好きの条件5


 ばしゃばしゃと地を叩きつける音が雨の激しさを物語っている。
 濡れて反射するアスファルトの上は跳ね返った雨粒たちで白くもやっていた。湿っぽい土の匂いと、どこか遠くを走る車の音と。
 土砂降りの雨の中を跡部と日吉は走っていた。
 話があると、日吉が跡部を無理やりに連れ出したのが二十分ほど前。雨が降り出したのが十五分前。話も何もこんな雨ではどうしようもない。二人はとりあえず跡部の家に向かって走っていた。鞄も携帯も全て教室に置きっぱなしだから迎えも呼べない。
 ただならぬ日吉の雰囲気と強引さに、跡部は何度目かも分からない舌打ちをした。
 小さな音、しかもこんな雨足が強い中でも、日吉は振り向く。
「怒ってますか」
 走るスピードは緩めずに日吉は聞いた。その髪は雨で額にベッタリと張り付き、普段の彼とはだいぶ印象が違う。
「たりめーだ。いきなりなんなんだよ」
 跡部も跡部で髪から水滴を滴らせていたが、無造作にかきあげられた髪からさえも色気が伝わってくる。
 跡部さん。呟くような日吉の声に跡部は眉を寄せてあぁ?聞き返した。
「手、つなぎたいです」
「……は、」
 ぽかんと、口を開けて跡部は立ち止まる。また一つ、見たことのない顔を見れたと日吉は満足気に笑った。にんまり、というか、にたり、というか。けして可愛らしい笑みではない。
 唖然と突っ立ている跡部の腕を強引に掴み、なかば引きずるようにして再び日吉は走りだした。跡部の腕は筋肉質で、テニスとの強い繋がりが感じられて何だか嬉しい気持ちになる。
 しかし何故だろう。十メートルばかし走ったところで、何かが違うと日吉は思った。自分がしたかったこととは少し違う気がする―――――。
「っおい、離せ!痛えんだよ!」
 後ろから上がった抗議の声に日吉は走ったままで首を傾げた。無理やり掴まれ力任せに引っ張られている跡部の腕を見ると、確かにすごく痛そうだ。
 あ。違和感の正体に気付き、速度を緩めるとともに日吉は小さく声をもらした。
 右手で掴んでいた跡部の左腕を離し、今度は手のひらをギュッと握った。手をつなぐとは、本来こういうことを言うはずだ。触った瞬間はヒヤッと冷えていたが、そのうちに温かい体温が手のひらからじんわりと伝わってきた。
「こっちだった」
 一人納得して頷くと、すっかり呆れ顔の跡部を尻目にばしゃばしゃと泥水を跳ね散らしながらまた走りだす。


 跡部の家に着いてからはもっと大変だった。つないでいた手は跡部からすぐさま離される。
 まず門の所で守衛に酷く驚かれ、それを跡部がなんでもないとあっさりかわしたのだが、屋敷に入ってからもすれ違う使用人達に、どうなされたんですか。風邪をひかれたら大変です。今風呂の準備と温かい飲み物をお持ちいたします。だのと、てんやわんやだ。
 それらを全て「大丈夫だ。何もしなくていい」の言葉だけで跳ねのけ、やっと二人は使用人達の手を逃れた。
 跡部の家はいちいち大事になるから本当は自分の家が良かったのだけれど、仕事柄家族が平日でも家にいるのでそれはできない相談だった。
 毛の長い深紅の絨毯がびちょびちょに水に濡れるのを、そしてその原因である裾に泥が跳ね返った自分たちのスラックスを見ながら日吉は自然に手を伸ばす。その手が跡部の青白い手首を掴むと、彼はハッとして振り返った。
 この長い廊下に人影は見えないし部屋はもうすぐそこなのだが、やはり万が一ということがある。
「……あと、べさんは、おれのこと―――」
 ポツリと言葉を紡ぎだした日吉を制止して跡部は首を振る。
「おい、さすがにここじゃマズイだろ」
 顎ですぐそこにある扉を指示した。
 日吉は頷きも何もせず、数秒の後に黙ったままで跡部の腕を引っ張り部屋へと足を向ける。後ろでため息の音が聞こえたが、ここまできたらもう構うものか。
 ずんずんと進み、乱暴に扉を開けスルリと部屋に入り、跡部も引っ張り部屋に入れた。
 パタリとドアが閉まるのが早かったか、跡部が文句を言うべく口を開いたのが早かったか、それとも日吉が無理やりに口づけたのが早かったのか。
 とにもかくにも日吉は部屋に入るなり跡部の肩を掴み、唇に自分のそれを押しあてた。舌を捻じ込ませて温かな口内へと侵入を果たす。にゅるりとした感触に背筋がゾクリとなった。日吉は跡部がいきなりのことに身を固くさせて腕を突っ張っていたのが分かったが、理性だとかモラルだとか常識を働かせて今この行為を止めることはできなさそうだと思った。
 舌を追いかけまわし、絡め捕る。お互いの唇は唾液で湿っていたし、鼻と鼻、おでことおでこが何度もこすれ合い相手の匂いをよりいっそう近くで感じられた。
(跡部さんが、ここにいる)
 うっとりと、そして夢中になって日吉は跡部の口内を貪り続ける。
 やっと唇が離れたとき、お互い息が上がっているほどだった。
 跡部は眉間に皺を寄せて壁にもたれかかる。
「……いったい何なんだよ。どうした」
 まだ濡れたままの髪をかきあげるその仕草に、日吉の胸は高鳴った。
「どうもしてないです」
 じっと跡部を見つめ静かに言うと、より相手の眉間の皺は深くなる。
「少なくとも俺は、どうもしてないです」
 続けて日吉は言葉を紡ぐ。独り言のような静かな呟きだったが、その目は確かに跡部だけを捕えていた。
「これがそのままの俺なんです。小難しいことをごちゃごちゃ考えてたのがいけなかったんだ。跡部さんが余計なことを言うから。跡部さんが俺を混乱させるから……そんなこと言われたってどうしようもないじゃないですか。どうしようも……どうすればいいんですか、だって俺は、」
 早口で一気に捲し立てていた日吉はそこでいったん言葉を切り、一回だけゆっくり瞬きをする。大きく息を吸い込み、肩を上下させた。
「だって俺は、跡部さんが好きなのに」
 静かな時が流れた。
 日吉は口を閉じて跡部の反応を待っていたが、言われた当人は驚くでもなく呆れるでもなく馬鹿にして笑うでもなく。何を考えてるのか分からない、難しい顔をしていた。
「この前も言ったが」
 長い沈黙を切り取って、跡部が口を開く。
「お前のそれは、手に入れた瞬間に終わる」
 まるで今日の練習メニューを告げるかのようにそう宣言する目の前の男に、日吉は一瞬で何か熱い衝動が駆け巡るのを感じた。
 殴ってやりたいような、めちゃくちゃに犯してやりたいような、優しく抱きしめたいような。結局そのどれも自分の欲望を満たせない気がして、きつく唇を噛み締めるにとどまった。
「何でそんなこと言うんですか。先のことなんて分からないじゃないですか」
 跡部からは目を離さずに日吉は唸る。髪を伝い雫が頬に流れヒンヤリとした。
 跡部も跡部で、真っ直ぐに自分を見つめる後輩から目をそらすことなく、しかしそれ以上何か言うでもなく静かに立っている。
 日吉は瞼を伏せると小さく息を吐き、大きく息を吸った。
 そして真正面から跡部を見据える。
「俺は跡部さんが好きなんです」
 薄い唇から紡ぎだされた声は抑揚のないものだったが、どこか熱を伴ったようなある種の力強さがあった。
「先のことなんて、分からないですけど。でも今は本当に跡部さんが好きですこの先も好きじゃなくなるなんて思えない」
 一つ一つの言葉を確かめるように離す日吉を、跡部はただじっと見つめている。
 こんなにも饒舌な姿は初めて見るかもしれない。いつも無口で、コミュニケーション力に乏しくて、大切なことさえ言わない。この男が。
 こんなにも切々と“好き”を語っている。不器用ながらも自分の気持ちと向き合って、心の内を吐露している。
 ――――――あの、日吉若が。

 跡部さん。
 小さなこどものように真っ直ぐに見上げ、日吉は呼んだ。跡部はその真っ直ぐな瞳に写る自分の姿を見る。
「好きです」
 やはり日吉の声はそのままの日吉で。何にも隠されてなく、何にも汚されてなく。
 跡部は思わず、目をそらした。そして長い長い沈黙が降りる。
 日吉はそれきり何も言わずに、ただ跡部を待っていた。一歩も動かずに静かに佇んでいた。
 まるでこの空間だけせわしない社会の波から切り離されたみたいだ。
 もしこのまま跡部が何も返さずに立ちつくしているだけなら日吉はどうするのだろう。いや、そんなことは目に見えていた。彼のことだからきっと待っているのだろう。馬鹿みたいに突っ立って。跡部の言葉を、ずっとずっと。
 やがて跡部は伏せていた目を上げたが、その視線は日吉の胸の辺りで止まった。
 カチコチと時計の秒針だけが静寂の中で息づいている。
 瞼を閉じると、ネクタイの赤だけがやけに鮮やかに焼き付いていた。視覚が機能しなくなったせいか、秒針の音はことさらにハッキリと聞こえる。日吉の息遣いは聴こえない。でも、その存在は確かに感じられた。
 ゆっくり、ゆっくり、瞼を開く。跡部は見えてきた赤いネクタイを辿り、日吉の瞳を見つめた。
 その瞳はやっぱり、あの力強さと真っ直ぐな精神を宿していた。

 おれのまけだ。
 跡部は観念したかのように壁にもたれかかる。
「……信じてもいいのかよ」
 とても小さな、微かに震えた声だった。
 それでも、二人きりのこの静かな空間ではきちんと届いたらしい。
 跡部が再び日吉を見ると、彼は静かに、それでも嬉しそうに、こくりと頷いた。









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