視線を外した彼の目は、


「特務課から来ました。特殊生物調査室の総括をしております。以後お見知りおきを」
 男は決められた台詞をスラスラと吐き出し、手を差し伸べた。
 握手を求めているであろうそれを一瞬の躊躇の後、ウタは握り返した。
 眼鏡をかけ、白髪染めで不自然な程に黒々とした髪をきっちりと七三分けにした男は、模範的な官僚に見える。

 この世界の大きな大陸―――通称V5と呼ばれる国際協定だ―――の特務課に属されるという男を、ウタは大層警戒していた。
 男は平均よりも身長が低く厚い眼鏡をかけている。格式ばった物言いと、一に対して十言い返すプライドの高さから面倒くさい部類の人間だと判断できた。
 ビーンから、特務課の人間が“保護”と“調査”のためにウタを引き取りたいと申し出ていると聞いたのは、つい昨日のことであった。
 話を聞いてすぐ、一晩のうちにウタはザバン支部の図書室にある公共パソコンで特務課について調べ上げた。
 特務課とはV5の危機に関する例えば疫病、危険生物、重犯罪人に対する措置を取る、いわば何でも屋である。その中の特殊生物調査室の人間が訪ねてきたとういことは―――つまり、ウタが“特殊生物”の可能性があると判断されたということだ。
 はたして“特殊生物”がどのような扱いを受けるのか―――この世界についての理解はまだまだ浅いが、良くない想像力が働いてしまう。
「ウタ=アヤメノと申します。よろしくお願いします」
 ウタも額面通りの微笑みを返した。
 この日のウタはオフホワイトのブラウスの上に柔らかいキャメル色のカーディガンを羽織っていた。それに濃紺のフレアスカートと足元には踵の低い上品なパンプスを合わせて、いかにも良家のお嬢様といった出で立ちである。この服は、メンチが買ってくれたものだった。
 ウタの服と言えばこの世界に来た時に着ていた制服の他ヒソカに借りたダボダボの部屋着しかなかった。そんなウタを見かねてか、メンチが一緒に服を買いに行こうと誘ってくれたのは三日前のことだ。
 メンチの普段着用している服装から、ウタにも同様の露出の高い服を勧めるのではないかと内心ヒヤヒヤしていたが、意外にも彼女の選んだのは上品なブラウスやワンピース(それもハイブランドのものだ)であった。今まで選ばなかったタイプの服だが、試着してみるとこれがウタの雰囲気にぴったりとハマり、人形のような愛らしい魅力をより引き立てていた。メンチの審美眼というか、センスには正直舌を巻いた。
 今日来ている服以外にもあと三セット選んだためやはりけっこうな金額になった。ウタはすっかり恐縮してしまっていたが、メンチがどうしてもというので有難く頂戴することとしたのだ。
 さて、そんな上品さを纏ったウタに、男はにこりともせずにサッと手を離す。
「明日、ハンター協会の一行と協会の経営するビルに同行します。飛行船での移動になります。私共のオフィスはハンター協会ビルから山一つ越えた西側の都市にありますので、最終試験会場に着いた後は陸路を取ります」
 事務的に予定を告げる男を、ウタはしっかりと観察した。
 もちろん表面上は柔らかで、世間知らずで、少し不安な色を乗せた少女の顔のままだ。大した男ではないと、ウタは判断した。
 まず第一に、彼は念の使い手ではない。
 この頃のウタはもう、オーラの流れの滑らかさで、念を全く使えない一般人か、念能力者であるかの見分けは付くようになっていた。最も、玄人が一般人のオーラの流れを真似ている可能性もあるので油断はできないが。
 そして、未確認の“特殊生物”の調査に来ているエリートのはずだが、年端も行かぬ少女を見た目で判断し完全に下に見ているこの態度だ。賢い者ならもっと友好的な態度を見せるだろう。喋り方、話の持っていき方、目線や身振り手振りの言語以外のコミュニケーション。どれを取ってみても到底賢いとは思えなかった。



 その夜、ウタはザバン支部ビル内部の暗い通風ダクトの中にいた。
 通風ダクトとは各部屋に空調装置からの送風が通る通路のことで、わずか50cm四方程の大きさで天井裏に張り巡らされているものだ。ダクト内部は普段掃除するような場所ではないから、建造時以来の長年の埃が堆積している。ずりずりとほふく前進の要領で進むたびに埃が舞い上がった。
 当然そんな状況であることは予想していたので、ウタは昼間とは打って変わって綿製の厚手な長袖長ズボンを着用していた。これは最初にヒソカに貸してもらった服だ。
 更に使い捨てのマスクを着け、埃が目に入らないようにザバン支部内の備品室で管理しているゴーグルを拝借して目を保護していた。さすがに光源がなくては真っ暗なので、手には長さ10cmほどの簡易的な懐中電灯を持っている。
 やがてウタは一つの送風孔の直前で進みを止める。送風孔とはつまり、各部屋への空調の吹き出し口のことだ。
 胸ポケットから折りたたんだ一枚物の紙を取り出す。紙は広げればA3の大きさで、この建物の空調装置配置図を示していた。
 この空調配置図はザバン支部内にある図面室から拝借したものだ。
 関係者以外立ち入り禁止であるはずの図面室であるが、職員の目を盗んで何とも簡単に入れてしまったし、あまつさえ図面のコピーまで出来てしまった。
 今まで思い付きこそすれど悪事を働いたことのないウタだった。だったが、やろうと思えばこの頭脳一つで出来ないことはあまりないような気がした。
 ウタは昔から空間を認識する能力にも長けていたので、最初に図面を見たきり自室のダクトからここまで一度も図面を確認することまで辿り着けた。
 最後の確認の為に、一応見るだけである。
(……よし、間違いなくあの男の部屋ね)
 辿ってきた通路を図面上で二度確認し、ウタは通風孔に煙草の箱程の大きさの機械を取り付けた。
 これは盗聴のための送信機である。
 盗聴器そのものを買おうとすると数万ジェニーかかるが、自作するとなると話は別だ。
 中の基盤やケーブル、受信セルなどはそれぞれ数百ジェニー、本当に安いものだと数十ジェニーで買えてしまうので、昼食を二回我慢すれば、食事代としてハンター協会から好意で渡されているお金で賄えたのだった。
 何かの為に、わずかでもお金をとっておけば役に立つものだとウタはしみじみと感じた。

 埃まみれになった成果は、22時を回ったところで現れた。ダクトからウタが部屋に戻って、5時間後のことだ。
 ウタの部屋の中央、送信機と対になる受信機が音声データを受信したのだ。聴こえてくるのは男の話声。ややノイズも混じっているが、内容は難なく聞き取れ、どうやら誰かと電話しているらしいことが窺えた。
「ええ、ええ、滞りなく進んでいます。明日の昼頃に協会の飛行船に乗って移動するので予定通りには着くかと――……ああ、問題ないでしょうただの世間知らずな娘です。あまり警戒する必要は感じません。大方家出少女といったところか……はい、国際人民データに載っていないのは承知のうえですがそれだって怪しい……」
 内容から察するに、組織の人間への報告らしかった。
「あるいは流星街の出か……、はい?ええ、そうであればマフィアンコミュニティに受け渡すだけです。まあそうですね、ははは。もし仮に“外来種”ならば人と思わなくてよろしい――そうであれば“あれ”には、どのみち調査と研究のための実験の毎日が待っているんだ……せいぜい特務研究室に着くまでの自由な身といったところですな……、ええではまた明日、同じ時間に報告します」
 ウタは背筋が凍る思いがした。
 やはり。
 特務課について調べた時に感じた嫌な予感は当たっていたのだ。
 彼らは特殊生物について調査を行いその危険を排除することが仕事である――特に“外来種”に対しては情けなど一切無く、ヒトの姿形をしていても非人道的な実験が行われるということが今の通話から容易に想像できた。
 捕まってはならない。
 ここでのこのこあの男に着いていったら、見ず知らずの土地で無残な最期を遂げることになる。しかしどうすれば良い?ネテロ会長を始めハンター協会の人間に相談するか?しかし信用に値するのか?そもそも彼らは特務課の真意に気付いていないのではないか――そうだビーンは“保護”のためと説明していたからその意図するところは知らされていないのだ――しかしこの盗聴話を告げ口したところでどうする?特務課はV5によって取り決められた国際協定の上に成り立っている組織でその権限は大きい……果たしてハンター協会の人間が会って間もないウタの話を信じてくれるだろうか?あるいはウタの為にそこまで手を尽くしてくれるだろうか?
 考えられる手を何パターンもシュミレーションし、ウタが顔を上げた時には23時近くなっていた。
 メンチはこの時間ならばまだ酒を飲んで起きている。今しかない。
 念の為受信した音声をイヤフォンに送り、男に動きがあれば分かるように片耳で聞きながら、ウタはメンチの部屋へ向かった。
 彼女の部屋をノックすると気だるげな返事が聞こえたが、ウタが名乗るとすぐにドアを開けてくれた。右耳のイヤフォンから聞こえてくる雑音は男がまだ部屋にいることを告げていた。
「珍しいわねこんな時間に、どうしたの?」
 迎えてくれたメンチはキャミソールに短パンという部屋着で、いつも以上に目立つ豊かな胸に女のウタであっても目のやり場に困る。
「ごめんなさい夜遅くに……、少し話があるのだけど…大丈夫ですか?」
 何かを察したのか、メンチは短く頷くとウタを部屋に入れてくれた。机の上には500mlのビールの空き缶が二つと残り半分ほどになった赤ワインのボトルが置かれていた。メンチは今夜も飲んでいたらしい。
 ウタにもお酒を勧めてくれたが、ウタは今アルコールが入ると間違いなく思考力が鈍ると判断して辞退した。
「で?一体どうしたの?」
 自身のグラスに濃い色をした赤ワインを注ぎながらメンチが問う。つまみはスモークチーズのようだ。
「はい……、あの、不躾なお願いであることは承知しています。その上で、どうか聞いてほしいのですが」
 ここで躊躇って、まごついては駄目だと、ウタは一息に喋る。
「私に、お金を貸していただけませんか」
 ウタの申し出に、メンチはすぐに質問で返す。
「お金ってどのくらいよ」
「当面生活できるだけの、10万ジェニー……、可能であれば20万ジェニーあると助かります」
 メンチは目をぱちくりさせた。
「当面生活できるだけのって……、お金が入り用なのは分かるけど。特務課に保護してもらえて、その後の身の振り方も面倒見てもらえるんでしょう?」
 メンチの問いは最もである。
 しかしウタには先ほど盗聴した内容を話す気はなかった。
 メンチを信頼できないからではない。むしろ逆だ。この数日で、言葉はきついが面倒見が良く、賢く、何より一本芯の通ったメンチにウタは好意を抱き始めていた。だがそれゆえに、メンチが単に保護の為ではなく調査と実験のためにウタが連れていかれると知った時の行動が容易に想像できた。
 彼女はきっと真っ向から特務課という組織を批判し、ウタを守ろうとするだろう。
 この世界に来て間もないウタだが、色々と調べたうえで協会や特務課のパワーバランスを考えると特務課の判断が覆るとは思わないし、メンチを窮地に追い込む危険すらあると思えた。
「あなたに嘘は付けないわ。でも詳しいことは話せない……。本当にごめんなさい、察してほしいの」
 二人はしばし見つめ合った。
 メンチは内心この子は本当に賢く、自分の魅力を熟知しているものだと思っていた。こんな儚げで愛らしい少女に必死に頼まれたなら断れる人間の方が少ない。
 もしかしたら無自覚なのかもしれないが、彼女は自分の魅力を最大限活用しているのだ。そしてメンチはそれを分かったうえで猶も力を貸したいと思ったし、ウタもまたメンチの心中をよく分かっていた。
 ハシバミ色のメンチの瞳と、暗い茶色のウタの瞳が交錯する。ウタの瞳は一見すると暗い茶色だが、よくよく見るとオリーブグリーンの虹彩が混じっていて、彼女の不思議な魅力をより一層高めていた。
 ため息を吐いてメンチが目を逸らす。かなわない、と思った。メンチは自身の荷物を漁り、ややあって一冊の通帳を取り出した。
「はい、これ。もう何年も使っていない口座なんだけど、40万ジェニーほど入っているわ」
 差し出された通帳と、メンチの顔とを交互に見てウタは感謝の気持ちでいっぱいになる。
 そんなにたくさん、と申し訳ない気持ちはもちろんある。しかしそれ以上にメンチの気持ちが嬉しかった。現金ではなく口座ごと渡してくれるのも、何かとやりやすいように、という心遣いからだろう。
「本当にありがとう……。必ず、一年以内には、必ず返すわ」
 ウタは力強く微笑んだ。
 メンチのハシバミ色の瞳も優しく笑う。
「ウタ、あんた……自由になりたいのね」
 メンチの言葉の意味が分からず「え?」とウタは聞き返す。
「やりたいことがあって、欲しいものがあるのは良いことだわ」
 そうなのだろうか。ウタにはやりたいことが、欲しいものがあるのだろうか。
 前にいた世界では色んな所に行って、色んなものを見て、知りたいと思っていた。そしてこの世界に来ても確かにそれは変わらない。だとすれば、“知りたい”という欲求こそが、ウタのやりたいこと、行動の原動力になっているのだろうか。
 正直何が欲しいのか、自分でも分かっていないけれど、まだ見ぬものを見て、知らない世界を知りたい。それが今のウタの一番の欲求であった。
 そして特務課に捕まっていてはその願望が絶たれると、ウタはよく理解していたのだ。


 次の日、朝一番でウタは買い物に出かけた。
 メンチにもらったお金でまず買ったのは、ノートパソコンと携帯電話だった。
 今後の生活の基盤を作っていくうえで欠かせないものだ。しかし最終試験会場に移動して以降では特務機関の監視の目が厳しくなり、買いに行くタイミングとしては今しかないと思っていたからだ。
 その他最低限の生活必需品を買い求め、特務課の男の目に触れぬよう、自分の荷物に中に忍ばせた。
 もちろん飛行船に乗らずにこのまま行方をくらますという手もあった。むしろその方が特務課に捕まる危険は少なく、確実である。だがウタがその安全な手段を選ばなかったのは、もう一度ヒソカに会うためだった。
 あの男は、ウタがこの世界に来た鍵を握っているに違いないと、ウタはほとんど確信に近い思いを抱いていた。このまま逃がすわけにはいかない。
 もう一度会って、少なくとも、白黒になったジョーカーと突如現れたスペードのカードについて聞かなくてはならない。
 ヒソカの感情のない琥珀色の瞳を思い出すと、言いようのない不安感にウタは襲われる。ともすればそれは、懐かしい夢を見て起きた後のどうしようもなく切ない気持ちにも似ていた。


 飛行船はトリックタワーからザバン市まで乗ってきたもの、つまりウタが最初にこの世界に現れたものと同じであった。ザバン市郊外の飛行場に停泊していたそれに、ハンター協会の面々と特務課の男が乗り込む。
 飛行船の中で割り当てられた部屋は存外快適であった。大洋上を航行している時はさすがに無理だが、大陸上空では電波もある。
 ウタは誰よりも早く乗り込み、特務課の男の部屋に再び盗聴器を仕掛けた。
 当の男は盗聴されているとは露知らず、職務を全うしようとウタの一挙一動に注目していたがウタは知らぬ存ぜぬ世間知らずのお嬢様を一貫して貫き、とことん男の油断を誘った。
 メンチが口座の一つをウタに譲ったことをおくびにも出さなかったことがとても有難かった。さらにサトツも、念の稽古を付けていることを一度も口に出さなかった。彼らなりに何かを察しているのかもしれない。
 その日22時、男の定時報告を盗聴する限りではウタがメンチからお金を借りたことも、そのお金でパソコンを買ったこともバレてはいないようであった。

 翌日の正午に飛行船はゼビル島という無人島に到着する。
 ハンター試験の四次試験が行われた場所だ。三次試験のビデオテープは好意で見せてもらったが、四次試験についてはウタは詳しく知らない。一週間の期間でお互いのプレートを奪い合うという試験の概要のみ聞いていた。三次試験のようにその映像は見ていないが、一週間という長い期間を鑑みてもきっと熾烈な争いが繰りひろげられたのだろう。
 飛行船の着陸した広い平地には既に何名かの受験生が待っていた。
 四次試験が終了した旨のアナウンスがなされると近くに身を潜めていたであろう受験生がぞろぞろと集合し始めた。
 ヒソカは、最初から平地に待っている一人であった。
 他の受験生に狙われる危険など屁でもないというように、あるいはそれさえ楽しんでいる風な様子で悠々と平地のど真ん中に腰を据えてトランプでタワーを作っていた。
 相変わらず、オレンジ色の髪を逆立てて、頬には奇抜なペイントをしている。
 受験生が飛行船の乗り込んでくる間、ウタは展望デッキからその様子を観察していた。
 ヒソカは絶対に残るだろうと確信を持っていたが、ゴンという少年が乗り込んできたのをみてホッと胸を撫でおろした。話したことのない彼に、ごん太と似ているというだけでどうも肩入れしてしまっているらしい。そんな自分が何だか自分が可笑しかった。
 各自割り当てられた部屋に入るなりラウンジで一息付くなり三々五々散っていくのを見届けて、ウタは2フロア下へと下った。
 時たますれ違う受験生は物珍し気に見てきたが、ウタはそんな視線にはまるで気付いていない風で脇目も振らずに歩く。右耳にはイヤフォン。特務課の男がまだ部屋にいることを確認して通路を突き進む。
 目指していた部屋に辿り着くより早く、目的の男が見つかった。
 ヒソカだ。
 全身に針の刺さった気味の悪い男と一緒に通路のベンチに腰掛けている。
 会話は特段していないようだ。あるいは、たまたま会話の切れ目だったのかもしれない。
 ウタのその姿を目に捉え、ヒソカは会話圏内に入るまで見るともなしにじっとウタを見つめていた。針の刺さった気味の悪い男はウタに見向きもせずカタカタと無機質な音を出し首を上下させていた。
 普通の音量でも声が届く位置まで来るとウタは会釈した。
「先日はどうも、ありがとうございました」
 この日のウタの服装はグレンチェックのワンピースの下にボルドーのタートルネックニットだ。例によってメンチが選んだ良家のお嬢様テイストの装いだ。
 ヒソカは首を傾げる。
「お礼はこの間も聞いたよ」
 口角を上げて妖艶な笑みを湛える彼は、やはりあのジョーカーのカードのようだ。
 暗に、何の用かと問うているとウタは感じ取った。
 連れの針男は依然無機質な音を出してこちらの様子は微塵も関心がないようであるが、しっかり会話の内容は聞いている気がしてならない。
 針男が同席していることに少々気後れしたが、特務課の男がいつウタの様子を探りに来るとも分からない状況でぐずぐすもしていられなかった。
 ウタはジョーカーのカードを取り出す。
 赤ん坊だったウタとともに置いてあった、今はモノクロとなってしまったカードだ。
「このカードについて、何かご存じないですか?」
 背景は一切話さず、ウタはそれだけ問うた。
 針男が聞いているのもあったし、しかし、それとは別に、このカードを見せるだけで何かが伝わるのではないかと期待していた。
 ヒソカは笑みを湛えた能面のような顔で覗き込む。
 数秒の後、表情は一切変わらないがヒソカの纏うオーラがピンと張り詰めるのが分かった。
 それに気が付いたのは針男も同様らしく、ここで初めてウタを仰ぎ見る。
「知ってる、これ」
 ぽそりと、低くヒソカは呟いた。
 やっぱり。
 ウタは針男に注目される緊張感を伴いつつも、内心興奮している自分を感じていた。しかし次の瞬間、ヒソカの言葉にウタの心は再び沈下する。
「……でも、覚えていない。これをどこで見たのか」
 ウタは隠そうともせず、不躾なまでにヒソカの顔をじっと見つめる。
 穴のあくほどトランプを凝視するヒソカの目は瞬き一つもない。先ほどまでの笑みもなくただただ無表情で、このカードの存在を思い出そうとしているのか、どこか過去の遠い一点に心が持ち去られているようだ。
 少なくとも嘘はついていない―――ように見える。
 時間にしてみれば数十秒のことだったが、とても長い間沈黙があったように感じられた。その沈黙を破ったのは船内アナウンスであった。
「これより面談を行います。呼び出された受験生は応接室へどうぞ。では44番、応接室へ」
 44番はヒソカの受験番号だ。
 どこか遠くを見つめるように、ジョーカーのカードを凝視していたヒソカが、1回瞬きをする。カードから視線を外した彼の目は、もう現実に戻っていた。
 繰り返されるアナウンスを確認するように天井に視線を向け、無表情のまま立ち上がる。
 ウタにも針男にも声をかけずにヒソカは応接室へ向かうべくその場を後にした。
 二人取り残されたウタと針男は、大変気まずく、終始無言だったが、ややあって口を開いたのはウタの方だった。
「……挨拶が遅れましてすみません。私はウタ=アヤメノと申します」
「……ギタラクル……」
 針男はカタカタと揺れながら呟いた。喋れるのかと、話しかけておいてなんだがウタは少し驚き、彼が名乗っているのだと気付くのに少し時間がかかった。
 ギタラクルは、周囲に全く興味のなさそうな人間味の感じられない男だったが、今この瞬間はウタに些かの興味を抱いているようである。
「私は先日ヒソカさんに危ないところを助けていただきました。訳あって、ハンター試験のこの飛行船に同乗しています」
 観察されている居心地の悪さを感じたが、ウタは極力失礼のないように心がけた。
 ギタラクルは猶もカタカタと揺れてウタを見ていたが、やがて興味を失ったかのように窓の方へ向き直った。
 再び気まずい沈黙が流れたが、数分も経たないうちに船内アナウンスで受験番号301番―――ギタラクルが呼び出されてウタはホッと胸を撫でおろした。
 ギタラクルは一瞥もくれずに立ち去る。
 失礼な男だ、と憤慨するよりもどっと出てくる疲れの方が大きかった。
 ヒソカと喋った緊張感と、それに加えてギタラクルのオーラに当てられたのもあるだろう。
 彼のオーラは何だか嫌な圧を感じた。

 ウタはそれでも、自室に戻ってから日課にしている念の修行を欠かさずに行った。オーラを練りながらも船内アナウンスで順番に受験生が呼び出されるのを聞くと、一人ずつ試験に関する聞き取りが行われているのだろう。念の修行の後はパソコンを使って少し仕事をし、盗聴器から聞こえる特務課の22時の定時報告に問題がないことを確認する。
 定時報告を聞く限りでは、ウタについては突如として飛行船の中に現れた国際人民データに登録のない少女であるという情報のみで、具体的にどの受験生の部屋に現れたかだとか、念を習得して現在その修行をしているだとか、ウタの出現とともに現れたスペードのカードの存在やウタが元々持っていたジョーカーのカードの存在なんかの情報は全く伝わっていないようだ。ハンター協会側が最低限の情報しか伝えていないことに感謝して、ウタは眠りについた。

 翌日も、ヒソカと会って話したい気持ちはあったが、極力特務課の男の目に触れるような行動を避けたいウタはほとんど自室に籠っていた。特務課にはウタとヒソカの関連性は伝わっていないのだ。それに、念の修行と、それからパソコンに張り付いてする必要のある仕事があったからというのも理由の一つだった。

 昼時になり、ウタは昼食をとるためにやっと部屋を出た。
 食堂に向かう途中、展望デッキであのゴンという少年が座っているのに遭遇した。
 金髪の青年も同席している。すらりと手足が長く、中性的で整った美しい顔立ちをしている。歳の頃はウタとさほど変わらないように見えたが、落ち着いた表情と大人びた話し方で大分年上にも感じる。彼は三次試験のトリックタワーでゴンと行動を共にしていた受験生のうちの一人の、確かクラピカという名だったとウタは思い出す。
 二人は談笑していたが、ウタに気が付くと揃ってこちらに視線を向けた。
「こんにちは」
 ウタは愛想の良い笑顔で挨拶をする。
「こんにちは」
「……どうも」
 ゴンはにこにこと挨拶を返してくれたが、クラピカの方は警戒した面持ちでウタに軽く会釈をした。
「えーっと、ハンター協会の人ですか?」
 ゴンが屈託のない笑顔で尋ねる。
「いいえ。違います」
「それじゃあ飛行船の乗組員ですか?」
「いいえ」
 ゴンはきょとんとする。その顔がやっぱりごん太を連想させて、ウタは微笑む。
「そうなの?でも受験生の中にはいなかったような……」
 ウタが答えるより早く、クラピカが口を開いた。
「確実に受験生ではないよ、ゴン。二次試験まで彼女は見かけなかった。三次試験のトリックタワーに到着していた時に、初めて目にした女性だ。彼女はヒソカに話しかけていて、注目を集めていた」
 鋭い指摘に、このクラピカという男は警戒心が強く頭が切れるらしいことが感じられた。
「えっ、じゃあヒソカの知り合い?」
 目を見開くゴンに、他の受験生からのヒソカの印象が窺える。予想していた通りではあるが、気まぐれで変わり者の殺人狂、といったところか。
 クラピカが不信感を露わにしているのもヒソカの関係者らしいというところが引っかかってのことだろう。会ったばかりのメンチと同じだ。
「いえ……知り合い、ではないわ。でも、危ないところをヒソカさんに助けていただいて、それで、訳あってこの船に同乗しているんです」
 昨日と同じ説明を、ウタは繰り返した。
「えー!ヒソカが人助け?」
 素直なゴンの反応に思わずウタは笑う。
「まあ、やむを得ず……だとは思うけれど」
 やむを得ずってどんな状況?と興味津々でウタの次の言葉を待つゴンの瞳には、一切の邪気はなかった。特務課に連行されかけて逃亡を企てる身としては、いらないことをペラペラと話すのは実にリスクが高く躊躇われるが、ゴンになら喋ってもいいかという気にもなってきた。
 ちらりとクラピカに視線をやると、彼は彼でウタの人となりを見極めようとしているようであった。
 ゴンに視線を戻し、ウタは困ったように微笑む。
「実はね……、私、気が付いたら飛行中のこの飛行船の、ヒソカさんの部屋にいたの。自分でもその理由は全く分からないのだけれど、元いた場所からどういうわけか一瞬で移動してきたみたい」
 二人に、というよりはゴンに向けてウタは分かりやすい言葉で説明した。だからか、自然と敬語ではなくなっていた。
 ゴンは「へえ!そんな超常現象みたいなことがあるんだ!」と素直に興奮していた。
「本当、超常現象のような話だけれど……。それで、突然ヒソカさんの部屋に現れて、疲れ切っていた私を休ませてくれて、ネテロ会長のところまで親切に連れて行ってもらったの」
 オーラや念能力の話は一切出さなかった。二人の反応を見る限りでは超常現象の類だと思っているらしく、念能力については知らないようである。
 知っている者なら、この不思議な現象をすぐさま何かしらの念能力と結び付けて考えるはずだからだ。彼らはどうやら、“知らない”側の人間のようだ。
「信じ難いが……確かに瞬間移動の類は世界的にも何件か実例がある」
 クラピカは半信半疑といった様子だが、口元に手を当てて考え込んでいた。何かの文献で読んだ瞬間移動について思い出そうとしているのだろう。
「元いた場所というのは?」
 これまたウタが何となくぼやかして説明したことにもクラピカは鋭く突っ込んできた。
「……ニホンという所です」
 ゴンは知ってる?とクラピカを振り返るが、博識の彼もさすがに首を横に振る。この世界には存在しない国なのだから、当たり前だ。
「よお、探したぜ。何してんの?その人誰?」
 クラピカが次の質問を投げかけてこようとした矢先、別の人物に話しかけられた。
 銀髪が印象的な、ゴンと同じくらいの歳の少年である。
 彼もトリックタワーをゴンと共に攻略したうちの一人で、確かキルアと言ったか。
「あっ!キルア!聞いてよ、この人は……この人はね……」
 勢いよく話し始めたゴンだが、そこで言葉を切る。名前をまだ聞いてないことに気が付いたのだ。それを察してウタはクスクス笑う。
「ウタです。ウタ=アヤメノ」
「ごめんなさい……、俺はゴンです」
 気恥ずかしそうに笑うゴンは何とも憎めなかった。
「失礼、色々尋ねておいて私も名乗っていなかったな。クラピカだ」
 よろしく、とクラピカとも握手を交わす。
「それで、こっちがキルア」
 紹介されて、ども、とキルアは頭を軽く下げる。
「そうそう、でね、このウタってすごいんだよ!チョウジョーゲンショーで、別の場所から飛んできたんだって!」
 端的過ぎるほど端的に、しかし一切オブラートに包むことなくありのままに話すゴンにウタはギョッとした。
「ゴン君、確かにその通りなんだけれど……。あんまり人には話さないで……」
 キルア君は友達みたいだから構わないけど、とウタは付け加える。
 どうして?とゴンは無邪気に尋ねる。
「どうしてって、そんな話人が聞いたら変な人だと思われるでしょう。ゴン君は信じてくれているけど、頭のおかしい人だと思われて病院に入れられたり、怪しい思想の持主と思われて嫌煙されたり、もしかしたら悪い人に利用されたりするかもしれないわ」
「そっか……そうだようね。ごめんない、俺考えなしで」
 素直に謝るゴンは本当にいい子だと感じた。
 いいの、とウタは首を振る。
「でも約束して、無暗に他人には喋らないように。……二人も」
 クラピカとキルアにも釘を刺す。ゴンは「うん」と力強く約束してくれた。
 クラピカも頷き、キルアも「OKOK」と返事したが、キルアはほとんど話を信じておらず、ゴンがまた何かの冗談に騙されたと思っているようである。
「おい、それよか早く食堂行かねーと飯がなくなっちまうぞ」
 キルアが促し、彼らは三人連れだって食堂へと向かった。
 ウタは旅客用ではなく乗組員用の食堂へ行くからと、そこで三人と別れた。

 ウタは乗組員食堂で昼食を終えると、娯楽室へと顔を出した。
 ネテロ会長、ビーンズ、サトツ、メンチ、ブハラが揃って顔を突き合わせている。
 メンチとブハラはハンバーガー片手に食事をしながらで、サトツとビーンは既に食べ終えたのかコーヒーを飲んでいるのみである。ネテロ会長の前には湯飲みがあり、お茶のようなものが入っていた。
「ちょっとこれ……、会長本気ですか?」
 怪訝なビーンズの声にウタは足を止めた。
 ウタも丁度、昼食後のコーヒーを飲もうと思っていたところだった。
 部屋の入口で佇むウタを振り返り、メンチが声をかける。
「あっ、ウタ丁度よかったわ。ちょっと見てよこれ」
 会話に加わっても良いものか迷っていたウタだが、誰も気にしていないようなので皆の座る机に近付く。
「ワシはいつだって本気じゃよ」
 悪戯っ子のような目で笑う会長を全員が呆れた目で見ていた。
 メンチが、先程まで皆の覗き込んでいた紙をウタに手渡す。
「最終試験の組み合わせですって」
 なるほど確かに紙には最終試験まで残った受験生の番号が横並びに記されており、そこからあみだくじのように線がのびて、トーナメント表を作っていた。
 しかし一般的なトーナメント表と比べて試合回数にだいぶ偏りがある。そして下部には最終試験のルールが記されていた。

・1対1のトーナメント方式の決闘である
・1勝すれば合格となり、負けた者が次の試合へ進む
・勝利条件は相手に「参った」と言わせること
・対戦相手を殺害した場合は即失格となる

 以上が最終試験のルールであった。
 ウタはルールの裏に隠された試験の意図を読み取る。
 これは単純に強さを測る試験ではない――もちろん、戦闘が行われる以上強者が勝つのは当たり前のことだ。しかし、単なる戦闘での強さではなく、意志の強さが重要になってくるのだろう。いかに相手の心を折り、参ったと言わせるかが鍵になるのだ。
「どう思う?」
 メンチがハンバーガーを大口でかじり、呆れた顔のままでウタの意見を求めた。
「組み合わせが随分不公平ですが……、これは昨日の面接の結果を受けてですか?」
 ウタの的確な指摘にネテロ会長は満足げに笑う。
「いかにも。それに加えて、これまでの試験の成績を加味してのことじゃ。成績は身体能力に加えてハンターとしての素質――つまり印象値、これも大きな要素で入っておる」
 その漠然とした説明じゃ伝わらないわよ、とメンチは内心毒づいたが意外にもウタは納得した様子で頷いた。
「だからゴン君に有利なのですね。最も、彼は一回戦で合格を決めそうですが」
 ほう、とサトツが面白げにウタを見る。
「どうしてそう思ったんですかな?」
「私はハンターの資質というものがよく分かっていませんし、三次試験のトリックタワーの映像を見たのみですが」
 前置きをしたうえで、ウタは説明する。
「ゴン君は身体能力に加えて発想の柔軟性や他人から好かれる性質を持っています。何より、ハンターになりたい気持ちと、あとは……頑固さも。これを参ったと言わせるのはなかなか骨が折れそうです。対して相手のハンゾー氏、彼も三次試験を見る限りでは申し分ない資質を持っています。戦闘経験の差はむしろゴン君よりも遥か上で、殺さずに相手に参ったといわせる方法も心得ているでしょう。そして彼も、ハンターになる明確な強い意志を持っています。しかし、ハンゾー氏のその真っ直ぐな性格といくつか修羅場をくぐり抜けてきた経験があるからこそ、同じく無垢で真っ直ぐなゴン君を参ったと言わせることはできないように思います。要は、性格というか……人間としての性質の相性の問題です」
ヒュウッとわざとらしくメンチが口笛を吹いた。ブハラは口いっぱいにハンバーガーを頬張ったままで、ほー、と感心している。
「でも、本当にゴンが勝つかなあ?やっぱり戦闘能力を考えるとハンゾーが大分有利だと思うけど」
 口の中のものを飲み込むと、ブハラが首を捻りながら考えを口にする。ウタは穏やかに頷いた。
「ええ、ですから、これはゴン君に勝ってほしいって私の願望も入っているんです。実はついさっき、たまたまゴン君とお話しまして……少しの時間ですが、それだけでも味方に付きたくなってしまう、そんな子でしたから」
 言うなれば、その魅力が勝因でもあると思うんです。という言葉は飲み込んで、ウタは微笑んだ。
 元いた世界でもその頭脳と観察力で人間関係を思うがままに操っていたウタだからこそ、確信を持って言えた。






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