それが悪寒なのか、感動なのか


 目を覚ますと、体の疲れはすっかり消えていた。
 感覚的にはそんなに寝ていないはずで、実際窓の外はまだ暗かったが、頭の状態もハッキリしている。
 目覚めても夢から覚めるわけではなく、見知らぬ世界の飛行船の見知らぬ男の部屋にいる事実にウタは少しがっかりした。一方で、どこか安堵している自分もいた。
(こんな大変な状況だっていうのに、どこかホッとしているなんていよいよ頭がおかしくなったのかしら)
 ウタは部屋に備え付けの鏡を覗き込む。大丈夫、いつもの自分がそこには写っていた。
ぶかぶかのTシャツとズボンをこれでもかという程に裾をまくり、それが余計に華奢な体格を目立たせていた。
 机の上にはとうとうウタが口をつけることのなかった紅茶がそのままの状態で置かれている。得体の知れない場所で安易に口を付けるべきではない、と考えつつも、もう今更大丈夫だろうという根拠のない自信があった。
 紅茶はすっかり冷めていたが、喉の乾いていたウタにはそれが丁度よく、一気に飲み干した。

 あの不思議な男―――ヒソカはどこに行ったのだろう。
 ウタに気を使って外に出てくれたのだろうが、確か何かの試験の途中であると言っていた彼の言葉を思い出し、申し訳ない気持ちになる。彼も体を休めるべきだろうに。
 申し訳ないついでにトイレを借りて用を足し、脱衣所に落ちていた通学鞄を回収して携帯電話を取り出す。予想はしていたが、圏外になっていた。
 携帯の時計を確認すると朝の四時三十五分を表示しており、ウタはハッとする。
 もう一度部屋に戻り部屋置きの時計を確認するとまったく同じ時間だ。ということは、少なくとも元いた世界と今いる世界は同じ時間で動いているはずなのだ。
 元の世界のウタはどうなっているのだろう。自分がここにいるということは消えてしまったのだろうか。合澤夫妻は酷く心配しているだろうことを考えて胸が痛くなる。夫妻だけじゃない。クラスメイトや友達、ごん太だって―――。
 ウタはポーチの中から櫛を取り出す。きちんと髪を乾かさなかったために少しはねた髪を梳かして心を落ち着かせながら今後の方針を考えた。
 これは、たぶん夢じゃない。
 まだウタがどこかに連れ去られてヒソカという男に騙されている可能性も消えたわけではないが、やはり状況を整理するとどこか別の世界に来てしまったと考えるのが、一番合理的であった。
 まずはこの世界について情報を集めなければ。文化、経済、世界情勢。それからこの世界で生きていく術を確立する。そして生活の基盤ができたところで元の世界に戻る術を探すのだ。
 冷静になって、だいぶ落ち着いてきたウタは、財布の中の現金含めて何も持ち物が盗られていないことを確認する。ふと、鞄の中のカードに目を落とす。
 御守り代わりに持ち歩いていた、あのジョーカーのカードだ。
「……え?」
 ウタは自分の目を疑った。
 小さな頃から見慣れているジョーカーのカード。不気味な道化師が大きな鎌を持って笑っている。
 それは確かにカラフルな色使いで描かれていたはずなのに、今ウタが手にしているカードは、絵柄は全く同じで、しかしどういうことだろう。白黒になっていた。裏返し、また戻す。何度見ても白黒だ。どうして色が抜けてしまったのか。
 劣化?この短期間で?いやしかし時刻は同じと確認したが元の世界と今の世界が同じ時間軸とは限らない。もしかしたらとんでもない時間が経ってしまっているのかもしれない。
(でもそれならば他の物も同じような変化があるはず)
 電池の減っていない携帯電話。綺麗な状態の教科書とノート。濡れてはいるがウタが着ていたままの状態の制服。(これはハンガーにかけて干されていた――恐らくあの男、ヒソカだろう)
 ウタを含めて何も変わっていない中で、確かにジョーカーのカードだけが、白黒になっていた。
 とすれば、だ。この世界に来る過程で何らかの力が働いてジョーカーのカードの色が抜けたのか。あるいは、このカード自体がこの世界に来てしまったことと関係があるのだろうか。
 まるで最初から白黒印刷だったかのようなカードをしばらく眺めてから、ウタはそれを再び鞄にしまう。
(ヒソカさんを探そう)
 ここでいくら考えても埒が明かない
 もうすっかり目が冴えて眠れなくなっていたし、少しでも外の情報が欲しい。それに何よりヒソカに休んでほしい気持ちもあった。彼がウタを騙している可能性がまだ残っている以上完全に信用はしていないが、こうして部屋を貸して休ませてくれたことには変わりない。ハンター試験とかいうのも本当にあるのならば、今からでも休んでほしかった。
 部屋を出る際に鍵を探したが見つからない。オートロックだろうか、と少し躊躇ったがどの道携帯は繋がらないし、荷物は部屋に置いていくこととした。
 扉が閉まり部屋番号を確認すると1044と書かれている。再度ドアノブを回すが予想通りオートロックのようで、開かなかった。部屋の鍵は恐らくヒソカが持っているのだろう。
 幸い飛行船内の通路のあちこちに船内図があったため、迷うことはなさそうだ。
 今いる場所が上から三番目のデッキであることを確認し、ウタは歩き出した。
 通路にも空調が効いているらしく、さほど寒さは感じない。
 しばらく通路の両側には各部屋のドアが立ち並び、その後広い空間に出る。壁沿いに長机と、長椅子がカウンターのように並べられており目の前は広い窓ガラスで外の景色を望めるようになっていた。
 眼下に広がる、煌めく街の灯りにうっとりする間もなく、突当りの椅子に座る人物に目が行く。
 ヒソカだった。
 先ほどまでとは違い、髪を立てている。
 近付いていくと、本当にさっきまでのヒソカと同一人物なのだろうかとウタは疑問に思う。髪を立てているほか、彼はメイクをしていた。メイクといってもファンデーションとか口紅の類ではない。左頬に星、右頬には涙型の派手なペイントをしていた。
 顔の印象がだいぶ違うのは眉も描き足しているからだろう。元の短い眉を思い切り吊り上げ描いているものだから、彼の不気味な雰囲気を何倍にも増長させていた。
 それはそう、さながらピエロのようだ。
 ピエロ、いやむしろ―――。
(まるで、あのジョーカーのカードみたいじゃない……)
 ウタは背中がヒヤリとしたのを感じた。それが悪寒なのか、感動なのか、ウタ自身にも判断はつかなかった。
「……やあ、休めたかい?」
 近付くと声をかけてきた不気味な男は、確かにヒソカだった。
 何故こんな奇妙なメイクをしているのだろう。これが普段の彼なのだろうか。
「はい、もう充分休めました。すみません、部屋を取ってしまって……」
 しおらしくウタが謝ると、ヒソカは目を細めて笑う。いや、笑った顔の形は作りこそしたが、心の内は全く分からなかった。
「ボク、あんまり寝なくても大丈夫なんだよね」
 ショートスリーパーというやつだろうか。ヒソカが部屋に戻る素振りを見せなかったため、ウタは迷った挙句、彼の隣に腰を下ろした。
「綺麗……」
 ウタは思わず呟く。
 ようやくじっくりと眺めることのできた眼下の景色は、真っ暗闇のなかに街の灯りが種々灯り、宝石のように煌めいている。そういえばオーラが揺蕩う様はキラキラと輝いて見えて、まるで宇宙にぽっかりと浮かんで天体を眺めているみたいだ、とウタはふと思った。
 空を飛ぶことはウタの夢の一つでもあったが、まさかこんな形で叶うとは。
 そしてウタは、これが夢ではないことに気が付いて安堵した自分の気持ちがどこから来ていたか分かったような気がした。
“ここではない、どこかへ”
 ウタがずっと漠然と抱いていた想いだった。
 どこか知らない世界を冒険してみたい気持ちが少なからずともあったのだ。
 見知らぬ親を想い焦がれる気持ちはほとんど持っていなかったが、まだ見ぬ世界を知りたい気持ちはずっと抱いていた。
「さっきまではもっと都会の上空を飛んでいたから、さらに綺麗だったよ」
 ヒソカもまた眼下に広がる煌めきを眺めながら教えてくれた。
 失礼だとは思いながらも、ウタは彼女にしては珍しく、他人の横顔をまじまじと眺める。物心ついた頃から何度となく眺めてきたジョーカーのカード。その絵柄を飛び出してきたかのような人物が今まさに目の前にいるのだ。
「あのう、無礼になっていたらすみません……、そうおっしゃってください」
 ウタは前置きをしたうえで尋ねた。
「ヒソカさんのその、ピエロのような格好は……?」
 少女の純粋な問いに、ヒソカは呆れるでも怒るでもなく、眼下を眺めたままで答えてくれた。
「ピエロじゃなくて、奇術師さ」
 奇術師。ウタは頭の中で反芻する。マジシャンのことか。ヒソカはそういった職業に付いているのだろうか。ならばどこか不気味な彼の雰囲気にぴったりな気がした。それは今彼が受けているハンター試験というものにも関係があるのだろうか。
 様々な疑問が一瞬で駆け巡り、ウタは再び質問する。
「先ほど教えてくださったオーラ……確か生命エネルギーと仰っていました。あれはこの世界では当たり前のものなのでしょうか。私のいた世界では、そんなものはなくて……もしかしたらあったのかもしれませんが……少なくとも私は初めて知りました」
 ウタの問いにヒソカは首を傾げる。
「いや、ここでも知っている人の方が少ないと思うよ。生命エネルギーだから人間に限らず生き物は誰しも持っているけど、それを扱える者はごく限られている」
 ヒソカの言葉をよくかみ砕いてウタは考えた。
「それでは、念能力で私はこの世界に来たのではないかと仰ってましたが、それは超能力のようなものですか?」
「うーん……、超能力といえば超能力だし、そうじゃないと言えばそうじゃないね」
 ヒソカの答えは要領を得なかった。ヒソカ自身も考えをまとめながら喋っているようだ。
 どうやらヒソカもオーラ……念能力を扱える限られた人間のうちの一人ではあるが、あまりそれを特別視している様子ではない。そして何故だか、ウタもまた能力を手に入れてしまったのだ。
 眼下の煌めきにもう一度目を戻す。先ほどからあまり時間は経っていないが、灯りはだいぶ少なくなってきていた。どんどん僻地に向かっているのだろう。その代わりに、奥の方の地平線は明るくなりつつあった。
 ウタの持つあのジョーカーのカードについてヒソカは何か関係があるのではないか、最初の疑問にウタは立ち返る。
 あのジョーカーのカードをご存じですか?と、一番したかった質問をしてみようか。
 しかし急に、変じゃないか。

「おや、見慣れない顔じゃのう」
 突如後ろからかけられた声にウタはびっくりして肩を飛び上がらせた。
 老人が、割と近い位置に立っていたのだが声をかけられるまで全く気が付かなかったのだ。
「探す手間が省けた、この人が会長だよ」
 ヒソカは平然と言ってのけるので、彼は老人―――会長の存在に気付いていたのかもしれない。
 ウタは慌てて立ち上がりお辞儀をした。
「初めまして、ウタ アヤメノと言います」
 会長は背の低い老人であるが高い下駄を履き、背筋はすっと伸びている。禿げ頭の頭頂部だけ白髪を伸ばして結い上げており口元には豊かな髭を蓄えて、いかにも仙人風な出で立ちだ。飄々とした雰囲気を纏っていながらも、これまた伸びた眉奥の眼光はどこか鋭い。タンクトップ姿で、船内に空調が効いていることを差し引いても寒そうだが本人は全く気にする風でもなく、右手にはバレーボールくらいの大きさのボールを抱えていた。
「確かにワシはハンター協会の会長、アイザック=ネテロであるが。はて、ワシに何か用があるのかの?」
 どこかとぼけたような表情の老人を、むしろウタは警戒した。
 それは信用できないからではなく、逆の意味からである。この人は紛れもなくこの世界では正しい人で、力のある人だと感じ取ったからだ。
 そして同時に、この世界では明らかに不審なウタが彼に敵と見なされた場合を考えると身震いがした。
「さっき、割り当てられた部屋でシャワーを浴びていたらこの子が突然どこからともなく現れてね。本人が言うには別の世界からやってきたみたいなんだ」
 会長の見えない圧に気圧されたウタを見かねてか、ヒソカが口を開く。助け舟は有難かったが、ヒソカの説明は端的過ぎてかなり怪しく感じられただろう。
 事実ネテロ会長は胡散臭そうにウタを凝視していた。
 ウタは深く息を吸い、意を決して自ら説明を試みる。
「突然のことで信じてもらえないかもしれませんが、どうか私の話を聞いてくださいませんか」
 ふむ、と会長は髭を撫でつけ、怯えた少女を哀れに思ってか目が優しくなった気がした。
 ウタは幾分気持ちに余裕ができて、冷静に自分の身に起こったことを話し始めた。




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