部屋を出る頃には


 気が付くと、鋭く冷たい雨は、熱いものに変わっていた。

 うつ伏せで倒れた状態のウタは痛む身体に力を入れて、何とか上半身を起こした。
 湯気で酷く煙っていて周りの状況が見えないが、暖色の灯りが眩しい。床はセメントの道路ではなくアイボリー色のタイルのようだ。床につくウタ自身の手も、沸騰したかのように湯気が立ち上っている。
 ここはどこだろう。
 よく状況が掴めないウタは湯気の向こう、すぐ目の前に人影があるのに気付いてギョッとした。男だ。かなりの長身でガタイが良い男が立ってウタを見下ろしている。そして何と男は全裸であった。
 男とウタはしばらく沈黙のまま見つめ合った。
「……君、今どこから来たの?」
 ややあって男は淡々と尋ねる。
 ここでやっと、ウタはシャワールームにいるのだと気が付いた。降り注ぐのは雨ではなく、なんとシャワーのお湯だったのだ。
「ご、ごめんなさい」
 全裸姿の成人男性など、ウタは生まれて初めて見た。慌てて、文字通り転げるようにシャワールームから飛び出す。
 脱衣所には男のものと思しき服が脱ぎ捨ててあり、脱衣所の外にはビジネスホテルの一室のような部屋が見えた。脱衣所の床には、雨なのかシャワーなのか、とにかくびしょ濡れのウタのおかげで水溜りが出来ている。
「なに、これ」
 ウタはしゃがみこんで震える自分の手をまじまじと見た。
 シャワールームから出たというのに、ウタの全身からはまだ迸るように湯気が立ち上っていたのだ。まるでウタ自身が沸騰しているみたいだ。
 異常な光景に為す術もなく茫然としていると、シャワールームから先ほどの男が出てきた。腰にタオルを巻いて出てきてくれたが、それを有難がるほどの余裕が今のウタにはなかった。
 男もまた髪から水滴を滴らせたままでウタをじっと見つめる。その瞳は吸い込まれそうな琥珀色でウタの心をざわつかせた。
「とりあえずそのオーラどうにかした方がいいんじゃない」
 男の言葉は全くの意味不明であった。
「っえ?なに、オーラ……?」
 訳の分からない状況でも、このままでは“まずい”ことになると、自身から沸き立つ謎の湯気を見てウタは感じ取っていた。
 男は無表情でウタを観察していたが、ややあっておもむろに近付いてきた。
 そしてウタの手を取り立ち上がらせる。
 ウタは精一杯の警戒心で男の一挙一動に注目していたが、男の手の温もりに何故だか安心感を覚えて恐怖心が少しだけ和らいだ気がした。
「目を閉じて。全身の力を抜いて」
 今のこの状況をどうしたら良いか全く見当のつかないウタは、とりあえず素直に男の言うことを聞くこととした。というより、それ以外に選択肢はなかった。
 深く呼吸をして気持ちを落ち着かせようと努める。目を閉じたことにより男と繋がれた手の体温と、男の声がよりクリアに感じられた。まるで暗くて無限に広がる宇宙の中で、ウタと男だけが浮かんでいるような錯覚に陥る。
「頭の天辺から手足の先まで、自分の体を取り巻くオーラが滞ることなく循環しているのをイメージして感じるんだ」
 オーラ―――恐らくウタから立ち上るこの湯気のことだろう―――が彼の言う通り体の周りを廻っている様を必死に想像した。つむじから右肩、臀部、右足、左半身、そしてまたつむじへと……熱く迸るそれは段々と速度を落として緩やかに流れる。
 やがて男の手がウタから離れる。
 ウタは宇宙の中で一人になった。
「そしたらそのオーラが体の周りを廻るうちに次第に収束していく……廻りながらも段々と留まり、やがて放出は止まり君の体の周りを覆う」
 まるで催眠術にかけられたみたいに、ウタはその声に心地良ささえ感じていた。
「よくできたね」
 男の声にゆっくりと瞼を開ける。
 ウタの周りには先ほどの湯気のようなものが薄いベールが揺れるように、緩やかに揺蕩っていた。感覚としては、人肌より少し温かいくらいのぬるま湯に浸かっているようだった。
 どうやらこれが男の言うところの、“オーラ”というものらしい。
「あの……これは一体何なのでしょうか」
 おどおどとウタは尋ねる。
 改めて男の顔を見てみると、ウタが今まで出会ったことのないタイプの顔をしていた。高い鼻にしっかりとした口。唇は薄く目は細い。瞳の色は琥珀色だ。端正な部類の顔立ちなのだろうが、何とも形容しがたい不気味さがある。
「オーラ、つまり生命エネルギーのことだ。さっきの君はオーラを放出している状態だった。今は“纏”といってオーラが拡散しないように体の周囲に留めている状態だ」
 抑揚なく男は説明した。
「僕からも聞きたいことはいくつかあるけれど……とりあえず濡れたままもナンだから、着替えるといい」
 男はクローゼットから服を取り出す。
「ドライヤーは鏡台の中だ」
 最後にそう言うと男は脱衣所の籠の中の自分の服を掴み出ていった。
 従うほか選択肢のないウタは言われるがまま濡れた制服を脱いで渡された服に着替えた。
 長袖のTシャツと綿素材のズボンは男物で、もちろんウタにはぶかぶかだった。袖も裾も何度も捲り、ウエストは幸い紐が付いていたのでぎゅっと絞って結べばずり落ちることはなさそうだ。
 身体が酷く怠い。ドライヤーで髪を乾かすのもそこそこに、ウタは脱衣所から出る。
部屋は10畳ほどの広さで、ベッドと机と椅子があるのみだった。余計なものは一切なく、やはりどこかのホテルの一室であるらしいことが窺えた。壁掛けの時計は12時を指している。窓のカーテンは開いているが、外は真っ暗で何も見えないことから今が真夜中であることを知る。
 男は服を着て、ベッドに腰掛けていた。
「あの……、ありがとうございました」
 自分の置かれている状況が全く掴めないながらも、ウタは最低限の礼儀を失わないように努めた。
 どうぞ、と椅子に座るように促されてそれに従う。
「突然すみませんでした。あの、私はアヤメノ ウタと言います」
 ウタが控えめに頭を下げると男はウタの名前には特に関心もなさそうに頷いた。
「……僕は、ヒソカ」
「ヒソカ、さん」
 ウタは小さく反芻する。奇妙な名前だと思ったが、そもそも日本人ではないのかもしれない。
 そこで初めて、彼の喋っている言葉が日本語でないことに気が付いた。いや、なんと今更になって気付いたのだが、自分自身が発している言葉もそうだった。
 何語なのかは分からない。日本語ではない、英語でも中国語でもフランス語でもないことは確かだ。分からないはずの言語なのに、ウタはまるで母国語かのように喋り、その意味も理解していた。今初めて知ったはずなのに、ずっと前から知っていたような不思議な感覚である。
「……それで、ここは一体どこなのでしょうか。私はどうやってここまで来たのでしょう」
 不思議な感覚に気味が悪くなり、ウタはパニックにならないように懸命に頭を落ち着かせた。
 ヒソカと名乗った男は目を細めてウタを見つめる。
「ここはコトリタナ共和国の上空を航行中の飛行船の中。ハンター試験の二次試験会場であるビスカ森林公園から三次試験会場に向かっている途中だ」
 聞きなれない名前のオンパレードに、ウタは目が点になった。地理や歴史には自信のある方だったが、今出てきた地名のどれ一つとして聞いたことがなかった。そもそもホテルの一室だと思っていたのが間違いで、飛行船の中だということもにわかには信じられない。
「君がどうやってここまで来たかは……知らない。シャワーを浴びていたら突然現れた――降ってきた、という方が正しいかな?何かの念能力じゃないかとは思うけど、この飛行船に乗っているのなら君もハンター試験の受験者じゃないのかい?」
 ハンター試験。念能力。分からないことだらけのウタは困惑した面持ちで首を横に振る。
「いえ、私は違います……。そのハンター試験というのも、知りませんでした。私は交通事故に遭って……車に轢かれたと思っていたのですが、気付いたらここにいたんです。それに、ついさっきまでは確かに夕方でした」
 ヒソカは頬杖をついて、しばし考え込んだのか沈黙が流れた。
「よく分からないけれど、元いた場所から誰かに飛ばされたか、自分で飛んで来たかのどちらかじゃないかい?」
 ウタはますます困惑した。飛ばされたとか飛んできただとかそんな超常現象みたいなことが本当に起こり得るのだろうか。ヒソカと名乗るこの男は誘拐犯か何かで、ウタを騙しているのではないのだろうか。
(でもそれじゃあ、オーラというさっきの湯気は何?あれも作り物?それに何より未知の言語を当たり前に喋っているこの状況はどう説明がつくの?)
 ウタは良く出来た脳をフル回転させて状況を整理していた。
「……元いた場所は、日本という島国でした」
 もし嘘を付いているのなら些細な表情の変化も見逃さないよう、ヒソカを注意深く観察しながらウタは口を開いた。
 ヒソカは首を傾げる。
「ニホン……。知らないねえ」
 ちょっと待って、とヒソカは部屋に備え付けの机に二、三冊置いてあるうちの一冊の本を手に取った。旅行雑誌らしく最後のページに世界地図が綴じられている。
 ヒソカがベットの上に広げて見せたその地図を見てウタは唖然とした。
 それは、ウタがこれまで生きて勉強してきたものとは、全く違う世界地図だったのだ。
 大きい大陸が四つと島がいくつか点在する世界。書き込まれている文字は記号の様で、もちろん今初めて見たはずなのに、これまたすんなりと読むことができた。
(これも作り物?でも私がこの文字を当たり前のように読めるのは何故?)
 ウタの心中を知ってか知らずか、ヒソカは左側にある大陸を指差した。
「今飛んでいるのはたぶんこの辺り。君の国はどこらへんだい」
 地図から顔を上げ、ヒソカとしっかりと目が合う。細目のヒソカと、大きく印象的なウタの瞳は対照的だった。
「……ありません。この地図は私の知っている世界地図ではないです」
 ウタの言葉にヒソカは薄く短い眉を寄せる。初めて表情らしい表情を見せたことで、幾分かこの男特有の不気味さが薄れた。
「私、どうやら別の世界に来てしまったみたいです」
 今度は長い沈黙が訪れた。
 ウタだってにわかには信じられない。だが今ある状況を整理すると、そうとしか考えられないのだ。ウタが今寝ていて夢を見ている場合を除き、一番可能性として高いのがどこか別の世界に来てしまったということだった。
 どうやってこの世界に来てしまったのか、もちろん分からない。しかし世界――ウタの元いた世界だ―――にはまだまだ科学では説明のつかない超常現象もたくさんある。テレポーテーション、所謂瞬間移動については世界各地で目撃されていると、昔その手の本を読んだことがある。ウタは脳内で過去に読んだ本のページを捲り、その内容を思い出そうとした。
 しかしその本では過去の事例を紹介するに留まり、原因や謎の解明には至っていなかった―――。また別の本ではサイコキネシスやテレパシーなどの超能力について述べているものがあった。そちらもどのような原理で特殊な力が使えるかというのはもちろん分かっていない―――。
「……ボクにはどういうことかよく分からないけど、今この飛行船にはちょうどハンター協会の会長が乗っているから聞いてみればいいよ。何か手掛かりが掴めるかもしれない」
 ヒソカの言葉に、考え込んでいたウタは顔を上げる。
 ハンター協会の会長がこの世界でどのような立ち位置なのかは分からないが、ヒソカの口ぶりからは有識者であるらしいことが窺えた。
 ウタは静かに頷いた。
「まあ時間が時間だから明日の朝一番で訪ねてみよう」
「はい……ありがとうございます」
 酷く疲れた頭を押さえてウタは弱々しく微笑む。
 きっとこの男の目にはウタは少々頭のおかしい哀れな少女に映っているに違いない。それでもウタの言葉を否定するでもなく追及するでもなく当たり前のように接してくれる態度が、酷く疲れた今のウタには嬉しかった。
「疲れただろう、コーヒーか紅茶か飲むかい?」
 お構いなく、と言おうとしてしかし温かいものを飲んで落ち着きたい気持ちもあったので素直に紅茶をいただくこととした。
 ヒソカは電気ケトルに水を入れながら「オーラをあれだけ放出していたから疲れるのは当たり前だ」と説明してくれた。いよいよ本格的に頭がぼーっとしてきたウタは返事もままならなかった。ボコボコとお湯の沸く音が心地よく、どこか遠く聞こえる。
「まあこれを飲んで落ち着いたら朝まで休むといい、僕は出てるからこの部屋を使ってかまわない―――」
 ヒソカは湯気の立ち上るティーカップを手にウタを覗き込んだ。
 椅子に座ったまま頭を垂れて、完全に眠りに入っている。寝息はとても静かで、余程疲れていたのだろう、微動だにもしない。
 陶器のように滑らかな白い肌にまだかなり年若いと思われるが、先ほどのやり取りからは年齢以上の落ち着きが見て取れた。瞼を縁取る睫毛は長く、部屋の照明によって影が出来ている。
 ヒソカは特に意味もなく、ほとんど衝動的にその頬に手を伸ばす。あとわずか数ミリで触れるか、というところで思い直して手を引っ込めた。
 彼女を静かにベッドに寝かせ、毛布をかけてやる。こんなに華奢な生き物もいるんだな、と普段屈強な男ばかりとしか接点を持たないヒソカは何だか感心した。

 音を立てないように電気を消して部屋を出る頃、ここのところずっと慢性的に感じていた頭痛が消えていたことにヒソカは気が付いた。




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