水と光と僕と君の夏
屋上に出ると、夏特有の塩素臭さが鼻を刺激した。
屋上には、沢山のシーツが干されている。真っ白なそれが風にたなびく様はまるで一つの巨大迷路であるかのようだ。
シーツとシーツの間を通り、屋上の一番端、病院の前庭が見渡せる場所まで幸村は移動した。
フェンス越しに、病院の敷地の向こう見飽きた街を眺めながら、深く息を吸う。
十五回目の夏、この塩素の臭いを嗅いで彼が連想したのは、悲しいかな病院の薬品であった。
入院してから、何日が経つだろうか。もうこの季節がやって来たのか、なんて感じながらも、今年の水泳の授業は参加出来ずに終わるのだろうなと思う。
プールの臭いは、おそらく近くの小学校から風に乗ってきたものだ。小さな子供達がプールでキャッキャと騒ぎながら笑顔で遊ぶ光景が浮かんだ。
幸村は目を閉じる。空の眩しい青さが目に焼き付いて残像として残った。目を閉じたままでも感じる日差しに僅かに平衡感覚を奪われそうになる。
―――何故、自分は此処にいるのか。
幸村は、何度目かも分からぬ問いを瞼の裏の暗闇に投げ掛けた。すると、瞼の向こう側から太陽が嘲笑い答える。
病気だからさ、と。
そんなの、分かっている。知っている。自分の体のことくらい、自分の病気のことくらい、その病気が中々治らないことくらい。
知ってる、けど―――‥
幸村は、薄く目を開ける。キツイ日差しが目に入る。そして、目の前に広がっているのは変わらずに大きな大きなフェンスだった。
思わず、自分自身に吹き出しそうになる。目を開ければ、自分を取り囲むフェンスが消えてなくなるとでも思ったのだろうか。
それとも、手を伸ばしてフェンスを揺すってみようか。もしかしたらフェンスが崩れ去るかもしれない。幸村は、そんなことを考えた。それでも、彼が手を動かそうともせず自分の体の両脇にぶら下げたままでいるのは、そんなことをしたって無駄だとハッキリ頭で理解しているからだ。
午後の生暖かい風は、幸村のパジャマを膨らませて通り過ぎる。プールの塩素臭さを置いていったから、また学校のプールが頭に浮かんだ。
お昼過ぎの今の時間帯、水泳の授業はとても気持が良い。でも皆、その後の授業は疲れきってぐっすり寝てしまう――――――――クラスの大半が居眠りをしているのを、幸村は黒板の内容を書き写した後で眺めていた。気持ち良さそうに眠るクラスメイトと、困った顔の先生に、思わずクスリと笑みが溢れる。
そんな些細だけど幸せな日常でさえ、今の幸村の心を温かくはしなかった。
病院の庭にある噴水に目を止める。キラキラと光が水に反射する様子は、それこそプールみたいだ。だがその周りに楽しそうにはしゃぐ生徒達の姿は、もちろんない。
平日の昼間、病院に来るのはお年寄りか、母親に連れられた小学校入学前くらいの小さな子供くらいだ。
皆、今頃何をしてるのだろう。
午後のつまらない授業に欠伸を噛み殺しているのか。それとも、水泳の授業で水をその肌で感じているのか。あるいは、本当に水泳の後で疲れて居眠りでもしてるかもしれない。
フェンスに手を伸ばす。
揺さぶりはしなかった。その代わりに、ギュッと強くフェンスを握り締める。フェンスが食い込み、指が赤くなった。痛い。痛いけれど、その分胸の痛みは軽くなった気がする。だけど、下に居る人達の中で、屋上に一人佇む幸村に気付く者は居ない。
指の力を抜き、するするとフェンスから手を下ろした。線の跡が赤く付いた手を、幸村は無表情にただただ眺めていた。
プールの中に、この手を入れたらきっと気持ち良いだろう――――
そんなことをボンヤリと考え、再びプールみたいにキラキラ輝く噴水に目を向ける。
ふと、見慣れた制服が目に止まった。
それは、入院中何度も想っていたキミの姿。
幸村は、胃の辺りがグラリと揺れるのを感じた。
立海大附属の制服に身を包み、この暑さのせいか紅潮した頬に、鞄が掛けられた僅かに汗ばんだ肩に、髪の間から覗く綺麗なうなじに、目が釘付けになる。
仲間と一緒にお見舞いに来ることはあっても、一人で来るなんて初めてのことだ。
しっかりとした足取りで病院の玄関に向かうその姿を凝視してると、ふいに此方を見上げた。
二人は目が合う。
一瞬の後、キミはにっこりと笑った。汗ばんだ髪をかきあげならがら、想い焦がれたあの笑顔を見せた。そして大きく、大きく、幸村に向かって手を振る。
「なんで」とか、「学校はどうしたのか」、とかつまらない疑問やぐちゃぐちゃで複雑な気持ちは、眩しいその笑顔で全て吹き飛んだ。
幸村は、優しく微笑み手を振り返す。
キミはまるで降り注ぐ日差しのようで、キミの笑顔はまるで水に反射する光のようで。
だから俺は、太陽の光を全身で受け止める水面になろうと思ったんだ。