朝から真夜中まで、見つめてて


〔早朝の眼差し〕

 爽やかな朝だった。
 これから始まる熱い季節を予感させるような、若葉がどこまでも天に登っていくような、そんな気配を感じさせる朝だった。不快感がないのは湿度低くカラッと晴れているからだろう。今日が暑い日になるだろうと肌で感じて、ワクワクする気持ちを心のどこかで確かに感じていた。

 誰よりも早くテニスコートに着いたのはたまたまだった。いよいよ始まる戦いの季節の予感に、なんとなく朝早く目が覚めてしまったのだ。
 人のいない学校。遠くの方で野球部員の数名が走り込みをしている以外は早朝の鳥が鳴くばかりで閑静だ。もう十分もすれば野球部の一年生がグラウンドをならし始め、三十分もすればテニス部の一年生が朝練の準備に顔を出し始めるだろう。
 今だけは、誰もいない自分だけの世界に自然と心が浮き足立った。
 しかし部室の裏手に回ったところで、この世界は自分一人だけのものでないことを知る。
 日吉若が傍らにラケットを置いて柔軟をしていた。
 跡部は声をかけるかしばし迷った。この早朝の淀みのない空気を一人で味わいたい気分だった。
 迷っているうちに、日吉が跡部に気が付き振り向いた。彼は足を地面に投げ出したままで、ぺこりと会釈する。
 年功序列だとか上下関係だとかそんなものはどうでもいいが、もう少し他人とコミニケーションを取るのに声を発せないものかと跡部は内心もどかしく感じた。
 少し、意地悪をしたい気持ちが頭をもたげる。
「こんな朝早くからご苦労なこった」
 口の端を上げて笑う跡部に、やはり日吉は無表情のまま会釈しただけだ。
「まあせいぜい下剋上とやらのために頑張れよ」
 決定的に意地の悪いことを言ったと、跡部は自覚していた。こんな言葉ひとつで、後輩が反骨精神で上に昇ってくるならば、それでいいのだ。しかし日吉は尚も左脚を入念に伸ばしながら無表情な――そして無垢な瞳で跡部を見上げるばかりだ。
「そうですね」
 意外な反応だった。あまり個人的な接点はないけれど、跡部の覚えている限りでは日吉という男はテニスにかけるひたむきさはあるものの周囲のことには無頓着な子供っぽさがあって、どこか卑屈で、そして悪気なくとも余計な一言を言ってしまうことが多々あるような人物のはずだった。
 こうした跡部の言葉にも何か嫌味を言い返すか、ムッとした不機嫌顔で押し黙るかだと予想していたのが見事に裏切られて、少々面食らった。
「いつもこんなに早いのか」
 目の前の後輩に少し興味が湧いて、跡部は尋ねた。
「今日はたまたまですよ」
 伸ばす脚を右に変えて、日吉が答える。勝手に跡部がイメージしていたような刺々しさはそこにはなかった。もしかしたら爽やかな朝の空気がそうさせているのかもしれない。
「今日は何かあるのか」
 日吉は動きを止めて、少し首を傾げる。
「……あつくなりそうだったんで」
 どこまでも言葉足らずな後輩を、妙に感心した気持ちで眺める。
 今日が暑くなりそうだから、早めにトレーニング?それとも暑いから、早く起きてしまった?
 そのどちらも違う気がして跡部は思わず微笑む。
「そうだな」
 初めて見るような柔らかい笑みを、日吉は不躾な子供のような眼差しで、まじまじと見つめていた。

 きっと日吉も、これから始まる季節が熱くなる予感がしていたのではないか。これから始まる熱い熱い戦いに――ワクワクしているのではないか――跡部はそんな気がした。
「本当に、あつくなりそうだ」



〔白昼の眼光〕

 真夏はもう過ぎ去ったのだと、風が告げるような昼時だった。
 確かに照り付ける太陽は暑いが、夏真っ盛りの焼け付くような暑さではない。幾分穏やかな気持ちで過ごせるような陽気だ。一度テニスコートに出れば汗をかくのは間違いないが、時折吹く風は、確かに夏の終わりを匂わせていた。

 生徒会の用事で登校した祝日、跡部はテニスコートに顔を出した。厳密に言えば、新部長となった日吉の様子を見に行ったのだ。
 今日は午前練で終わりということも承知済みで、片付けの終わったテニスコートは人もまばらだった。ゆっくりストレッチをする者、居残って自主練に励む者、チームメイトとお喋りをする者……大きな大会の後の部活なんてこんなものだが、実に長閑だった。
 なるべく人目に付かないように部室の裏手に回ると、思惑通りに日吉がストレッチをしていた。
「よう」
「……どうも」
 少し驚いた顔をした後に、無愛想な返事を返される。それにももう慣れたものだ。
「調子はどうだ?」
 跡部の言葉に日吉が真っ直ぐ見上げる。あの勝気な瞳をしていた。
「上々ですよ。何だったら少し打っていきますか」
 不敵に笑うその瞳には確かに闘志の炎が燃えている。誰にも消すことの出来ない力強さを持って、目の前に阻むものを焼き付かさんと、爛々と輝いている。
 ――ああ、こいつの中でも終わりなんてないんだな。跡部は喜んだ。常に前へ前へ、上へ上へと突き進んでいくのだ。
「また今度相手してやるよ」と跡部も負けじと不敵に笑う。
 影からはみ出た右腕が、太陽に直に晒されてチリチリと焼けた。少し体を避ければ、難なく影に逃げられる。けれど何となく、そのまま右腕に太陽の熱の感触を楽しんだ。
 昼下がりの太陽の穏やかさが、乾いた風が、急かすように夏の終わりを告げる。風は跡部のワイシャツを膨らまし、日吉の前髪を散らした。意外にも幼い日吉の額が見え隠れして、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わず跡部はドキリとする。
 鼻腔いっぱいに広がる夏の残骸を噛み締めて、もう一度日吉を見た。日吉も気付いて見上げる。見計らったかのようにもう一度風が吹いて、日吉の額が露わになった。
 涼しげだけれど確実に闘志を含んだ眼光と、幼い額との落差が作り上げる絶妙なバランスの美しさは、今この時だけのものなのだと跡部は直感した。
「近いうちに」
 日吉が呟くように言った。それが試合をして欲しい意なのだと察して跡部は王者の笑みで返した。
 まだまだ負けるつもりはない。
 この眼光に捉えられる日をどこか楽しみにしている自分は、堂々たる王者の笑みの中に、今はまだ隠していた。



〔夕暮れの視線〕

 窓から射すのは鮮やかな西日だった。
 生徒会室の窓は南西に面していて、この時間に上座のソファに座れば自然と夕日を背負う形になる。今日は晴れているが一段と冷え込んでいて、室内は温かいけれど夜になれば殊更気温は下がるだろう。校舎の外側に見える街のシルエットが茜空を背景にやけに細かく見えて、まるでとても繊細な切り絵のようだった。

 跡部は眉間を指で揉みながら、色々なことを考えた。生徒会の引継のこと――先月の学祭の決算報告のこと――来週の跡部邸で催される食事会のこと――それから――今日直談判に来た一年生のこと。
 部屋のドアがノックされる。跡部は気怠い気持ちで返事をしないでいると、躊躇いがちにドアが開いた。
 ドアを開けて立っていたのが渦中の人物だったので、跡部は顔を上げた。
「……すみませんでした」
 渦中の男、日吉若がいつもの無表情で、それでも不満をわずかに滲ませて謝った。
「何がだ」
「テニス部の、一年が来たでしょう」
 日吉が即答したので、ああ、と跡部は再びソファに背をもたれかけさせる。
「新しい部長のやり方が気に食わねえって」
 跡部は注意深く日吉を観察した。
「それをわざわざ前の部長に言いに行くんですから、怖いもの知らずというか……お手を煩わせてすみません」
 日吉は何でもないかのように話しているけれど、どうだろう。傷付いていないフリをしているようにも見えるし、本当に気にしていないようにも見える。
 どの道これくらいのことで弱音が出る一年生なら、他の部でも続かない。けれどその態度に傲慢さが出ても部員は付いてこない。そんな日吉も分かりきっているであろうことを、わざわざ説教するつもりは、跡部には毛頭なかった。
「お前はお前だからな」
 励ましとも訓示とも取れる跡部の言葉に、ややあって日吉は頷いた。
「はい、俺はあんな派手には出来ないので」
 生意気な返事に、思わず跡部は口元を緩める。
 窓の外の茜空は、もう端の方が紺色に染まって星も幾つか輝き始めていた。突然跡部は思い付いた。
「もうすぐ誕生日らしいな」
 唐突な跡部の言葉に、日吉はすぐには答えなかった。
「そうですけど」
 窓の外から日吉に視線を戻すと、困惑した顔と目が合った。静かな室内で視線と視線が交わる。
「若、何が欲しい」
 日吉の目が見開かれる。跡部が日吉を名前で呼んだのは初めてだった。何故このタイミングなのか、自分でも分からなかった。
 跡部を見つめる日吉の瞳孔が開かれているのがよく分かった。その視線はある種の熱を帯びている。今まさに窓の外に輝き始めた星のように、煌びやかな光を灯している。跡部はその視線をよく受ける側の人間だったし、その意味するところも知っていた。そして日吉がこの瞬間にその気持ちを自覚したのだと、手に取るように分かった。人が大きな、それでいて不確かな感情の渦の中に落ちていく瞬間を、今目にしたのだ。

 そして――奇しくも、跡部自身も全く同じ目をして、同じ視線を日吉に向けているのだと、この瞬間に気づいてしまった。



〔真夜中の瞳〕

 とても静かな夜だった。
 跡部邸の、特に跡部の部屋に面したこの裏庭は、公道から離れていて静まり返っている。足元に花壇を照らす間接照明がいくつかあるだけで、外壁に設けられた外灯ももう消灯していた。月は右側を少し窪ませて、これも十分な明かりとはいえない。
 日付が変わろうかという時刻だというのに、屋外は思いの外寒くなかった。

「何とか間に合った」
 跡部が微笑む先に日吉が立っていた。仄かな明かりの中、地面から生えたみたいに、ただそこに立っていた。顔までは十分に明かりが届かずにその表情までは見えない。
 跡部邸でのかつてのチームメイト達による新部長の誕生日パーティー。遅くまで騒いだ仲間たち。
 先程までの賑やかな宴を思い出して、正反対な静けさにどこか落ち着かない気持ちになる。もう皆寝ているだろうか。寝ていてくれてなくては困るな。ここから客室までは遠いけれど、よく日吉も抜け出して来てくれた。
 感謝を噛み締めながら一歩一歩日吉に近付く。冬特有の外気の匂いがより一層跡部の鼓動を速くさせた。
 ようやく日吉の顔が見えて、その瞳を捉える。心許なく揺れる瞳が、切なくて、でも日吉は決して跡部から目を逸らすことはなくて。
 その瞳に捉えられていたのは自分の方だったのか。いつからだったのだろうか。
「欲しいもの、決まったか」
 跡部が優しく問うと、日吉は静かに頷いた。サラサラと触り心地の良さそうな肌が、足元の間接照明によって淡く照らされている。
「跡部さんが欲しいです」
 いつものように淡々と事務的に喋る日吉は、それでもその表情に僅かな緊張を滲ませていた。跡部はドクドクと脈打つ自分の鼓動さえ、心地よく感じた。
 次の瞬間、突然鳴った電子音に日吉が肩をピクリとさせた。日吉の腕時計が、ミッドナイトを告げる音だった。
 タイミングの悪さに、思わず跡部は笑う。
「誕生日、終わっちまったな」
 日吉は拗ねた顔をして見せたが、すぐにつられて笑い出した。くすくすと綻ぶ表情に、跡部の心は温かくなった。この瞬間に、確かに二人の気持ちが繋がったと感じた。
 ひとしきり笑い終わると、再び沈黙が訪れ、ともすればそれは期待に満ちた時間だった。どちらともなく手を伸ばし、お互いの肌に触れる。日吉の肌は想像通りのサラサラとした触り心地だった。
 やがて顔が近付き、相手の睫毛の影さえ見え、二人はそっとキスをした。
 どこか遠くの大通りを走るトラックのエンジン音は、別の世界のことみたいだ。
 唇が離れ、再び日吉の瞳を真近で見る。力強く、それでいて暖かい光が宿っていた。日吉の鼓動が速くなっているのに気が付いたが、それと同じくらい跡部の鼓動も煩かった。
 もう一度日吉が跡部にキスをした。慣れない仕草に、下手くそ、とからかおうとして、出来なかった。
 こんな不器用な男のキス一つにこんなにも舞い上がってしまう自分がいるなんて。ああ月が欠けていく。鼻先が冷たいな。若の肌は温かい。
 日吉の首に腕を回し、より強くお互いの鼓動が感じられた。やがて二つの鼓動は一体化してしまうのではないかと思えた。

 二回目のキスを終え、日吉の瞳に映る自分を跡部ははっきりと見た。日吉と同じく、熱く蕩けそうな目をしていた。
「若、誕生日おめでとう」
 ずっと見つめ続けられてきた瞳にとうとう捕まった、とても静かな夜のことだった。





‐−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
Twitterで日吉の誕生日にカウントダウンした四部作でした。




back



- ナノ -