風の匂いは、間違いなく秋のものだった
日吉とキスをする夢を見た。
それは、跡部が高等部に進学し二年と半分が過ぎ、三年生の先輩が部活動を引退した後の、九月のことであった。
跡部の夢の中で、日吉は慣れ親しんだ氷帝学園の夏服に身を包み、いつもと変わらず無愛想な顔で、そしていつもと同じギラギラした眼で跡部を見据えていた。
何も喋らず、だけれど獲って喰ってやると言わんばかりの熱量で跡部から目を離すことはない。果たしてそれが、普段の日吉と全く同じかと言われれば疑わしいところだ。
確かに日吉がこんな眼で跡部を見ることは、まあある。だが彼がこんなに近くで、長い間何も言わずに、それもある種の熱を帯びたようなこんな視線を絡ませてくることは、跡部の記憶の限りではないはずだ。
やがて日吉が跡部に手を伸ばす。
跡部の右頬に触れた日吉の筋張った手は体温高く、硬く、彼に少年らしいイメージを持っていた跡部は思わずドキリとした。
そのままするりと撫でつけるように跡部のうなじへと滑らせる。うなじから後頭部へ、襟足の生え際を逆立てるように手を添える。その感覚に、ゾクリと後頭部から脊髄を走り下半身まで快感が走り抜けた。
身じろぎをして逃れようとしたが体が重く上手くいかなかった。体の自由がきかない跡部の後頭部に手を添えたままで、日吉が強く引き寄せる。
顔が近付き、二人の唇と唇とが触れるその直前まで日吉はあの眼で跡部を見つめていた。
触れる唇は熱く、しかし跡部自身の唇が熱いのか日吉の唇が熱いのかは判断付かなかった。何度も何度も、角度を変えてキスを繰り返す。時には浅く、時には深く、時には熱い舌が侵入してきて、あるいは自身の舌をねじ込ませて。
次第に二人の熱が唇から一体化して全身に広がり、溶けてなくなってしまいそうだと思える頃、跡部は目を覚ました。
もう朝晩はだいぶ涼しくなってきたこの頃だが、跡部はじっとりと汗をかき寝間着が背中に張り付いていた。
何よりショックだったことは、あんな夢を見て目を覚ました跡部が勃起していたことだった。
その朝、跡部にしては珍しくギリギリの時間に起きてしまったものだから、慌ただしく準備をして出かけることになった。
そのおかげで熱は勝手に収まり、まさかあの無愛想で(しかも男の)後輩を自慰行為のネタにすることがなくなり、内心ほっとした。
学校に着いてからはいつもと変わらない日常であったが、それでも夢のことが頭から離れず、授業のふとした合間に夢の内容を脳内で反芻している自分に気が付いた。いけない、早く忘れようと思っても、また気が付けば夢の内容を繰り返し思い浮かべ、日吉の熱い視線や背中に走った快感、唇に触れた感覚を思い出しなぞってしまう。
突然あんな夢を見るだなんて、一体どうしたというのだろうか。今まで日吉をそんな目で見たことはない。夢は記憶の整理だ。起きている時に見聞きしたものや考えていたことに引っ張られるというが、ここ数日の中で別段そんな話をしていたりテレビで見たということも、なかったはずだ。
もしかして欲求不満なのだろうか。
部活に、生徒会に、家のことに、相変わらず毎日は忙しい。忙しいながらも、一つ上の三年生が部活を引退して、新体制になった慌ただしさからは一段落着いたところではある。来月には中間考査が、再来月には文化祭が控えてはいるものの、生徒会の方もまだ比較的ゆっくりと仕事ができる頃合いだ。言ってしまえば、少し暇が出来た訳で、さらに気候も涼しく、何かと考え込むような時間も増えた。
そんな空白の時間が、普段は忙しさで隠れている若い男子ならではの欲求を出させてしまったのかもしれない。
午後の移動教室の際、日吉を見かけた。
美術の授業に向かう途中、特別棟の一室パソコンルームの扉が開いておりその中に日吉がいたのだ。パソコンの授業は3クラス合同で行う選択科目のうちの一つで、男子が多いようだ。日頃から目立つ跡部は廊下を歩くだけでも下級生の注目を集め、当然日吉も気付きこちらを見た。
あんな夢を見たものだから、いつもは何とも思わない日吉の姿に動機が早くなる。
自然と目で追ってしまったために日吉と目が合うが、夢で見たようなあの熱っぽさはなかった。平常通りの日吉の無関心な目だ。
先に視線を外したのは跡部の方だったが、いつもよりも長く見つめてしまった気がする。不自然だったかもしれない。
バツの悪い思いで美術室の机に座った跡部だが、しかしまた夢の内容を反芻してしまっていた。この日の美術は彫刻像のデッサンだったが、どうも夢の内容に引っ張られて彫りの深いはずの目元は日吉のような涼し気な目元に、体格もどことなく彫刻像よりも細身に、そして手は夢で見たような筋張った手になってしまった。
こんな様子では部活に集中できるか少し気が重かったが、それはいらぬ心配だった。
部活となれば自然とスイッチが入り、日吉のことを気にも留めないし、目が合っても夢のことは思い出さなかった。夢の中では制服姿だったからというのもあるだろう。ジャージ姿で練習に打ち込む日吉の姿を見ても、跡部はいつもと変わらぬ平静を保つことが出来た。
大分涼しくなってきた風はテニスをするのに最適な気候と言える。
もう少しすると、あっという間に日の暮れが早くなり、部活動のできる時間自体が短くなるため今のこの快適な環境の中での練習さもつかの間のことだろう。
しかしその翌日には、またしても跡部は日吉を見るとどうにも夢のことを思い出してしまっていた。
日吉に会ったのは朝一番、送りの車を降りて昇降口へ向かっている途中のことだ。
そろそろ衣替えの時期となり、半そでの者とブレザーを着用する者とが半々くらいだ。ふと前を歩く生徒たちの中に、日吉の背中を見つけた。彼も今日から衣替えらしく、ブレザーを着ている。
ブレザーを着るのなんて毎年のことで、日吉のブレザー姿を見たのも初めての訳じゃないのに、何故だか新鮮に映った。
自然と速足になり日吉と距離を詰める。
それでも声をかけずに後頭部を見るともなしに見ていると、日吉が振り返り気が付く。こちらを見る日吉の目に心臓が跳ね上がった。日吉はぺこりと、申し訳程度の会釈をすると再び前を向いた。
とことん無愛想な男だと思いながらも、とうとう挨拶するタイミングを失った跡部は名残惜しい気持ちを抑えつけて、自分の下駄箱へと向かった。
それから数日は日吉を見るたびに早くなる鼓動を感じながらもたかが夢に、さらに言えば思春期ならではの欲に振り回されている自分が少しばかり悔しくもあり、しかしどこか可笑しくもあった。
それでも時間が経つほどに夢の記憶と感触とは段々と薄れていき、もうほとんど夢のことを日常で思い出さなくなったある日。
日吉が、特別棟の屋上にいるのを跡部は見た。
見つけたのは、たまたまであった。昼食を取ろうとカフェテリアに向かった時のことである。この日は非常にいい天気で一日中太陽が出ていた。しかし空気に真夏のうだるような暑さはなく、吹く風はすっかり秋の匂いだ。
何となく見上げた空は高く、一つの季節が終わったことを感じる。
見上げたままで、何の気もなしに後ろの校舎を振り返った。中庭には計画的に植えられた樹木が影を作り、そこかしこで生徒が昼食を食べたり何人かで談笑している。ひと際大きい辛夷の樹の向こう側、特別棟の屋上のフェンスの向こうに、人影が見えた。こちらに背を向けているし、縁に座っているらしく肩から上しか見えなかったが、あの後頭部は間違いない。日吉だ。
いつもはカフェテリアか、もしくは生徒会室で昼食をとる跡部だが、この日は迷った挙句ベーコンレタスサンドをテイクアウトした。ブレッドをトーストしてあり、受け取った袋はほんのりと温かい。
それを持って特別棟へと足を速める。
何となく人目が気になりながらも三階分を、息も切らさずに速足で昇り、屋上に続く階段へと辿り着いた。
もしかしたらもういないかもしれない。そもそも一人でいるとも限らない。その場合の口実を何パターンか、一瞬で考えた後に屋上の重いドアを開けた。
開けた屋上には、ぱっと見誰もいないように見えた。
さっきカフェテリアから見えたあの後頭部はこっち側のはずだ、と跡部は今出てきた出入口から反対側へ回る。
案の上、そこには日吉がいた。胡坐をかいた彼は床に広げたお弁当を食べているところらしかったが、突然の訪問者に、さらにはそれが跡部であったことに大層驚いたらしく目を丸くしていた。あまり見ることのない珍しい表情に、跡部は満ち足りた心地がした。
「……何の用ですか」
持った箸をフリーズさせたままで日吉が問う。
跡部がわざわざここまで尋ねて来るのだから、何か差し迫った用でもあるのかと考えたようだ。
「下から、お前が見えてな」
跡部は正直に話す。二人だけしかいないこの空間では、考えた口実なんか無意味な気がしたのだ。
「……はあ」
日吉はまだ箸を止めたままで、まじまじと跡部を見る。
その顔があまりにも可笑しくて、思わず笑みがこぼれる。跡部の笑いに、今度は日吉は怪訝そうな顔をする。
「俺もここで食べるぜ」
日吉が返事をするより早く、跡部は隣に腰を下ろした。ちょうど出入口のある塔屋の影になっており、涼しい。
「……はあ、どうぞ」
跡部がベーコンレタスサンドとアイスコーヒーを取り出して食べ始めた頃に、ようやく日吉は返事をした。突拍子もない跡部の言動には慣れつつあったし、特段詮索することでもないと思ったらしい。
跡部は少し冷めたサンドイッチを、日吉は家から持ってきたであろうお弁当を黙々と食べた。時折日吉を盗み見れば、最初の跡部出現の驚き以降は特に気にする様子もなかった。
庶民的だが美味しそうな惣菜、そしてそれを咀嚼する口元にどうしても目が行く。忙しなく動く唇は薄く、これといった特徴もない。目立たない形状をしているが、夢のせいか綺麗な形だと跡部は思った。
日吉はさっさと弁当を食べ終えると本を取り出し読書に耽った。ブックカバーが付けられているためどんな本かは分からないが、同席する先輩とコミュニケーションを取るといった当たり前の気遣いは、一切ないようである。
跡部はなるべくゆっくりサンドイッチを食べたが、どうしたってそこそこの時間でなくなってしまう。食べ終えるととうとうやることもなくなり、僅かに残ったアイスコーヒーを飲みつつぼーっと空を眺めることとした。
思えば、何もせずにただ空を眺めるだなんて久しぶりな気がした。そよそよと吹く風は先日までの湿度が感じられず、心地よく眠りを誘う。
ちらりと読書をする日吉に目を向けると、邪魔そうな前髪が風に揺れていた。
涼し気な目元にあの激するような熱さはない。さらに視線を下ろすと形の良い唇。
跡部はあの唇の柔らかさを知っていた。知っていたけれど、触れたことはもちろんない。
触れたい―――。
瞳を閉じ、跡部は自分の胸が高鳴っているのに気が付いた。
一つ深呼吸をして目を開ける。肺一杯に秋の風を吸い込むと幾分か気持ちも落ち着いた気がした。
「じゃあな」
腰を上げて汚れを払う跡部を日吉が見上げる。
形ばかりの会釈をするその表情は一体何だったんだという疑問が見てとれたが、日吉がそれを口にすることはなかった。
しかしその翌日の昼、またしても跡部が屋上に現れた時にはさすがに不審をいっぱいに滲ませた顔をしていた。
「一体どうしたんですか」
そう苦々しげに尋ねる日吉は、跡部が何か企んでいるのではと警戒しているようでもあった。
「別に何も」
何事もないというように跡部が短く答えて腰を下ろす。
日吉はしばらく跡部の顔を不躾なまでに見つめていたが、少したつとため息を吐いてお弁当を食べだした。それからは昨日のように一切の無関心で、弁当が空になると昨日の続きの読書にいそしんだ。
それからというもの、跡部は頻繁に屋上に現れ、昼休みを日吉と過ごすようになる。
生徒会に顔を出さなきゃいけなかったり、教師からの呼び出しがあったりして毎日というわけにはいかないが、それでも平均すると二日に一回は屋上で、日吉と昼休みを共にした。
一緒にいる時間にも、特別会話があるわけでもない。時折どうでもよいこと、本当にどうでもよい天気のことや日吉の読んでいる本の内容(今読んでいるのは古典派SF小説であった)について一言二言話すことはあるものの、相変わらず日吉の態度は我関せずといったところだ。そして跡部は日に日に募っていく日吉に触りたい欲求を認めつつあった。
面白いことに、そんな日吉が放課後部活の時間になると昼間の無関心とは打って変わってあのぎらついた眼になる。跡部は跡部で、昼間感じていた日吉への欲求は消え失せ、部活動に集中するのみであった。昼と夜の逆転性が背徳的であり面白くもあった。
ある日の昼休みには、それとなく日吉に触ったこともある。
肘を後方について本に没頭する日吉へ、そろりと手を伸ばし、不意に接触してしまったかを装って、その指に触れたのだ。
しかし日吉は目だけ本に釘付けのまま「あ、すみません」といともあっさり腕を引いてしまった。つまらない。
深追いも出来ぬまま、また数日が過ぎた。
いや深追いはしてはいけないと、心の奥底で警鐘鳴らしている跡部自身がいることも確かだった。
自分の興味本位な欲に、純真無垢なこの男を付き合わせて、引きずり込んではいけない。
そう思っていたのだ。
そして日常は流れ10月となったすぐのこと。
登校した途端騒がしい周囲の様子に、今日は自分の誕生日なのだと跡部は知る。
引っ切り無しに訪れるプレゼントは全て樺地が引き受けてくれた。押し寄せる好意の嵐に今年もまた秋が来たのだと、一種の風物詩のように感じながらも跡部は後に開封しなければいけないプレゼントの量に頭を痛めた。
それは一日中絶えず続き、放課後部活動が始まってからも同様である。
部活動中もフェンスの向こうから「……せーの、跡部様―!誕生日おめでとうございまーす!」といった黄色い歓声が時折聞こえてくる。
跡部はある時は聞こえないふりを、ある時は不敵な笑みで答え、またある時は指を鳴らして鎮めた。
何故こんなにも自分を祝ってくれる人々がいるのか、だなんて疑問を抱くことさえ跡部はなかった。それが跡部景吾という人物だからであり、その人生のある種業の一部でもあるのだから。
祝われるのは、当たり前。
他人が自分に奉仕するのも、自然の摂理。
欲しいものは、無論自分で勝ち取りにいく。
では、欲しいものとは?
本当に欲しいものはそんなに多くはないはずだ。これまで跡部はそのほとんど手に入れてきた。
そして、今は?
日の暮れかかった部室の影に、日吉の姿がある。
夕焼けに頬を照らした横顔は、しかし夢の中のような、はたまたテニスをしている時のようなぎらつきはなくただただ面倒くささをかくそうともせずに滲ませていた。
それは部室から依然として聞こえる正レギュラー部員達の興奮と甚だしい盛り上がりが原因だろう。
向日の掛け声を発端としてけたたましく爆発したクラッカーのキラキラとした残骸が日吉の肩から背中にかけて貼りついていた。
慈郎の度の過ぎた悪ふざけにより床にぶちまけられたコーラやらノンアルコールシャンパンやらを洗い流すため、日吉は外に水道からわざわざホースを引っ張ってこようとしていたところだ。そういえば髪から滴っている雫はコーラかもしれない。
騒ぎの最中、抜け出してきた跡部は、自分の髪からも甘い液体が滴っていることに気が付いた。
それが満更悪い気もしないのは中等部からともに青春を駆け抜けてきた仲間からの祝福が純粋に嬉しいからだ。そして宵闇の中の非日常な仲間たちの興奮と、部活動の疲れとがうまい具合に交じり合って、跡部自身も高揚していた。
輪に束ねられたホースを伸ばした日吉が、こちらを向く。
日吉の向こうには既に沈んだ夕日の残骸がオレンジに滲み、跡部の背後には秋の夜が迫っていた。
無愛想な日吉の肩から相変わらずヒラヒラと伸びたクラッカーの飾りが不似合いで、可笑しい。
辺りから聞こえる虫の音はより一層秋の気配を強め、今までとは違う季節が訪れたことが跡部の衝動を後押しした。
呆れた顔の日吉は非常に面倒だという態度を貫きながらも、中等部の頃のような刺々しさはない。彼もきっと、人と、テニスとの関わりの中で日々成長し、変わっているのだろう。
度の過ぎた先輩たちの悪ふざけに呆れつつも、その後始末をすることにそれほど拒否反応はないようだ。
風はほんの少し夜の湿り気を帯びて、しかしあくまでも次の季節の訪れを告げている。
日吉の立つ壁際に近付き、跡部は壁に手を付く。
ちょうど部室裏の壁と、自分との間に日吉を挟む形となった。
壁一枚隔てた部室の中の、仲間たちの喧騒がどこか遠く聴こえる。
眉を寄せた日吉が、口を開くより早く、跡部は口づけをした。
時間にしてみれば一瞬だったが、触れただけの唇から、跡部は感じたことない満足感を感じる。虫の鳴き声が、心地よい。
それこそ文字通り夢にまで見た、日吉とのキスは、どこまでも優しかった。
唇を離した後の日吉は先ほどまでと変わらず怪訝な表情のままで硬直していた。
今までにない近い距離にいるからか、ほんのりと彼の衣類に付いたお香のような匂いと、汗の匂いを感じた。
どうやって言い訳をしようか。
時が止まったかのような空気とは裏腹に跡部の頭は目まぐるしく動く。
「……なんですか」
ようやっと、放心状態の日吉から出た声は情けなく、しかし表情は依然として険しいままだ。
秋の夜闇を背後に背負い、跡部はどうしたもんかと目を細める。
「……誕生日だからな」
跡部の言葉に日吉はホースを持ったまま相変わらずの可愛げのない顔で、しかし正面から向き直る。
どうにでもなれ、というなかばやけくそな思いと、どんな返答であれ返り討ちにしてやる、という相反する二つの気持ちが跡部の心中で駆け巡っていた。
二人の影はいつの間にか夜に溶け、彼らの間を爽やかな風が流れる。
胸に広がるどこか懐かしくもある風の匂いは、間違いなく秋のものだった。