好きの条件1


 それは彼らにとって、奪い合う行為だった。

 恋人だったり夫婦が愛を育む行為。男女が自らの遺伝子を後世に残す為の行為。人の温もりを、血潮を、確かに存在する生命を感じる行為。あるいは、ただただ自分の快楽を求めるための行為。
 日吉と跡部にとって、セックスをする目的はそのどれにも当てはまらないような気がした。一番近いものがあるとすれば、「快楽を求める為」だろう。しかし、日吉はちゃんと跡部のことが好きだったし、なんだかんだでセックスを楽しむ跡部も同じような気持ちでいるのだと思う。
 しかし、二人の行為は愛情とか温もりだとかを与え合うと呼ぶには、あまりに違和感を覚えると、日吉は常々感じていた。
 日吉は跡部の全てが欲しくて、征服したくて、自分の支配下に起きたくて。
 跡部は全力でそれに逆らい、獲って喰ってやるというように鋭い目をギラギラ光らせて、全然屈服する気配を見せない。
 そう、与え合うというのとは全く逆の、奪い合うようなセックスなのだ。
 服従の色をちっともその瞳に映さない跡部に歯がゆい思いをしたりもするのだが、このギリギリ自分に支配されない男とのセックスはとても楽しい。
 ――――そう、楽しいのだ。
 それは、ある種テニスや、または古武術の拮抗した試合をする時の感覚によく似ていた。
 ギリギリの瀬戸際で奪い合い、より高みへと上っていく。お互いしか見えなくて、荒い息に侵された肺の痛みや軋む筋肉でさえ、心地好いと思えてしまう。
 スコアなんて目に見える単純なカウントではないけれど、奪い力で虐げ相手が快感に揺れるとき、最高の瞬間が訪れる。相手が強ければ強い程に、大きな波に酔いしれていく。
 ただひたすらに、本能のままに求め、奪う。
 なんと分かりやすく単純なことだろう。原始の時代から連綿と受け継がれるそれは飢えた獣のあるべき姿であり、そこに理由を付けたのは理性を持った人間の都合からだ。
 確かに愛はある。この人が好きだ。
 好きだ、から、こそ、欲しい。全部、ぜんぶ。
 その為に求めて奪って、お互いのギリギリを見極めて、高みへ上りつめる。


「……っおい」
 ぺち、と胸をはたかれて日吉は跡部に視線をやった。
 苦しそうに歪めた表情で自分を見上げるその瞳は青く、日吉が大好きな強い光を宿している。
 くい、と指先に力を入れれば跡部の体はビクンと跳ねた。それもそのはず、日吉の左手の人指し指と中指の第二関節ほどまで、跡部の中に埋まっているのだから。
 う、と漏らされたうめき声に、背中にゾクリとした快感が走った。
 ギロリと日吉を睨みつけた跡部は、漏らした声を悔いているようだった。
「てめえ……随分ヨユーじゃねえか」
 荒い息の合間にかすれた声で怒る姿にさえ、欲情する。何がですか、日吉がそう聞けば跡部は眉をぐっと寄せた。
「今、さっき、何か考えてただろ」
「……別に」
 確かに上の空だったのだけれど。
 日吉が本当のことを言わなかったのは跡部が機嫌を損ねるからとか怒られるからとか、そんな理由からではなく、今この行為を止めてまで話すことでもないと思ったからだ。
 ぐり、と内側をえぐるように指を擦りつけて回した後に、そこから指を引き抜く。あ、とまた跡部から声が、先程よりも大きく漏れた。
 息をつかせる間もなく、跡部の膝裏を持ち上げ挿入の体制にさせる。息を性急に吐き、無意識の内にきゅっと足の指先に力を込めた跡部だが、その瞳はやはり絶対的な強さを持っていた。
 何者にも屈しない。その瞳から、ひしひしと伝わってくる。
 また確実に熱が上がるのを日吉は感じた。やっぱり、この人は素敵だ。強くて、強くて、日吉の心を掴んで離さない。どこまでも追い詰めてしまいたい気にさせる。
「……な、に」
 笑ってやがんだ。跡部がそう言い切るより早く日吉が突きたてたので、最後は嬌声ともうめき声ともつかない音にしかならなかった。
 獣みたいにがっつき、貪る。
 好き。好き。全部欲しいよ。ちょうだい、なんて言わない。力づくで奪うから。

 ゆらゆらと立ち上る湯気を目で追いながら、日吉はベッドに腰かけた。きし、と僅かに音を立てたそれは柔らかく、しかし程よい弾力で、疲れた体を受け止める。さすが跡部家だ。ご子息の寝室ともなれば最高級の家具を揃えているのだろう。
 カタン、とサイドテーブルに置かれたコーヒーカップが硬質な音をたてた。跡部はブランケットにくるまり、まだこちらに背を向けたままだ。
 情事の後はコーヒーと決まっていた。特に申し合わせてそう決めたわけではないが、二回目のセックスの後に「コーヒー」と跡部が短く呟いてからは日吉は毎回いれていた。
 そして彼は必ずそれを全て飲み干した。
 跡部がよく好んでコーヒーを飲むのは知っていたけれど、自分に何かを要求してくれるのは嬉しい。日吉は終わった後の緩やかなこの時間も、好きだったりするのだ。
 ブランケットから覗く肩のキメの細やかな肌をスルリと撫でる。テニスというスポーツ柄、生傷は絶えないが、それだって跡部の肌は綺麗だ。
 気だるそうに、跡部が首だけ日吉を向く。その表情から、不機嫌らしいことが窺えた。
 どうしたのかと日吉は小首を傾げる。
「何考えてたんだよ」
 溜め息と共に、跡部は言った。何が、と言おうとして日吉は止める。跡部は最中に上の空だったことを指摘してるらしかった。
「たいしたことじゃないです」
 ズズッ、と口先をすぼめて日吉はコーヒーをすする。
 跡部は眉をしかめた後に、自分も置かれたカップを取り一口飲んだ。ゆらりゆらりと漂う湯気で跡部の表情が一瞬見えなくなる。
「たいしたことじゃなくても言ってみろ」
 また元の場所にカップを置いた後、跡部は日吉を見上げた。肘だけで軽く起き上がっている為に鎖骨の上の窪みが深くなり、ぼんやりとした薄暗い照明の中でハッキリとした陰影を作る。
「俺、跡部さんとセックスするの好きです。楽しい」
 もう一口苦い液体を口に含み、そう返す。
 跡部は日吉の言葉をじっと聞いていた。今の言葉だけで全てが伝わるはずもなく、必要最低限の事しか、いや必要最低限の事さえも省く日吉の癖を知った上で、無言で先を促しているのだ。
「セックスって……テニスの試合をする感覚に似てません?」
 まだ跡部は黙っていたが、少し怪訝そうな表情をする。日吉は続けた。
「相手に覆されないギリギリのラインで追い詰めて、追い詰められて」
 日吉から視線を反らした跡部はコーヒーに手を伸ばす。
「どれだけ相手を支配できるか、どれだけ自分の全てをぶつけらるか、」
 そんなとこが、テニスをしてる時の感覚と似てると思うんです。そう締めてから日吉もコーヒーカップに口を付けた。
 白い湯気の向こうで、跡部は一度目を閉じてからすぐにまた開き、天井を見つめた。
「そうだな」
 天井を見つめたままで肯定の言葉を呟く跡部の表情からは、何も読み取れない。
 ―――触りたい。
 不意に跡部に触れたい衝動に駆られ、日吉は欲求のままに手を伸ばす。
 汗ばんだ跡部の額に指先を当てると、眼球だけをゆっくり動かして青い瞳がこちらを見た。そのまま前髪の生え際に指を通し、汗に濡れても柔らかな髪を楽しむようにとく。
 一回、二回、日吉を見上げてゆっくりと瞬きをする跡部を、本当に綺麗だと思った。
「でも……」
 独り言のように、日吉は囁く。
「でも、跡部さんは全然弱みを見せない」
 柔らかい髪の感触を指先でしっかり味わいながら、跡部の瞳に写る自分を見る。
「全部欲しいのに」
 サラ、と流れる髪が瞼にかかった。それをかきあげてやれば強くて美しい瞳がこちらを見ている。
 日吉はフ、と目を細める。
「たまには……屈してくれればいいのに」
 跡部はじっと動かずに、日吉を見つめたままだった。やがて瞼を閉じ、強い光を宿した瞳が隠される。
 それから数秒もたたない内に、日吉は跡部の肩が小刻に震えてるのに気が付いた。どうしたのだろう。日吉が声をかけずに様子を見守っていると、跡部の瞼が開く。
 跡部は、笑っていた。勝ち気なんてかわいらしいもんじゃない。遥か上方から見下ろす、あの眼だ。
 何がそんなにおかしいのか、跡部は一向に笑い止まない。それどころか肩の震えは更に大きくなり、仕舞には声をあげて笑い出す程だ。
「……何、ですか」
 バカにされてるのだろうか。急激に機嫌が悪くなった日吉は唇を動かさずに聞いた。
 すると、まだ笑い顔のままで、跡部は真正面から日吉を見る。
 いつものような馬鹿にした笑み――――しかし、それとは少し違う気がした。跡部の表情の奥の微妙な変化に、日吉は僅かに眉を下げる。
 何が違うのかと聞かれれば、ハッキリ答えることは出来ない。ただ、何かが違う。人を馬鹿にしたような笑み。自信に満ち溢れた笑み。闘いに闘志を燃やす笑み。日吉が今まで見たことのある跡部の笑みの中に、こんなに胸が締め付けられる笑みはなかった。
 跡部は綺麗な唇を歪めて、更に深い笑みを形作る。

「一度でもお前に屈すれば、俺に興味なんか無くなるくせに」
 何を言われたか、すぐには理解出来なかった。興味がなくなる?誰が、誰に?
 ぐわんぐわんと跡部の低い声が脳内で木霊して、その意味を吟味できない。
「……え?」
 意図せず漏れた戸惑いの声は、思っていたよりもずっとずっとかすれていた。
 そこで初めて日吉は口の中がカラカラに乾いているのに気付いた。コーヒーの苦味がベッタリと張り付いて気持ち悪い。
「何が……何言ってるんですか?」
 ごくりと唾を飲み込んで、やっとのことで出てきた言葉はそれだった。
 跡部はもう笑ってはいない。何て顔してやがんだ。そう言い、また何もなかったかのようにコーヒーをすする。
 意味が分からない。好きだってこの人にいつもいつも言い続けてきたのが伝わってないのか。それとも何か勘違いしてるのか。だって有り得ない。こんなに欲しいのに、いつか興味が無くなるだなんて。有り得ないよ。
 言いたいことは次から次へと溢れ出るのに、何一つとして声にはならなかった。
 この話はもう終わったとばかりに優雅にコーヒーを飲む姿を見たら、これ以上追及してはいけない気がした。
「どうして、」
 とりあえず、それしか言えない。
 跡部はカップから唇を離し、真っ直ぐな瞳で日吉を見上げた。もう笑ってはいない。いつもの表情だ。取り留めのない会話をするときの表情。なのに、こんなに不安な気持ちになるのは何故だろう。
「どうして?」
 反芻する跡部の声がやけに遠く感じた。
 日吉を見つめたままで彼はもそりと体勢を変える。スプリングの軋みがそのまま日吉の心臓と直結してるみたいだ。
 強い俺が好きなんだろ?
 当たり前の顔してそう言った跡部の言葉は、いつまでも耳に残って離れなかった。











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