木の葉舞うところに


 最初はもっと、暖かく穏やかな場所だったと思う。

 柔らかな陽が絶え間なく降り注ぎ、小川の清らかな水の流れも青々と芽吹く草花も小鳥の囀りも、全てが優しく輝き慈愛に満ちた春のような場所だった。母と父の愛を一身に受け、私の育つ土壌がそこにはあった。きっとこれからの私はこの子の中で大きく強くなって、燃え盛るのだと、そう信じて疑わなかった。

 それがどういうことか。
 何度かの他愛もない天候の変化はあれど、ここまでの荒れ果てた状態になるとは。
 申し訳程度に生えた疎らな草の他には荒れた大地がむき出しになっている。大気は刺すように冷たく、呼吸さえもままならなかった。光を遮断する厚い雲からは凍てつく雨が降り続いている中、涙に濡れた小さなあの子が、ひとりぼっちで虚ろな目をして立っていた。父親と同じ白銀の髪は幼児特有の柔らかさだが、その顔には既に母と、そして尊敬する父を喪った絶望が刻まれている。私の存在など、全くその目には映っていなかった。
 酷く寒い。このままでは冷えと飢えで死んでしまいそうだ。この飢えと、まさか数十年もの付き合いになるとはこの時には思いもしなかった。

 それから再びあの子が姿を現すまで、そんなに時間はかからなかったと思う。

 次にカカシがその姿を見せた時、既に幼児ではなくなっていた。しかし間違いなく、まだ子供であった。
 雨は依然降り続いているが、時折雨脚が弱くなり、ふと止むことさえあった。
 カカシは私の存在を初めて認識したようで、怪訝な顔でこちらを見つめていた。恐らく薄ぼんやりとしか見えていないのだろう。
 父親顔負けの優秀な忍として周囲の期待以上の速度で成長するカカシは子供らしからぬ葛藤をしているようであった。尊敬する父でさえを殺した何かに抗おうとしている。純粋に強さを求める少年の想いと、里への忠誠心と、触れ合う人々の優しさの狭間で、揉まれて揺蕩い、時に強く揺さぶられ、それでも確実に私は大きくなっていく。
 この里の中にはカカシの居場所があり、手を差し伸ばしてくれる人がいる。それをまだ、この子は理解していない。だが疑いと恐れで足が竦みながらも、それでも戦い続けるカカシには、きっと良い友がいるのだ。あるいは、これから、生涯の友が、出来るのだ。


 酷い状況だった。
 雨は止んだ。その代わり、ますます荒れた大地に草木は焼き払われたかのようになくなり、乾ききっていた。極寒の寒さと飢え、そして何より乾きが、果てなく続いている。
 ここはさながら、地獄のようだ。
 カカシはまた少し大きくなって、けれどまだ少年のまま、絶望に塗り潰された表情をして立っている。左の目だけが異様に赤く輝いていた。あの赤い目を得た代わりに、大切なものを失ったのだろう。
 その目に私のことなど微塵も映っていなかった。
 寒風吹きすさぶ過酷で孤独な大地で、それでも私が消えないのはどういう訳だろう。
 不思議なことに、ここが地獄であればあるほど、私は勢いを増して燃え立つ。カカシの失ったものこそが、私を激しく燃え盛らせていた。まるでカカシ自らの身まで焦がさん勢いで、短く燃え尽きたその後は人知れず朽ちてゆくことを望んでさえいるような、危うさがそこにはあった。

 その後も幾度となく、私が吹き消えそうな荒れた風が吹いた。カカシが何かを守るたび、同時に何かを失っていく。守れたものより、失ったものばかりに目を向けるあの子の視界にちっとも私は入らない。ただただがむしゃらに我が身を鑑みず戦い続けている。
 飢えと寒さに耐え凌ぐばかりのこの地で、カカシは姿を見せるたびに大きくなり、青年へと姿を変え、その度に何かを失い或いは奪い、傷付き、尚も死ぬことを許されずに戦い続けている。
 苦しい。喉が乾いた。寒い。ひもじい。孤独だ。
 なのに私は一向に消える気配はなく、時に弱々しく、時に激しく、危うく存在し続けている。

 あらかた思いつく限り全ての大切なものを失いきって、カカシは茫然自失と私の影を見つめていた。
「胡散臭いやつだな」
 疲れ切った顔でカカシは言った。私そのものは、やはり見えていないようである。胡散臭いと思うのはお前の問題だ。そう返したが、彼の耳にはとんと聞こえていないらしかった。
「今度は共に戦うことさえ出来なかった」
 師を失った傷だらけの背中からは、諦めにも似た哀しみが滲み出ている。
 私が誰かなんてことも、存在意義も、どうでもいいみたいだ。それでもやはり、私が消失する気配が見えないのは何とも皮肉なことである。カカシをがんじがらめに縛っているものがカカシを生かし、私を存続させている。そして私の存在がカカシに逃げ道を与えずに地獄に縛り付けている。
 これはもう、当人の意思ではどうにもままならないものだ。 


 魂を擦り減らしながら戦い続けるカカシがすっかり大人になり、随分経って、ようやく落ちる影ではなく私そのものを見つめた。しかしまだ私に焦点は合わず、あやふやな輪郭を辿るように、戸惑いがちな視線が向けられた。
 私の手前と向こう側を行ったり来たりしながら彷徨う視線が、ふいに天を仰ぐ。
 晴れ間が、差した。
 ここしばらくなかったことだ。彼自身が信じられず、困惑しているようだった。雲間から差し込む僅かな日差しはじんわりと枯れた大地を温め、しかしまたすぐに日は陰る。それでも濃灰の雲越しに淡い光は届き、そこに確かに太陽はあるのだと、そう信じられただけでも大きな発見であった。寂し気な瞳から、しかし涙が零れることはない。


 雨が降った。
 実に十五年振りのことだ。カカシが赤い瞳を得て、友を失い、己の無力さを嘆いて以降初めてのことだった。
 気候が温暖になったわけではないから雨は冷たく厳しいものだが、それでも乾いた大地に染み込む雫は天の恵みそのものだった。地面も大気も枯れ果てた草木も、幾年振りの雨に濡れ歓喜に打ち震えている。
 カカシはまたしても、己の無力さを呪い悔いている。それでも、これだけの潤いをもたらすだけの希望が確かにあるのだ。今はまだ冷たい雨でもやがて大樹を育む土壌ができる。厳しい寒さの向こうにはきっと眩い春の日差しが待っている。何よりもカカシ自身が諦めていないからこそ、冷たい雨に打たれても私はまだここにいるのだ。
「……二人の命がある限り……」
 カカシがそっと呟く。教え子たちの避けられなかった衝突に深い呵責を刻み、永遠に止まることなく流れ続いていく戦いを嘆きながらも、その足取りはしっかりしていた。


 穏やかな夜の真ん中で、カカシは父を失ってから一番の優しい顔を見せた。
 冬目前の大気は殊更に冷たいが、あまり寒さを感じないのは焚火のおかげだ。暗闇の中、ぽつりと灯る明かりは疲れ切った魂にじんわりと温もりを与える。爆ぜる薪の音は心地よく、心安らぐ懐かしい匂いがした。
 父を失ってからの人生の中で最も優しい顔を、父と同じだけの背丈になって、父と肩を並べた彼が見せたことはどうも複雑な思いがする。あれから心から休まることはなかったのだということを突きつけられたからだ。焚火の炎に照らされた横顔は無邪気な子供の顔になって、歩んできた道のりを父に話して聞かせている。
 このまま、逝くつもりなのだ。
 私は察した。止める権利も義務も私にはない。彼の人生なのだから好きなようにすればよい。このまま穏やかに旅立てることが彼の幸せならば何よりではないか。
 それだというのに、私は力の限り叫ぶことを止めることはできなかった。
 戻ってこい。いいのかそれで。本当にいいのか。為すべきことが、果たせなかった約束が、導くべき子が、まだ在るのではないか。
 どんなに叫んでも聞こえていない。私の声がカカシに届いたことはない。カカシの苦しみが私を存在させているというのに、彼には全くその自覚がないのだ。
 過去ばかり見つめるな。自分のいない遠い未来に焦点を合わせるな。お前が生きる今を刮目せよ。答えは今のお前の中にしかない。
 闇に吸収されるばかりの声を私は発し続ける。不意に、彼の父親がこちらを見た。わずかに微笑み、我が子に視線を戻す。細められた目はカカシの存在全てを肯定し慈しみ、そして力強く背を押すような優しさに満ちていた。
「どうやらお前はまだここに来るには早過ぎたようだ」
 父の言葉に戸惑う表情を見せるカカシは瞬く間に光に包まれていく。眩い光は柱のように天に立ち昇り、常夜の世界を照らす。
「父さん……」
 名残惜しくカカシは父を見つめた。光で真っ白になり、何もかもが見えなくなる間際、カカシの黒い方の瞳が私を捉える。
 カカシは父を通して、私をようやく直視した。


 ここがかつて草一つ生えない不毛な土地だったと、今となっては信じられない。
 立派な樹々がいくつも生い茂り、瑞々しい青葉は爽やかな風に吹かれている。川を流れる清流は生命の力強さに溢れ、彼が自らの命を軽く扱うことはもうないはずだ。燦燦と降り注ぐ日差しが水面に反射し銀色に光って、晴天の里を駆けるカカシの髪のようだ。
 そうだ、ちょうど、生まれて間もない頃はここはこんな場所だったのだ。しかし幾度もの大雨と干ばつを経て、地盤はあの頃よりもより強固なものになっていた。そして最後にカカシの教え子たちが降らせたあの雨が、この豊かな土壌を育んだのだ。

「お前だったのか」
 真っ直ぐ私を見つめてカカシは微笑んだ。父親そっくりの顔だった。真白い装束に身を包み、頭にはこの里の長であることを示す笠が乗っかっていた。
「てっきり俺の中にはそんなもの、ないのかと」
 私も笑ってみせた。
 何を言う。私はずっとお前と共にあった。
 今度こそ、私の声がしっかりと聞こえるみたいだ。カカシは照れたようにはにかむ。
 ここはずっと酷い過酷な場所だった。それでも私はずっといた。消えたように見えても、その熱も光も滅失したわけではない。しぶとく燻り続けながらずっと存在していたのだ。
「そうか……」
 納得したかのようにカカシは徐に天を仰いだ。風に吹かれた青葉が一枚はらはらと舞い落ちてくる。両目とも黒に戻ったカカシの瞳が舞う葉を追った。色素の薄い睫毛の作る陰影には濃密な彼の人生が見え隠れしている。
「木の葉舞うところに火は燃ゆる……」
 だが今のカカシの瞳には何もかもを諦めない力強い輝きがあった。
 柔らかな大地に葉は舞い降りた。また何度かの雨天や、時には雪さえ降るかもしれない。それでも、彼の命がある限り、彼が諦めない限り、私が無に帰すことはない。
 父から、友から、師から渡された火を、今度はお前が受け継いでいくのだ。

 木の葉舞うところに火は燃ゆる。
 火の影は里を照らし、また木の葉は芽吹く。

 私こそが、お前の中で燃え続けている火の意志。



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