好きの条件4


 この間の青空が嘘みたいに、空は厚くどんよりとした雲で覆われていた。
 寒くはないが、湿度が高いためか吹く風は不快感を伴う。ごろりと寝転んだ背中で感じるコンクリートは自らの体温でじめっとした温もりがあった。ごおごおと、姿は見えないジェット機の音を聞きながら日吉は瞼を閉じる。
 授業をサボったのは、初めてだった。
 今は四時間目、クラスの皆は世界史の授業に欠伸を噛み殺しながら来たる昼休みを心待ちにしているのだろう。
 屋上にはもちろん日吉以外の人影など見えず、全体的に灰色のこの場所に溶け込めてしまえそうな気さえした。
 額に腕を乗せてゆっくり、深い息を吐く。
 思い浮かぶのは、強く鋭い、どこまでも綺麗な青い瞳ばかりだ。
 笑った顔がとてもいとおしく感じて。髪を撫でてくれた手がとても優しくて。取り留めもないことを喋る時間が心地よくて。自分を見つめる瞳に頬が熱くなって。
 やっぱり、こんなにもあの人のことが好きなんだ。
 好き、なのに。
「今まで通りで、いいはずない」
 ぽつり、一人呟いた言葉は灰色の空に滲んだ。
 何で何で、どうして。あの人が欲しいだけなのに。笑ってほしいだけなのに。ただ跡部さんが―――……
「好きなだけなのに」
 唇を噛み締める。すんと、雨の匂いが鼻を通った。
 瞼を開ければ雲を突き抜けてきた僅かな光に目が痛くなる。
 まだその雫を認めることは出来ないが、空が泣きじゃくるのも時間の問題だろう。

「サボりやなんて珍しいなあ」
 低い声は錆びた屋上の扉が開かれると同時にかけられた。ということは日吉がここにいることを知っていて、来たのだろう。
 どことなくダルイ体を起こそうともせず、返事も返さないでいると、ゆったりとした足音が近づいてきた。
 日吉の顔を覗き込む男はやんわりと笑いかける。無造作に伸ばされた髪が実に邪魔くさそうだ。
「例の子との、デートはどうだったん?」
 忍足の顔は何故だかいつもよりも少しだけ優しく見えた。
 ぼうっと彼の顔を眺めながら、忍足と鳳にそんな話をした日が随分遠くに感じるな、と日吉は思う。
 まだ何の反応も示さないでいる日吉を気にする風もなく、忍足はフと笑った。
「まあその様子じゃ聞かんでも丸分かりっちゅーか」
 ぽりぽりと頭を掻き、忍足は少し離れた場所に腰を下ろす。
 欲しいときに欲しいものを、過不足なくくれる。胡散臭いのに、不思議な暖かさがある。前に何気なく、向日が忍足についてそう言っていた。
 生温い風にワイシャツを膨らませ座る大きいけれど細身な背中を視界の隅に映しながら、その意味が少しだけ分かった気がした。
「俺……」
 瞬きをゆっくりと繰り返しながら日吉は唐突に口を開く。忍足が視線だけをこちらに向けた。
「俺、手に入れると冷めちゃうんですよね」
 ザワザワと校庭の木々が落ち着きなく揺れる音がやけに耳につく。
 雨雲は、もうすぐそこまでやって来ていた。
「……もう飽きたん?」
 きょとんとした顔で、忍足は聞く。
 まさか。胸の内で日吉はすぐに否定した。すごくすごく、跡部さんが好きなんだ。こんなにも胸が締め付けられるほどに、大好きなんだ。
 でもあの人は日吉若という人間の本質を見抜いた。どんなに欲しいと思っていたって、楽しむのは手に入れる過程で全部自分のものにしてしまえば、気持ちはもうそこにはないと。
 あの人が、そう言ったんだ。いつもの鋭い洞察力で。
 あの人がそう言うのならそれはきっと本当のことで。
 あの人が自分との間にはっきりと線を引いたのだ。
 あの人が―――……。

「関係ない」
 日吉の声はあらゆる雑念に無頓着な、子供らしい力強さを持っていた。
 忍足は彼には珍しく目を丸くさせている。
「や、確かに俺は関係あらへんし、そやな、あんま詮索して気い悪くなったかもしれへんけど――」
「あんたじゃない」
 心配そうな声音でまごつく忍足を、日吉はばっさりと切り捨てた。
 あの人が、あんなことを言うから。いつか興味をなくすだなんて。確かに自分はそういう奴だけれど。
「めんどくさい」
 え。と驚いたような顔の忍足が日吉を窺う。先ほどよりも強くなった風がバサバサと黒い髪に吹き付けていた。
 そもそも。こんなめんどくさいことになったのは、あの人が難しいことを言って物事を複雑にしたからじゃないか。
 いつか本当に冷めるかもしれない。興味をなくすかもしれない。好きじゃなくなるかもしれない。
 でも分からないだろ。今、この時、は。確かにきっと絶対に。跡部さんが好きなのだから。
 先のことなんて跡部さんみたいには分からないけど、興味がなくなる日が来るなんて思えない。
 好きだ。あの人が好きだ。それだけでいいじゃないか。それで十分じゃないか。わざわざいろんなことをごちゃごちゃ考えてめんどくさくする必要はない。
 そう思うと、今までぐちゃぐちゃ考えていた時間が実に馬鹿らしく思えてきた。
 日吉はムクリと起き上がる。
 湿っぽい風がおでこに吹き付け、心の中のもやもやまでも取っ払っていくようだ。
「俺じゃない」
 忍足の戸惑った顔が視界の隅にチラと映っていたが、構わずに空だけを睨みつけた。
 そうだ、自分ではないのだ。興味をなくすなどと言ったのも、一線を引いたのも。
 あの人が勝手に言っただけだ。インサイトだかなんだか知らないが人のことを勝手に決め付けるな。そりゃ未来は分からない。この先どうなるかだなんて知ったこっちゃない。
 でも、それでも。
 今、この瞬間は確かに好きなのだ。

「あー……えっと、何か解決したん?」
 視線を元に戻すとすっかり置いてけぼりをくらった忍足が困り顔で頭をかいていた。
 こくりと、日吉は頷く。
「あの人が何て言おうと関係ないです。好きなものは好きなんですから」
 少しだけ忍足は目を瞠ったあと、苦笑した。
「それをそのままその子に伝えてやったらええんとちゃう?」
 日吉はもう一度、今度はさっきよりも深く頷く。
 ザワザワと騒ぎ出す木々が、もう数分で雨が降ると告げていた。
 日吉は立ち上がる。思い立ったらじっとしてはいられない。早く行かなくては、あの人のところへ。
「頑張りや」
 今夜が峠やでー。とのほほんとした声で手を振る忍足に軽く会釈してから日吉は屋上を後にした。
 ギッギイギと錆びて煩く響く扉の音は、四時間目の終わりを告げるチャイムの音に掻き消された。そしてもう一つ、吸収された声。
「……ふぅ」
 一人屋上に残った忍足はため息とともに困ったような笑みを漏らす。
 随分と珍しいことをしてしまった。人の恋路の手助けなど。普段ならそんな厄介なことなど絶対に首を突っ込まないのに。
 こうなったら最後まで見届けたるわ。心の内で呟くと制服のポケットから携帯を取り出す。彼のメモリはすぐに見つかった。五十音順で一番上にあるのだから。
 数回のコール音の後に相手は電話に出た。
「あ、もしもしー」
「何だ」
 独特のイントネーションに対し相手の声は不機嫌そうだ。
「次の授業て何なん?」
「英語だ。それがどうした」
「英語ってことは……センセは岡ちゃん?」
「……」
 忍足の目には、眉間に皺を寄せいぶかしむ相手の顔が浮かぶようだった。きっと話の意図が掴めずにいるのだろう。
「じゃあ岡ちゃんには俺から上手いこと言っといてやるから、午後の授業は心おきなく休んでええで」
「……あぁ?てめえ何わけわかんねーこと言ってやがる」
「ええやないの、今日は部活もオフなんやし。たまにサボったってバチは当たらんやろ」
 それだけ言うと、相手が何か言うより早く通話を切った。
 ブツリと不躾な音に、今頃電話の向こうの相手は不機嫌が最高潮なことだろう。
 そしてそんな彼の元へと日吉がたどり着くのも時間の問題だ。
「……お?」
 ポツリ。忍足の鼻の頭に空から雫が落ちた。天を仰げば行き急ぐかの如くに雨粒が一つ、また一つと降りてきて、ついにはパラパラと地を湿らせる。
 確か天気予報では、激しい雨になると言っていた。












back



- ナノ -