空色の数式
はっきりしない天気。灰色の空。休み時間の喧騒。いつも通りの教室の雑音がすり抜けていく。
珍しく起きている隣人の欠伸に、気付かれないようにちらりと伺い見る。ノートを広げた机に突っ伏しつつも、シャーペンはしっかり握っていた。そんな至近距離で文字が見えるのだろうか。
「ねえ、これどうやって解くんだっけ」
不意に話しかけられ、机に突っ伏したままで眉間に皺を寄せた芥川を、奇妙な気持ちでまじまじと見る。
一拍遅れて、慌てて彼のノートを覗き込んだ。数学の組み合わせの問題。二の百乗を十七で割った余りを求めよ。もちろんこの桁数を地道に筆算をして解くのではない。手っ取り早く求める解法があるはずのだ。
ガヤガヤとした教室の喧騒が急に大きくなった気がする。答えられないでいると、芥川と仲の良い宍戸が近付いてきた。
「どうした」
「あ、亮、この問題どうやって解くんだっけ」
「俺が分かるわけねえだろ」
「あはは」
テニス部員同士の仲のいい会話に居心地の悪い思いがする。休み時間、早く終わればいいのに。
「お、得意な奴が来たぞ」
宍戸の声に廊下を見れば、テニス部仲良し三人組の最後の一人が廊下を歩いているところだった。隣のクラスのムードメーカーであり中心人物だ。
「おーい岳人ー」
部活仲間の呼び掛けに、向日はパッとこちらを向いた。一瞬、目が合う。キリッとした目付きは意志の強さを感じさせた。彼の背は平均より低いはずなのに、集団の中で誰よりも目立つのは何故だろう。いつもその存在にすぐに気が付くのはどうしてだろう。向日はすぐに、芥川と宍戸に視線をずらす。
「なんだよー」
「ちょっとちょっと」
手招きされると向日は一緒に歩いていたクラスメイトに「先行ってて」と伝え、臆することなく教室に入ってきた。
「向日先生、この問題どうやって解くんですか」
「どれどれ、なんだお前らこんなのも出来ないのか」
「頼みます、向日先生」
男子達のじゃれ合いの楽しそうな声に、じっと机の上を見つめるしか出来ない。真面目なだけが取り柄なのに。向日の言うところの「こんなの」も解けないのだ。
「これは合同式の問題だから――」
向日は迷うことなくスラスラとノートに計算式を書き始める。顎のラインで切り揃えられた髪がパラパラと滑らかな頬にかかる。いくつか宍戸がした質問にも端的に分かりやすく答えていた。知っている。向日は数学が得意なのだ。
「おーそっかなるほど」
「サンキューこれでテストで出ても解けるわ」
口々にお礼を言う宍戸と芥川の声を聞きながら、次の授業の準備に熱心な振りをする。教科書、ノート、筆箱。すぐに終わってしまう。結局、どうやって解くんだろう。窓際近くの別の集団が一際大きく笑い声をあげた。
「隣に数学得意な人がいるじゃん」
突然自分に話の矛先が向かい、思わずたじろぐ。きょとんとした顔でこちらを見る芥川が少し憎たらしかった。
「そうなんだ」
「おう、去年一緒のクラスだったけど数学すげー出来てた。俺も何度か分からないとこ教えてもらったし」
宍戸が感心した様子で相槌を打ち、向日が答える。確かに、向日とは去年一緒のクラスだった。だったけれど、話したことなど数える程しか。
忘れちゃって、と口の中でもごもごと答える。自分が情けなかった。忘れたんじゃなくて単純に分からないだけなのに。
「そっか」
向日は頷く。そして次の瞬間、何を思ったか今しがた書いた数式を、芥川のノートから破り取った。
「あ!何すんだよ!」
自分に向かって真っ直ぐ差し出された紙切れを凝視する。薄い罫線の上に、濃い筆圧で書かれた数式。視線を上にあげれば意志の強そうな瞳と目が合った。
「去年お世話になったし、ジローにタダで教えるのはもったいないし」
なんて返したらよいか、受け取れずにいると向日はバツが悪そうに首を傾げた。
「……もしかして、余計なお世話?」
慌てて首を振る。ううん、ありがとう、助かる。躊躇いがちに数式が書かれただけの紙を受け取った。
向日は一転して、底抜けに明るい笑顔を見せた。
「よかった!」
教室の、喧騒が消えた。その一言が胸を貫いて光る。
「お、晴れてきたなー」
俄に教室が明るくなり、宍戸が窓の外を見上げた。天高い雲間から九月の日差しが降り注いでいる。
校内に響く予鈴。いつもの喧騒と笑い声。何の変哲もないノートの切れ端。晴れやかに、明るく澄んだ空色。
もう少し、休み時間が続けばいいのに。