あきいろの風景


 いつもの時間。いつもの電車。いつもの車両。
 そこにあの人はいた。
 一両目の車両の、川沿いの方の座席にいつも座っているのだ。
 最初に思ったのは「立海生だ」ということくらい。朝のラッシュの時間帯でも人が少ないローカルな電車の中で、有名私立の制服に身を包んだ彼は私の目をひいた。新しい環境に期待を膨らませていた、暖かい春の陽射しの頃だった。
 最初に話したきっかけなど、もう忘れてしまった。
 私と彼は何度か会話を交わし、毎朝会う度に挨拶を交わし。駅に着くまでのわずか二十分程の時間だったが、それが習慣となっていた。
 彼がいなくなったあの冬の日まで。


―――蝉の声、
 まだ鳴いているのか。ふと聴こえた夏の残骸に空を仰ぐ。
 空はいつの間にか高くなっていて、柄にもなく時の流れの速さを感じてしまった。
 自転車の前カゴに乱雑に入れられた鞄が段差で跳ねる。中のお弁当は無事だろうか なんて考えながらもスピードは緩めない。
 人は慣れる生き物だ。入学した頃にはぎこちなかった制服が、今では一番しっくりくる。しかしもうすぐ来る衣更えには、重い長袖にしばし窮屈な思いをするだろう。それすら数日すればまた馴染んだものになり、半袖なんていう奇妙な服を忘れかける。
 今聴いてる蝉の声でさえ、遥か異国の地での出来事のように思えてくるのだ。
 暖かい春の陽射しをぼんやりとしか思い出せないように。
 きっと、私は、それがたまらなく嫌だった。
 なんてことない日常に、言ってしまえば赤の他人に、縋り付いてるみたいで情けない。不思議な話だが執着してる。
でも、確かに嫌なのだ。

 ガタガタと緩やかな下り坂を走り抜け、カーブを曲がる。
 登校中の小学生の帽子が、鮮やかな黄色として瞼に残った。一瞬にして黄色が過ぎ去り、目の前にはすっかり刈り上げられたたんぼ道。
 何もない田の中を十分ほど自転車で走ればいつもの駅に着く。
 今や定位置となった場所に自転車を停めた。キッとブレーキがうるさく響く。帰ったら油でも射して直さなくちゃ、 いつもそう思ってるもののなんとなくめんどくさくてずっとこのままだ。
 まだ若い駅員のお兄さんに定期を見せ改札を抜ける。
 今日はいつもより五分も早く駅に着いてしまった。簡単に入ってこれそうな痛んだ木製の柵で囲まれただけのホームに一人待つ。こんな田舎では本数が少なく、早く着いたからといって一本早い電車に乗れるわけではないのだ。
 ぼーっと待っていると向かいのホームに杖を付いたお婆さんが立ち、やがてボロボロのベンチに座った。緩慢なその動作を見るともなしに眺めてるうちに、いつも見かける女子高生と中年のサラリーマンがやって来る。
 電車が来るまであと一分、いつもの光景。
 例えば朝の爽やかな風に紛れて見慣れない学生が一人乗車したとして、誰が気づくだろう。人が少なくたって、毎日見る顔ぶれは同じだって、絶え間無く過ぎ行く日常のほんの一瞬にすぎないのだから。人間は意外にも興味の外のことには意識が向かない。
 いつもより待った電車に乗り動き出すのを待つ。広々と座席を使えるから鞄は自分の隣に置いた。窓枠に頭を預けて、運転手さんが交代するのを眺め。
 ゆっくりと瞬きを繰り返した後に視線をもとあった場所に戻す。

 重たかった瞼が、ハッキリと開いた。
 水色のベスト、爽やかなストライプのネクタイ、有名私立の学校であることを示す胸元のエンブレム。
ギリギリで乗り込んだわりに落ち着いた足どりである。穏やかな人柄を表すかのようにその髪はふわふわと揺れる。
 真っ直ぐに前を見て歩く彼の優しい瞳と、目が合った。
 どうしよう。
 声をかけようか。
 覚えてるかな。
 何でずっと会わなかったの。
 てっきり引っ越しちゃったのかと思ってた。
 頭の中でグルグルと駆け巡った様々な考えは、彼の微笑みで全部消え去った。
 私の前まで来ると、あの優しい表情で、秋の空気を伴って。もう一度、微笑んだ。

「おかえりなさい」
 私も微笑んだ。
 自然に笑みが零れていた。そうだ、彼は当たり前のように人の笑みを引き出してしまう人間なのだ。
 私の鞄を挟み、彼は隣に腰を下ろした。その顔はどこか安堵したような、満足そうな色を見せていた。
「ただいま」
 優しいあの声。

 いつものように、電車が走り出す。



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