ここではないどこかへ


 酷く懐かしい夢を見た気がして、目が覚めた。

 こんな朝は決まって、物寂しいような切ない気持ちに包まれている。
 ウタは横たわったままで左腕を上げ、ベットのすぐ脇のカーテンを捲った。この季節の朝は遅く、まだ薄暗い。窓越しに1月のヒヤリと冷たい外気が伝わってきた。新聞配達のバイクの音でだいたいの時間を察するがあえて暗闇の中で時計に目を凝らそうとは思わなかった。
 今日も一日が始まるのだ。
 今日も、世界が回っていく。
 冷たくなってしまった左腕を再び布団の中にしまいしばし温めていたが、眠れない。
目が冴えてしまったことをようやく認め、ウタは緩慢な動作で起き上がった。
 少し寝癖が付いているものの艶やかで柔らかな髪。華奢な体格に大きな瞳が、彼女の印象を実年齢以上に幼く見せていた。瞳の色は暗い茶色をしているが、光の当たり方によってはオリーブ色の虹彩が見える、魅力的な色をしている少女だった。
 寝間着から道着に着替えて髪に櫛を通す。鏡の中のウタは浮かない表情をしていた。
 懐かしい夢を見た気がするのだが、はっきりと思い出すことができない。さっきまで鮮明にその光景を見て匂いを嗅いで音を聴いていたはずなのに、手のひらから零れ落ちる砂のようにその輪郭は曖昧だ。残っているのはただ懐かしいという感情だけである。
 こんな気分になるのは記憶にない親を焦がれる気持ちがあるからだろうか―――。

 生成色の上衣をきつく前で合わせてウタは部屋を出た。
 階下に下りてまだ暗い居間を抜ける。
 勝手口から外に出ると刺すような冷気が痛かった。この冷え込みだと今日は雪が降るかもしれない。
 すぐ裏手には道場へと続く渡り廊下があり、道場のさらに背後には林が広がっている。
 林といっても小高い丘の中に小さな祠があるばかりで、10分も歩けば国道へと出てしまう。
 道場に入るとウタは雨戸を開ける。冷たさを堪えて雑巾を固くしぼり床拭きを始めた。
こうして体を動かして、床を磨くと雑念が消える気がするのだ。
 拭き終わるころには日が昇り始め、体も温まっていた。その後は心源流拳法の型を練習し、精神を落ち着かせる。
 ウタは格闘技の類があまり好きではないし修行に熱心な方ではなかったが、心を落ち着かせる所作は好んで行っていた。
 一通りの型の練習を終えた頃、合澤のおかみさんが姿を現した。
「おはようございます」
「はい、おはよう。朝ごはんの用意ができましたよ」
 おかみさんは心源流師範代である合澤氏の奥さんで、高齢ではあるが、頼りなさげな小さな肩とは裏腹にハキハキと家事をこなす老婦人である。
「良いタイミング――――今ちょうど稽古を終えたところです」
 ウタはにっこり微笑み、おかみさんの後に付いて道場を出た。
 道着から学校の制服に着替え、居間に付くと合澤氏が既に席についていた。

 ウタは合澤夫妻に育てられてきた。
 両親の顔は疎か、名前さえも知らない。15年前の雪がちらつく日、道場裏の林の中にある祠に赤ん坊のウタが置かれていた。
 それを拾い育ててきたのだと、物心つく頃にはウタは夫妻から聞いていた。
 合澤氏は小柄で寡黙な老人である。滅多に無駄口を叩かない男ではあるが、その芯にはしっかりと優しいものがあるとウタは知っていた。また、ウタが何か問題を起こしたときに叱るのはおかみさんの役目であるが、おかみさんも同様に厳しいながらも暖かくウタを見守り育ててきてくれたのだ。
 少しばかり他人と違う家庭環境に、ウタは悲観も絶望もしていなかった。
「ウタ、今日は何時に帰ってくるのかしら」
 三人家族の中で最後に自分のご飯をよそいながら、おかみさんは尋ねた。
「学校はいつも通り終わるけど友達と約束しているから……7時頃かな」
 夕飯には間に合います。とウタが朗らかに答える。持って生まれたものか育ってきた環境がそうさせたかは分からないが、ウタにはある種の神秘的な気品のようなものがあった。あるいは落ち着いた丁寧な話し方がそう見せているのかもしれない。
 おかみさんは合澤氏をちらりと見てから頷いた。
「今晩は話があってね。では夕飯の時にでも話すとするわ」
 どこか余所余所しい二人の雰囲気にウタはわずかに違和感を覚えたが、曖昧に微笑むに留めた。

 今朝起きぬけに感じた物寂しさが残っていたからだろうか、朝食をとり終えたウタは通学鞄の中にジョーカーのカードを忍ばせる。
 このジョーカーのカードはウタが拾われたとき手に持っていたものらしい。
 ウタは不気味な絵柄のこのカードをなんとなく御守り替わりにしていた。

 ウタが通う高校は電車で三駅の所にあった。
 車窓からどんよりとした曇り空を眺めながら、合澤夫妻の話は何だろうかと考える。将来の話だろうか。そろそろこの先の進路について考える時期にきていた。ウタは進学を希望していたが大学だってタダじゃない。
 しかし元よりウタは大学進学まで合澤夫妻にお金を出してもらう気は更々なかった。
合澤夫妻は堅実な暮らしをしているが、いつだってウタにかかる養育費を惜しみなく出してくれたし、ウタに対してお金の話をしたことも一度もない。しかし大学に通うとなると(それこそ学費の高い私立であったり下宿が必要な遠い学校であればなおのこと)今までとは比べ物にならない額のお金がかかる。
 ウタは勉強がとてもよく出来たのでいくらでも利用できそうな奨学金制度があるし、お金の工面だってどうにでもなると考えていた。
(もし今日の話が進路に関することであるならば上手いこと話を持っていく必要があるわね……)
 ウタはわずかにため息を吐いて、電車から降りた。

 登校すると、下駄箱のところでちょうど朝練を終えた野球部の人波にぶつかる。
「おーっす、ウタおはよ!」
 はつらつとした声の主は振り返らなくても誰だか分かる。
「おはよう、ごん太」
 わざわざウタの前まで駆けて回り込んだごん太に、思わず笑みがこぼれる。ごん太はウタの幼馴染で、屈託のない笑顔が眩しい少年だった。
「前も言ったけど今日大丈夫?」
「うん、そんなに遅くならなければ大丈夫だよ」
「オッケーじゃあ放課後ね!」
 にこにこと風のように通り過ぎてくごん太の背中を見送るウタは、ふと視線を感じた。
振り返ると野球部のマネージャー二人組(恐らく2年生だ)がウタから視線をそらしたところだった。
 その愛くるしい容姿と柔らかな物腰から老若男女問わず好かれるウタであったが、何となく、一部の女子から良く思われていないことを(それが嫉妬の類であることも含めて)ウタは察していた。





「アヤメノ、生徒会の件考えてくれたか?」
 ウタはゆっくりと顔を上げる。
 ちょうど年末に行った模試の結果を担任から受け取ったところだった。総合全国3位であった。
 ウタは困ったように少し笑い、考えをまとめているかのような素振りでゆっくりと喋り出した。
「お声がけしてくださるのは嬉しいんですけど……。前もお話しした通り家の手伝いを疎かにはできなくて。何より、今はこの順位をキープするのに精いっぱいなんです」
 今受け取ったばかりの模試の結果を小さく掲げると担任は頷く。
「うん、まあそうだな……前からそう言ってるもんなあ……。まあまだちょっと考えてみてくれ」
 本当に分かっているのかどうか、頼りなさげな表情の担任にウタは曖昧に頷き、席に戻る。
途中、斜め前の席の女子に「全国3位だなんてすごいねー、生徒会もやればいいのに」と話しかけられた。ウタがありがとうとほほ笑むと、彼女は「私とは大違いよ」と隣の席の男子と成績を見せ合い呻いていた。
 ウタは着席すると模試の結果をすぐに鞄にしまう。まあこんなものだろうと思っていたので、3位という結果が誇らしいわけでも悔しいわけでもなかった。
 中学で生徒会長を務めたウタは、高校生活においても生徒会をする気は更々なかった。
アヤメノ ウタが小学校では少しばかり問題児であったことを、高校からの友達や先生は想像もつかないだろう。
 物心ついたころには、ウタは自分が周りよりも賢いことに気付いていた。
 学校の勉強はもちろんのこと、ボードゲームなどのちょっとした遊びで同級生に負けることはなかったし、何をやらせても飲み込みが早かった。それだけに、他の子たちに対してこんな簡単なことが何故できないのか何故わからないのかという疑問を持っていたし、時にはそれを口にすることもあった。
 当然同級生からは反感を買うが、しかし口も達者なウタは幾度となく友達を泣かせてきた。
 口喧嘩で勝てないとなると手が出る子ももちろんいるが、そうなれば悪者は完全に手を出した方で、ウタは決まって大人達にかばわれる側になっていた。
 そんなことを繰り返すうちに周りの子がどんどん自分から離れていくのに気が付いた。一部の大人も「頭の良い子供だけれどトラブルの多い少し危ない子供」と感じているのも、薄々察していた。
 そして小学校高学年、人間関係が致命的になる前にウタは方法を変えた。
 常時正論を言うのではなく、相手が欲しい言葉と態度が何かを考えるようになったのだ。
すると驚くほど簡単に味方が増えたではないか。
 やがて中学に上がり、ウタは生徒会長を務め人望を欲しいがままにしていた。
表向きは勉強がよく出来て、真面目で、人当たりの良い生徒会長。しかし実際は生徒、教師、保護者全てを意のままに操るウタの天下だったのだ。
 高校でまた生徒会に入ったとて、同じように人望を得ることは最早ウタにとっては容易く、何の面白みも感じられそうにない。これ以上熱心にファンを増やすことに大した魅力もない。

 ウタは窓の外に目をやる。
 教室の喧騒から思考を切り離して物思いに耽ることのできるこの窓際の席をウタは気に入っていた。
 ちょうどヘリコプターが校庭を横切り、校舎の影へと消えていった。プロペラの一枚一枚の動きがウタにはスローモーションに見える。頭の良さに加えて、昔から動体視力には自信があった。
 バラバラバラとプロペラの回転音を響かせるそれはどこへ行くのだろうかとぼんやりと考える。
“ここではない、どこかへ”
 いつからか、ウタの胸のうちに燻る想いだ。
 今ある現実が決して嫌いな訳ではないが、どこか退屈でもあった。
 将来はどこか遠い外国の地に行き、遺跡や地層なんかを調べて太古の文明や生物を研究してみたら面白いのではないだろうか。それかもしくは、空がよく見える展望台で星を眺め、宇宙のカラクリを紐解くのも興味深い。いやいっそのこと、自分自身が宇宙に旅立ち実際にこの目で見てみるのも良いかもしれない。
 ウタにはそのどれも出来そうな気がしていた。
 とにかくまだ知らない世界を見てみたいし、知らないことを知りたい。そしてそれを叶える自信もあった。それこそ大学に行かなくたって出来るのではないかとも思う。
(大丈夫、なんだってできるよ)
 記憶の彼方で、優しく心地よい声がする。
 この青い地球を、その手に抱くように、限りなく全ての知を得るのだ。

「……ねえ、ウタ?」
 珍しく深い空想に耽っていたウタは自分を呼ぶ声にはっと振り返る。
 心配そうにのぞき込むクラスメイトの女子の顔に現実に引き戻された。
「ごめんなさい聞いてなかった……、なあに?」
 儚げな雰囲気からいつもの愛くるしい表情に戻ったウタにほっとしたのか、声をかけたスミヨもニヤリと笑う。
「ちょっとどうしたのよ、ぼーっとして。今日の放課後アキコとヨシエとカラオケに行こうってことになったんだけど、ウタも行くよね?」
 ウタはぼんやりと宙を見つめ、首を横に振る。
「ごめんなさい、今日は約束があって」
「誰と?」
「ええと、2組のごん太と」
 すかさず出てきた質問に、ウタも間髪入れずに答える。スミヨはわざとらしく歓声をあげた。
「あらっ、じゃあ邪魔できないわね!いよいよ告白かしら」
「そんなんじゃないってば……」
「ええー?でもいい感じに見えるよ?ごん太君絶対ウタのこと好きだって」
「幼馴染だから仲良いだけで本当にそんなんじゃないだってば」
 ウタは苦笑いで答えたが、実際の所はどうか分からなかった。

 放課後、明日詳しく聞かせてね!と鼻息荒く手を振るスミヨは早速今日のカラオケでアキコとヨシエにあることないこと喋りたそうな雰囲気だった。
 下駄箱で彼女と別れ携帯を見ると、ごん太からメールが入っていた。
“今日は日直だった。駅前のふーどこーとで待ってて”
 慌ててメールしてきたのか、変換されていない文字がなんだか彼らしくて思わずクスリと笑う。
 ごん太とは、小学校の時からの付き合いだ。
 当時から真っ直ぐな彼は、ウタが孤立しかけた時期にもいつも味方でいてくれた。
人を疑うことを知らず、誰とでもすぐ友達になれる無邪気なごん太にウタは何度となく救われてきた。
 しかし恋愛感情としてごん太を見れるかと聞かれれば、ウタにはよく分からなかった。
もちろん友達としては大好きだし尊敬もしているが、ごん太と男女の仲になることはいまいちピンとこない。ごん太に限らず、誰かと恋愛してただ一人に夢中になる自分が今はまだ想像できなかった。

 目的のフードコートが目と鼻の先に来たところで、雨が降り出した。最初それはみぞれのようだったが、瞬く間に水分の割合が増えて鋭い雨粒となる。
 本降りになった雨をやり過ごそうとウタは近くのバス停の屋根下へと避難した。
 冬の雨。
 懐かしい匂い。
 この季節の朝は遅いが夜もとても早い。過行く車はこの天候もあって皆ライトを付けている。エンジン音とともに通り過ぎていくライトの残像は雨の中に鈍く光りどこか幻想的でもあった。
(もし、今日の話が本当に告白だったら……)
 ウタはほとんど無意識に鞄の中に手を伸ばす。内ポケットの中に大事にしまわれたジョーカーのカードのひやりとした感触を確かめて心を落ち着けようとした。
(でも、やっぱり困るわ)
 ごん太という友人は失いたくないけれど、賢いウタにも今回ばかりはどうして良いか分からなかった。
 携帯のバイブレーションが震えて、ウタの意識の半分は携帯に向いた。
“もう終わって、あと5分くらいで着くよ”
 ごん太からのメールだ。予想していたよりも随分早い。雨の中走るごん太の姿が思い浮かんだ。
 急がなくても大丈夫だよ。
 そう打とうとして、しかし寒さにかじかむ指では思うようにいかない。
 寒い夜。
 そこかしこで揺らめく灯り。
 何かが焼ける匂い。
 琥珀色の瞳。

 ウタはハッとして顔を上げた。
 今、確かに何かを思い出せそうだった。
 雨音が地面を叩く音にじっと耳を澄ませる。そして次第にそれは鉄琴楽器をばちで叩くような軽やかな音に変わっていく。聴いたことのあるメロディー。
 音の源を辿って、ふらふらと歩き出していたことにウタ自身気付いていなかった。この音の源を探らなければ。言いようのない、切ない気持ちのも源泉を知らなければ。
 ―――ここではない、どこかへ。
 ウタは眩い光が高速で近付いてくるのに気付いた。それはバスだかトラックだかのライトが迫ってくるのであると気が付いた。ウタはいつの間にか国道の真ん中まで出てきていたのだ。しかしもう目前まで迫っているそれにもうどうしようもない。ウタは自分はもう数秒後には死ぬのだと悟った。
 脇腹に激しい衝撃が走り、ともすればそれは悪戯で誰かに強く押されたような感覚にも似ていた。しかし状況からして轢かれたに違いない――――まだ見ぬ世界を知ることなく 自分は死ぬのだと、ウタは酷く冷静に考えていた。
 上下も左右も分からない浮遊感の中、最後に見たのは鮮やかな赤色と、雨の中鈍く光る神秘的な光だった。





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