Humpty Dumpty


「時間だ。それじゃあ、行ってくるね」
 読んでいた本に丁寧に栞を挟み、リーマスは立ち上がる。ルームメイトは「おう」だとか手をヒラヒラさせたりだとか、各々返事をした。西日の射す室内で、ピーターだけが不安な心の内を隠そうともせずにそわそわしていた。

「ねえ、やっぱり、その……本当に行くの」
 窓下を覗き込み、マダム・ポンフリーに連れられ歩くリーマスの後ろ姿を見送りながらピーターが小さく呟く。自身のベッドに腰掛け新聞を読んでいたシリウスが壁に頭をもたれかけさせ、呆れた目をピーターに向けた。
「お前が言い出しっぺだろう」
 ピーターはまごつく。確かにそうなのだが。
 一人ホグズミード郊外の廃屋を見に行ったのが二日前のこと。爆発事故があったと噂の場所で遭遇した摩訶不思議な現象にすっかり乗り気になったジェームズに今更行きたくない、とは言いづらかった。当の本人を見るとポケットにお菓子を詰め込んでいて、ピクニックに行くかのような気楽さで鼻歌を歌っている。
「で、新聞にはなんて?」
 陽気なメロディに乗せて、ジェームズがシリウスに尋ねる。シリウスは読んでいた新聞を畳みジェームズに向き直った。シリウスの読んでいた新聞の写真が全く動いていないことにピーターはようやく気が付いた。
「マグルの新聞によるとガス爆発ってことになっているらしい。その家に住む夫婦と、子供四人の焼死体が見つかっているそうだ。日刊預言者新聞の方は――何も」
 シリウスは肩をすくめた。闇の勢力が広がるこのご時世、襲撃事件や爆発事故、行方不明者などは珍しいことではなかった。余程のことでない限り片田舎に住むマグルの爆発事故など記事にしていられないのだろう。
「ふうん……。夫婦と子供達の年齢は?」
 ポケットに入りきらなかったヌガーを頬張りながらジェームズが尋ねる。
「夫が四十八歳で妻が四十歳。子供は上から二十歳、十七、十五、十四歳で男、男、女、女の順だ」
 シリウスは淀みなく答え、ピーターとジェームズを交互に見た。
「それじゃあ、ピーターに脅しをかけたのはどこの誰なんだろうね」
 ジェームズの言葉に、ようやくピーターも思い至った。ピーターの目撃した女の子は十歳かそこらで、あの家で亡くなった誰かのゴーストにしても年齢が合わない。(そもそもマグルのゴーストというのは例がないのだが)そして二人がそこまで調べていてくれたことに感激する気持ちと、今の今まで二人が入念な下調べをしていることに気が付かなかったことに申し訳ない気持ちとを同時に覚えた。
「ま、いずれにせよ会って話をしなくちゃな。生きた人間にしろペロペロになったゴーストにしろ、君、センスないよってね」
 僕なら本物のメリーゴーランドを回してやるのになあ、とのたまうジェームズにピーターの気分は幾分も楽になった。彼らがいるなら大丈夫、きっと数時間後には笑い話になっているだろう。ピーターもすっかりピクニック気分になって、紙に包んだサンドイッチと、ゆで卵とをバッグに忍ばせた。


 その日の夜は、どこか靄のかかったような満月だった。
 あんなに憂鬱な雰囲気を滲ませていたリーマスも、いざ満月が来て狼化してしまえばむしろ清々しいような顔付きになっている。一人獣に変化する夜は恐ろしく長く孤独であろうが、仲間と共に闊歩する夜はどこまでも自由で、そしてリーマス自身を解き放っていた。
 きっとこれまでは忌々しく暗鬱とした狼化が、今では本来のリーマス自身に立ち返る時間になっているのではなかろうか。
 ピーターが不意にそんなことを思ったのは、叫びの屋敷で牡鹿、黒犬、そして鼠を出迎えた狼があまりにも凛としていたからだろう。
 動物に変身してしまうと言語による意思疎通は出来ないが、大まかな意思は通じる。ピーターはリーマスの背によじ登った。筋肉質な背中は掴みにくくて毛は固く、快適な乗り心地とは言えなかったがあまり文句も言えない。一番すばしっこい鼠であるが、長距離の移動には適さない。そこで誰にしがみつくかという問題になった時に、迷わずリーマスを選んだのは、彼なら仮にピーターが落ちても気が付いてくれるし、そうならないように配慮してくれるからだ。
 叫びの屋敷を出て、人気のないホグズミード村を抜け出す。
 アニメ―ガスを習得してからというもの四人は城内の散策に心を砕いていたので、こうして外に駆けだしたのは初めてのことだった。

 駆けるリーマスの背にしがみ付きながら感じる風は、どこまでも自由だった。きっと人間の姿のままなら寒くて震えが止まらないであろうこの気温も、今はどこか心地よい。靄のせいでぼやっとしてはいるものの、月明かりのおかげで大分先まで見通せる。先頭を駆けるジェームズの角が、まるで指標のように煌々と照らされている。その後に続くシリウスとリーマスの、一跳びごとに地面を踏みしめる振動も、草を掻き分ける乾いた音も、土と緑と少しの湿気が交じり合った匂いも、全てが愛おしかった。今この瞬間、間違いなく四匹は誰よりも自由であるとピーターははっきりと感じた。

 やがて目的の廃墟に辿り着いた時も、先日一人で来たような不気味な心細さは感じなかった。先頭を走っていたジェームズの足が止まり、シリウスとリーマスもそれに倣う。ピーターはリーマスの背から降りて最大限に鼻を効かせた。冬の外気、湿った夜の匂い。危険な感じはしない――と、思う。
 怖いものなんてまるでないのか、ジェームズが迷いなく柵の内側に歩を進めた。蹄の音が固い地面に響く。ややあって、ジェームズが甲高い鳴き声をあげた。
 一同が向かうと、ジェームズは畑の方から家の壁を見ていた。上部が崩れているもののかろうじて残るそこに描かれていたのは、口から蛇を出している髑髏――所謂、闇の印と呼ばれるものだった。
 すっかり忘れていた恐怖心が、ピーターの心の内を占める。隣でシリウスが歯を剥き出しにして、低く唸っていた。この印が意味することはつまり、この家で起こった爆発事故は事故ではなく、無論ガスによるものでもなく、死喰い人による襲撃であるということだった。
 ざわざわと正体の見えない恐怖心がピーターの胸の当たりを這いあがり、落ち着かない気持ちになる。これはさすがにまずいのではないか。この見知らぬマグルの家の破壊が死喰い人によるものなら、未成年の僕らの手に負える案件ではない。先ほどまでは自由を感じていた闇も今は酷く余所余所しく、一刻も早く帰りたい気持ちになっていた。
 知らず知らずのうちに後退っていたピーターは、いつの間にか裏庭の方へ回っていたリーマスの短い吠え声に飛び上がった。皆がそちらに向かうのでピーターも慌ててそれに倣う。裏庭に面した家の壁は特に損壊が激しく、部屋の中がむきだしになっていた。子供部屋だろうか。カラフルな色の勉強机が二つに、二段ベッドが一組。若いマグルの女の子向けのファッション誌が散らばっていた。爆発の衝撃か物が散乱するその部屋の中で、全員の視線が真っ直ぐに一点に向かう。不自然な程に綺麗な本が一冊床に置かれていて、いやでもそこに注目せざるをえなかった。
 本はわずかに月明かりの射す暗闇の中で淡く発光していたのだ。皆の視線が集まってすぐ、発光は消えた。深緑の装丁のハードカバータイプの本だ。上手く説明できないけれど、何かしらの、引き付けられる魔力を確かにその本から感じた。それも不吉な類の魔力だ。先ほどまでの淡い光がまるでなかったかのように、しんと静まり返っている。

 若いアニメ―ガス達は目配せし合い、その部屋を拠点に各々探索に出た。一階のリビング、客間、二階の寝室――夫婦の寝室の他に二部屋、子供のものと思しき寝室があってそれぞれベッドが置かれていた――、それから外の物置、車庫、横の畑にポストの裏……全てが退廃した雰囲気の中、ピーターもぶるぶると震えながらも、仕方なく何か手掛かりになるようなものはないか捜索する。(ただし視界に必ずシリウスが見える範囲でしか行動しなかったが)
 粗方捜索し終えると四匹は再び子供部屋に集まり、他に何も収穫がなかったことを伝え合う。自然と最初に見つけた本に再び視線は集まり、ピーターは必死に反対の鳴き声をあげたが、シリウスがぱくりとその本を咥えた。何か起きるのではないかという不吉な予感に身構えていたが、何事もなくシリウスは踵を返してジェームズと共に走り出した。すごすごとピーターはリーマスの背に登る。獣の姿になっていたって、ジェームズとシリウスの力強い目を見れば、何を言っても無駄だと分かった。
 満月にかかる靄は依然晴れず、不安な気持ちだけを抱えたままピーターはリーマスの固い毛の中でしばらく揺られていた。



 目を覚ますと、叫びの屋敷の内部には早朝の柔らかい光が差し込んでいた。窓という窓は板を打ち付けてあるその隙間から差す淡い光が一人の少年と三匹の獣を照らしている。
 リーマスは既に人間の姿に戻っていた。寝息一つたてずに冷たい床に仰向けになって寝る彼を挟んで、牡鹿と犬とがやはりぐっすりと眠っていた。さすがに長距離の移動に皆疲れたのだろう。移動に関して一人だけ楽をしていたことにピーターはわずかにバツの悪い思いがした。
 少し離れたところに、昨夜持って帰ってきた本がポツンと置かれていて、漠然とした不安が蘇ってきた。深緑の装丁の本は、よく見ると表紙に何やら絵が描かれていた。老婆の格好をした鵞鳥が暖炉のそばで編み物をしている。塞がれた窓の隙間から刺す朝陽が照らす筋になぞって埃が浮かび、まるで本を照らす舞台照明のようだった。
 変身を解いたピーターはなるべく本の方を見ないようにしながら、杖を一振りして火の準備をする。屋敷内の戸棚の中には、ポットや鍋に紅茶の茶葉、缶詰やらお菓子やらが常備してあった。いずれも自分たちが持ち込んだものだ。ゆで卵を温めなおそうと取り出したピーターは、何個か生卵が混ざっていることに気が付いた。顔をしかめて渡してくれた屋敷しもべ妖精を思い出す。しかし、もしかしたら起きてきた仲間たちが目玉焼きか、それかスクランブルエッグが良いと言うかもしれない可能性も考えて、何個かの生卵は加熱せずに再びローブのポケットへと戻した。魔法式の簡易ストーブが部屋を暖め、上に乗ったやかんが沸騰を告げる頃、ジェームズとシリウスが起き出した。
 コーヒーと紅茶、それに豆の缶詰で作った簡単なスープの匂いにジェームズは寝起きすぐに反応して、変身を解いた。シリウスは犬のままで大きく伸びをする。
「わあ、いい匂い。ピーター君は良い主婦になるよ」
 冗談か本気か、キラキラとした瞳でそう言われて、もちろんピーターも悪い気はしなかった。ジェームズも自身のポケットからミンスパイを取り出して軽く炙り始める。ジェームズの鼻歌とともに、ドライフルーツの甘い香りが広がった。
 いつも狼化した後は疲れ果てるリーマスを最後に起こし、皆で朝食を囲む。リーマスはピーターと違って寝起きすぐに朝食を食べられるタイプの人間だった。

「まだ中身は確認してないんだよな」
 サンドイッチがなくなり、豆のスープも残りわずかになった頃に人間に戻ったシリウスが尋ねた。こんな固い床で寝ていたって、シリウスの髪は寝癖一つ付いていない。リーマスは後頭部の髪がはねていたし、ジェームズの髪は言わずもがなくしゃくしゃだ。
「うん……、あの本、昨日光っていたよね?何だか嫌な感じの……」
 自分の髪もはねているかもしれないな、とピーターは頭を撫でつけながらぼそぼそと呟いた。
「まあ、光る本なんてそんな珍しくないんじゃないか」
 自分のくしゃくしゃの髪なんて気にも留めずにジェームズが答える。彼は古めかしいマグル製のパイプを取り出し、火を付けた。ピーターは怪訝な顔でそのパイプ煙草とそこから昇る煙を見つめて、「それどうしたの?」と尋ねたが、ジェームズは悪戯っぽい顔で肩をすくめるだけだ。ピーターはジェームズがあのマグルの廃屋からくすねてきた気がしてならなかった。
「問題はあの見るからに魔法のかけられた本が、マグルの家だった場所にあったってことだよな。恐らく本を置いたのは――」
「あの家を襲撃した死喰い人、だよね」
 難しい顔をして考え込むシリウスの言葉を引き継いで、リーマスが頷いた。彼ももうすっかり目が覚めているみたいだ。
 ジェームズの吹かすパイプ煙草の煙が浮かぶ中、自然と皆が本に注目する。昨夜、廃墟となった家の外壁に描かれた闇の印を思い出し、ピーターはぶるりと背筋が震えた。物言わぬ本が、何か不吉の予兆である気がしてならない。
「開けてみよう」
 ジェームズなら必ずそう言うだろうと思っていたけど、あまりにも軽い調子で言うものだから、思わず「えっ」と声をあげたのはピーターだけではなかった。
「ちょっと待って」
 本を手に取るジェームズを慌てて制したのはリーマスだ。
「何かの罠かもしれない」
「罠って?誰に?」
 ジェームズより早く聞き返したのはピーターだ。もう今は不安で落ち着かない気持ちしかなかった。
「どう考えても不自然だろう、襲撃したマグルの家の本をポツンと置いていくなんて。それこそ魔法の痕跡を調べに来た闇払いを陥れるための、罠の可能性が高いよ」
 心なしか早口になって、リーマスが説明する。
「そりゃ怪しさ満点だけども。でもこうして眺めていたってどうしようもないだろう?本は飾っておくものじゃない読むものだ」
 こうなったらジェームズを止めるのは至難の業だ。一縷の望みをかけてシリウスを見れば、彼も腹をくくっているようであった。
「まあ遅かれ早かれ開いてみるなら、今開けてみれば」
 シリウスの言葉にジェームズはニヤッと笑う。
 そうこなくちゃ、とジェームズはパイプ煙草とお菓子の袋やポットを乱雑にどけて、四人の中央に本を持ってきた。
 リーマスと、賛成はしたもののシリウスも何かあったらすぐに対処できるよう杖を構えて、ピーターは出来得る限り距離を取り、本とジェームズを凝視した。深緑の本の表紙に描かれた老婆の鵞鳥さえも、静かに事の成り行きを見守っているようであった。
「ようし、じゃ、開けるよ――」
 そう言って本に手をかけたものの、表紙はびくともしなかった。まるで全てのページがピッタリと接着されているみたいだ。やはり普通の本ではない。
 ジェームズは首を捻り、杖を取り出した。
「リビアルユアシークレット――汝の秘密を、現せ」
 こつん、と軽く杖先で表紙を叩く。途端に、本が発光し、勢いよく開いた。慌ててシリウスがジェームズの腕を掴んで引き寄せる。まるで強風が吹いたみたいに、本のページがバラバラと捲れていく。唖然としてその様子を見つめているうちに、本の捲れは止まった。
 発光もなくなり、ただの本に戻った――少なくともそう見える――開かれたそのページを四人は恐る恐る覗き込む。ピーターは杖を強く握りしめ過ぎていて、指先が白くなっていた。
 開かれたページの左側には5行ばかりの詩と、右側のページには挿絵が描かれていた。丸々と太った奇妙な体つきと顔付きの男が、煉瓦造りの塀の上に腰掛けている。その絵にピーターは見覚えがあった。
「ハンプティ……ダンプティ?」
 ジェームズが読み上げる。彼の髪は先ほどの強風のおかげでいつも以上にくしゃくしゃだった。

“ハンプティー・ダンプティーは塀に座っていた。
 ハンプティー・ダンプティーはどすんと落ちた。
 王様のウマ全部と兵隊全部が
 みんなで力をあわせてみても
 ハンプティーを元に戻せなかった”

 顔を上げたジェームズは意味が分からないといった顔をしていた。ジェームズだけじゃなく、シリウスも、リーマスもだ。ピーターだけが恐々と本に手を伸ばし、表紙をもう一度確認する。
「やっぱりこれ、マザーグースの本だよ」
 恐怖に顔を引きつらせるピーターの言葉に、リーマスとジェームズはどこか納得したようだ。
「ああ……マザーグースって確かマグルの童話みたいな童謡みたいな」
「ハンプティダンプティ……は知らないけど」
 ハンプティ・ダンプティこそ有名なものだが、魔法界で育った彼らなら知らなくて当たり前なのかもしれない。純血一家に生まれたシリウスに至っては、全く未知の世界といった置いてけぼりの顔をしていた。
 僕も詳しくはないけど、と前置きをしたうえでピーターは咳払いをする。そして先ほどジェームズが読み上げた有名な詩を、陽気なメロディに乗せて歌った。声変わり目前の掠れた歌声を、三人は茶化すこともなく真面目な顔で聞いている。あまりにも静かに聞いているものだから、歌い終わる前にピーターの方が気恥ずかしくなるくらいだった。
「コホン……えーっと、ま、そういう歌ってだけなんだけど」
 少しだけ歌ったことを後悔しながら、皆の顔を窺う。うーん、とジェームズは首を傾げていた。
「ますます分からないな」
「分からないって、何が?」
「だって、これ……マザーグースはマグルの童謡だろう?他のページも、見れないけど同じく。マグル大嫌いでーす!って主張している連中が、こんな本置いてくか?」
 確かに、とピーターはハンプティ・ダンプティのページが開かれたままの本に目を落とす。
「でもこの本には明らかに魔法がかけられているから、誰かしら魔法使いの仕業であることには違いないよな」
 それが死喰い人かどうかはともかく、とシリウスは頬杖をついてじっと本を睨みつけた。皆も黙ってしばし考え込んだ。ややあって、「あ!」とジェームズが声をあげた。
「この場所、僕知っている」
「この場所……って、この挿絵の?」
 大きな白い手から綺麗に生えた指の背でコンコンと、シリウスが開かれたままのページを叩く。
「うん、たぶん。ほらハニーデュークスの裏手の道のところ」
 皆思い出そうと宙を睨みつけたが、いまいちピンとこなかった。
「よし、行ってみよう」
 立ち上がり、尻辺りの砂埃をはたいてジェームズが言う。決めたら行動に移すまでが早いのが、彼の長所でもあり欠点でもあった。気遣わしげに腕時計を確認したのはリーマスだ。
「今から行って間に合うかな?あと一時間もしないうちに授業が――」
「一限目は魔法史だ。途中で入ったって分かりっこない」
 シリウスが手をヒラヒラと振る。それでもリーマスは何か言いたげだったが、ピーターもすでに決意は固まっていた。

 叫びの屋敷を出て数十分後、四人はハニーデュークスの裏の道にいた。朝早いこともあって村に人気はないが念のため透明マントを使用している。入っているのはジェームズとリーマス、それと鼠化したピーターだ。シリウスは犬の姿でマントに入らず先頭を歩いている。自分の意志では獣になれないリーマスと目立つ鹿のジェームズが人間の姿でマントに入り、小さくなれるピーターが鼠になりどちらかの肩に乗り、そして一匹で歩いていても不自然じゃない犬のシリウスがマント外を歩くというのが、ここの所のお決まりになっていた。
 開店前の静かな店の裏手で、「ほらあそこ」とジェームズが声を抑えることもなく指差した。犬の姿のシリウスがジェームズの声を振り返り、ジェームズはマントを脱いだ。シリウスが変身を解いて人間の姿に戻ったので、ピーターも変身を解く。朝の陽射しの中をジェームズが駆け出した。
 なるほど、確かに、ジェームズの後を追っていけば、本の挿絵そっくりの塀があった。煉瓦造りで、端の方は少し崩れていて、乾燥した蔦が這っている。本の挿絵で塀の上に腰掛けるハンプティ・ダンプティの横に置かれた、蛙の置物まで一緒だ。ははあ、とピーターは感心の声をあげた。
「何度か通った道ではあるけど、全然思い出せなかった。よくあの挿絵だけで分かったな」
 シリウスも感心して、腕を組みながら塀をまじまじと眺める。
「この蛙の置物がさ、見たことあるなって思って」
「どれどれ……確かに一緒だ」
 リーマスが腕に抱えて持ってきた本を再び広げて確認した。やはり本は、ハンプティ・ダンプティのページしか開かないようだ。
「こんな感じかな?」
 持ち前の身軽さで、ジェームズはひょいと塀に登った。蛙の置物の向かって少し左に腰掛けて「どう?」と得意げに聞く。
「ああうん、そんな感じだね」
 本の挿絵とジェームズとを見比べて、リーマスが頷いた。
「ところでこの歌はどんな意味があるんだ?壊れたものは戻せないって教訓か?」
 シリウスがピーターを振り返る。朝の光を背負って、憎いくらいにハンサムだ。
「あー、意味なんてないんじゃないかな。ただの子供のなぞかけ歌ってだけで」
「なぞかけ歌?」
「そ、謎かけ。ハンプティ・ダンプティは何なのかってことさ」
「さっきの、もう一度歌ってよ」
 塀の上からニヤニヤとしながらジェームズが言った。今度は茶化す気満々らしい。
 臨むところだ、とピーターは咳払いしてから歌い始めた。

“ハンプティー・ダンプティーは塀に座っていた
 ハンプティー・ダンプティーはどすんと落ちた
 王様のウマ全部と兵隊全部が
 みんなで力をあわせてみても
 ハンプティーを元に戻せなかった”

 思い切り裏声を使って、ソプラノ歌手のように歌い始めたピーターにリーマスとシリウスは吹き出す。そこでジェームズがパフパフと音の鳴るラッパをどこからか取り出して合間合間に気の抜けた合いの手を入れるものだから、二人は腹を抱えてゲラゲラと笑い出した。
「はー、最高のコンサートだったぜ……で、答えは何なんだ?」
 ピーターが歌い終わった後も、しばらく笑ってから、シリウスが尋ねた。
「落ちて割れたら元に戻せないものだよ……ええと、ちょうどあるよ」
 ピーターはローブのポケットをごそごそと漁る。目当てのざらりとした球体を掴んで、塀の上のジェームズに投げて寄越した。しかしピーターのコントロールは大きく外れ、ジェームズの座る場所よりも遥か前方に落下しそうになる――さすがの反射神経でジェームズが呼び寄せ呪文を使い、難なくその手でキャッチする。
「……卵?」
 ジェームズの呟きと同時に、早く本が光った――あの強烈な光だ。強風が本から吹き付けてページがバラバラと捲れる。ピーターは慌ててシリウスの後ろに隠れ、彼のローブと自分の杖を握りしめた。
「おい、ジェームズ!」
 慌てた声でシリウスが叫ぶ方を見ると、塀の煉瓦が強風に煽られて崩れ始めていた。ジェームズがローブを翻しながら飛び降りる。一拍置いて蛙の置物が落下し、本から発せられる強風と発光は止まった。
 時間にしてみればほんの数秒のことだったが、発光と強風がようやく止まったことにピーターは胸を撫でおろす。手が震えていた。
「ねえこれ、何か出てきたよ」
 ジェームズがけろりとした顔で皆を呼ぶ。落下して割れた蛙の置物を指差していた。シリウス以外は皆強風に吹き付けられたぼさぼさの頭をして、覗き込む。
 割れた陶器の中から出てきたのは、ゾンコの店で売っているようなおもちゃのフィギュアだった。四本足に鋭い嘴、背中には羽が生えていて、脇腹の所に大きく“H”と描かれている。
「なんだこいつ」
 またジェームズが臆することなく素手で摘まみ上げるものだから、ピーターははらはらした。どうかこれ以上何も起きませんように、と心の中で祈る。
「Hから始まる魔法動物……ヒッポグリフか」
 リーマスが名前を口にすると、ヒッポグリフのフィギュアは動き出し、ぐるぐると円を描くように駆けたり飛んだした。
 四人は思い思いの表情をしてお互いの顔を見合わせた。特に意味はないのかもしれない。村に住む小さな子供が、もしくは遊びに来たホグワーツの生徒が、悪戯で隠してそのまま忘れ去られたものかもしれない。
 けれど、どうしてもピーターには、このおもちゃが何か意味があって隠されていたように思えてならなかった。ジェームズは間一髪の所で塀から降りたけども――来た時よりも酷い有様になった塀を見つめる――半壊になった塀の下には崩れた煉瓦が積みあがっていた――蛙の置物が割れてしまったけれど、もし謎かけに答えられなかったら?割れてしまったのは蛙じゃなくて、もしかして――……。ジェームズのことを上目遣いでちらりと見上げると、彼は真面目なのかふざけているのか判断の付かない顔で、しかしじっと顔で考え込んでいた。
 不吉な推測を飲み込んで、ピーターは沈黙した。
 リーマスが「本を見て」と驚きの声をあげる。

 本はまた別のページが開いていた。立派な石造りの橋の挿絵が描かれているページだった。




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