好きの条件6


 すっかり冷え切った頬に手を添えると跡部は目を閉じた。
 形の良い眉、すっと通った鼻、瞳を縁取る長い睫毛、色素の薄い唇。それらのパーツが真っ白な肌の上にこれ以上はないというほどの均整を保って形作られた顔。
 雨に濡れて髪はペタリと張り付いていたが、シャンプーだろうか、うっすらとバラの香りがして日吉の胸をくすぐる。
 ゆっくりと、唇と唇を触れさせた。離し、また軽く触れる。ファーストキスみたいな口づけをし、跡部の髪に指を通し、キスを繰り返した。
 日吉の好きなようにさせていた跡部だが、そのうちに自らも顔の角度を変えたりしてしっかりとキスに応じる。
「あれ……」
 キスがだんだんと深くなり、跡部の口が開きかけたところで日吉は首を傾げた。
 いちいち雰囲気のない奴だと、跡部は眉間に皺を寄せる。
「そういえば……跡部さんは俺が跡部さんにいつか興味がなくなるって思ってたんですよね」
 今更になって蒸し返してきた話題に「それがなんだ」と跡部は眉を寄せた。
「でも……じゃあ、何で。何で俺との関係続けてたんですか?だって……じゃあ……」
 日吉は窺うように跡部をのぞき見る。
 あの日確かめると決めた三つのことが頭をよぎったのだ。まず、自分の跡部に対する想いが何なのか。自分たちの関係は何なのか。そして跡部は日吉をどう思っているのか―――……。
「もしかして、跡部さんは俺のことちゃんと好きだったんですか?」
 日吉の問いに跡部は鼻で笑う。
「気付くのが遅えよ、バーカ」
 それは馬鹿にしたような口調だったが、日吉はちっとも不快な気分にはならなかった。
 それどころか、改めて知った跡部の気持ちに自然と頬が緩んでしまう。
「なんて顔してんだよ」
 呆れたように、でも穏やかな声でそう言うもんだから、日吉は跡部にぎゅっと抱きついた。暖かい。冷えた体の奥の温もりがじんわりと伝わってくる。

 跡部を見上げ、日吉はキスを再開させた。
 いつもの貪るようなものではなく、出来る限りの優しいキスを。
 焦らずに、先を急がずに、自分のこころを、お互いの気持ちを確かめるように。
 フレンチキスをして、頬にも唇を触れさせ、首筋を軽く啄ばむ。もう一度口に戻りキスをすると、もどかしそうな跡部と目が合った。息の度に彼の体が大きく上下するのが分かったが、やんわりと優しくキスを繰り返す。
 湿ったネクタイをほどき、キスをしながら一つ一つ丁寧にボタンを外した。
 白く滑らかな肌が露わになり、しっかりとした胸板に口づける。こころに触れるように、優しく優しく胸から腹にかけてキスを落としていくと跡部は甘く吐息した。
 触れるか触れないかくらいのタッチで胸を撫でる。急かさずに、あいしてると伝わるように。
「……おい、」
 じれったそうに跡部は身を捩った。
 日吉はなだめるように唇にキスを落としてから、また愛撫を再開する。
 あまりにゆっくりと時間をかけるものだから、胸の突起に指が到達したときには思わず「あ、」と声をあげてしまうほどだった。
 そんな跡部の様子を見下すでもなくほくそ笑むでもなく。いつもの無表情に変わりはないのだが、日吉はいとおしそうに目を細めた。
 すきだと、指先から伝えよう。あいしてると、キスで囁こう。
 優しくじっくりと、本当にゆっくり解していくものだから、跡部はもどかしさとはやる気持ちとで、存分に息が上がっていた。
 足りない。そんなのでは。いつもの獣みたいにがっつくキスはどうした。支配欲に駆られた抱き方はどこへ行った。
「っもう、じゅうぶんだろ……!」
 荒い息の合間にそう言えば、日吉は首を傾げる。右手は跡部の性器を握り、左手で後ろに指を入れ解しているものだから、ちょっとした動作が過敏に伝わり、また跡部は声を上げてしまった。
 声、我慢しなくてもいいのに。少し残念そうに呟くと跡部は唇を噛み締めて首を振る。雨と汗とで濡れた髪がパサパサと揺れた。
「今日は何だか……いつもよりも感じてますね」
 まじまじと跡部の様子を観察しながら言うと、思い切り睨まれる。
「っはぁ……て、めが、ん……っじらす、からだ、ろっ……!」
 日吉はきょとんとした。自分としては焦らしているつもりなど、これっぽっちもなかったのに。
「じらしてなんか……ただ、跡部さんを、なんていうか」
 日吉はじっと跡部を見つめる。
 大切にしたいんです。熱のこもったその視線に跡部は顔をしかめた。だめだ。頭がおかしくなりそうだ。
 日吉がいたわるように跡部の中を解すのを再開すると、跡部はたまらなくなってその手を制止させた。不思議そうな日吉にうまく力の入らない腕でしがみつく。
 こいつはだめだ。やばい。言ってやらなくちゃとことんわからないやつなんだ。これは、キケンだ。
 跡部さん?と小首を傾げると、跡部は意を決したかのように日吉を見上げてきた。
「……な、あ」
 掠れた声に、日吉は浅く息を吐く。
 なんですか。そう聞き返す声は思った以上に欲に駆られていた。
「っそろそろ……い、だろ……!」
 震える体を起こし、跡部は日吉にしがみつく。ワイシャツがよれてくしゃくしゃになるのを日吉はボーっとした頭で見ていた。
 はやくくれよ。
 てめーがほしいんだ。
 耳元で囁かれた低い声に、背中にゾクリとしたものが走る。それは一瞬で日吉の体中を駆け巡り脳にまで達し、思考を支配した。
「……え、」
 上擦った声が漏れ、日吉はグイと跡部を自分から引きはがす。
 その瞬間、快感に濡れた跡部の瞳に暗い影がよぎったのを、日吉はハッキリと見た。その端整な顔にありありと書いてある。恐れていた事態が起きてしまった、と。
 跡部はきつく唇を噛み締め、目を伏せた。心なしか長い睫毛が震えているような気がする。
 何か言わなくては。そう思ったのは一瞬のことで、気が付いたら日吉は跡部の唇にむしゃぶりついていた。驚きに体を硬くさせる跡部には構わずに、その白い肌に次々と赤い痕を残していく。
 初めてだった。跡部から欲したのは。自分に請うたのは。
 誰が、誰に興味をなくすって?一度でも屈服すれば気持ちが冷める?冗談じゃない。こんな―――こんな、幸せなことって他にあるか。
 この人が、己の欲求を満たしてほしいと、甘美な眼差しで求めるのだ。いったいどうして、冷めるなんてことがあるんだ。でまかせを言うのも大概にしてくれ。
 日吉は素早くベルトを外すと跡部の膝裏を持ち上げ、自らの熱を尻の間の孔にあてがった。
 う、と我慢しきれないように跡部が呻き声を漏らす。
「跡部さん……すき……」
 囁くようにそう言うと同時に中へと入っていく。
 跡部の中は熱く、今このとき二人は繋がっているんだと、まざまざと感じられた。
「っあっふ……ぁ……っ!」
 跡部は入ってきた異物に身を強張らせながらも、存分に慣らされたそこからいままでにないくらいの快感を受けているみたいだ。抑えることのできない声は悲痛なほどに甘い響きを伴っていたし、何よりひくつく体中が如実にそれを物語っていた。
 すき。すき。だいすき。あいしてる。
 この気持ちちゃんと、伝わってますか?あなたにいま、おれの“すき”が届いてますか?
 ことばでは何故か伝わりにくいけど。わかってほしい。こんなにもあなたがほしいって思ってることを。


「コーヒー」
 短く発せられた音に、日吉はハッと立ち上がった。
 情事の後の余韻に浸りながら跡部の髪を撫ででいると、閉じていたはずの目がこちらを向いたのだ。
 慌てて下着だけを身につけ用意にとりかかった。簡単な―――跡部家にしては、だが―――コーヒーメーカーをセットしお湯を注ぐ。そのうちにコプコプと音がして、機械はドリップを始めた。
 コーヒーが入るまで数分の間手持ちぶさたになった日吉はベッドに戻り腰かける。
 いつの間に目を覚ましたのだろう。跡部は辛そうに顔をしかめると寝返りを打ち仰向けになった。
「セックスして気を失うって本当にあるんですね」
 素朴な感想をそのまま口にすれば、「誰のせいだと思ってやがる」と、跡部に睨まれてしまう。
 すいません。少々ムッとなったものの、確かに自分のせいだと日吉は素直に謝った。すると跡部は可笑しそうに笑う。その笑顔に、こころが一気に暖まるのを感じた。
 入ったコーヒーを片方は砂糖を少し入れ、もう片方はブラックのままカップへと注ぐ。黒い方を跡部に渡すと日吉は自分もカップに口をつけた。苦みの中にあるほんのりとした甘みにほっとする。
「そういや」
 穏やかな沈黙とコーヒーの香りが漂う中で、跡部はふいに口を開いた。日吉は目線だけでそちらを向く。
「お前忍足にどこまで言ったんだよ」
 首を動かし不機嫌そうに自分を見つめる跡部に、日吉は首を傾げた。
「どこまでって……何がです?」
「俺とお前の関係だ」
 呆れた口調の跡部に、日吉はますます首を捻る。忍足に跡部の話をしたことがあっただろうか。恋愛相談、みたいなのはあったが。
「……たぶん、何も言ってないはずですけど」
 日吉の返答に跡部は盛大にため息を吐いた。
「そうかよ……」
 どうせてめーのことだから態度に出てたんだろ。というのはコーヒーとともに飲み込んだ。
 そんな様子に日吉は機嫌を損ねたみたいだ。口をへの字にさせて黙々とコーヒーをすすっている。まったく、ただのこどもだ、と跡部は思った。
「日吉」
 短く呼びかけるとヘソを曲げた少年が黙ったままで振り向く。跡部は何だか可笑しくなって、くすんと笑った。
 きっと自分は、彼がいとおしくて仕方ないのだろう。
「好きだ」
 何でもない会話の続きみたいに、それでも確かに熱を込めてそう告げれば、日吉の手からコーヒーカップがするりと落ちた。
 カシャンと耳障りな音が響き、床に黒い染みが広がっていく。
 しかし日吉にそれを気にかける余裕はないらしく、目を真ん丸にさせて跡部を凝視していた。
「おいおい、俺が好きだって言ってんのに何の反応もなしかよ?」
 跡部の言葉でようやく我に返ったらしい日吉はわたわたとカップを拾い始める。また可笑しくなってきたが笑うのは堪えてやって、割れた破片を集める手を力強く掴んだ。
「俺よりそっちのが先なのか」
 日吉はぐっと唇を結び、熱に浮かされたような視線をぶつけてきた。
「だって……今までそんなこと……急に、」
 上手く考えがまとまらないのかしどろもどろだ。
 ずるいです。ポスンと跡部の胸に頭をもたれさせ、日吉は呟く。
 何がだよ。その髪を優しく撫でてやりながら跡部は聞き返した。
 いきなりそんなこというなんて。
 日吉が顔を上げる。その瞳は、不器用なほどのあの真っ直ぐさを持っていた。
「先のことは分かんないですけど、あなたをずっと好きでいて大切にしたいです」
 跡部は目を細めて笑う。
 窓の向こう、遥か空の上まで空気は澄んで、雨はすっかり止んでいた。













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