美しき日本の春


 こんなに綺麗に泣く奴を、跡部は見たことがなかった。

 関東大会初戦、初めて彼の涙を見た。ボロボロと、惜しげもなく頬を伝うそれは、実際に触ったわけではないが、きっと熱いのだろう。
 綺麗、とは言ってももちろんそれは視覚的な意味ではない。目は赤く腫らしているし、こらえるように歪められた口元は実に不格好だ。
 そもそも“涙”とは、溢れ出した人間の感情であり、おそらく一番こころに近い部分だ。泣くというのはその人のこころを裸の状態でさらけ出す気がしてならなくて、だから昔から他人にしろ自分にしろ、誰かが泣くというのはどうも好きになれなかった。
 それなのに、アイツの場合は。
 ぼろぼろと、ただひたすらに流れる雫。それを恥じるでもなく、逃げの手段として使うでもなく。
 悔しい。負けたのが悔しい。負けた自分が情けない。もっと強くなってやる。それらいろんなものがいっぱいになり心の器から零れ落ちるかの如くに、泣いた。それはありのままのアイツ自身、そのままのアイツのこころだった。
 少しばかり他の生物より知能が高いだけの人間という生き物だけに許された、泣くという行為の意味を、跡部はぼんやりと悟った気がした。


 そんなことを考えたのはきっと、すっかり春の顔をした街で久しぶりに日吉に会ったからに違いない。

 学校前の並木道を南に歩いて行く途中に、自転車に乗った日吉が跡部を追い抜いた。追い抜きざまに、わざわざスピードを落として跡部の顔を確認しながら。
 やっぱり。キッとやけにうるさく響くブレーキの音の後で日吉は言った。
 珍しいですね、歩きなんて。などと、久しぶりに会った前部長に向かってまるで毎日会ってるかのような顔で言うから、高等部の入学式の帰りで、天気も良いから歩きたくなっただけだと跡部にしては詳しく説明してやって、それから日吉の自転車の前かごに鞄を放り投げてやった。
 懐かしい無表情がすぐさまムッとした顔に変わり、それすらも懐かしいと思いながらも不敵に笑い、桜が見たいと言えば、意外にも素直に日吉は頷いた。
「そういやお前、部活はどうしたんだよ」
 跡部の言葉に、自転車を押しながら隣を歩く日吉が振り向く。ちょうど土手に上がる坂の下に着いた頃だった。
 近くにある綺麗に整備された都立公園を漠然と思い浮かべながら跡部は歩いていたのだが、日吉が土手にしましょうと言いだしたのだ。あそこは広いけれど桜の名所として有名な場所だから、平日の昼下がりと言っても今の時期は花見客でごった返してるに違いない、と。
 そう言われれば別段そこがいいと言い張る理由もないし、日吉が穴場だと言うその場所に大人しくついていくことにしたのだ。
「なんか女子テニス部の方が六校合同の練習試合をするとかで、男子用のコートまで使ってるんです」
 日本の学校制度の中の好きなものの一つに、春に年度が切り替わることがある。
 日本の春は、なんて、終わりと始まりにふさわしいのだろう。眠くなる気候、暖かな日差し、風、咲き誇る桜。春は―――

「懐かしいにおいがする」
 日吉が振り返る。
 自転車を押す彼の背後には、咲き乱れる桜。空をびっしり埋め尽くした桜達は、ざあざあとその花弁を鬱蒼とした川辺に降り注いでいる。
 足元は高さがまばらな雑草が生い茂っているが、ところどころピンクが覆いかぶさり、いくらか平らな場所はまさに桜の絨毯である。
 すう、と息を吸い込むと、雑草の緑のにおいと、桜の太陽の匂いがした。桜の合間を縫って見える青空が日吉の顔に、肩に、腕に、陰影を作っている。
「イギリス出身なんじゃないんですか」
 懐かしいにおいといったのは別に桜に限った話ではないのに。
 まあ、いい。今日は日吉の声が心地よい。
 跡部が何も言葉を返さないでいると日吉は僅かに眉根を寄せた。だがしかし何も言わずに自転車をその場に駐車させた。タイヤが背の高い雑草と桜の花びらとを巻き込む。
 桜が雨のように散るさまは圧巻だ。この分だと二日後にはもうだいぶ少なくなってしまっているだろう。
 はらり、はらり。日吉の肩に何枚かの花弁がすでに乗っかっている。と、いうことはきっと自分にも桜の花弁がくっついているに違いない。
 頭を振ると、ほら。はらりと一枚が落ちる。
「……なんで急に、桜なんか」
 やけにあっさり承諾したくせに、日吉は今になって理由を問うてきた。
 なんでだろうな。跡部はやはり返事もせずに、ぼんやりと桜を眺める。眠くなる気候、暖かな日差し、風、咲き誇りそして舞い散る桜。
 そうか。
 惜しげもなく散る桜は誰かの涙にそっくりだ。やっと冬が終わりやってきた暖かな陽気はやがて来る夏を感じさせてくる。あの夏を思い出すから、懐かしいだなんて思ったのか。
 まだ一年もたっていないのに懐かしいだなんて、と跡部は微かに口角を上げる。
 日吉が怪訝そうな顔でこちらを伺い見る。
 また、あの涙が見るのは数カ月後か、一年後の夏か。まったく、もうあんな思いはしたくないと思ったはずなのだが。
「おまえを泣かせてえな」
 声を出さずに日吉が息を飲み後退る。停めてあった自転車につまずき自転車が倒れそうになるが、気が動転しているわりに片手で難なく押さえた。
 珍しく目を真ん丸にさせて、少し怯えた顔で、まじまじと跡部を見つめている。

 ああ、なんと美しき日本の春。

















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「ひまわり」といい、私の書く日吉くんは穴場をたくさん知っているようです。



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