好きの条件3


 跡部さん。
 コーヒーから漂う湯気と薫りに包まれた空間で、日吉は小さく呼びかけた。
 呼びかけられた男は髪をかきあげながら声の主に視線を向ける。薄暗い照明の部屋の中にぼうっと浮かぶ引き締まった、しかしまだ幾分か幼さを残す体がついさっきまで跡部を抱いていたのだ。
「今度の木曜日、何してますか」
 木曜日は学校の創立記念日だ。跡部は頭の中のスケジュール帳をめくる。
「悪い」
 きれいな形の唇から発音されたその言葉に日吉は目を伏せた。
 まあ、わかっていたのだけど。彼は忙しい人だから、たとえ休日の、部活がオフの日にだって、予定が埋まってないことの方が珍しい。
「その日は親が仕事先の重役を招いて会食をするんだ。俺は顔を出さねえしまったく関係ないんだが、さすがにそういう日はマズイだろ」
 日吉は伏せていた目を上げた。
「跡部さん自身は、何も予定がないんですか?」
 跡部は一瞬考える素振りを見せたあと、ああ、と頷く。日吉はホっと息をついた。
「それなら大丈夫です」
 微かに口許を綻ばせた日吉に対し、跡部は眉をしかめる。
「ダメだ。この部屋から会食予定の広間までは離れてるが万が一ってことがあるだろ」
 跡部は肘をつき、体を少し起こした。
 ああ、やっぱり。日吉は内心うなだれる。そりゃあ二人で会えば部屋に篭りセックスに勤しんでいるのだから、そう思われるのは当たり前なのだろうけれど。それでも、やっぱり。体だけの関係みたいだと、寂しい気持ちになる。
「あの、大丈夫です」
 日吉は小さく呟いた。跡部は不思議そうな顔で後輩を見る。
「水族館に行きたいと思ってるんですけど」
 行きませんか?柔らかそうな睫を数回瞬かせて日吉は尋ねた。
 跡部はわずかに目を瞠る。
「水族館?」
 繰り返す跡部に頷き、平日だから空いてると思いますし、と付け加えた。
「何で水族館なんだよ。見たいもんでもあるのか?」
 自分をじっと窺うように見つめる跡部に、日吉は首を左右に振った。
「特に見たいものがあるわけじゃないんですけど……」
 だったら何なんだ、というような表情の跡部に日吉はいったん言葉を切る。
「どうしたんだよ」
 顔を覗き込む跡部を、日吉はいつもの無表情で、内心はもどかしい気持ちでいっぱいなのだが、見つめ返した。
「見たいものがあるわけじゃなくて…これ、一応デートの誘いなんですけど」
 その時の跡部の顔といったらなかった。口をポカンと開け、綺麗な顔を間抜けにさせて―――それだってやっぱり綺麗のことに変わりはないのだが――――彼には珍しく驚いた顔を見せていた。
 その反応に日吉は密かに傷ついたが、こんな顔なんて滅多に見れるもんじゃないし、悔しいからせめてよく見ておこうと、跡部をじっと見つめる。
「嫌ですか?」
 そう日吉が静かに聞けば、跡部は口を閉じ、冷えた体を温めるべく再びブランケットの下に潜りこんだ。
「嫌じゃねえよ」
 いいぜ。そう言って少しだけ笑ってくれた彼に、どれだけ救われた心地のしたことか。


 そんな会話を交わしたのが、土曜日の午後のことであった。それから木曜までの五日間は、時間の感覚がとてもあやふやで曖昧だった。
 まだ一日しかたっていないと思っていたのに急に二日前になっていたり。その間も部活では顔を会わすのだからやけに時間の流れるのが遅く感じられ、しかし過ぎ去ってしまえば五日なんて時間はやはりたいしたものではないのだ。

 そしてやってきた木曜日。
 待ち合わせは駅で九時に、ということになっていたが十分前には着いていようと、日吉は八時二十分に家を出た。快晴、というような空ではなかったが穏やかに晴れた気候は気持ち良く、室内に入ってしまう水族館という場所を選んだことが少し悔やまれるほどだ。
 電車に揺られ目的の駅を目指す道のりもどことなく落ち着かなく、だが心はハッキリと弾んでいて周りの景色がすべて自分に優しさを向けている。
 跡部さんは時間通りに来るだろうか。あれで実はちゃんとした人だから、待ち合わせに遅れるということはないだろうな。どんな格好で来るんだろうか。そういえば、今日の自分の服はおかしくはなかっただろうか。
 目の前に座っていたおばあさんがこっくりこっくりと眠りについたころ、日吉を乗せた電車は待ち合わせの駅に着いた。
 この駅から水族館行きのバスが出てるし、自家用車もいいけれどたまにはのんびりバスで行こう。そう言い出したのも日吉だ。
「あれ?」
 改札を抜けて南口から外に出た日吉は思わず声を漏らした。
 行き先はばらばらだが似たような車体が並ぶバスの乗り場。その少し脇にずれた濃茶のベンチが待ち合わせ場所だ。そしてベンチの横に立つ見慣れた人影。
 日吉は慌ててベンチに駆け寄った。
 やっぱりというか。スラリと立つ人物は跡部であった。上品なチャコールグレーのジャケットの下に白いシャツを着た彼は走り寄る日吉に気づき顔を上げる。
「すみません、待ちました?」
 開口一番、謝る日吉にいや、と跡部は首を振った。
「ほんの二、三分くらいだ」
 まだ待ち合わせの時間にもなってもねえしな。そう苦笑する跡部にそうですね、と日吉は頷きながらも内心は、一緒にいれる時間が少し長くなったと得した気分でいっぱいだった。

 二人して早く来てたおかげで、予定してたバスよりも一本早いものに乗ることができたし、何より平日でバスがガラガラでということがさらに日吉の気持ちを昂ぶらせる。
 後ろから二番目の席の、日吉は窓側に、跡部は通路側に並んで腰を下ろした。
 二人の間には、気まずいというほどではないが、決して心地よいとも言えない沈黙が流れる。
 他愛のないことを話してみたりするも、会話は長続きしない。考えてみれば二人の共通点なんてテニスくらいなものだから話題がないのは当たり前なのだが。その上、日吉は徹底的に他人とのコミュニケーション能力に乏しかった。
 今まではそれを苦に思ったこともないし必要性も感じなかったのだから、意識などしていなかった。対して跡部はその高慢そうな第一印象とは裏腹に人の気持ちというものに敏感な男だったし、雰囲気や空気を作りだすことが上手い。
 跡部がそうして振ってくれる話題さえも日吉にはどうつなげていけばよいのか分からず、会話は広がることなく消えていくのだ。
 四十分ほど乗ったバスが目的地に着いたときには、日吉は図らずとも息をついた。

 水族館は臨海公園の敷地内にあり、公園には平日だというのにそれなりに人気があった。
 今日みたいな穏やかな気候の下では公園の芝生はとても気持ちよさそうだ。
 水族館を出たあとは公園を少し散歩してみるのもいいかもしれないな、なんて考えながらも日吉は跡部とともに水族館内へと足を踏み入れた。
 館内に入ってすぐにある受付でそれぞれチケットを買い、二人は薄暗い通路を渡る。程なくして左右の両壁いっぱいに水槽の分厚いガラスが広がる空間に出た。ここの水槽には南の海を泳いでそうなカラフルな魚は見当たらなかったが、サメだのエイだのマグロが気ままに揺れてその鱗がキラキラと反射して綺麗だ。客は自分たちの他に二組しかいなく、他人を気にすることなくゆっくり見てまわれそうだと日吉は内心安堵した。跡部は人混みの中を歩き慣れてはいないだろう。
 二人はそれぞれのペースで巨大な水槽を眺めた。日吉が時折跡部に視線を向ければ、優雅に泳ぐ魚たちを見上げる背中が目に入り、見慣れたはずのそれにいとしさが込み上げる。
 六回目に日吉が跡部の方を見たとき、跡部は日吉の視線に気づき振り返った。ほんの少しばつが悪いような気持ちになったが、それ以上に自分の方を向いてくれたことが嬉しく、やっぱりこの人が好きなんだろうな、とぼんやりと思う。
「水族館の魚って、死んだらどうしてるんでしょうね」
 気恥ずかしさを隠すように日吉は話しかけた。
 さあな。と跡部は返す。次いで、何でだよ?と聞き返すと同時に日吉が立っている側の水槽の前まで歩いてきて横に並ぶものだから、日吉は一気に手のひらに汗をかいた。
「いや……マグロとか、死んだら食べるのかな、って」
 綺麗な青い瞳を見ていられなくて、水槽の中を泳ぐマグロを目で追うフリをする。こんなことは初めてだ。今までも跡部の瞳は綺麗だと思っていたが、目を合わせていられないなんて。
「お前水族館の魚見て食い物の話かよ」
 おかしそうな声音にチラリと視線を戻せば、跡部は呆れたように、でも目尻を細めて、確かに笑っていた。
 ――――あ、あとべさんがスキだ。
 跡部の表情に、日吉はごく自然にそう感じていた。

 その後は南東アジアの海のコーナーやカリブ海のコーナー、深海魚のコーナーなどを、館内の案内表示に従って順にまわっていった。
 もっといろんな顔が見たい。どんなことを考えてどんなことを話すのか、もっと知りたい。できれば、笑顔が見たい。
 世界各国の魚を鑑賞する間も、そんなことばかりが日吉の胸の内を占めていた。
「この魚…誰かに似てません?」
 深海魚のコーナーの一角で、日吉は立ち止まる。先ほどの壁一面に広がるような大きな水槽とは違い、岩の装飾に埋め込まれた形でレイアウトされた小さな水槽の中にはブサイクな魚が二匹佇んでいた。くすんだ茶色の体にゴツゴツした受け口、異様に大きな目ばかりをぎょろぎょろと動かしている。
 跡部も日吉の横に並んで水槽を覗き込んだ。
「誰かにって…誰だよ」
 日吉はどっかで見たことのある顔を思い出そうと頭をひねる。
「あ、高等部のテニス部の顧問だ」
 ほら、ごついとことか目とか似てません?日吉はスッキリして跡部に同意を求めた。
 ぶっ、と跡部は吹き出す。
「お前…酷えな」
 それでもおかしそうに口に手をあてる姿に満足感が広がり、でも似てるでしょう?と声のトーンが少し高くなった。
 そのブサイク魚は話されてることなどちっとも知らず、相変わらず目をぎょろぎょろと動かし漂うように水槽の中を回るのみだ。
 日吉がトントン、と水槽を叩けば一瞬大きな目がこちらを向いたが、すぐ後にはまた違う場所へと、点から点へ移すように視線を動かした。しかしつつつと人差し指でなぞれば、何を思ったのかブサイクな魚の片方がその後を追いかけるように泳ぎ出したではないか。
 右から左へ。左からまた右へと戻せばヒレでターンをして同じようについてくる。そのまま上へ指をもっていくと垂直についてきて、まるで自分で操っているような気になる。
 指をぐるぐると円をかくように回してみたりジグザグに動かしたりしてしばらく遊んだ後で、ふと日吉は水槽のガラスに映った姿に目の焦点を合わせた。
 反射するガラスに映った自分。の、隣の跡部が、ガラス越しに見つめている。
 青い瞳と、目が、合った。
 まるで熱いものに触れたみたいに、日吉は瞬間的に指を離し隣の跡部を見る。
 本物の跡部は笑っていた。日吉に向けたことのない顔だった。
 とても穏やかな―――言葉でくくるとするのならそう、優しい顔で笑っていたのだ。
「何ですか」
 初めてみる表情についそっけない口調になってしまう。
「いや」
 跡部はそんな日吉の態度など気にする風もなく、クスリと笑みをもらし頭を振った。
「ガキみてえなことしてんな、って思ってよ」
 そして跡部は、普段は鋭い目を細める。
 内心ドギマギしていたのに、その言葉で日吉はムッと眉を寄せた。
 拗ねんなよ。それすら笑って跡部は言うのだ。
「可愛いとこあるじゃねーか」
 どうやら今日の跡部は、とことん日吉を浮かれさせるつもりらしい。


 水族館の外に出た二人を、心地よい爽やかな風が包んだ。
 時間帯が合わずにイルカショーは諦めたものの、ペンギンの前でだいぶ立ち止まっていたりお土産コーナーで買いもしない品物を見てああだこうだと他愛のない話をしていたおかげで、水族館を出る頃には太陽は真南を通過していた。
「とりあえず何か食べようぜ」
 跡部の言葉に日吉は途端に空腹感を感じ頷く。
 海浜公園に隣接して飲食店が立ち並んでいるので何か手頃な店が見つかるだろう。
 そうして二人は水族館から程近い小洒落たパスタ屋に入った。
 カランコロンと小気味良い音がドアを開けると同時に響き、中年女性の店員が何名様ですか、とすぐさまにこやかな笑顔を向ける。
 二人。跡部はピースみたいな手をさせた。お煙草は吸われますか。いや。それではあちらの席にどうぞ。
 そんなお約束のやりとりの後に着いたのは海が臨める広い窓際の席だった。着ていたジャケットを椅子の背もたれにかけ足を組み座る。それだけの動作だって優雅で無駄がなく、跡部の育ちの良さがうかがえる。
 跡部はトマトとオリーブのパスタを、日吉はナポリタンを頼んだ。
 パスタを待っている間も食べている間も、二人にバスに乗っているときのような気まずさはなくなっていた。思いついたことを思いついたままに喋り、取り留めのない話題でときには笑う。
 日吉は確かに、跡部が好きだった。
 跡部の笑った顔が好きだ。呆れたように笑う顔が好きだ。小ばかにしたように笑う顔が好きだ。いたずらっ子のように笑う顔が好きだ。優しく笑う顔が好きだ。
 パスタを食べ終え、店を出た二人は海岸沿いの歩道をぶらぶらと歩いた。
 潮っ気を含んだ風が日吉の頬を撫で、跡部の髪を揺らす。
「これからどうします?」
 ぐん、と伸びをして日吉は聞いた。心の内では水族館の脇の臨海公園を散歩したいな、なんて思いながら。あそこの芝生はとても気持ちよいだろう。
 前を歩いていた跡部が振り返る。きらきらと輝く海を背景に、どこまでもこの人は綺麗だ。
 ―――手、つなぎたい。
 日吉は右手をわずかに上げるも、日差しが眩しいフリをしておでこの前でかざすに止めた。
 そういえば、忍足が言っていた。手をつなぎたいと思ったら、それはもう恋なんだと。

「ホテルでも行くか?」
 日吉の思考は一気に引き剥がされた。
 跡部の海よりも青い瞳を見つめ返す。軽やかに弾んでいた心が、冷たく重い鉛を飲み込んだみたいだった。頭が、急激に冷えていく。
「……え、」
 馬鹿みたいに間抜けな声が日吉の唇を通りぬけた。
「まだだいぶ時間あるし、どっか適当なとこ入るか」
 何故。
 日吉は瞼を伏せる。
 何故、そんな当たり前な顔をしてそんなことを言うの。まるで自分たちにはそれだけみたいに―――……。
 違う。実際、それだけなのだ。二人の関係は、そんなものなのだ。今日が珍しかっただけ。本来は体だけの関係。スポーツをするような感覚でお互いを貪りあうだけ、なのだ。
 少なくとも跡部はそう思っていると、今の言葉でまざまざと見せ付けられた。
「あの、今日は」
 日吉はカラカラに乾いた口でなんとか言葉を紡ぎだす。
「今日は別に俺、いいです」
 こんな風な言い回ししかできない自分がとても嫌だった。
 視線を上げて跡部を見れば、彼はほんの少し眉を寄せて小難しい顔をしていた。日吉は慌てて付け足す。
「今日はその、ホテルとか行かなくても―――あの、そういう気分じゃないですし」
 跡部は日吉の真意を探るようにじっと真正面から、無言で見つめていたが、ややあってため息を吐く。
「あのよ……どう受け取ったかは知らねえが、この間のこと気にしてんなら悪かった」
 跡部の言葉に日吉は、え、と目を見開く。この間のこととは、恐らく「興味なんかなくなるくせに」と跡部が言った日のことを指しているのだろう。
 潮風が日吉のTシャツを膨らませて何事もなかったように通りすぎる。
「変に気を使うな。今まで通りでいいじゃねえかよ」
 決定打、だった。跡部は確かに今まで通りでいいと言ったのだ。
「俺たちって……何なんですか?」
 ついに日吉は聞く。跡部がゆっくりと瞬きを繰り返すのが酷く切なく見えた。
「俺はあんたのことが好きなのに。興味をなくしたりしないのに」
 跡部は瞳を閉じる。実際は一瞬だったのだろうが、日吉にはとても長い時間に感じられた。
 次に目を開けたとき、彼の瞳はいつも通りの力強く鋭いものだった。
「んなの、知ってる」
 さらりと跡部は言ってのける。日吉は戸惑った顔で跡部を見た。
「お前が俺を好きなこと知ってる。お前が好きでもねえやつと体の関係を持つようないい加減なやつじゃないのも分かってる。俺はお前の気持ちを疑ってあんなことを言ったんじゃねえ」
 ますます跡部の言うことが理解できない。それじゃあ、
「じゃあ、なんで」
 あんなことを言ったのか。どうして興味をなくすなどと、思うのだろうか。
 不可解だという色をその瞳いっぱいに滲ませる日吉にもう一度ため息を吐いて、跡部は髪をかきあげる。
「お前は物でも人でも――――手に入れる過程を楽しむタイプだろ」
 日吉は目を瞠った。
「お前が今現在俺を好きなのは分かってる。分かってるが、それは俺のことを完全に手に入れてないからだ」
 淡々と残酷なことを口にする跡部から、目が離せなかった。まるで金縛りにあったみたいにただ立ち尽くして跡部の言葉を聴くことしかできない。
「心当たりがあるんだろ?」
 黙ったままの日吉の顔を覗き込んで、跡部は聞く。口を固く結び肯定も否定もできないでいるのは、その通りだったからだ。
「俺を全部自分のものにすれば、お前の気持ちは冷めるだろう」
 違う。そう叫びたかったのに、依然として日吉の体は硬直したままで。
 跡部が好きだ。飽きる日が来るなんて信じられないし、信じたくもなかった。でも――――跡部がそう言うのなら、本当のことなのかもしれない。
 跡部の白くて綺麗だが、大きな男らしい手が日吉の髪に触れた。驚いて跡部を見ると頭を優しく包まれて、髪をくしゃ、とされる。
 全てを優しく包んでくれるようなその仕草に、涙が出そうになった。
「悪かったな」
 どうして謝るの。
「そんな顔させたかったわけじゃねえ」
 俺は今どんな顔をしてるの。
「でも、本当のことだ」
 ウソ。日吉はきつく唇を噛む。
 自分はいつかこの人を見なくなる――――そんな日が、来るのか。
「今日水族館に誘ったのもそうだが、俺に気を使うんじゃねえよ。今まで通りでいいだろ」
 日吉は今や、自分の爪先を見つめる以外のことが出来なくなったみたいに俯いていた。
 また、跡部のため息を吐く気配がする。何回目だろう。
 おい。心配そうな顔が日吉を覗き込んだ。
「ホテル、行くか?」
 青い瞳にゆっくりと視線を這わせて、ゆるゆると首を振る。
「もう、いい……」
 心配そうな色をした跡部の瞳に、一瞬暗い影がよぎった。
「水族館に入ったし、お昼を食べたし……もう帰ります」
 ぼそぼそと、消え入りそうな声でそう告げれば、跡部は日吉から目を逸らし、瞳と同じ色の空を仰いだ。
「そうか……じゃあ、帰るか」
 日吉は短く頷く。
 本当は頷きたくなんかなかったのに。本当は跡部の笑った顔がもっと見たいだけなのに。

 公園を、一緒に歩きたいんです。
 どうしてたったそれだけのことなのに言えなかったのだろう。







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