浮足だった街と



「泥棒のにいちゃん」

 夕暮れ時の、ガヤガヤとした賑やかさを持つ雑踏の中でも、その声はある種不思議な響きがあった。学校帰りの学生、これから遊びに出るサラリーマンらしき人達、のれんを掛け始めた飲み屋の主人、何かのキャンペーンでティッシュを配る若い女性―――――聞き流していた街の雑音がこの時ばかりは遮断されたようにも思える。
 それほどまでにその声は軽やかに耳に入り、手塚の脳に素早く馴染んだのだ。
 立ち止まり、後ろを振り返る。
 流れていく人々の中に一人、少女もまた立ち止まっていた。戸惑いがちな大きな瞳が、手塚と目が合ったことで更に大きく開かれる。
 誰だったか、手塚が思い浮かべる間も与えずに少女はニッコリと笑った。
「やっぱり、泥棒のにいちゃん!」
 少女はホッとしたかのようにそう言うなり、手塚に歩み寄る。制服の上からコートをはおった彼女が近付いて来るまで、手塚はじっとその姿を見つめた。やがて目の前まで彼女はやって来て、手塚を見上げる。
 二人の視線は、五年前よりも近くなっていた。
「・・・ミユキ」
 手塚は静かに呟く。あまりに自然に出てきた単語は、ほとんど独り言に近かった。
 ミユキはぽつりと落とされた手塚の言葉にぱあっと顔を輝かせる。
「うちのこと、憶えててくれたんね!」
「ああ」
 手塚の肯定の頷きに、ミユキの笑みはよりいっそう深くなった。

「何故こっちに来てる?」
「うちね、高校は東京の学校に行くつもりたい。だからその受験のため」
 ミユキは照れくさそうにはにかみ、事情を説明する。
 彼女の話によると、親の仕事の都合で春からは東京に引っ越してくるらしい。なので、高校もこちらの学校を受験しに来たのだとか。
 二人は市街地を駅に向かって並んで歩く。まだ日は完全には沈みきってないが、街には明かりが灯り始めていた。
 二人は近況を報告しながらゆっくりと人並みの間を縫っていく。ミユキは中学での生活やテニスの総体で全国ベスト8に入ったことなどを話し、手塚にもあれやこれやと質問をしたので、大学での様子やプロのテニスプレーヤーを目指して日々練習に明け暮れていることなどを話してやった。
 ミユキとは五年ぶりに会ったというのに、ほとんど時間の壁を感じない。やがて会話は他愛もない話題になり、まるで毎日会っている友人のような気さくさだ――――恐らく、ミユキの屈託ない笑顔と明るい性格がそうさせているのだろう。
 仕事や学校帰りの浮かれた群衆の中を寒々とした風が吹き抜け、それはミユキの髪を撫でた後どこかへと去っていった。
 手塚は揺れる毛先を眺めながら、もうすぐ駅に着いてしまうということに気が付いた。
「たとえば、もし良かったら」
 もう200メートル程先に駅の改札が見えてきた頃、手塚は唐突に切り出した。
 ミユキは視線だけ向けて言葉を待つ。その表情はやはりにこやかで、挫折だとか苦難だとかを忘れさせてくれる気配さえした。
「時間が出来たら、飯でも食べに行かないか」
 手塚はそこで一旦言葉を切った。前だけを見て歩いていたが、なかなか反応が帰ってこないので振り返る。
 ミユキが、十歩ばかり後ろで立ち止まっていた。
「どうした」
 手塚の言葉に彼女はハッとなりすぐに駆け寄って追い付く。再び隣に立ったミユキは満面の笑みを浮かべていた。
「ほ、本当に連れてってくれるとか?」
「ああ」
「四月より後になると思うけど……それでもよか?」
「ああ」
 ニッコリ、ミユキは五年前とは少し違った、それでもやはり眩しい笑顔で手塚を見上げる。
「東京に慣れてないだろうし案内も兼ねて……と思っているんだが」
 どうだろうか、と手塚がミユキを見やると彼女は素早い動作で首を縦に振る。
「もちろん嬉しいっちゃ!うち、楽しみにしてるね」
 ミユキは食事の提案を喜んでるらしかったので、ひとまず手塚は安堵した。
 駅の改札を通り、二人は灰色の構内を歩く。やはりここも、人々は何処か浮足だっていた。
 それじゃ、と別々のホームに行く前にミユキから走書きの電話番号を渡される。ミユキの携帯の番号だったが、五年前はあんなに小さかった女の子が今は携帯を持っていると思うと、不思議な気持ちだった。
 駅の構内は帰宅する人達で溢れかえっていて、立ち話も長々としてるわけにもいかない。
 ガヤガヤとした密度の濃い空気の中にミユキが消えていくのを手塚はしばらく見送っていた。
 番号が書かれた用紙をそっとジャケットのポケットにしまうと、手塚も電車に乗るべく歩き出す。
 いつもは疲れる満員電車も、その日はたいして疲労を残さなかった。

 浮足だっているのは、自分の方かもしれない。
 手塚がその考えに至ったのは、家に帰り番号を携帯に登録する頃だった。










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