琥珀色の液体のように


「この子はウタ=アヤメノ。別の世界から来たらしい」

 サトツがアイザック=ネテロ氏にそう少女を紹介されたのは、朝6時30分のことだった。
 就寝前は順調に航行していた当飛行船だったが、起きてみると1時間少し遅れが出ているようだ。今年のハンター試験の一次試験官であるサトツは、朝食前に運航情報を見ようと娯楽室に設置してあるモニターを見に行くところだった。
 ソファに座り本を読む少女―――ウタ=アヤメノは紹介されると深くお辞儀をする。
 まだティーンエイジャーに見える彼女は華奢な体格に黒目がちな大きな瞳で、人形のようだった。長い髪を緩く三つ編みに垂らした彼女の肌は白く輝き、印象に残らないがすっと通る鼻と桃色の控えめな唇。一言でいえば美少女である。
 不似合いなぶかぶかの服を着ていたがそれが一層彼女の儚さを際立たせている。
 彼女について詳細は、以下の通りである。
 昨夜未明、受験番号44番ヒソカの部屋に突如として現れた。
 彼女の言うには、元いた世界と全く別の世界に来てしまったということ。彼女自身もその原因は分からないが何故かこの世界の言語(公用語であるハンター語のことだ)を喋ることができ、読み書きもできる。
 そしてこの世界に来たタイミングで念能力を開花させた、らしい。
 つまり全く怪しい得体の知れない存在だった。
 もちろんサトツはほとんど信じておらず、また会長の悪ふざけか、この少女が嘘を付いているかのどちらかだろうと思っていた。
「国際人民データ機構には照会したのですか?」
「今ビーンがしておる。数時間くらいで結果は分かるじゃろうて」
 この世界の住人ならばな、という含みを持たせてネテロ会長は答えた。まさか、本当にこの少女の言うことを真に受けているのだろうか。

 言うだけ言って、会長はさっさと姿を消したので娯楽室にはサトツと得体の知れない少女でしばらくの間二人きりになった。あの会長はつくづく人が悪い。
 娯楽室のモニターでサトツが運行情報を確認する傍ら、彼女はずっと本を読んでいた。
本船の備品として置いてある本だ。少しでもこの世界のことを知りたいから読ませてほしい、と彼女が申し出たらしい。
 本の分野は歴史に政治に経済、民俗学や電子工学など多岐に渡っていた。驚くべきことは、彼女は分厚いそれらの専門書を1冊当たりわずか10分程で読み終えていた。その速さで果たして内容を理解しているのだろうか、恐らくしていないだろう。
 難解な内容に付いていけず、手あたり次第に次から次へと本を眺めているように見える。
 しかし横目に観察していると、「世界の遺跡30とその歴史」という本のとあるページの所で彼女の指は止まり、先程読み終えた(あるいは眺め終えたと言った方が的確か)はずの「アイジエン大陸の王朝文化」という本に戻る。サトツはそのページを盗み見てドキリとした。
 二つの本のそれぞれのページは同一遺跡の文化について述べており、確かに内容がリンクしているのである。まさかこの年端も行かぬ少女は、本当にこのスピードで内容を理解し覚えているのか。
 やがて二次試験官であるメンチとブハラも起きてきて、見知らぬ美少女とサトツの顔とを交互に見合わせた。
 何と説明したらよいものか、口を開く前より早くネテロ会長が再び現れ先ほどと全く同じ言葉でウタ=アヤメノを紹介する。
 もちろん二人とも異世界からきたなどという話は冗談半分に聞いていたし、メンチに至ってはヒソカの部屋に現れた、という点が引っかかったらしく不信感を露骨に表していた。

 そうして迎えた朝食は異様な雰囲気であった。
 メンチは終始不機嫌で黙り込んでいる。ブハラもそんな彼女を気遣ってか口数は少ない。
優秀なハンターであることは間違いないのだが、少々感情的過ぎるところが彼女は玉に瑕であった。
 ネテロ会長はそんな空気などどこ知らず(メンチの不機嫌など絶対に分かっているはずなのだが、分かった上で)、いつもの飄々とした調子である。
「あのう、本船が目的地について、試験受験者を下ろすまでにまたヒソカさんとお話することはできますか?」
 当のウタは黙って出された食事をとっていたが、不意に口を開く。
 全員の注目が彼女に集まると、困ったように眉を下げた。
「私、まだちゃんとお礼を言えていないものですから……」
「もちろんじゃ、まあそんなに長い間話し込むことはできないがの……九時半頃には着くじゃろう」
 一同は自然と時計に目をやる。あと一時間ほどだ。
「そういえば、安定した気候の割には随分遅れがでたんですね」
 サトツの問いにネテロ会長の目の奥がキラリと笑った。
「ほほほ、少々遊び過ぎたかのう」

 会長の言葉通り、九時過ぎには船内マイクでもうすぐ到着する旨のアナウンスがされ、その十分後には三次試験会場であるトリックタワーの真上まで来た。
 続々と舷門付近に集まる受験者の中にヒソカの姿を見つけ、ウタは駆け寄った。
ただでさえ女性の少ない船内で、見慣れぬ少女(しかも大変人目を惹く可憐な容姿である)に、受験者達は何事かと注目していた。
 サトツも遠目に観察しているとウタはヒソカと二言、三言喋りお辞儀をした。そしてヒソカから何かを渡される。よく見えないが、カードのようなものだった。
 飛行船がトリックタワーに着陸し、舷梯が下ろされると受験者達は順次下りていく。
謎の美少女が気になっているらしい者も多々見受けられたが、彼女の話しかけた相手があのヒソカとあって誰も直接尋ねる勇気はないようであった。
 受験生を全員下ろすと再び舷梯を上げ、飛行船はトリックタワーを離れた。
 この後は更に1日半かけて、ハンター協会の最寄りの支部に向かう予定である。
 離陸してから30分も経たないうちに、ネテロ会長がサトツ達試験官とウタを娯楽室に集めた。娯楽室には会長の優秀な秘書であるビーンも同席している。背が低く愛嬌のある顔をしているビーンだが、神妙な面持ちをしているところを見るとあまりよくない話のようだ。
 サトツの予想通り、ネテロ会長の話はウタのデータが国際人民データ機構にないという調査結果を告げるものだった。
 つまり、異世界から来たというウタの話がいよいよ信憑性を持つこととなる。
「本当の本当にないわけ?」
 責めているわけではないだろうが、つい口調のきつくなるメンチにビーンも反論する。
「はい、今のところは確かです。というのも、名前と顔写真しかデータがないので、遺伝子検査を行いそのデータを元に照会かければまた新たに何か分かるかもしれませんが」
「流星街出身の可能性は?」
 サトツの問いにビーンは首を振る。
「それなら元より調べようがありません」
 ビーンはウタの方を見て視線だけで問いかける。
 ウタも首を横に振った。
「違います。流星街については先ほど読んだ本で知りましたが、そこの出身ではありません」
 ウタの口ぶりははっきりしていた。
「国民データがないとなると、家出や記憶喪失の可能性は消えるわけですね」
 サトツは髭を撫でつけながら考える。
「……あるいは外の世界から来たか」
 ボソリと呟くと、ネテロ会長に目で制された気がした。
 メンチ、ブハラ、ビーンはまさか、という顔をしている。
「……外の世界?」
 ウタだけが意味が分からないといった顔で聞き返した。
「そんなはずないわよ。それより、さっきヒソカに何か渡されてみたいだけど?」
 いかにも怪しい、と疑惑の目をメンチはウタに向けた。
 ウタは思い出したようにぶかぶかのズボンのポケットからカードを取り出した。
「このカードが、私が現れたバスルームに落ちていたということです」
 そのカードはトランプよりも大きく、タロット占いで使うようなカードくらいのサイズである。片面には大きく中央にスペードが描かれており、裏は幾何学的な模様の、それこそ一般的なトランプにありそうな柄に一見見えた。
「ちょっと見せていただけますかな」
 サトツはカードを受け取るとしげしげと眺める。カードは名刺ほどの厚さで硬く、ざらりとした粗い紙の質感をしていた。裏面の幾何学模様は見覚えがある。一部の念能力者が念を込めて描く模様に似ていた。
「これは、念を込めて描かれていますね」
 どこかの遺跡に同じようなものがあったかもしれないな、と考えつつ表面にひっくり返す。中央に大きくスペードが一つ描かれている。そしてそのスペードのマークをよくよく観察してみると、塗りつぶしではなく細かい字がびっしりと書き込まれていた。
「そしてこちらのスペードマークの内側は……神字だ」
「神字?」
 ウタの問いかけにサトツは頷く。
「神字も念を込めながら描かれるもので、一般的には念能力の限定的な強化に使われます。裏面のこの模様もまた同様のものでしょう」
 ウタはサトツの言葉をじっと聞いていた。
「このカードに心当たりはないのですか?」
 サトツが尋ねるとしばし考え込んでいたウタだが、ありません、と首を横に振る。その様子に鼻を鳴らしたのはメンチだった。
「どう見たってあのトランプマンに関係ありそうじゃない。あの男と昨日初めて会ったってのも怪しいもんだわ」
 メンチの指摘に、ウタは彼女を真っ直ぐ見つめ返す。大きく、幼い印象を与えがちな瞳だが、その奥には思慮深さが見て取れた。ウタはウタで、メンチを含めた我々が信用に値するか見極めているようである。
 やがて、彼女は静かに口を開いた。
「実のところ、私もそう感じています」
 思いがけない彼女の言葉に、メンチは面食らったようである。
 どういうことよ、と問い詰めるとウタは自身の鞄からまた別のカードを取り出した。
 こちらは正真正銘標準的なトランプのサイズで、絵柄はモノクロのジョーカーである。大きな鎌を持つ不気味なジョーカーは、どことなくヒソカを連想させた。
「今朝もお話した通り、私は捨て子でした。日本という国で老夫婦に拾われ育ててもらいました。私が拾われた時に、一緒に置いてあったのがこのジョーカーのカードだそうです」
 ウタが差し出すカードをサトツは受け取る。裏の模様は、先程のスペードのカードの幾何学模様と全く同じである。
「これは……」
「ええ、バスルームに落ちていたカードと同じ柄です。大きさは違えどジョーカーとスペード、ともにトランプを連想させる絵柄でもあります。さらに、そのジョーカーのカードはこの世界に来る前は白黒ではなく色が付いていました。ですからこれらのカードがこの世界に来たことに関連しているかと思われます。そしてこの模様が念能力を強化する、という説明を聞いて、このカードがきっかけとなって、誰かしらの念能力で“飛んで”来てしまった可能性が非常に高いと私は考えています」
 淡々と説明するウタをサトツは感心を持って観察した。
 置かれている状況の割には酷く冷静で客観的である。しかしその推察は的確で、恐ろしく賢い子なのだろう。
「そして……皆さんも感じているかと思いますが、このジョーカーはどことなくヒソカさんを連想させます」
 ウタはサトツの手の中のジョーカーに目を落とした。生気を感じられない表情が、彼女のミステリアスで神秘的な雰囲気をより一層高めている。そう、まるで石像に彫刻された聖女のようだ。
「……それ、ヒソカ本人には聞いてないわけ?」
 メンチの問いかけにウタは首を振る。
「まだ聞けていません。先ほどは人目もあって、時間もありませんでしたし」
 しばらく全員が考え込む。
「誰かの念能力っていうなら、やっぱりヒソカかもしくは彼女――ええと、ウタ自身の能力っていうのが有力じゃないかなあ」
 ブハラが後頭部を掻きながら発言した。サトツもその意見には同意である。
「どれ、少し念能力の程を確かめようかの」
 ネテロ会長の提案のサトツは頷く。ウタは何が試されるのか、緊張しているようだった。
「幸いここにいる者はビーンを除いて皆プロハンターであり念の使い手。それも心源流で念を修めている者たちだからのう」
 会長の目がサトツに向けられる。確かに感情的なメンチや多少不器用さのあるブハラよりも自分の方が適任であるとサトツも考えていた。
「分かりました。では私が確認しましょう―――」
 そこでサトツが言葉を切ったのは、ウタが驚いた顔をしていたからだ。
 終始冷静だった彼女の驚きの表情は、生気のない顔から年相応の少女に見せた。
「心源流、と仰いましたか?」
「うむ、確かに」
「……心源流という宗派の拳法であれば、元の世界で私も習っていました」
 少女の言葉に、一同は顔を見合わせた。
 彼女自身も困惑しているようだった。
「でも、ただの拳法です。オーラとか念能力とは、一切聞いたこともありません。私が習っていたのも心源流拳法の組手の型のみです」
 ウタは大きな瞳を数回瞬きさせる。
「けれど……、全く同じ名前の流派って、やっぱり何か関係があるのでしょうか」
 うーむ、とネテロ会長は長い髭を撫でつけた。
「先生の名は?」
「育ての親でもある、アイザワという60代の男性です」
「知らんのう……あとで会員名簿を調べておいてくれ」
 ネテロ会長はビーンに指示を出す。どうせ名簿にも載っていないのだろうな、とサトツは何となく感じた。
 彼は今やウタ=アヤメノが異世界から来たという話を信じつつあった。

 それから数十分後、彼らは飛行船内の多目的ホールに集合した。
 ネテロ会長がゴンとキルアと戯れにボール遊びをしていた部屋で、50m四方程の大きさである。天井は飛行船内の中でも最も広く作られていて体育館のようだ。
 サトツは目の前に対峙する少女、ウタを改めて見た。
 華奢な体格に、当飛行船の居室備え付けの男物の服を着ている。何重にも捲った袖口から覗く肌は白い。黒目がちの瞳に艶やかな長い髪を後ろで纏め、美少女と呼ぶに相応しい可憐な容姿である。
「ではお好きなように、私に打ち込んできてください」
 サトツの言葉に、ウタは構える。
 なるほどそれは、心源流の型に近く隙の無い良い構えであった。
 じりじりと間合いの外からこちらを伺う彼女は、ややあって正拳突きを繰り出した。
悪くはない。あくまで一般的な武道の嗜みの範囲内では、の話だが。
 サトツは軽く左手で受けていなす。続けて彼女からの右足蹴り。それも左手で受け、そのままその華奢な足首を掴む。体勢を崩したウタだが、逆に掴まれた勢いを利用して器用に身体を回転させて蹴りを振らせてきた。
 可憐な見た目とは裏腹な素早い身のこなしにサトツは感心するが、難なく片手で受け止めて振り払った。ウタは後方に倒れこむ。
 どうにか受け身を取っているようではあるが、膝小僧を打ったらしく、顔を少ししかめていた。
 まあ、こんなところだろう。
 ウタの体術の力量の程は、この歳の少し運動神経の良い少女が武道を修めた、まさしく予想通りのレベルである。一般生活の上では護身程度には使えるが、ハンターのサトツからしたら赤子の手を捻るかごとく倒せる相手である。ウタは体術でいえば今年のハンター試験受験者の誰にも勝てないだろう。
「では、次です」
 サトツが膝を落として構えたのでウタも再び緊張して向き直った。
「これから念を込めた拳で攻撃しますので、避けずに防いでください」
 一気にウタに先ほどまでと段違いの緊張が走るのが見て取れた。身体を強張らせているのは、得体の知れない“念”というものに恐怖心を抱いているからだろう。
 ゆっくり、スローモーションの動きでサトツは念を込めた拳をウタへと近づけた。
 ウタはぐっと身体の正面で両腕を硬く構えたまま体全体をオーラで覆う。これは、四大行で言うとオーラを拡散しないように体の周囲に留める“纏”と、精孔を広げて通常以上のオーラを出す“練”の中間くらいの状態に見えた。
 つい昨夜念能力を身に着けたばかりとだけあって、全くその扱いは分かっていないようだ。
「よろしい…そのまま」
 サトツの極々ゆっくりとした動きの拳はウタが顔の前で構えた手の中に静かに収まった。
 全身をオーラで包んでいるだけあって、サトツの念によるダメージは受けていないようだ。
 彼女が小さな肩でほっと息を吐くのがいじらしかった。
「いいですね。では次はもう少し速く」
 次は右側から少し速めの、とは言っても攻撃と呼ぶには無理があるスピードの、全く力のこもっていない手刀を繰り出した。
 ウタは再び臨戦態勢を取りガードしようとしたが、肝心のオーラが全くついていってない。
 堪らず、彼女は後方に飛び退き全く力のこもっていないサトツの左手を躱した。
 オーラで防げないと判断したその身のこなしは正しい。
 だが、これでウタの念能力の程は全くの初心者ということがほぼほぼ確定した。
「まあ、そんなところでしょう」
 サトツは穏やかな口調で呟いた。
 が、次の瞬間、もうこれでお終いと完全に気が緩んでいたウタまで一足で近付き、思い切り蹴り上げる体制をとった。その蹴りにはオーラが込められている。
 ウタが目を見開く。後ろの方でブハラが「うわっ」と声をあげたのが聞こえた。
(危機が迫った極限状態でこそ、本質が見えるものですからね)
 目の前で縮こまる哀れな少女に心の中で罪悪感を覚えながらもその挙動を見逃すまいとサトツは神経を研ぎ澄ました。
 もちろん、まともに食らったら大怪我どころでは済まない話なので、寸止めするつもりであった。
 だが、どういうことか、気が付いたら目の前の少女は姿を消していた。
「?!」
 行き場を失ったサトツの蹴りが、中途半端に宙を舞う。
 一拍置いて、斜め後方から「きゃっ」と小さい悲鳴があがる。
 素早く振り向くと、後ろで観戦していたネテロ会長、ブハラ、メンチと続く更にその後ろでウタが尻餅を付いていた。
 メンチがウタをまじまじと見つめた後でサトツに視線を戻す。目が合い、何だか気まずい思いがした。
「今……消えたよね?」
 ブハラの問いかけにサトツは首を捻る。
「ええ、消えた……というよりかは瞬間移動したと言った方が正しいでしょうか」
 誰よりもぽかんとした表情のウタに一同の注目が集まる。
 いよいよ彼女が自身の念能力でどこからか飛んできたことが、真実味を帯びてきた。








 その夜、メンチは一人消灯後の船内を歩いていた。
 昨日から色々なことがあってどうにも目が冴えてしまったのだ。
 ハンター試験監督(それもイレギュラーなことが起こり彼女自身も実演という形で参加した)に、突如として現れた得体の知れない少女。
 盛りだくさんな出来事に体は疲れているはずで、だがしかしお酒でも飲まないと眠れないと、船内のバーカウンターに酒をくすねにやって来ていたのだ。時刻は深夜1時を周っている。
 結局あの後、ウタが再び瞬間移動能力を見せることはなかった。
 何度か同じような状況を作りその力を見ようと試みたが、どうにも上手くいかなかったのだ。
 メンチは、あの少女のことをどうにも手放しで信用する気にはなれなかった。
 ヒソカに関係しているらしいことも、不信感を増長させる一因だろう。何より自身の置かれている状況に対して淡々としたあの態度―――腹の中では何を考えているか分かったものではない。
 しかし会長もブハラもサトツも、あの気味悪い少女の言うことをすっかり信じているようである。
 サトツに至っては午後からは、念の基礎である四大行の手解きをし始めたのだ。
(完全にほだされているわね)
 一見ドライに見えて、案外面倒見のいいサトツの性格にメンチは頭を押さえた。

 消灯後の船内は常夜灯が灯るのみで薄暗い。バーカウンターとて同じことで、ズラリと並ぶ酒瓶のラベルを読み取るのに苦労したメンチは灯りを持ってこなかったことを後悔した。
「あら、良いもん置いてるじゃない」
 昼間の出来事に加え、暗がりでの物色にイライラしていたメンチだが、12年物のウイスキーを見つけてパッと気分が浮き上がる。まだ半分以上液体が残っている瓶を小脇に抱えて客室通路に戻る頃には、彼女の機嫌はすっかり良くなっていた。
 1フロア下り、リネン室前を右に曲がり、更に展望デッキを通り過ぎれば部屋はもうすぐ―――…。
 メンチははたと足を止めた。
 展望デッキは大きな窓から眼下を望める造りになっていて、腰掛け用の長椅子が複数置いてある。
 その一番端、メンチが入ってきた通路から最も遠い場所にあの少女が座っていたのだ。
 メンチは口の中だけで小さな舌打ちをしてすぐに引き返そうとしたが、どこか様子のおかしいウタに気付いた。彼女の様子をよく見ようと目を凝らす。幸い展望デッキは船主側に位置しているためかカーブが大きく、柱の一つが上手いこと死角になっているため身を隠してあちらの様子を観察することが出来た。
 ウタは目の前の景色など全く見ていないようであった。斜め後方からの背中しか見えないので表情は分からないが、俯いている。そしてその小さな肩は小刻みに震えていた。
「……ぐすっ、……うう……」
 ウタは泣いていた。
 押し殺そうとしても漏れる嗚咽に、メンチの胸はぎゅっと締め付けられた。
 哀れな少女の後ろ姿はより一層小さく見える。メンチは目を離すことが出来ずにただただ眺めていた。
「……アイザワさん……、ひくっ、おかみさん……、うっ…ごん太……!」
 どうして見ず知らずの土地に来て、平気なことがあるだろうか。
 淡々と、冷静に状況を飲み込む彼女に勘違いしかけていたが、まだたった16,7歳の少女なのだ。見慣れた土地を離れて、頼れる人は誰もいなくて、寂しいはずがないだろう。
 賢いこの子は上手く隠して表面には決して出さないが、心の中は不安な気持ちでいっぱいなのだ。
 か弱い背中をしばし眺めていたメンチだが、とうとう声をかけずにその場を立ち去った。手に持つ瓶の中で揺れる琥珀色の液体のように、メンチの気持ちもまた揺さぶられている。サトツはほだされている、と憤慨していた先ほどまでの気分とは打って変わって沈んでいた。
 船内は相変わらず薄暗く、寒い。広い窓際となれば猶のことだ。

 帰り際空調室に立ち寄り、展望デッキ区画の設定温度を上げた時には自分もサトツのことは言えないわね、とメンチは一人、思わず苦笑した。




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