歓喜の口内


 わずか六畳ばかりの狭い店内であった。
 入るとすぐL字型のカウンターがあり、その中で年老いた店主が寿司を握っている。一度に座れる人数は七、八人といったところか。
 全くもって寿司の知識のないヒソカは彼女の勧めに従ってまずは白身魚を頼んだ。
「はいよ、ヒラメお待ち」
 その魚は大層白かった。見るからに淡白そうで、濃いジャンクな味を好むヒソカは一抹の不安を覚える。
 ちらりと彼女を見るとあんまりベタベタ醤油を付けちゃダメよ、と諭し、その言葉通り申し訳程度に醤油を付けて一口でそれを口に入れていた。実に見事な箸捌きである。
 箸の扱いに不慣れなヒソカは手づかみで頂くこととした。マナーとして間違いではないと彼女から予め教わっていたのだ。
 ヒソカは目の前にぽつんと佇む―――何の植物かは分からないが平行脈の大きな一枚の葉を皿替わりにしていた――寿司を素手で掴み、その先端だけを二度、控えめに醤油に付けた。
 そして彼女同様一口で口の中に放り込む。
 咀嚼した瞬間、口内に広がる鮮魚の匂い、そしてシャリの甘酸っぱさ。味がないとはちっとも思えず、淡白そうなその魚はしっかりとした甘みとまろやかさ、何よりも旨味を主張してきた。
 シャリはすぐさま解れ、酸っぱいばかりではなく白米の甘みがヒラメという魚によく合う。
 うふふ、これが本物の寿司よ。と彼女が目で笑っていた。寿司を食べる自分の顔はさぞだらしなく緩んでいたのだろう。
 続いて頼んだのは、赤貝。そして鰯。カンパチ。
 一度に頼んだので三貫並んで葉の上に並ぶ。赤貝はややグロテスクで、名の通り赤い肉を照り照りと店内の照明に反射させていた。
 先ほどと同じく素手で掴み一口で放り込むと広がる磯の香り、やはり解れるシャリ。そして、なんと心地よい歯応えだろうか。しかし決して固くはなく、噛めば噛むほど、一口ごとに旨味を増していく。
 最後の一口も飲み込むと次は鰯を口に運んだ。何と生臭い―――しかしそれが嫌ではない―――。上に乗っかった卸し生姜が鰯の生臭さを上手いこと中和させている。いやこれは中和というより相乗効果か。青魚の生臭さが、こんなにも旨いとは。
 ここでヒソカは葉の皿の端に乗せられたガリをちょっと摘み口に含んだ。辛い。しかし耐えられないほどではない。むしろ青魚の生臭さを相殺してちょうどいいくらいだ。
 続いて大きな湯飲みの中の茶をすする。
 なんと。
 ヒソカは思わず目を瞠る。何てことない緑茶のはずが、こんなにも魚の脂を洗い流してくれるとは。
 ガリとお茶によってリセットされた口でカンパチを頬張る。
 おお、素晴らしく濃厚な魚の脂と旨味よ。魚の脂とは、旨味であると今宵ヒソカは知った。そして単体ではくどいくらいのそれも、甘酢と合えた白米と一緒に食べることにより脂のしつこさは消え、旨味だけが見事に広がるのだ。
 寿司、ガリ、寿司、お茶、そしてまた寿司と、無限に平らげることが出来るのではないかと思えるほどの完璧なサイクルだ。
「ここはアナゴが美味しいのよ」
 もちろん、彼女が勧めるならばそれもいただこう。
「蒸しと焼き、どうする?」
 大将の言葉に彼女は蒸しで、と答える。それならば、とヒソカは焼きを頼んだ。
 ディスプレイされた目の前のショーケース兼冷蔵庫からずるりと長い魚を取り出す大将。
 既に捌かれているそれを一切れは沸騰した湯の中に入れ、もう一切れは刷毛でタレを塗った後に火で炙る。炙る間に熱湯の中のアナゴをすぐにすくい上げ、手早く握ったシャリに包む。
 これでは蒸しアナゴではなく茹でアナゴではないか?などという邪推はすぐに、その見た目のインパクトにかき消された。長いアナゴは切らずにそのままで、一回折り返して一口大のシャリを包んでいる。その先端はシャリよりも4cm程、長く伸びていた。
 さすがにこの大きさでは一口という訳にはいかない。彼女は箸を置き、ヒソカよろしく手掴みで齧る。半分は再び葉の皿の上に戻し、咀嚼し十分に蒸しアナゴ寿司の味わいを楽しんでいるようだ。
「はい、お兄さんの焼きね」
 彼女の横顔に見入っているとヒソカの前には焼きアナゴの寿司が置かれた。蒸しアナゴと同様大きな大きなアナゴがシャリを包んで端が大きくはみ出している。
 香ばしい匂いだ。タレが沁み込んだアナゴは艶々と輝き、今が最高潮に美味しい時なのだとヒソカに訴えかけている。
 まずはシャリからはみ出て折り返されたアナゴの先端部分を齧った。
 タレが旨い。何よりもタレが旨い。醤油に甘みを付けた和食特有の味付けは、子供向きでもあり、ヒソカの好みであった。そして香ばしい。端はカリカリと焦げて小気味よい触感を生む。そしてその奥に現れるアナゴ本来のふっくらとしたコクのある旨味は感動に値した。
 もう一口、もう一口と噛みしめ、けっこうなボリュームのそれをあっという間に平らげてしまった。
 最後に出てきたお椀の中は赤茶色のスープだ。赤出汁の味噌汁だそうで、とても熱いが一口すすると強い塩気と出汁の味が口内に広がる。やがてそれは喉から食道を通って胸いっぱいに充満した。満たされる。今まで食べてきた寿司の旨味を締めくくるに相応しいスープだ。

「ごちそうさまでした」
 口内は幸せな余韻に歓喜していた。
 ああ、寿司のなんと旨いことか。




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