ふたりの嘘


 綺麗な満月の夜だった。
 そして、残暑厳しいとても暑い夜でもあった。よく利いた空調のため、室内は熱帯夜の苦しさなど微塵も感じさせない。さらりと綿のシーツの肌触りが心地いい。それでも私の掌は、緊張の為かじっとりと汗ばんでいた。
 よく冷えた掛け布団に包まれ、視線だけを心許なく彷徨わせる。明かりの落ちた薄暗い天井。昔ながらの地味な吊り下げ照明の傘のシルエット。部屋の隅の方で緑に光っているのはエアコンの表示灯だ。視線を下にずらせば、頭上の窓から差し込む月光によって、床板が四角く切り取られたように照らされていた。下の方の影がごちゃついて見えるのは、枕的に置かれた観葉植物や写真立てのシルエットのせいだ。
 差し込む光が、カーテンを閉める軽やかな音とともに遮られる。カーテンを閉めた男がいよいよ布団に入ってくることに、私の心臓は早鐘のように鳴っていた。
「暑い寒いは大丈夫?」
 カーテンのふさかけのすぐ右側に据え置かれたリモコンを手に取り、この部屋の主――カカシさんが尋ねた。
「だ、大丈夫です」
 声が震えたことを自覚して、急激に気恥ずかしさに見舞われる。カカシさんは私の様子など全く気にする風もなく、リモコンを操作する。二度の短い電子音の後に機械が起動する無機質な音が聴こえてくる。
 とうとうカカシさんが布団の中に入ってきて、自分よりも大きな質量の人間がすぐ隣にいる事実を生々しく感じた。
「おやすみ」
 いつもと変わらぬ落ち着いた声音で囁くと、カカシさんは目を閉じた。
 夫婦ではない。交際しているわけでもない。顔見知り程度の間柄の私達が、何故同じ床で寝ているのか――……。



 特別任務の打診があったのは、盆が明け、茹だるような夏の暑さに誰も彼も嫌気が差し始めていた頃だった。
 この日も日中の気温は軽く三十度を超え、この国の夏特有の湿度も相まって酷く不快な暑さである。通りを歩く人も少なく見えるのは、決して気のせいではないだろう。

「医療チームで研究開発している新術の検証だ」
 半年程前に火影に就任されたばかりの綱手様は、空調のよく効いた室内で涼しい顔でそう告げた。
 手元の資料に何か書き込み、隣に控えていた忍に渡す。今回の任務とは全く関係のないものだった。片手間に別の書類を片付けなければならないほど、火影という職は多忙である。
 医療チームが研究しているというその術は、術者本人の熟練度や複雑な印がなくとも、対象のチャクラを回復させるというものらしい。予め術者に術式を施すことで、術者のチャクラを組み換え対象者自身のものと混ぜることにより増幅し、通常の睡眠時よりも多くの回復を得られるというのだ。しかしこの術にもいくつか条件があり、まずは還元できるチャクラにも相性があり、適合している相手にしか使用できない。また、一定の距離にいなければいけないという制限もある。
「つまりですね、対象の忍の家に寝泊まりしてもらい、その効果の程を検証すというのが今回の検証の目的です」
 綱手様に代わり、彼女の付き人であるシズネさんが説明した。至極つまらなそうな顔で書類に目を通す綱手様の傍らで、シズネさんは気遣わしげな視線を私に向けた。
「しかし検証といえど妙齢のくノ一が一つ屋根の下で男性と寝泊まりするわけでありますから……無理強いはしません」
 元より、私に拒否する気持ちなどなかった。無論いい気はしないが、任務を忠実にこなすことこそが我々忍に求められていることであり、唯一の存在価値なのである。
 個人の意思を尊重する今の里の体勢を有難いと思う気持ちは十二分に抱きつつも、一方で甘いともさえ思う。別に、構わない。相手が誰でも。相手が変な気を起こそうとも。だから、相手が誰であっても、任務は受けるつもりでいた。
「まあ、相手は信頼のおける忍なので問題ないとは思いますが……はたけカカシという、上忍です」
 ひゅっと変な音を立てて息を吸う。
「お受けいたします」
 シズネさんから発せられた名に、食い気味で返答をしてしまったことに恥じる気持ちが湧いたのは数秒経ってからだった。シズネさんは少し虚を突かれたような顔の後に、ふわりと笑ってみせた。
「快諾、ありがとうございます」

 はたけカカシは、私の想い人だ。
 歳が近いけれど、実力も地位も遥か遠い男。先の大戦時に一時、たまたま同じ部隊に所属していただけの間柄だ。その距離は天と地ほどに離れている。凡庸な私がようやく下忍になった時、彼は既に上忍だった。時代もあった。無限に武神を欲する戦乱の世が、カカシさんにいくらでも活躍の場を用意していた。彼に修羅の道を歩くことを、常に後押ししていた。
 なんの才もない私が彼に恋して、もうどれくらい経つだろう。
 彼とたまたま同じ部隊に配属されて砂の奇襲部隊を迎え撃った時以来だから、干支は既に一巡している。
 何度、食事に誘いたかったか。何度、好きだと口を衝いて出てしまいそうだったか。何度、その気持ちを押し殺してきたか。
 戦乱の世の最善を走り続ける彼の目にちっぽけな私が留まることなどないと、分かり切っていたから、だから。

 シズネさんが私の掌に術式をかけるのをどこか他人事のように眺める。
 熱した鉄板を握らされたかのように瞬時熱くなり、すぐに漣のように引いていくその熱さえも、まだ降ってわいた幸運の実感を与えてはくれなかった。左の掌には棒色の紋様が真新しく刻まれている。
「毎日寝る前に、この紋様をカカシにかざしてください。その後は五メートル以内の距離を保った位置でお互い眠りについてください。もちろん、壁を隔てていても問題ありません」
 五メートルの距離を想像する。隣の部屋で、十分に保てる距離だ。
「我々は毎朝カカシのチャクラ量を計測します。十分な回復が見られればそこで検証は終了です。終了時にはカカシに告げますので、あなたにまた出向いてもらう必要はありません。しかし、何か困ったことがあればいつでも言ってくださいね」
 思いやりに満ちたシズネさんの申し出に僅かな罪悪感を覚えた。私がずっとカカシさんに思いを寄せていたことも、この機を狡猾に利用したことも、彼女は知らない。彼女だけじゃなく、誰も知らない。私さえ、胸の内を喋らなければ。誰も知ることはない。


「え、同じ布団に……?」
 一日目の晩、彼の部屋を訪れた私の説明に、困惑した顔でカカシさんが聞き返す。至極真っ当な反応だ。常識と倫理観と異性への思いやりを持ち合わせた成人男性の、あるべき姿がそこにはあった。
「距離が近ければ近いほど、効果が高いとか」
 嘘だったから、カカシさんと目を合わせることが出来なかった。緊張と後ろめたさから、私の声は上擦る。しばしの沈黙が流れ、カカシさんが小さく息を吐く。
「……あ、そう」
 そこには何の感慨もないのだろう。褒められるべき誠心を持ち合わせてこそすれ、彼は一流の忍だ。それが里の命であるならば、常識も倫理観も異性への思いやりも飲み込んで従う。

 短い電子音が二回鳴り、ベッドが軋む。想い人が、同じ布団に入る。術式をかける作業自体は、ものの数分で終わった。
「おやすみ」
 カカシさんの低い声が響く。私にだけ向けた声音で、一日の終わりを告げる。
 これまで、想いをひた隠しにしてきた。叶うことのない恋だと、重々承知の上だ。身の上を弁えている。いつだって、彼に対しては当たり障りのない、色を乗せない、けれど、最上級の慈愛を乗せて、微笑みかけてきた。
 任務の合間の他愛もない時間、思いがけずすれ違った長い廊下、運よく相席した休憩室。あくまで他人の顔で、燃え立つような恋心を秘めて、優しい隣人を装って、常に接してきたのだ。巡ってきた幸運に、ほんの少しの嘘を重ねて彼に近づくくらい、罰は当たらないはずだ。
 この時くらい、些細な嘘を、どうか許してほしい。
「おやすみなさい」
 努めて穏やかな声でカカシさんに返す。心臓は早鐘のように身の内から鼓動していた。その寝顔を間近で見たいと願いながらも、緊張でそれは叶わなかった。

 翌朝、目が覚めると既にカカシさんの姿はなかった。
 空調の冷気が十分に残る室内に、真白い朝日が差し込む。生活感のない部屋の中央、小さな卓袱台の上に置かれた金属が、朝日を反射して寝起きの眼に突き刺さる。
 それがこの部屋の合鍵であることと、戸締りをするお願いと、それを託されたことが書置きから読み取れて、私の胸は奇妙に高鳴った。
 同棲しているみたいだ、と浮かれるくらい許されたっていいだろう。特殊任務を受けた見返りだ。役得だと、自分に対して言い訳をした。

 二日目の晩、昨夜と同じ時間にカカシさんの部屋を訪れる。昨夜と同じように術式をかけ、同じタイミングで布団に入り、昨夜と同じ高さの電子音が鳴る。きっと設定温度も昨夜と同じだ。
「おやすみ」
 昨夜と同じ声音でカカシさんが言った。
「おやすみなさい」
 昨夜よりも落ち着いた声で、私は返す。
 二度目の夜は、私に幾許かの余裕と、邪な気持ちを与えていた。いまだ眠りについていない気配と分かる静寂の中で、四度迷いの寝返りを打つ。そのたびに衣擦れの音がやけに響いた。
 五度目の寝返りの時、私はカカシさんに体を寄せ――その胴体に手を回した。思い切った自分の行動に、薄っすらと背中が汗ばむ。心臓は口から飛び出そうだ。カカシさんはわずかな身じろぎさえもしなかった。
 起きている。衣類用洗剤の仄かな甘い匂いを吸い込みながら、彼は起きているのだと、私には分かっていた。そして彼が私の行動を肯定も否定もせず、ただやり過ごそうとしていることが分からないほど、私は子供でもないし純情でもなかった。
 何の反応も示さないカカシさんにこれ以上踏み込むことは出来ない。これ以上は、寝ぼけた振りでごまかすことは出来ない。切なさをその身に刻むように、諦めるようにきつく瞼を閉じた。衣類用洗剤の匂いと、服越しに伝わるカカシさんの匂いに、狂おしい気持ちが蠢いていた。

「おはよう」
 翌朝は、まだ家を出ていないカカシさんと顔を合わせた。
「おはようございます」
 お互い何食わぬ顔で、挨拶を交わす。平素と変わらぬ彼の落ち着いた表情に、しっかりと線引をされているのを感じ取った。キッチンは好きに使っていいと言われていたが、明るい陽の下だと何となく気まずくて、そそくさと逃げるように彼より早く家を出た。

 三日目は、少し早めに布団に入った。布団に入ってしばらくして、私は昨夜同様に大きなカカシさんの体躯に抱きつく。半ば自棄になっていた節もある。
 今日のカカシさんは狸寝入りをしていなかった。私の腕をすり抜けるように起きあがると、エアコンの温度を下げる。聞き慣れた電信音が三度鳴る。離れる口実のための気がして、再び抱きつく勇気はさすがになかった。これ以上深追いしたら、言い訳のできない距離まで詰めてしまうからだ。すっとぼけて、何事もなかったかのような顔ではいられない。傷つかない為の距離は、ここだった。これ以上は、近づけない。
 しかし、私が寝返りを打つと、なんと、背を向けて寝る私にカカシさんの方から抱きついてきたではないか。
 私の時が止まり、頭が混乱する。
 なぜ、どうして。
 カカシさんの大きな手が、私の顎下、左肩の辺りに置かれている。背を向けているため、彼がどんな表情をしているか分からない。「どうしたの?」なんて余裕たっぷりに聞くことは出来ない。だって、聞いたら、先に抱きついた私の理由を言わなければならなくなる。
 浅い呼吸も速い鼓動も悟られまいと、懸命に静止するが、密着した体の汗を止めることは出来なかった。そういえば、設定温度は昨日までよりも一度低かったではないかと、混乱する頭の片隅で考える。
 触れたい。触れて、大丈夫だろうか。彼の方から体を寄せるくらいだから、嫌がられては、ないはずだ。もしかしたらこれはまたとないチャンスなのではないか。
 恐る恐る、目の前に置かれたカカシさんの右手に自分の右手を重ねた。彼は引く素振りを見せない。自分のものよりも固くぴんと筋肉の張った掌の感覚がより一層鼓動を速めた。心臓は最早喉元までせり上がり、頸動脈がどくどくと脈打っている。
 自然な動きを心がけていたけど、どう考えても不自然な動きで彼の手の甲を親指の腹で撫でる。しばらくすると、ついにその手が動いた。心臓が跳ねてさっと手を引くよりも速く、カカシさんの手は私の手を握り返した。
 私は目を見開き部屋の暗がりを凝視する。身じろぎ一つ出来ずに、硬直したままでカカシさんに手を握られている。
 いいのだ――。触れることを今は、許されているのだ。
彼がどんな表情をしているか分からない。振り返ることが出来ないまま、とうとう一夜を明かした。

 翌朝も、彼はいたって普段通りの様子だ。昨日までと違うのは、出掛けの準備をする私に夕飯の提案をしたことだった。
「今夜、早く帰れるんだけど夕飯一緒に食べる?」
 一瞬、何のことか分からずに、ぽかんと呆けてしまう。
「……あ、はい」
 間抜けな表情で、間抜けな返事をした。次いで、じわりと歓喜の感情が湧き、頬が緩む。阿呆みたいな私の様子を笑うでもなく、カカシさんは淡々と集合時刻と場所を取り決めた。
 昨日のあれは何? ただの気まぐれ? そんな疑問すらどこかに押しやり、ひたすらにその日は浮かれていた。

 相変わらず日中はうんざりするような暑さだけれど、夕方になると湿度が下がり、確実に真夏は通り過ぎたのだと実感する。
 五丁目の広場で落ち合った時、カカシさんは上忍ベストを着用し、口布と額当で顔の半分が隠れていた。本来はこちらの姿の方がよく知っているはずなのに、ここ三日間は素顔の方が見慣れてしまった。そしてそのことに、私はほのかな優越感さえ覚えていた。
 辺りの飲食店を何軒か物色し、私たちは裏道の小料理屋に入る。
 二人きりで食事を共にするなど、今までなら考えられなかった。カカシさんの目には私など映っていなかったから。好いた男と二人きりで食事をとることに、下手なことをして嫌われたくないあまり私は極度に緊張していた。対するカカシさんは平素と変わらず落ち着いていて、その仕草も表情も何もかもが余裕に見えた。
 共に料理をつつき、お酒を嗜むうちに私の緊張も解れてくる。カカシさんは聞き上手でもあるし、他人に気を遣わせないような隠れた心遣いがとても上手だった。そんなところが、彼に対する私の気持ちをさらに底上げた。
「そろそろ秋刀魚の季節だけど、流石にまだ早いか」
 好物の話になり、カカシさんは残念がる。好物を知れた。嬉しい。またしても優越感が姿を現す。
「私も秋刀魚は好きだけど……内臓が苦手で、いつも内臓取ってあるのを買っちゃいます」
 わざとらしく「え、もったいない」と目を丸くするカカシさんに、私はクスクス笑った。楽しい。気心の知れた仲間のように、笑い合っている。
「甘いもの苦手なのも、私からしたらもったいないですよ」
 私の指摘にカカシさんはふざけたように肩をすくめる。
「ま、好みは人それぞれですから」
 また私は笑う。カカシさんもつられて笑う。幸せだ。幸せだ。
 けれどこんなに楽しく愉快で幸せなのは、運が良かったからだ。特殊任務に選ばれたこと、その対象がカカシさんだったことは、幸運以外の何物でもない。そしてこんなにも近づけたのは、私が彼に嘘をついたからだ。
 ごめんなさい。嘘をついて、ごめんなさい。下心に満ちたつまらない嘘で、あなたに近づいて、ごめんなさい。本当は同じ布団で寝る必要などなかったの。けれど、この任務が終わるまで、どうか嘘を吐き通したままでいさせてください。

 私たちはほろ酔いでカカシさんの家に帰る。一緒に暮らしているみたいだ、と一つ一つの些細なことにも心が弾む。
 シャワーを浴びれば随分酔いも醒めた。
 私に先にシャワーを譲ってくれたカカシさんが浴室から出てくると、石鹸の香りが鼻腔を擽った。同じ石鹸を使っているはずなのに、カカシさんを介すると途端に官能的な匂いになる。
 いつも通り、右の掌に刻まれた紋様で術式をかける。終われば、ベッドに横になり、眠りにつく。楽しい時間を過ごしたからか、単にお酒のせいか、まだ寝るのは惜しい。
 カーテンの隙間が少し空いていて、右下の辺りがやや欠けた月の明かりが細長く漏れ入る。もぞりと寝返りを打ち、隣のカカシさんを見上げると、私の気配に彼もこちらを見る。
 私はきっと、物欲しそうな目をしているに違いない。いっぱいに欲を滲ませ、とろんと男に媚びた瞳でカカシさんを見つめているのだろうという自覚はあった。
 カカシさんは肘を折り曲げた自分の片腕を枕にし、いつもの淡々とした掴みどころのない無表情で、私を見下ろしている。しばらく二人とも何も言わないままで見つめ合う。どっどっどっどっ。私の心臓が太鼓のように内側から激しく胸を叩いていた。私が一つ瞬きすると、彼はすっと視線を外した。名残惜しい気持ちが心臓を締め付ける。天井を見つめてカカシさんは鼻から静かに深く、息を吸った。胸の辺りが呼吸に合わせて膨らむ。再び彼の胸は沈み、それをじっとりと見つめる私の頬に、はらりと髪がかかる。
 カカシさんの視線が私に戻る。そこには、私の瞳が孕んでいるであろう、じっとりとした熱が宿っていた。彼の手が私の顔に伸び、長い指が頬にかかった髪をかきあげる。視界が開けた私の目の前にカカシさんの顔が近付き――ベッドの上を移動する体重によってスプリングが軋む――カーテンの隙間が切り取る長方形の月明かりの下を通過して――そして、彼は私に口付けた。
 唇と唇が触れ合い、柔らかな感触は歓びとなり、体中を駆け巡り、姿を変えて脳内で弾ける。
 ゆっくり唇が離れ、ピントが合わない距離のままで一旦止まり、再びキスが落ちてきた。今度はもっと長く、深いキスだった。
 カカシさんの唇が私の唇を啄んでいる。私も答えるように唇を動かし、お互いの唇を何度も押し付け包み合う。
 やがてカカシさんの右手が私の乳房を撫でつけ、色に満ちた動きでまさぐり始めた。大きな力強い手が、優しくかつ妖しく、乳房を撫でつけるたびに吐息が漏れた。半身は私に覆いかぶさり、唇を絶えず嬲りつづけながら、腰が強く押し付けられる。硬いものを感じて、彼の性欲の昂りを実感する。
 カカシさんが、私に興奮している。
 その事実が、私の心拍数をさらに上げた。
 どうして、こんな状況になったの。これは気の迷いなの? お酒の力なの? カカシさんはいつも、こんな風にキスをするの? 女性に対して、こんな欲をぶつけるの? もし特殊任務の相手が私じゃなくても、同じ状況になっていたの?
 目まぐるしく様々な疑問が快楽と興奮の波間に見え隠れする。
 カカシさんはようやく唇を離すと、横になったわたしを後ろから抱きかかえる形で包み込んだ。背中に密着する体温と大きな体が妙に生々しかった。彼は器用に私の乳房をまさぐったままで、反対の手を下腹部に伸ばす。普段は人に触れられることのない部位に、布腰に彼の手のひらの熱を感じ、ぶるりと快感が走る。
 慣れている。彼は、こういった行為に慣れている。私とて、いい年をしたくノ一で、それなりの経験がある。けれどそれ以上に、カカシさんは床に入ってから行為に至るまでの一連の流れが甚だしくスムーズであった。慣れているのだ。あまり親しくない、あるいは知り合って日の浅い相手と、行為に及ぶことに。
 途端に自分が恥ずかしくなって、私は変な音を立てて息を吸い込む。それなりに経験があるはずなのに、彼に触れられるとまるで生娘みたいに体を強張らせ何もできなくなる。こんなのではない。駄目だ。先に彼に抱きついたのは私なのに、きっと期待外れだったとがっかりさせてしまう。
 このときの私は、嘘までついてせっかく近付いた彼に失望されることが、何よりも恐ろしかった。
 何の考えもないまま、カカシさんに体をまさぐられた状態で私は身体を捻り、彼の下半身に手を伸ばした。肌触りのいい寝間着の布越しに、硬く膨張した性器がはっきりと分かった。カカシさんは驚きも笑いもせず、相変わらずじっとりと私を見つめている。布越しに上下に擦る間も、私の様子を観察するように見つめているのだ。
 気持ちいいだろうか。気持ちいいと感じていてほしい。擦っていると殊更に性器は硬さを増し、確かな手応えに私の熱も何段階も上がる。
 事を急くような私の手を、カカシさんは急に払いのけた。上半身を捻るような格好で半身をカカシさんの方を向けていた私のズボンのゴム口に手をかけ、下着ごとずるりと脱がす。突然晒された下肢に、私が戸惑う暇すら与えず、彼もまた自らのズボンを下げ性器を露出させると私の腰を掴んだ。
 まさか、このまま。
 避妊は。前戯なしに。乱暴な。欲をぶつけるだけの。唐突な挿入の予兆に、一瞬にして様々なワードが脳内を駆け巡る。しかし私の右腿を少し浮かせた彼が、乱暴に挿入してくることはなく、股の間に猛った性器を挟み、擦りつけてきた。
 カカシさんは、まるでセックスをしているような腰使いで自身の性器を私の陰部にこすり合わせる。みるみるうちに私の陰部からは挿入の為の分泌液が溢れ出し、潤滑剤の役目を果たした。熱いカカシさんの男性器がぬるぬると股間を往復するたびに、だらしない吐息が私の口から洩れる。一歩間違えれば挿入してしまいそうな程に、往復する腰使いは激しくなっていく。硬く反り立つ男性器の先端の、驚くほど滑らかな亀頭部分が膣の入り口を通り過ぎるごとに、挿入の期待に胸が高鳴った。
 私の腰をがっちりと掴んでいたカカシさんの手のうち片方が、私の陰部に伸びた。十分に濡れたその箇所に触れた瞬間、私は焦らされる思いでカカシさんを振り返る。彼は興奮を滲ませながらも優しい目つきで私を捉えた。
「も、もう大丈夫」
 発した声は思った以上に甘ったるく、そして震えていた。カカシさんは言葉の意味を一瞬考え、そしてすぐにそれが挿入を促す意だと思い至り、瞳の底から熱を絞り出すように目を細めた
「……ゴムないから……」
 カカシさんから返ってきた言葉は予想外のものだった。一拍置いて、私はカっと羞恥に見舞われる。
 恥ずかしい。彼はきちんと避妊を考えていたというのに、行為に及ぶことしか頭にないみたいに、先を促すことを言ってしまった自分が堪らなくみっともなくて恥ずかしい。
 カカシさんは私が情けない気持ちに十分に浸る時間を与えずに、その長い指で恥丘を辿り、陰唇の間に押し入ってきた。十分に濡れた私のそこはいとも簡単に挿入を許した。
「ああ、あ」
 媚びた声音が自然と口から出る。待ち望んだ圧迫感に、快楽の波がとめどなく押し寄せた。繊細に、優しく奥へ進めていたカカシさんの指は、私の興奮と快感を敏感に感じ取って次第に遠慮なく往復を繰り返すようになる。
 そんな、そんな、指だけで。迫りくる絶頂の気配に、この行為の意味だとか、彼の真意だとか、私のちっぽけな羞恥心だとか、全ての雑念が入る余地はなくなっていた。意識してそうしていたわけではないが、私の膣がきゅうきゅうとカカシさんの指を締め付けるのが嫌でも分かる。思わず漏れた彼の吐息すら、私の性的快感を後押しした。
 それまで絶え間なく漏れていた私の嬌声は、その時を迎える直前にぱたりと止む。全身で絶頂の波を迎えるために息すらとめて、びくびくと小刻みに震え、私はあっけなく果てた。
 一転して心身脱落する私の膣から、そっとカカシさんの指が抜き出される。彼は物音を立てないようにベットから起き上がると部屋を出て行った。
 カカシさんは、満足していないはず。そう思いながらも、欲を発散させた後の体は気怠く、声をかけることはできなかった。ややあって浴室から水音が聴こえてきて、彼がシャワーを浴びに行ったのだと知る。
 戻ってきたらどんな顔で、どう声をかけよう。不安とは裏腹に、彼がベッドルームに戻るのを待てずに、私は眠りについてしまった。


 翌朝、目覚めるとまたしてもカカシさんの姿はなかった。寂しさよりも、昨夜の行為の答えを先延ばしに出来たことにほっとした気持ちの方が正直大きかったかもしれない。
 その日は仕事に集中できるはずもなく、一日中ふわふわとした心地のままであった。同僚に体調を心配されるほどだ。私の属する情報班は常に多くの仕事を抱えており、仕事中にぼうっと呆けている暇などないというのに、それでもつい考えてしまうのは昨夜の夢のような出来事だ。
 カカシさんはどういうつもりだったのか。性欲を発散させるのに、貞操観念の低い手頃な女がたまたま近くにいただけだろうか。昨日は最後まで出来なかったが、今夜はどうだろう――――……。

 余りに仕事に集中出来ないものだから、定常的な業務をこなすのにも、普段よりも多くの時間を要してしまった。軽食程度の夕食を挟みながらも数時間の残業をし、カカシさんの家に着いた頃には、すっかり暗くなっていた。
 数度深呼吸をして気持ちを落ち着かせた後、借りている合鍵で玄関を開ける。既にカカシさんは帰宅しているようだ。
「おかえり。遅かったね、忙しかった?」
 カカシさんは昨夜の出来事はまるでなかったかのように、いつも通りの態度だった。ちょうど風呂から上がったところらしく、綺麗な銀髪がしっとりと濡れている。石鹸の匂いに、昨夜の行為が生々しく鮮明に思い出された。
 カカシさんの目を正面から見られないまま、当たり障りのない返事をし、そそくさと風呂を借りに行く。長時間の勤務の疲労に熱い湯船。本来ならぐっすりと眠れる条件がそろっているはずだが、きっと今夜は、何もなくたってなかなか寝付けそうにない。
 風呂からあがると、カカシさんが冷たい麦茶をよそってくれた。硝子のコップを持つ長い指にどうしても目が行ってしまう。あの長く、綺麗な指が、きのう私を。
 火照る頬は、風呂上がりのせいに出来るだろうか。私はつまらない言い訳を必死で考えていたが、カカシさんがそれを指摘することはなかった。

 いよいよベッドに入る時間になり、自然と心拍数が上がる。
「それって、いつ消えるの?」
 術式をかけ終えた後、私の掌の紋様を見つめてカカシさんが尋ねた。
「一か月くらいで自然と、綺麗に消えるみたいですよ」
 シズネさんから受けた時限式の術の説明を思い出し答える。部屋が暗い分、落ち着きを繕って話すことができた。
「任務の期間は十分に効果が見えるまでですので、いつ終わるか分かりませんから……余裕をもって、一か月にしているということです」
 そう言えば、シズネさんは数日程度と言っていた。順調にいけば、そろそろこの任務も終わりを迎えるのだ。
「そう、よかった」
 カカシさんは端的に答える。任務の終わりを思って、急に焦る気持ちが湧いてくる。
「何がですか」
 聞き返すと、カカシさんは私の手を取り、すぐには答えない。急に触れられたことに心臓が跳ねる。
「……そりゃ、痕が残ったら悪いし、気にするよ」
 カカシさんはそれを見つめたまま、なぞるように紋様に触る。カカシさんの手に包まれる私の手は随分と小さく見えた。労わるように掌を撫でつける手つきに、彼を恋焦がれる気持ちと興奮が這いあがってくる。
 綺麗な指。すらりと長い指。けれど私のものとは違う、節の大きな男の人の指。あの美しい指が昨日私の中を掻きまわしたのだ。
 愛おしい気持ちが溢れ出して、また、確実にやってくる任務の終わりに急かされて、私はカカシさんの手を握り返すとその指にそっと口付けた。
 唇を離した後も視線を上げることが出来ず、彼の指を懸命に眺め続ける。視界の隅でカカシさんはもう一度、するりと、私の掌から手の甲まで滑るように撫でた。そして手を離すと次は私の頬にそっと添える。ちら、と戸惑いがちに視線を上げると彼はたった今彼の指に触れたばかりの私の唇を熱っぽく見つめていた。私の視線に気づき、彼も私の目を見る。恥ずかしくなって私はまた目線を下げた。頬を包んだままで、カカシさんは親指で私の唇に触れる。今しがたのキスを確かめるように、親指の腹で優しく撫でる。時折指の腹で押し付けてみたり、唇の輪郭をなぞるように滑らせてみたりと、誘うようなその手つきに、堪らなくなって、私は小さく口を開けた。躊躇いがちにその指を食む。すると彼の指は途端に遠慮をなくし、いとも簡単に口内に侵入してきた。
 最初は親指で、私の舌を上から一頻り撫でる。必死にその指を舐めとっていると、今度は人差し指と中指が入ってきた。昨夜私の性器にそうしたように、二本の長い指で口内を翻弄する。私を快楽へと導く彼の指に狂おしい程の愛しさと切なさが込み上げて、私は一心不乱に吸い付いた。疑似的な口淫に、あっという間に体の中枢から熱が上がる。
 ようやく彼の指が口から抜き出された時、私の頭はすっかり蕩けていて、日中渦巻いていた様々な疑問や不安はどこかへ消え去っていた。
 だらしなく涎が糸を引く口に、彼が優しくキスを落とす。ようやく、正面から彼の目を見つめると、確かにその瞳には欲情の色が滲み出ていた。
「ねえ、ゴム買ってきたんだけど」
 ぽつりと、囁くように放たれたその言葉の意味がすぐには理解できなかった。一拍遅れて、顔に熱が集まる。
「……いい?」
 低く掠れたカカシさんの声は、珍しい。彼の興奮が窺えて、私は黙って小刻みに頷くしか出来なかった。

 まずは丁寧に、私の上衣を剥いでいく。シャツタイプのパジャマのボタンを一つ彼の指が外すたび、私の熱が上がる。すっかり上半身をさらけ出した私を優しく寝かせると彼も着ていたシャツを脱ぎ捨てた。薄い暗闇に白くカカシさんの裸体が浮かび上がる。見惚れていると、彼は私の胸に唇を落とした。数度、胸にキスをされて思わず息を詰めたが、彼が先端の突起に舌を這わせると吐息とともに声が漏れた。転がすように舌先で乳首を撫でまわし、時には舌を押し付け、またある時は吸い付く。ふ、ふ、ふ、あ、ふ。器用に弄ぶカカシさんに為す術もなく、私はただ声を漏らすのみだ。指で反対の乳首を軽く摘ままれた時には脳が痺れ、情けない程上擦った声を出してしまった。
 彼が私の下半身に手を伸ばした時に、私は自身のそこがもうすっかり挿入の期待に満ちて、濡れそぼっていることを自覚した。私の無用な恥じらいを歯牙にもかけず、下着の中に大きな手が入ってくる。ぬるり、彼が割れ目をなぞって、動きを止める。
「もうびしょびしょ」
 意地悪く私の耳元で囁く彼に、顔が火照る。濡れた感触を楽しむようにカカシさんは指の腹で入り口の辺りを満遍なく撫でつける。響く卑猥な水音に、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうな思いは、ずぶりと挿入された彼の指によって瞬時にかき消された。充分に挿入の準備の整った陰部はカカシさんの指をすんなりと受け入れる。
「ああああ、」
 快楽が脳内で弾けて、体中に伝播した。最初はゆっくり往復し、次第に速度を速め、やがては内壁のある一点をぐりぐりと突き上げ、確実に私を追い込んでいく。
 もう間もなく、というところでカカシさんの指は引き抜かれた。与えられていた刺激がなくなり、物足りなく性器がひくつく。
 カカシさんはベッドから一旦下りて、サイドテーブルの引き出しを開けてまたすぐに戻ってきた。見なくたって、避妊具を取りに行ったことくらい分かる。ぱちりとゴム特有の弾ける音がして、装着する気配がした。おずおずとカカシさんを見れば、半透明の膜の中でみちみちに勃起した男性器がそそり立っている。私の視線を絡めとって、装着を終えたカカシさんが上から覆いかぶさった。
「……いいの、本当に」
 この期に及んで確認を取るカカシさんの声も瞳も熱を孕み、やはり私は黙って頷くしか出来なかった。私の顔の脇についた腕は逞しく、生き物としての強さを思い知る。組み敷かれる興奮を身をもって感じる。彼が私の膝裏を持ちあげて、熱い性器の先端が膣口に宛がわれた。私は快感の予感にうっとりと息を飲む。カカシさんが腰を押し付け、硬く熱い性器が挿入される。指とは比べ物にならないほどの圧迫感に、快感が陰部から脊髄を通り脳まで走り抜けた。ぎゅうぎゅうに締め付けても猛る性器はなおも硬く、全身が歓びに震える。
 最初は様子を窺うようにゆっくりとした腰つきだったけれど、私の喘ぎに合わせて次第に速度を速めていく。これまで感じたことのない快感が私を襲い、底なし沼に引きずり込もうとしていた。激しく腰を打ちつける音に、カカシさんの荒い呼吸が混じる。カカシさんが興奮している。欲情している。私に欲を放たんと、腰を振っている。その事実が私の背徳感混じりの淫楽に拍車をかける。
 ごめんなさい。あ、ああ、嘘をついてごめんなさい。そのうえ、あなたと繋がり、ふ、あ、快楽におぼれて、あああ、ごめんなさい。
 一層腰つきは速まり、余計な考えなど浮かばなくなる。絶頂が近い。好きな男の漏れ出る欲情の吐息。熱に侵された瞳。肌と肌がぶつかり合う音。絶えず与えられる性的快感。
「……うっ、」
 絞り出すように息を漏らし、カカシさんは息を止めると私の奥の一点に強くぐいぐいと押し付けた。自分の意志とは無関係にぶるぶると体が震え、私は絶頂を迎える。数秒遅れて、膣の中の陰茎がビクンと欲を吐き出したのを感じ取った。射精に伴う脈動は数度起こり、カカシさんは脱落して息を吐いた。

 先ほどまでの興奮と快楽が漣のように引いて、切なさと寂しさだけが後に残る。ずるりと性器を引き抜いた後、彼は私の頭を撫でてくれた。涙が出そうになったのを私は懸命に堪えた。泣きたくなる気持ちを自分でもはっきりと説明できなかったが、涙など見せたら間違いなくカカシさんを困らせることが分かっていた。
 私は自尊心ばかりが高く、見栄を張るくせに淫楽には簡単に溺れる、ただの女で、そこら辺にいる嘘つきだった。



 それから私達は何度か体を重ねた。お互い仕事もあるから、さすがに連日ではないものの、それでも三日に一回は行為に及んでいたと思う。
 そしてそれは大抵一緒に食事を摂った後で、酔った二人は笑いながら転げるようにベッドになだれ込んだ。お酒の勢いがないと、いつだって不安や恐怖が勝ってしまう。そのくせ、体だけでも繋がれていることに浮かれているのもまた事実だった。私はこの男に抱かれているのだという、ちんけな優越感が私を満たす。外で彼を見かけたときなど、その密やかな悦びはことさらに大きかった。
 男女とは不思議なもので、それまでに過ごした時間がどれだけ少なかろうとも、一旦体の関係を持ってしまえばその距離は奇妙なほどに近くなる。物理的な体の距離、軽口を叩く度合い、ふとした仕草や目線。見る人が見れば、その男女に体の繋がりがあることは分かってしまうものだ。もちろん私はそれを熟知していたので、細心の注意を払っていた。けれど、やはりどこか浮ついていたのだろう。
 仕事終わりにたまたまカカシさんと会い、そのまま休憩所で談話をしいていると、互いの共通の知人でもある同僚に茶化された。

「お前ら仲いいなあ、もしかしてそういう関係?」
 私はサッと血の気が引いて、心臓が縮こまった。やめて、変なことを言わないで。せっかく詰めたこの距離が台無しになってしまう。この場合は、何と返すのが最適か。
「まさかあ、そう見えます?」
 へらへらと笑って、かろうじてそう言い返した。
「いや、珍しい組み合わせだったからさ」
 その同僚に悪気はないのだろうが、核心を衝く彼が恨めしい。
「やだな、たまたま、任務の都合で一緒にいることが多いだけで、私だってもうちょっと相手を選びますよ」
 憎まれ口を叩く私にカカシさんはいつもの飄々とした表情で「ひどいなー」とこれまた軽口で返す。何の感情も焦りもないその顔に、彼の余裕が見え、そしてその余裕は真剣さからは決して生まれないものだと私は察した。
 下弦の月が空に浮かぶ頃だった。

 この関係が何なのか、聞くことも確かめることもできずに、行為の回数だけを重ねていく。怖気づいて踏み込むことなどできないが、四回目のセックスの後、聞いてみたことがある。
「カカシさんて、恋愛とか結婚に興味なさそうですよね」
 臆病な私でも、セックスの後の気の解れた時間はいくらか大胆になれた。なんてことはない、世間話の延長といった風を装って、尋ねたのだ。
 カカシさんは質問の意味を咀嚼するようにぼんやりと、二度瞬きをする。
「あー、どうかなあ……うん、ま、否定はできないけど」
 カカシさんはこの手の話に興味は薄そうだったが、会話のキャッチボールはきちんと返してくれた。
「やるべきことも沢山あるし、そんなこと考える余裕もなかったってのが正しいかな」
 ごろんと仰向けになってカカシさんは天井を仰いだ。知っている。この里の主力であるカカシさんに惚れた腫れただの、凡庸な娯楽が入り込む隙などないことくらい。
「あはは、分かります」
 またへらへらと笑って、私は彼に同意した。
 何が分かっているというのだ。彼とは比べるのも烏滸がましいくらい、凡庸で、つまらない一忍のくせに、上っ面だけ同意して、情けない。
 曖昧に笑う私を不思議そうにカカシさんが眺めるものだから、居たたまれなくなって私は隠れるように布団を被った。既にこの頃、月は細くなっていた。

 情報班として、時には敵から情報を盗むこともある私は心理戦には強い方だという自負があった。なのに、カカシさんに対してはこれ以上探りを入れることなど到底できない。
 その後に交わした会話は、近所にできたラーメン屋の話や、短冊街にある老舗甘味屋の季節限定商品、綱手様の笑い話など、他愛もないばかりだった。


 彼から任務の終わりを告げられたのは、ちょうど新月の夜だった。
「もう任務は終わりだって。二週間お疲れ様」
 カカシさんが私にそう言ったのは、行為の最中だった。
「えっ? あ――、え?」
 いわゆる対面座位という体位で向かい合って座り、下から突き上げられているものだから私の思考は全く追いついていなかった。
 ぴったりと結合した局部から与えられる刺激と、突然の終わりを告げる言葉とに、頭が真っ白になる。
「だから、十分に効果が見えたから任務はもう終わり。明日からはここで寝る必要もないんだって」
 引ける私の腰を逃がすまいとがっちりと掴み、カカシさんは続ける。今日のカカシさんはどこか饒舌で、意地が悪い。
「ね、俺と離れるの寂しい?」
 吐く息を荒くさせながら、カカシさんは尋ねた。思いもしなかった問いかけに、私は混乱する。
「え、え? あの、え、あの」
 喘ぎながら私は必死に考えを巡らす。
 どうしてそんなことを聞くの? 寂しいに決まっている。名残惜しいに決まっている。だってこんなにも好きなのだもの。いいの? 好きと言ってもいいの? 離れ難いと言ってもいいの? それで、あなたは離れていかないの?
 けれどやっぱり、彼に好きと伝えることはもちろん、寂しいと口にすることさえ、臆病で嘘つきな私には難しかった。代わりに、繋がったままでキスをした。あわよくば、この想いが伝わればいいと、深く、キスをした。

 行為の後、ぼうっと呆けているとカカシさんが私を覗き込んだ。
「あとさ、明日から少し長めの任務に出るんだ」
 先ほどの会話の続きを、当たり前の顔をして彼はしてきた。驚いて彼を見上げる。その表情はいつもと変わらない、飄々として、余裕のある男のものだ。
「それで君の特殊任務も終了だし、明日からはここに来る必要はなくなったわけだけれど」
「――あ、えっと、まあそうですね」
 カカシさんの言葉を遮るように私は声を発した。思ったよりも大きな声が出た。
「まあさすがに寂しいと言えば寂しい、よ」
 震える声で一息に言うと、カカシさんは目を丸くさせた。
「えっ」
 その表情に途端に怖気づいて、私はまた、笑顔を取り繕う。
「体の相性は良かったですからね。ちょうどいい相手がいなくなるのは惜しいですけど」
 言い訳じみた声で、私は早口に言った。分かっている。あなたとの関係は体だけなの。これ以上、何も求めてなどいないわ。こんなことには慣れているの。
 そんな虚勢を精いっぱい張って、私は口元に笑みを湛えた。
 私はまたもう一つ、好きな男に大きな嘘を吐いたのだ。
 カカシさんは虚を突かれたような顔をしていたが、するりと肩の力を抜いて、鼻で小さく笑う。
「……あ、そ」
 思わず漏れたといったような、苦笑いだった。
「たまたま巡り合った組み合わせだけど、二週間、ありがとね」
「こちらこそ。明日からの任務も、お気をつけて」
 こうして、彼との関係はあっけなく終わりを迎えた。
 当初は数日程度と聞いていたものが、実に二週間も一緒にいられたのだ。またとない幸運だ。それが体だけの関係でも、嘘に塗り固められたものでも、幸運だったのだ。
 カカシさんに悟られぬよう、私は懸命に涙を堪えていた。




 カカシさんが任務のために里を発ってすぐに、店頭には秋刀魚が並び始めた。
 先週までの残暑が嘘のように、吹く風は爽やかである。木々の緑もどことなく彩度を落とし、季節は変わろうとしていた。高い空には鰯雲が一面に広がっている。
 カカシさんの元を訪れることがなくなってからも、彼のことを考えない日などなかった。澄んだ気候とは裏腹に、後悔と羞恥心ばかりが重く心の底に渦巻いている。
 私は、どうすれば良かったのだろう。嘘を吐かなければ、もっとまともでいられただろうか。彼に近づく名目が出来た時に、魔が差して、一緒の床で寝なければいけないなどと、浅ましい嘘を吐かなければよかっただろうか。そうすれば体だけの歪で不格好な関係ではなく、きちんとした手順を追って距離を縮められただろうか。あるいは、最後の夜、寂しいと、その理由を伝えればよかっただろうか。好きの、その二文字が言えていれば――……。

 まさか、馬鹿々々しい。
 私が真面目に任務に取り組んだところで、彼との距離が縮まるわけではない。ましてや、好きと伝えたところで、彼がそれに答えてくれるはずもない。全て、分かり切っていたことではないか。

 カカシさんと会わなくなって、さらに二週間が経った。私は一心不乱に仕事に打ち込んだ。
 この間、秋の雨が三日降り、その後に思い出したように暑い日が戻り、そしてまた、乾いた涼風が吹いて薄を揺らす。月は満ちて、明日にはまた満月が顔を覗かせる。
 秋の気配に、ふと、人肌が恋しくなる。誰でもいいわけでは、もちろんない。

 情報班に属することのメリットは、いち早く知りたい情報を耳に入れられることだ。例えばそう、好きな男が明日の夕方に里に帰ってくるだとか、そういった類の情報だ。

 落ち着かない心地でその日を迎え、私はここ最近の熱心な仕事ぶりからは珍しく定時で仕事を上がった。
 仕事終わり、夕陽差す商店街の魚屋に立ち寄った私は、秋刀魚を二尾購入した。
 旬を迎え脂の乗った秋刀魚は丸々と太り、青銀の鱗が、今が一番美味しい時なのだと訴えかけてくる。いつもなら魚屋の主人に取ってもらう内臓は、今日は頼まずにそのままだ。
 いくつかの野菜と、立派な秋刀魚の入った買い物袋を提げて自然と足はカカシさんの家に向かう。職場でこっそり得た情報では、昨日木の葉に向けて任務地を発ったということだから、もう帰ってきている頃合いだ。何て言えばいい? どんな言い訳をすれば、また彼に近づける?
 つくづく、気持ちの悪い女だ。
 思わず自分自身に嘲笑が漏れて、私は足を止めた。
 自分の惨めったらしい未練に、薄っぺらい見栄に、傷つかないための嘘を重ねる狡猾さに、嫌気が差す。
 やめよう。やっぱり、大人しく自分の家に帰ろう。

 踵を返し、古い住宅街の細い路地を通り抜ける。
 家々の裏手にある、ひと一人が通れるくらいのこの細い路地が、ちょうど商店街の中程に出る近道だということを、二週間もの間彼の家に通っていた私は知っていた。そして、この抜け道を私に教えた本人が、この細い裏道から出てきた通行人は、自分の家の方角から来たということを瞬時に思い至るはずなのは、言うまでもない。
 その道を出てすぐのことだった。

 狭い路地から開けた商店街に出た直後に、カカシさんその人に遭遇するとは、なんという間の悪さだろう。
 カカシさんはちょうど里に戻ってきたところらしく、遠征用の荷物を背負ったままで、シズネさんとサクラと立ち話をしていた。彼の目が、路地から出てきた私を捉え、背後の細い道、私の目元、そして提げた買い物袋とその中の秋刀魚と順に素早く辿っていった。
 恥ずかしくて情けなくて、居た堪れない気持ちが私を支配する。
「あ、こんにちは」
 次いでサクラが気付き、朗らかに私に挨拶をした。シズネさんもにこやかに会釈をしてくれる。
「この間の特殊任務はどうも、ご協力ありがとうございました」
 シズネさんの言葉につい顔が引き攣ってしまったのを、慌てて笑顔で取り繕う。
「いえそんな、たいしたことでは」
 正直なところ、今はその話題には触れてほしくない。
 カカシさんの顔をまともに見ることが出来ずに、そそくさとこの場から逃げ出す口実を私は探していた。カカシさんは、どう思っただろうか。里に戻ってきたその日に、自分の好物である秋刀魚を二尾ぶら下げて自分の家の方角からやってきたストーカー紛いの女に、引いただろうか。呆れただろうか。憐れだと感じただろうか。
「協力ってなんのですか?」
 サクラがシズネさんに問いかける。お願い、やめて、あまり深堀りしないで。
「ほら、サクラにも前に少しお話した開発中の新術の臨床実験のことです」
 私の哀れな願いなど露知らず、シズネが説明する。サクラは「ああ」と合点した。
「私もちょっと興味あったんですよ――この技術が確立されれば戦場でも大きな効果を上げられるし――でもチャクラの相性があるんですよね」
 サクラが好奇心に満ちた目で尋ねる。
「ええ、そうなの。私も最初サクラを推したんですよ、カカシとのチャクラの相性に適性が合ったから。何より同じ班員で気心知れた仲間の方がいいかと思って。任務といえどもよく互いを知らない男女を一つ屋根の下に過ごさせるのは心許ないですしね」
 シズネが苦笑する。私は適当な相槌さえ打つことすらできずに地面に張り付いたように立っていた。カカシさんの目など見ることができない。金縛りにあったみたいに、この場から逃げ出すことさえもできなかった。
「ええ、私ならいいってことですかー?」
 サクラが拗ねた目をシズネさんに向けて、軽口を叩いた。シズネさんもカカシさんも笑っている。私の笑顔だけが絶望に乾いていた。
「いいえ、そんなつもりじゃ――ほら、一つ屋根の下と言っても、術式の効果のある五メートルの範囲内にいさえすればいいので、別々の部屋で過ごせますし」
 終わりだ。私は馬鹿みたいに地面を凝視した。私のさもしくみっともない嘘が、ついにばれてしまった。極度の緊張で、口の中がカラカラに乾いている。カカシさんの軽蔑した表情を想像しただけで、恐ろしかった。
「まあでも、カカシ先生が直接指名したってくらいだから、気の知れた仲だったんですよね、お二人は歳も近いし……結局、効果が出るまで何日かかったんです?」
「三日ですよ」
 サクラの質問にシズネさんが答えた。「すごい」とサクラが感心して手を叩く。
 サクラが感想を求めるように私の顔を覗き込んだので、乾いた笑顔を浮かべたままで、顔を上げる。
 好奇心旺盛な緑の瞳と目が合った。
「ちょっと手をかざして術式をかけて、あとは普通に休むだけだし、なんてことはなかったよ」
 すらすらと、よくもまあ、心にもないことを。興味深そうなサクラを見ながらも、心は別のところにあった。
 嘘がばれた絶望と、目まぐるしい会話と、初めて知りえた情報に頭が真っ白になる。

 直接、指名した? 誰が? 誰を?
 三日間? それでは、あの二週間もの期間は、一体? あの日々は?

 一頻り世間話を終えて、シズネさんとサクラは商店街を後にした。手を振り彼女たちの背中を見送り、やがてカカシさんと私の間を沈黙が支配する。
 自分の嘘が晒された今、カカシさんの顔を見るのは恐ろしかったけれど、恐怖よりも奇妙な興奮が勝り、そろりと目線を上げる。
 彼は遠征用の荷物の他に手提げ袋を持っていて、見覚えのある店のマークが視界に映る。あれは、確か短冊街にある老舗和菓子屋のものだ。心とはどこか乖離した頭の隅でいつかの会話を思い出す。
 さらに視線を上げれば、バツが悪そうな顔をした男がそこにはいた。二週間ぶりに会ったカカシさんは、所在なさそうに、しかしどこか責めるような目で私を見据えていた。
 きっと、私も全く同じ表情をして、彼を見つめていたに違いない。

「嘘つき」
「嘘つき」

 帰宅時間の商店街の喧噪に、二人の同時に放った言葉は馴染むことなく通り抜けた。
 ぴんと張りつめた気まずさが一瞬にして溶け、私は思わず笑う。カカシさんもまた、笑った。
 余所余所しかった秋の気配は、急に色を変えて私を包み込んだ。移ろう季節に、期待に、胸が弾む。

 茜差す商店街を、二人は並んで歩き出す。一見すると気付かない脇道に入り、家々の裏手を通り過ぎる。この道を抜ければ彼の家はもうすぐそこだ。
 今夜は旬の秋刀魚の塩焼き、それと、食後には老舗甘味屋の、季節限定商品をいただこう。
 そして、きっと彼は、もしくは私は、こう提案するのだ。
「今までの嘘の、答え合わせをしようか」




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