ひまわり


 ガサガサと固い葉をかきわけ進む。
 一面濃い黄色が敷き詰められて、青い空との美しいコントラストはこんな状況がじゃなければため息が漏れる程だ。
 だがしかし今はムワッとする暑さと草いきれとにイライラするばかりだった。何より太陽の形をしたその花はちょうど跡部の顔の高さに位置している為に避けながら歩くのは安易ではない。何度目かも分からない舌打ちをして跡部は前を歩く日吉の腕を掴んだ。


 ひまわり畑に行きませんか。
 そう言い出したのは日吉だった。唐突に、昨日の部活の帰りに言われたのだ。日吉という男の言動に脈絡がないのはいつものことだし、付き合いだしてからもう結構経つのだからそれにも慣れたつもりだった。
 しかし何故、
「何でひまわり畑なんだよ?」
 跡部の疑問に日吉は少し居心地が悪そうに瞬きをした後に答えた。
「小学生の時によく行ってた場所があって……跡部さんに来て欲しいんですけど」
 仮にも可愛い恋人にそんなことを言われたら断ることなんか出来ないだろう。可愛いと言っても決して顔の話ではない。目つきは悪いし愛想のかけらもないし、性格だってひねくれたことしか言わないとことん可愛いげというものがない奴だが、不意に見せる隙だとか不器用な程の一途さは憎めない―――――それどころか、彼のそんなところに惹かれてさえいるのだから。

「まだなのかよ」
 跡部は不機嫌さを隠そうともせずに聞いた。日吉の腕も、それを掴んだ自分の手の平も汗ばんでいる。
「まだ……もうちょっとです」
 跡部の機嫌の悪さなんか全く気にする風もなく日吉は言った
 二人が突き進んでいるのはとても粗雑なひまわり達の中である。そもそもここはそれなりに有名な観光スポットであった。
 綺麗に整備された広大な公園の一角にある、これまた広大なひまわり畑。きちんと整った道を進めばひまわりの見た目以上に強靭な茎や葉に苦労することもなかっただろうに。
 あろうことか、日吉は公園の裏に回り脇道の方からこのひまわり畑に侵入したのだ。
 本来ならば同じ高さで揃った大輪のひまわり達が青空の下で客を迎えてるはずだが、今二人が歩く場所は人の手が行き届いておらず高さはまちまち、今を盛りに咲き誇ってるものもあれば枯れかけのものもある。そして何より、道なんてものがないからなかなか前に進めず更にはひまわりの硬い葉が露出した肌に刺さり、疲労ばかりが溜まっていった。
「だいたいよ、」
 跡部はいつものことながら日吉に呆れて溜め息を吐く。
「だいたい、小学生の頃によく自転車で来てたって言ってたじゃねえか」
 跡部の言葉に日吉は首を傾げた。周りのひまわりと、日吉が肩から提げている大きな鞄が揺れ動く。
 このひまわり畑まで電車で来たのだが、はたして自転車で来れる距離かどうかは甚だ疑わしかった。
「どう考えたって自転車で来るには遠すぎるだろ」
 やっと跡部の言わんとしてることを理解したらしい日吉はああ、と頷く。
「これますよ、自転車で」
 少し遠いですけど。何でもなくそう言う日吉に跡部は素直に感心してしまった。きっと自転車一つで何処まででも行ってしまう子供だったのだろう。

 それからまたしばらく歩いて、つつ、と背中を汗が伝わったちょうどその時、日吉が立ち止まった。
「着きました」
 振り返る日吉は太陽を背にしていて鮮やかな黄色の中にシルエットだけが浮かび上がっている。
 再び前を向きガサガサとひまわりをかきわける彼の後に続くと、そこはポッカリと開けた場所だった。広さは六畳くらいだろうか。そこだけひまわりがなく、地面は乾いた芝生である。周りのひまわりがその場所を囲むようにしなっている為にちょうど屋根のようになっていた。
 腰を下ろす日吉に倣いその場に座ると、周囲のひまわりが作る影で陽は当たらなく涼しかった。しかもどういうわけか風が吹き抜け汗と熱とを拭い去ってくれる。
 風が集まる場所なのか。とても快適だ。
 視線を感じて横を見れば日吉がこちらをじっと見つめていた。長い前髪が風で巻き上げられて、普段は隠れている涼しげな目元や意外に幼いおでこがあらわになっている。
「・・・昨日、クラスの女子が何人かで跡部さんの話をしてたんです」
 跡部から青空に視線を移し、日吉はぽつりと話しはじめた。彼が唐突に話し出すのはいつものことなので、跡部はもう慣れている。
「たぶん跡部さんのファンだと思うんですけど。跡部さんのことをとにかくすごい褒めていて」
 ザアアア、と風が吹き日吉のシャツを膨らませる。
「そのうちの誰か一人が、跡部さんは太陽みたいな人だって言ってたんです」
 日吉が再びこちらを見た。風に散らされた前髪が額からサラサラと揺れる。瞳はあの一途さを秘めていた。話の内容いかんよりもこの少年が稀に見せるある種の不思議な色香に、不覚にもドキリとしてしまった。
 悔しいからそんな心の内は微塵も見せてやらないが。
「・・・へえ。それじゃお前は俺をS1から引きずり落としたいんだから太陽に向かって吠えるたいした男だな」
 皮肉を込めてそう言えば日吉はムッと眉を寄せる。
 少し機嫌が悪くなったらしくそっぽを向いてしまった。
「人のこと馬鹿にしてるんですか」
 小さな子供みたいに拗ねる単純なこの男にいとしさが込み上げてきて、跡部はクックックと喉で笑う。
 笑われたことで余計にヘソを曲げたらしい日吉は体ごと反対を向いてしまった。
「おい、それで何なんだよ」
 笑いを堪えてやって話の先を促すと日吉はちらりと振り返って拗ねた目で跡部を見る。
「その話とこの場所、何の関係があるんだよ?」
 日吉は座ったままでズリズリと移動し、何とか笑いそうになるのを我慢する跡部の正面まで来た。

「いや・・・俺は太陽よりもヒマワリみたいだ、って思いました」
 一際強く、風が吹き抜ける。
 日吉若という奴は、周りのことなんか何にも気にしない人間で、他人のことを理解するのを極端に苦手としていたし理解するために積極的ではなかった。
 だが時折、こと跡部のことに関しては妙に核心を突いたことを言うことがあった。
 今回も日吉の言葉は跡部の心の内を静かに掻き回す。
「お前がそんな風に俺を見てたなんてな」
 サワサワと心地好くひまわりを揺らした風は跡部の髪を包んで舞った。
「確かに俺は太陽なんかじゃねえな」
 先程までの思わずこぼれてしまうような笑いとは全く別の、どこか嘲笑うような顔で跡部はひまわりを見上げる。
 向日葵。
 日に向かって咲く花。
「太陽ばかりを追いかけてたって、太陽みたいなカタチをしてたって、所詮は地に根を張っていて空になんか届かねえ」
 そういう花だもんな、ひまわりってのは。
 空の青さに目を細めて、そう言った跡部はゴロリと寝転んだ。もっと、空が遠くなった。
 眩しくて目を閉じる。まぶた越しにじんわりと伝わる太陽光が、不意に遮られる。日吉が上から覗き込んでいるのだろう。
「知ってますか跡部さん」
 真上からかけられた声にうっすら目を開く。
 日吉が跡部の顔の脇に手をついて真正面から見ていた。逆光でその表情までは見えない。
「ひまわりってずっと太陽を追いかけて咲く花だって思われてるけど、実際はちっとも動かないんです」
「・・・・・あ?」
 今度はパッチリと目を見開いた。いまだに跡部の上にいる日吉から、彼の匂いがする。
「本当に太陽の方を向くものなのか気になって、小学三年生の夏休みに毎日ここに来てたんです」
 日吉は言って、手を伸ばした。サラリ、跡部の頬を撫でたので背をゾクリとした感触が駆け抜ける。
 すぐにその手は離され、わずかに体温だけが切なく残った。
「毎日?一ヶ月間もか?」
 はい。思わず聞き返した跡部に日吉は頷く。
「一日中ずっと見てたのに、同じ方向しか向いてないんですよ。太陽を追いかけてるなんて嘘だ」
 日吉はやっと跡部の上からどき、脇の方に座った。
 ポリポリと頭をかき、じーっとひまわりを見つめる。
「どんなに絶対的に強い存在さえ関係なく真っすぐ立ってられるのって・・・・その、すごいと思います」
 照れからか最後の方は濁しながら、それでもハッキリと日吉は言った。
「それで、この場所を思い出して、何だか跡部さんと来たくなって、」
 風が吹き抜ける。蝉が、鳴き出した。この夏を精一杯生きる声が、やたらと耳につく。

 きっと、跡部は日吉のこんなところがどうしようもなく好きだった。
 ムクリと起き上がり跡部は太陽を仰ぎ見る。眩しくて、眩しくて。それでもひまわり達は真っ直ぐにただ一点を見つめていた。
 心地好く吹き抜ける風に導かれるように隣を見れば、日吉がいる。日吉は自分を見つめている。
「やっぱり、俺は太陽じゃねえな」
 跡部は静かに言った。
「ひまわりが太陽の方を向かないなら、俺は太陽じゃない」
 言葉に含んだ意味が分からないらしく、日吉は小首を傾げる。サラと細い髪が揺れた。
 何だかとても可笑しくなって。楽しくなって、跡部は笑い出した。肩を揺らし、そのうちに声まであげて。
 一人で笑い出した跡部に、ますます意味が分からないというように日吉はポカンと見ている。その顔がまた可笑しくて、いとおしくて。
 喉が渇いた。
 さんざん笑った後にそう言うと日吉は持ってきた鞄から水筒を取り出した。跡部がギョッとしてると「お茶菓子もありますよ」と更に鞄をあさり始める。
「どうせぬれせんだろ」
 跡部がそう言ったのと、日吉が鞄からぬれせんの袋を取り出したのは同時だった。

 きっと、この日のことを忘れない。
 こんなことを言えば日吉は本気で怒るだろうから言わないけれど―――――いつか二人が別れて別々の道を歩いてくことになっても、日吉と過ごした日々を忘れないだろう。
 夏が来れば日吉の家で飲んだ麦茶の味を思い出すだろう。風鈴の音を聴けば夕涼みをしてるうちにうたた寝してしまった幼い横顔を思い出すだろう。蝉の鳴き声を聴けば長い前髪の奥の一途な瞳を思い出すだろう。
「あとべさ――・・」
 日吉の目が見開かれた。跡部は日吉の上に覆い重なり、唇を重ねる。
 離れるとびっくりした顔の日吉と、その後ろにいくつものひまわり。
 もう一度唇を近づけると今度は日吉の方から触れてきた。何度も何度も、それでもどこか優しく。そんな日吉の背中に腕を回して跡部はくすぐったそうに笑った。

 きっとひまわりを見るたびに、このキスを思い出すのだ。










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