借り物の夢


 熱い熱いものが流れ落ちた。
 それは涙だったのか、汗だったのか。
 分からないけれど私の胸に落ちたそれは頑なに日吉へと向かっていった心をほぐした。

 次いで聴こえる、怒涛のような歓声――――。




 どんよりとした曇り空。
 梅雨は過ぎたっていうのにジメジメした湿気と暑さとに嫌になる。
「あんたも飽きないねー」
 ミキの声に振り向く。
 どこか物寂しい教室に、蛍光灯の明かりが白々しい。
 頬杖をついたクラスメイト――ミキがつまらなそうにこちらを見つめていた。
「何が」
「だから、ヒヨシくん」
 ああ。ため息とともに頷く。
「飽きるも何も……そんな簡単なものじゃないでしょ」
 ムッと眉間にシワを寄せ窓の外を睨みつけた。
 今度はミキがため息を吐く。やれやれ、というように。
「でもあんたフラれてんでしょーに」
 窓から目を離さずに、私は口の中で唸った。さっき食べたフルーツキャンディーのりんご味がまだかすかに残っている。
 鬱蒼とした気分に拍車をかけるように外の木が強風にざわめいた。

 相手にされていない。
 そんなの、最初から分かっていた。
 ただただ日吉の強さに魅せられた私は、一心に彼へ恋心を傾けた。
 でも他の子と一緒に思われたくはない。妙な意地から好意を抱いてないフリをして、彼に近づいた。
 しかしいくら話せるようになれど、彼の目に私が映ることはなかった。いつだったか、彼と恋愛話を半ば一方的にした時に、彼女はいらないとハッキリ言われたのだ。

 バチッという弾かれたような音に上を向けば、ハエが蛍光灯に一生懸命ぶつかっていた。向かって、弾かれて、向かって、弾かれて。
「今は、ほら」
 耳障りな音を掻き消すように、やや声を張り上げた。
「テニスのことで頭がいっぱいだし」
 まるで自分に言い聞かせてるみたいだ。それに気づきなんだか惨めな気分になる。
 まあ…ね。気遣うようにミキがちらっとこちらを見た。
 明日は青学戦か。呟き瞼を閉じた。
 木々がまたざわめく。一雨くるかもしれない。


「日吉」
 どんよりとした曇り空は夕方から激しい雨を降らせていた。
 呼ばれた男はいつもの無表情で振り向く。丸くなったワイシャツの背中と目付きの悪さから、つい猫を連想してしまう。
 んだよ。口は開かないが、彼の目がそう言っていた。
「傘、入れてあげようか」
 どっちでもいいけど、というような表情を心掛けて傘を差し出す。
 天気予報が高い降水確率を示していたって、朝降ってなければ日吉は傘を持って来ない。
 昨日の夕飯を食べながらニュースキャスターの言葉に明日は絶対大きな傘を持って行こうと目論んでいた。案の定、今は雨。
 部活後、部室棟の入口で立ち尽くしている日吉に偶然通りかかった風を装って声をかけたのだ。
 私の恋心と、それが無残にも打ち砕かれたことを知るミキには今日は先に帰ってと言ってある。
 詳しくは話さないが、ミキは「さてはヒヨシくん絡みだな」とニヤッと笑っていた。我が友の洞察力は思った以上に鋭い。

「……ああ」
 短く答えた日吉に内心ではガッツポーズをしながら隣に並んだ。高い背に、ガッシリとした肩に、真っ直ぐな前髪の間に覗く切れ長な目に、心拍数が上がる。
 ジットリとした嫌な雨が降り続ける中で、喋り続けていたのはもちろん私の方だった。もとから日吉に楽しい会話など望んでない。少しでも自分の話に耳を傾けてくれて、少しでも自分に興味を持ってくれればそれでいいのだ。
 鉛色の空は湿った土の匂いを吸い込まんと迫って来るかのように低い。

「アンタよく喋んな」
 来月の期末試験に話題が移ったころ、沈黙を続けていた日吉が低い声でポソリと呟いた。
 日吉が何かしらの反応をくれたことに浮かれていて、その言葉の意味にまで頭が回らなかった。
「え、そう…かな?」
 照れ笑いを押し込み、無関心を模る。
「でもさ、今度の期末は成績に響くみたいだし、将来のことまで考えたら今のうちからちゃんと勉強しとかなきゃ」

「医者になるためにか」
 車が脇を通り過ぎ、盛大に水しぶきがあがったが二人にかかるほどではなかった。
 日吉の言葉に目を見開いたままの私の耳に車のエンジン音だけがやけに残った。低く響いているはずなのに、何処かまったく知らない土地から軽く聴こえてくる。それはあたかも誰かの夢のようだ。
 日吉が、正面から私を見据えている。
 医者は、私の夢だった。高校を卒業してから入りたい医学部の目星もつけてある。そのために今、数学だの生物だのに必死になって苦しんでいるのだから。
 そんなこと覚えていてくれたんだ。言おうとして、だがしかしそれは言葉にならなかった。あの他人に無関心な日吉が自分の夢を知っている、これはとてつもないことなんじゃないか。
「アンタが何度も言うから覚えた」
 まるで私の心を読み取ったかのように日吉が呟く。再び驚いて、無意識の内に一歩後ずさった。じゃり、踵で小石が擦れた感覚がして骨に伝わる。
「何度も言うから、それは大事なことなんだろ」
 俺のテニスみたいに。
 日吉の声は雨音を消した。聴覚だけじゃない、視界だってぼやけて日吉の輪郭だけがはっきりと見えている。不快なはずの湿気すら、今は気にならなかった。
 日吉が何を言いたいのか見当がつかない。彼は何を伝えたいのか、何故だかその先を聞くのが怖かった。

「アンタは何がしたいんだ」

 俺にかまってるヒマがあるなら、他にやることがあるんじゃねえのか。




 ギュッギュッとテニスシューズがコートを擦る音が響いている。ゴムと樹脂でコーティングされた地面が生み出す摩擦力。炎天下の埃っぽい臭いと熱気が地面から立ち上ぼり肺を覆う。
 どのコートでも熱戦が繰り広げられていた。あちこちでボールを打つ小気味良い音が聞こえる。トーナメント形式のこの大会では負けは即ち大会敗退と、三年生の引退に繋がる。たかが高校生の大会。けれど、この夏に全てをかける選手が、何人もここにはいるのだ。
 その中でも私の視線は一人の選手にのみ注がれた。
 見慣れた横顔はギラギラと闘争心を剥き出しにして。ダラダラと流れ落ちる汗を拭うでもなく、ひたすらにボールだけを睨みつけている。彼が走る度にゲームが進む。彼がボールを打つ度に会場が沸く。
 青学には中等部の頃、二度も負けている。日吉にとって他の何よりも大事な試合だった。知っていたはずだった。
 いや、この青学戦だけではない。

 今の彼の全てはテニスであり、テニスが彼のスタートでゴールなのだ。

 ひしひしと、痛い程にそれを実感してしまった。
 テニスに夢中な日吉に私の入る余地なんてない、だなんて滑稽な言い訳だった。そのテニスに夢中な姿に、清々しいほどにがむしゃらな眼差しに、惹かれたのだ。

 私の夢は、日吉に依存していたのだ。
 小さい頃からの夢であったはずのそれ。高校生にもなれば現実も見えてくるし、あらゆる物事の裏側に隠された苦しみも知るようになる。
 ただただテニスにひたむきな彼の側にいて彼を好きでいることで、自分も強くなれた気でいたのだろうか。
 私はただ、厳しい現実から目を背けて、日吉を好きでいることで夢を追っかける自分を保とうとしていただけなのかな。

 日吉の勝利で終わった試合は、ゲームセットのかけ声とともに割れんばかりの拍手に包まれる。部員たちが日吉に駆け寄る。
 それを眺める私の目には知らず知らずのうちに、涙が溢れ出していた。とても熱い涙だった。
 それは頑なに日吉へと向かう私の心を解きほぐしていく。






「日吉」
 昨日から今朝まで降っていた雨は試合の開始とともに上がり、今は夏真っ盛りの青空だ。西の方の空は少しだけ朱に染まり始めている。
 テニスバッグを抱えて歩く日吉に疲れは見えない。私の呼びかけに振り向く彼は、誰よりも凛としていた。
 先に行ってて、と他の部員につたえると彼は私が近づいてくるのを待つ。
「おめでとう」
 勝利を祝福すると日吉は素直にコクリと頷いた。自信に満ち溢れた顔だ。
「日吉に言いたいことがあるの」
 再び日吉がコクリと頷く。

「私ね、日吉のことが好きだった」
 思ったよりも、すんなりと言えた。良かった。
 日吉の無表情は変わらない。でも何も言わず、ただ私の次の言葉を待っていてくれている。
「テニスでいっぱいなのは分かってる。それでも……、私の入る余地は、ないですか?」
 声が震える。聞かなくても、答えは分かっていた。けれどこれは、自分の中でのけじめだった。きちんとけじめをつけなければ、踏ん切りが付かないのだ。
「もちろん今はテニスもあるが……。彼女とか……、そういう意味でならアンタのことは好きじゃない」
 ああ、やっぱり。
 鼻の奥がまたツンとしてきた。だけど泣くもんか。
「……ん!了解!」
 顔を上げて日吉を真っ直ぐ見る。汗で濡れた前髪が乾き、束になって日吉の額で揺れていた。その奥の日吉の眼も、こちらを真っ直ぐ見ていた。憎いくらい、彼はいつでも真っ直ぐなのだ。
「正直言うとね、私はたぶん恋愛に逃げてた」
 この際だから言ってしまおう。全部、吐き出してしまおう。
「もちろん日吉のことを好きな気持ちに嘘はないけど、テニスに一生懸命な日吉を好きでいることで、自分も強くなれた気でいたんだ。辛い受験勉強を耐えられるか、本当は怖くてたまらない気持ちをきっと、恋愛でごまかしてただけなの」
 ごめんね、と笑いかけると日吉は「……別に」となおも無愛想に首を振った。
「でも、日吉にこうしてちゃんと気持ちを伝えて、スッパリ振られたから……たぶん、もう大丈夫」
 空を見上げる。どこまでも、青い空が広がるばかりだ。
「もう、ちゃんと自分の夢を追える。脇目も振らずに、頑張れる」
 再び日吉に視線を戻すと、彼はわずかに口の端を上げて笑っていた。彼にしてはずいぶん大人びた顔だった。
 ドラマの中とかじゃ、振られる時には必ずお決まりの言葉が言われるのだ。「ごめんね」と「ありがとう」だ。

「ガンバレ」
 日吉は、ごめんもありがとうも言わなかった。ただ、頑張れと。
 実に彼らしい。友達として、応援してくれている。
「……うん!日吉もね」
 私は心から笑えることに自分でも驚いたと同時にホッとした。大丈夫、笑える。夢を追いかけられる。
「じゃあ、また学校でね」
 手を振り、しかし思い立って、日吉の方へ駆け寄り背中をバンと叩く。
 うっと日吉が小さく呻いた。
「受験が終わって、気が向いたらまた日吉のこと好きになるかもねー!」
 言い逃げのように、ケラケラと笑って走り出す。半ば呆れたようなポカンとした日吉の顔が可笑しかった。

 大丈夫。笑える。走れる。きっと、ひたむきになれる。
 日吉が応援してくれた。
 もう誰のせいにもできない。でも、私の、私が叶える夢が目の前に続いているのだ。
 西日を背に走る私の目の前には、真夏の濃い青空が広がっている。

 私の走り去った後の乾いた地面に、ポツリと落ちた熱いものは果たして汗だったか涙だっただろうか。



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