好きの条件2
“一度でもお前に屈すれば、俺に興味なんか無くなるくせに”
“強い俺が好きなんだろ?”
耳にこびりついて離れないその声は、一週間たった今も変わらずに日吉を揺さぶっていた。
跡部は何が言いたかったのだろうか。興味がなくなる、だなんて。まるでこの先、日吉が跡部に飽きる、みたいな事を言った、彼の気持ちが分からなかった。
何回も体を重ねて、好きだと言って。それが伝わってないのかと、暗雲が日吉の胸にのしかかり、ずっとモヤモヤとしたままである。
(跡部さんが、好きだ)
なのに、あの人は。
“興味なんか無くなるくせに”
そうだろうか。本当に興味をなくす日がくるのだろうか。今は好きだと言える。言える、が。
そもそも跡部に対するこの想いは恋なのか。気付いたら目で追っていて、気付いたら好きになっていて、気付いたらキスをしていて。気付いたら、もう数えきれないくらいにセックスをしていた。
あの人が、好きだ。好きだから、欲しい。
でも日吉にはこの想いを恋と呼ぶかどうかは、実のところよく分かっていなかった。一番近い言葉が恋、というだけで。跡部が欲しくて欲しくてたまらないこの気持ちはじゃあ、一体何なのか。ただの物欲に過ぎないのか。強い者を征服したい支配欲に過ぎないのか。
とにもかくにも、この一週間というもの日吉はずっとそのことについて考えていた。
冷静に見えて、実は思ったことがすぐ顔に出る日吉は、感情を隠すことができない。いつも以上にムスッと黙る顔が不機嫌そうに見えたのか、クラスメイトからまで心配される始末だ。
その度に、日吉の代名詞とも言える無愛想な顔で「何でもない」とそっけなく答えていた。大抵のものはそれであっさり引き下がるのだが。
「で?日吉くんは何に悩んでるのかな?」
独特のイントネーションに日吉は盛大に溜め息を吐いた。
すっかり着替え終わってはいたのだが、部活前の準備に忙しいフリをしてロッカーの中を覗き込む。なんのことはない。無機質な中にラケットが二本立掛けてあるのと、見慣れた自分の制服がかけられているだけだ。
「シカトかいな」
仕方ない。これ以上無視を決めこむことも出来ないと、出来る限りゆっくりと低い声を振り返った。
がらんと無駄に広い部室の中に、くせっ毛を無造作に伸ばして椅子に座る男と、入り口近くで所在なさげに立つ銀髪が目に入る。
いずれもスラリと高い長身で普段から人当たりの良い笑顔を浮かべているが、お世辞にも相談相手に適してるとは思えなかった。
「俺たち、本気で心配してるんだよ!」
日吉は頭をおさえる。
そりゃ、鳳はそうだろうな。いつもいつも人の問題に首を突っ込み、お節介焼きなその性格でああだこうだと心配するコイツの性格は、痛いほどに分かっている。
きっと最近の日吉の急降下してる機嫌と苛ついたような雰囲気を感じとり、彼なりにどうにか出来ないかと必死で考えたのだろう。
現に、つい二日前の昼休みには樺地を伴って日吉のクラスを訪れていた。そしてクラスの奴らが見守る中で、どうしたのか悩みがあるなら言ってほしい樺地も自分も心配しているし出来ることがあるならば是非言ってほしいと、屈託のない笑顔で、更には大きな声で喋り続けていたのだ。
昼休みの始めから終わりまでずっと日吉のクラスに居たのだから、付き合わされた樺地も昼食を取りはぐったに違いない。
しかし、これはないだろう。
「せや日吉、溜め込むのは良くないでえ」
「そうだよ!先輩がせっかく相談に乗ってくれるっていうんだから、何でもいいから話してみなよ!」
よりによって、忍足に言うなんて。
「……俺は頼んでない」
胡散臭い眼鏡を一瞥した後に、日吉は口を尖らせた。鳳のことだから、宍戸辺りにも言ったに違いない。恐らく、ほっとけ。とか一蹴されて渋々諦めたのだろう。
「酷いわー、心配してる仲間にそれはないやろ」
大して気にしてない顔で、忍足は笑う。鳳は日吉に詰め寄った。
「ねえ日吉最近本当にどうしたの?」
お腹痛いの?頭痛いの?クラスで何かあった?勉強のこと?それとも部活のこと?
眉を下げて必死になる鳳に、最早溜め息しか出ない。これはコイツの良い所だ。他人の問題を、まるで自分のことのように一緒に悩み、同じように痛みを感じる。日吉には到底出来ないことだった。
しかし有り難いことだと分かっていても、気分が落ちている日吉には煩わしいことに他ならなかった。
「アホ、お年頃の男子が悩んでるなんて、恋やないの。恋」
スルリと忍足が放った言葉に、日吉の肩がギクリと跳ねる。その様子に、鳳は「え、」と目を見開いた。
「……恋かどうか分かんないから悩んでるんです」
なかばヤケになって、日吉は口を開く。ますます鳳が目を丸くさせた。
「え、え?恋?本当に?日吉恋してるの?」
うるさい。日吉は近付く鳳の額をぺちりとはたく。
忍足も忍足で、彼には珍しく驚いた顔をしていた。
「そっかー……日吉は恋してるのかあ」
難しいね、とでもいう風に鳳は顎に手を当てうんうんと唸っていた。コイツは人の話を聞いてなかったのか。恋してるかわからないって今言ったばかりなのに。
「恋かどうか分かんないっちゅーのは?」
忍足は今や興味深そうに、肘をついて日吉の顔を覗き込んでいる。この場に話が理解できる人間が居たことに、日吉は少なからずともホッとした。
「そのまんまの意味です」
まだブツブツと一人で呟いている鳳は放っておいて、忍足に向き直る。
「あー……自分の気持ちがよう分からん、みたいな?」
窺うように聞く忍足に、頷く。
「たぶん、そんな感じ」
忍足はほーっと笑顔になった。
「相手は?何て野暮なことは聞かへんから、詳しい話言うてみ?」
日吉はチラリと窓の外に目をやる。ごおおお、と何処かへと飛んでいくジェット機の音。
再び部室内に目を戻すと、鳳のどアップの顔が飛込んできて、ギョッと後退った。
「ね、相手は?誰?同じクラスの子?」
日吉は銀髪をぐいと押し退ける。
「俺は好きだと思ってたんですけど……」
痛い痛い!と喚く銀髪を視界に入れないようにしながら忍足に向けて話し出すと、丸眼鏡の下で後輩のやりとりに彼は苦笑していた。
「思ってたんやけど?」
「そもそも恋ってなんなんですか。好きだから相手を欲しいって思うのは当たり前じゃないんですか?」
日吉は静かに、しかし矢継ぎ早に質問する。鳳は「いい加減離してよ!」と涙目だ。
んー……、と忍足は自分の斜め上を見て何か考える素振りをしてみせた。
「せやなあ、好きなら相手が欲しいと思うのは当たり前のことやで」
にっこり、丸眼鏡の先輩は頷く。日吉はそれでも釈然としないものが残った。
「でも……向こうが、まるでいつか俺が飽きるみたいなこと言うんです」
ムスッと、愚痴を吐き出した日吉の言葉に、騒いでいた鳳の動きがピタリと止まった。忍足もポカンと口を開きっぱなしにしている。何かおかしなことを言っただろうか。
「……何ですか」
まじまじと自分を見つめる二人の視線に、日吉は口を尖らせた。
「え……日吉、相手の人は日吉が好きだって知ってるの?」
「そりゃあ……」
「好きって言うたん?」
「言いましたよ」
ええー!と鳳は声をあげた。うるさい。日吉はピシャリと吐き捨てる。
「ごめん……え、でもでも。何だ!日吉もう告白したんだね!」
鳳は日吉にはとても出来ないような表情でキラキラと瞳を輝かせて、しかしすぐその後にしゅんと申し訳なさそうにうなだれた。
「あ……ごめん、でも……」
何をそんなに縮こまってるのか、鳳は大きな体をすぼめて眉を下げる。
「その……飽きっぽそうだからって、フラれたんだね……」
ごにょごにょと、最後の方は言葉を濁す鳳に、日吉は首を捻った。
「……何でそうなる」
「フラレたんとちゃうの?」
「え?てことは日吉……その人と、その、付き合ってるの?」
日吉は数回瞬きをする。
「……たぶん」
「たぶんてなんやねん、たぶんて」
すかさず忍足のツッコミが入った。こういう時の反応の速さや切り返しはさすが関西人とだけあって、異様に速い。
「え、え、え!すごいすごい!日吉付き合ってるんだね!あ、もー何で今まで言ってくれなかったんだよう!」
鳳はニコニコと幸せそうな笑みで、このぉ!とコツンと肩をぶつけてきた。何でお前に言う必要があるんだよ。と日吉はローキックで返してやった。
「痛た……、あれ?でもそれで……何で?付き合ってるのに好きか分からないの?」
そもそもの話題に立ち返り、鳳は笑顔を引っ込める。くるくると変わる表情に忙しいヤツだ、と日吉はボンヤリと思った。
「いや、たぶん好きだとは思うんだが」
日吉は頭を掻く。鳳のペースになるとどうも話が進まない。
「相手はなんて?」
すると、二人のやりとりを見守っていた忍足が口を開いた。日吉も鳳もそちらを見る。
「相手は日吉のこと、好きって言ったん?」
忍足の言葉は痛い程に核心を突いていた。
ガツンと殴られたような衝撃が頭に走り、日吉の全身を駆け巡る。
「……な、い」
そういえば、そうだ。跡部から「好き」とか、それに類似する愛の言葉を、一度だって言われたことがなかった。どうして今まで気付かなかったんだろう。
ということは、もしかして跡部は日吉のことは好きでもなんでも―――……
「いや、違う」
とっさに、日吉は否定の言葉を口にした。
鳳が心配そうな色をその顔に浮かべている。
「好きって直接聞いたことはないけど、」
慌てて言い直す。頭が上手く回らなかった。
「でも……キスをするときも、セックスするときも、嫌だなんて言ってない」
空気が張り詰めた。
今度ばかりは、何が二人を驚かしたのか日吉にも分かったが、それを気にする程の余裕はなかった。
胸をチクチクとやらしくつつくような沈黙が広がる。
「……そゆうことして、相手は嫌って言ったり、抵抗したりとかせえへん、の?」
長い沈黙の後で、忍足が静かに、確かめるように聞いた。好きって言わないのに?という言葉は後輩達の手前、なんとか飲み込んだ。
「……最初の一回だけで、あとは別に」
日吉の隣で、鳳がハッと息を飲む気配がした。
「最初は……抵抗されたん、だ。抵抗されたのに……その……」
したの?鳳は囁くように、恐々と聞く。その顔は何処か青ざめていた。
日吉は短く、黙って頷く。
「それ……それって……犯罪じゃないの」
力なく鳳は呟いた。
「……はんざい」
日吉は小さくそれを反芻する。頭が冷水を浴びたかのごとくスーッと冷えていく。
「ちょ、ちょ、待ちいやお二人さん」
青ざめる後輩の間の空間をチョップするかのような手振りで忍足は切った。
「あんなあ……最初の一回、は、ともかくとして」
彼は眼鏡を中指で上げて、仕切り直すかのように咳払いをする。
「その後は嫌がってへんのやろ?っちゅーことは、相手もけっこう楽しんでるんとちゃう?」
「そりゃ……まあ……」
日吉は口ごもりながら考えを巡らす。確かに、跡部はあれで楽しんでいたりするのだ。
「あー……だから、相手はそおゆう風に思てへん……かもしれないってことや」
回りくどい忍足の言い方に日吉は眉を寄せる。
「そおゆう風にって?」
責めるような口調の日吉に忍足は困ったような顔をした。
「だから、そおゆう関係」
「どんな関係ですか」
焦れったい思いと苛立ちが重なって、ついつい語尾が強くなる。
「……セフレ、とか」
ポツリと呟いたのは、鳳だった。
日吉が振り向くと彼は落ち着かなさそうに手を体の前で組んでいた。鳳の口からそんな猥雑な言葉が出てくるのは、とても不釣り合いに感じる。
「……ま、そんな感じとゆうか」
言いにくそうに、忍足が肯定した。
「そんな……だって、だって……」
跡部は日吉を好きじゃない。そうだったのだろうか。求めてたのは日吉だけで。跡部はただの体の関係としか思ってなかったのか。
嘘、だ。
あの人はそんな軽い関係を持つような人じゃない。そんな人じゃないはず、だ。
しかし残念ながら、日吉には確信を持ってそう断言することは出来なかった。実際のところ、日吉は跡部について何も知らなかったのだ。
「好きじゃ……ないのか」
それは日吉がか、跡部がかどちらに対してか自分でも分からずに、呟いていた。
「や、分からんけど」
すぐに忍足が首を振る。
「その子と、二人でどっか行ったりとか、デートしたりとかもないん?」
そうだよ、相手はもしかしたら本当は好きかもしれないよ!と鳳は日吉以上に必死になっていた。
「デート……」
ない。日吉は自分の爪先を見つめながらキッパリと言った。鳳が視界の隅でうなだれるのが写る。
跡部と二人でいるのは、たいてい跡部の部屋でセックスをしているときだけだ。それ以外は、普通に部活で顔を会わせるだけ。
「だからかもしれへんで」
忍足の言葉に、日吉も鳳も顔を上げた。
「そおゆうことしかしとらんから、体だけ……とか思われるんちゃう?」
セックスしか、しないから。
「そう……なんですかね」
デート、誘ってみたら?
忍足の低い声は、日吉の頭の中で一筋の光をもたらした。
そうだ、セックスだけだから。確かにあの人とのセックスは楽しい。滅多に味わえない快感と、満たされそうで満たされない支配欲。ギリギリの狭間でしか味わえないもの。
―――――でも。
日吉は俯いていた顔を上げる。困り顔の忍足と心配そうな顔をした鳳が自分を見ていた。二人には視線を寄越さず、窓ガラスを睨みつけるように見つめた。
体だけの関係としか思われてないかもしれない。
そのことに気付いた今、こんなにも胸が締め付けられるのは、やっぱり跡部のことが好きだからなのか。
どうやら自分の気持ちも確かめる必要があるみたいだ。
部活そろそろ始まんぞ。ドアを開け部室を覗いた宍戸が声をかけた。一瞬ビクリと肩を震わせた鳳が元気よく返事をする。忍足も今行く、と頷いた。
日吉だけは、依然として窓ガラスを見つめたままだった。
まず第一に、自分達の関係は何なのかハッキリさせる。
次に、自分の跡部に対する気持ちは何なのかをきちんと理解する。その上で、跡部は自分をどう思っているのか、その口から聞く。
日吉は胸の内で三つの目標を掲げ、テニスコートへと向かった。