。早々に脱落して残念そうな顔をしていたが、一種のアトラクションを遊んだかのように高揚した笑顔だった。俄然、他の生徒も盛り上がる。
“木と土で建てよう 建てよう 建てよう
木と土で建てよう マイフェアレディ
木と土じゃ流されちゃう 流されちゃう 流されちゃう
木と土じゃ流されちゃう マイフェアレディ
煉瓦と漆喰で建てよう 建てよう 建てよう
煉瓦と漆喰で建てよう マイフェアレディ
煉瓦と漆喰じゃ耐えられない 耐えられない 耐えられない
煉瓦と漆喰じゃ耐えられない マイフェアレディ
鉄とスチールで建てよう 建てよう 建てよう
鉄とスチールで建てよう マイフェアレディ
鉄とスチールじゃ曲がっちゃう 曲がっちゃう 曲がっちゃう
鉄とスチールじゃ曲がっちゃう マイフェアレディ
銀と金で建てよう 建てよう 建てよう
銀と金で建てよう マイフェアレディ
銀と金じゃ盗まれちゃう 盗まれちゃう 盗まれちゃう
銀と金じゃ盗まれちゃう マイフェアレディ
見張りを立てよう 一晩中 一晩中 一晩中
見張りを立てよう 一晩中 マイフェアレディ
見張りは寝てしまう 寝てしまう 寝てしまう
見張りは寝てしまう マイフェアレディ”
四人はマイフェアレディの度にそれに見合う呪文をかけた。木のブロックで捕まえたり、水で流したり、眠らせたりだ。よく歌詞に見合う呪文をこれだけ見繕えたものだと、感心する余裕はピーターにはなかった。残り三人。そして詩はあと一行。どうなるのだろう――。
“見張りにパイプタバコをやって 一晩中吸わせよう 吸わせよう 吸わせよう”
下の方で、ジェームズがパイプ煙草から煙を吐き出しているのが見えた。
見張りにパイプタバコをやって 一晩中吸わせよう マイフェアレディ”
一斉にジェームズの煙が飛んできてピーター達の周囲をあっという間に取り囲んだ。グレーの煙で辺り一面見えなくなって、ピーターの恐怖は最高潮に達した。前も後ろも分からなくて、箒での飛行が維持できない。そのうちグレーの煙は薄紫色からピンクのグラデーションを作り、ピーターは煙の渦に飲み込まれていく感覚になった。パステルカラーのグラデーションの中で、ピーターは無数の光の粒を見た。空に広がる銀河のようでもあり、どこか遠くの街の灯りのようでもあった。壮大で、それでいて閉塞的な世界に眩暈がする。ロンドン橋落ちたのメロディが木霊し、その合間合間ですすり泣く声が聴こえた。どうして泣いているのかピーターには分からない――見張りを立てよう――見張りを立てよう――楽し気な子供の歌声はやがて低い唸り声に変わる――……。
ピーターを包囲する淡い色の煙は最後に強烈な赤い色となり、気付いた時には背中に衝撃が走っていた。背中の痛みに悶絶しながらも、遠くで歓声が上がっているのを聞いた。ゲームが終わり、最後まで残った生徒を囲む盛り上がりが出来ているみたいだった。体が酷く怠くて起き上がることができない。
「ピーター!」
自分を呼ぶ声に、ピーターは薄目を開ける。シリウスが、彼にしては非常に珍しい緊迫した顔で見下ろしていた。シリウスは優しくピーターを抱き起こし、楽な体制にしてくれた。
シリウスが痛むところはないか、気分は大丈夫かと質問し、ピーターは頷くことしかできない。やがて意識がはっきりしてくると、自分がジェームズ達の出したふかふかのクッションの上に箒ごと落下していたことに気が付いた。シリウスの顔面はジェームズが湖に飛び込んだ時と同じくらいに蒼白だ。
少しすると、ゲーム終了の取りまとめをして、上手いこと観衆を捌けさせたジェームズとリーマスもピーターの所に飛ぶようにやって来た。二人ともシリウス程ではないが白い顔をしている。リリーも、後ろから恐々とした顔で覗いていた。
「ピーター大丈夫か?君、煙に包まれて見えなくなったと思ったらすごい勢いで落下して――」
ジェームズの声に記憶を辿りながらピーターは頷く。
「大丈夫、なんとか……」
シリウスに支えられながら起き上がり、ピーターは背中の痛みに顔を顰めた。ふかふかのクッションの上に落下したものの、背中を強かに打ち付けたらしい。
「一体何の呪文だったの?最後の煙のやつ……紫とピンクで、中はチカチカしてて……歌が聴こえたけどとっても怖かったよ」
ピーターが呻くように訴えると、ジェームズ達は困惑と恐怖の入り混じった顔でお互いに目を見合わせていた。
「なに……?どうしたの」
背中をさすりながらピーターが聞くと困惑した顔のジェームズが頭を振った。
「僕の出した煙は紫でもピンクでもなくてグレーだったし、チカチカしているものを出してもいない――歌も」
ジェームズの言葉に「え?」とピーターは震える声で聞き返した。口の中が酷く乾いている。じゃあ、さっきピーターが見た光景は一体何だったのか。ジェームズの戸惑った顔を見る限りではいつもの冗談には聞こえない。
「ピーターの他にもう一人、最後の回でヘンリーも捕まえたんだけど、彼は煙に包まれただけで――もちろんそうするように呪文をかけたからだけど――普通に地面に着地したよ。でもパイプ煙草が割れてしまって、君だけが頭から落下して――僕、どうなることかと――」
ピーターは口を開けたまま唖然とした。他の人が見た光景と、自分が見た光景はだいぶ違う。ジェームズはピーターにあわや大怪我を負わせるところだったので、今になって狼狽えていた。
「僕が見たのは淡い光の中星みたいなのが見えて――歌が聴こえて――誰かが泣いてた――それから――それから、煙が一瞬だけ赤くなって」
記憶を辿りながらも、身振り手振りを加えたせいで背中に再び痛み走り、ピーターは丸く蹲った。
「大丈夫か、見せてみろ」
シリウスがピーターをうつ伏せに支えてやる。
「ピーター、捲るよ――」
リーマスの申し入れの後に背中が冷たい外気に触れヒヤッとした。そして次の瞬間、全員が息を飲む気配がした。リリーは気分が悪そうに口を手で押さえている。
「医務室に連れて行った方がいいわ」
リリーの申し出に、誰も答えなかった。ピーターが間髪入れずに「どうなってるの?」と尋ねたからだ。
「ピーター、背中が赤く腫れている。まるで鞭に打たれたみたいに」
ややあってシリウスが告げた。
「一応聞くけどこの腫れ、元からじゃあ……ないよな」
ピーターは弱々しく頷く。自分の体に何が起きているのか分からず、恐怖で手足が冷えていくのを感じた。
「ねえ、みんな……」
リーマスがおずおずと呼びかけた。
「本が……また新しいページを開いてる」