仰いだ空は突き抜けるような青で、


 夏の盛りの頃だ。
 一日に往復二本ずつしか走っていないバスを降りた先は小さな山間の村である。木造の家々は決まって瓦屋根で、渋茶色の屋根が緑濃い中によく馴染み点在している。木々は夏の日差しをめいっぱい受けて、その漲る生命力のままに濃い緑を茂らせていた。
 村に広がる水田は青々とした稲が伸びているがその根の隙間から夏の日差しを映した水面がキラキラと輝いている。村の奥に進むほど傾斜が激しくなるため、水田はより面積が狭く、棚田状になっていた。さらに奥には雄大な山々が聳え、ここもその中腹であるにも関わらず稜線は霞み、思わず息を呑む。
 背景には青い空と、大きな、大きな入道雲。

 一風景に、心が動かされるのは、クロロにとって久しぶりのことだった。
 ゴミ山で過ごした幼き頃は、本の中の世界が外を知る全てだった。緑生い茂るジャングル。灼熱の砂漠地帯。むせ返るほどの花々が咲き乱れる高原。眩い日差しの南国のビーチ。大気までも真っ白に覆いつくすほどの雪山。まだ見ぬ土地に想いを馳せては心をときめかせたものだが、世界中至る所に足を運んだことのある今となっては、心躍る瞬間というのは本を開いた時がピークで、いざその目にしても期待通りの感動はなかなか訪れない。いつかどこかで見た景色が増えてくると、(こんなものか)という気持ちが出てしまうのは仕方のないことだった。
 それが今、クロロは土地や風景というものに対して久方ぶりの感動を覚えていた。
(まだまだあるのだ、未知の部分が)
 ここでいう未知の部分とは風景や文化というよりはむしろ、己の心を指していた。日頃から自身の感情や思考でさえも俯瞰して見るクロロにとって、心が何かに揺り動かされる瞬間は得難い快感でもあった。

 降り立ったバス停からは水田沿いに比較的大きな道が山の方へ続いている。この村でコンクリートで舗装されているのは、どうやら麓の国道からずっと続くこの道だけらしい。点在する家々に繋がる道はどれも舗装のない畦道だ。
 いわば目抜き通りと呼べる舗装された道をクロロは山の方へ向かって真っ直ぐ歩く。荷物はボストンバッグが一つだけで大したことはないが、この日差しにあっという間に額に巻いたバンダナの下が汗ばんだ。標高が高いこともあって気温はそれほど高くはないが、如何せん湿度がある。強く鮮やかな緑とは裏腹に、この湿度はどこか生まれ育ったゴミ山を思い起こさせた。
 コンクリートで舗装された道はやがてむき出しの地面に変わる。なだらかな斜面がしばらく続き、民家はなくなった。湿度は高くともこの日差しに地面は乾ききっていて、歩く度に土埃が舞う。
 やがて遠目に民宿が見えてきた。他の家々同様にこの国特有の古い木造で屋根には瓦が敷かれている。
 民宿の入口は引き戸になっていて開け放たれていた。玄関脇にはガラス製のベルが付いていて、紐の先端に細長い紙が付いているために風が吹く度に紙が舞いガラスとガラスが触れ合うことで軽やかな音が鳴った。涼を得るための道具のようだ。
「すみませーん」
 開け放たれた入口から室内に入り、クロロは奥に向かって呼びかける。何の返答もない。広い間口の玄関には外履き用のサンダルが二足。左の壁の靴おきにはところどころ靴が置かれている。玄関から伸びた廊下は正面に二階に上がる階段があり、さらに階段の左側にさらに奥に続く廊下が伸びていた。玄関から入る日差しは室内に差し込みくっきりとした濃い陰影を作っている。ひんやりとした三和土は夏の日差しも湿度も音でさえも吸い取っているように見えた。
 再度声をかけようか逡巡し、クロロはボストンバッグを上がり框に置いて玄関を出る。

 民宿を西側に見ながら小道を歩くとやがて山側に折れ曲がり、道は階段状になった。階段といっても石が無造作に置かれただけで、かろうじて人の手が入ったと分かる程度のものだ。緩やかなカーブを二度曲がり、急に目の前が開けた。
 そこは山の中腹の中でも更に小高い丘になった場所で、高い木々はなく草原になっている。夏を盛りに生い茂る緑の向こうに、一面の鮮やかな黄色が見えた。
 ひまわり畑だ。
 クロロはひまわり畑に向かって歩を進める。これだけの山の中においてもまだ道は存在し、人々がこの地を訪れる頻度がそう低くないことが窺えた。
 ひまわり畑の端までたどり着き、クロロはほう、と息を吐く。圧巻である。暑さも忘れてクロロは咲き乱れるひまわりに見入った。夏の日差しを浴びる鮮やかな黄色。影に隠れた濃いオレンジ。中心の黒く密集した種。生命力溢れる太い茎。頭を垂れる茶色く枯れたもの。全て同じひまわりという花のはずだが、その中には数多くの黄色が存在し、同じ数だけの生と死があった。
 向こうの丘の方には黄色と緑以外の鮮やかな赤色が見えた。複雑に絡み合う全ての事象が馴染むこの場において、ポツンと一点だけ浮いているそれに向かい、クロロはひまわり畑に沿って歩き出す。
 ひまわり畑に途切れ目があり、その中を進む。背の高いひまわり達がクロロの進行を妨げるように、葉が何度も露出した肌に刺さった。
 ひまわり群を抜けた場所には一本の木が生えていた。ケヤキだろうか、高さ二十メートル程の広葉樹で、開けた場所にぽつんと一本だけ生えているためか枝が扇状に広がり、美しい樹形を見せている。その木の根元に、女が一人座っていた。遠目に見えた鮮やかな赤はこの女の着ている臙脂色のワンピースだった。肩は透き通るほど白く華奢で、ケヤキの作る影の中で涼しげに、悠々と読書をしている。
 特段気配を隠すこともなくクロロは女に近付いた。クロロの頭の上を一匹の蝉が女の方に向かって飛んでいく。クロロが目の前に立って、ようやく女は本から顔を上げた。

 美しい女だった。
 飛んでいったはずの蝉はクロロの背中側ずっと向こうからびびび、と嗄れ声で鳴く。女は美しいというよりかは可憐と表現した方が正しく、成熟した女性よりかは少女に近い。しかし近い将来には間違いなく美しい女性になるであろうことが約束された容姿であることは確かだった。余りの整った顔立ちに、人形ではないかと思える程だ。
 彼女は長い髪を三つ編みのおさげにして、細く柔らかな毛先を風に遊ばせている。そういえば、いつの間にか風はクロロのリネンシャツも膨らませ、汗を吸い取っていた。不思議と風が集まる場所だった。丸く大きな瞳はどこにでもいるような暗い茶色である。しかし底は深く、木陰の中においても神秘的な光を放っていた。美しく可憐な女は、この世の理不尽や不幸など何一つ知らないような無垢な顔でクロロを見上げている。
 見つめ合う数秒間のち、女は微笑んだ。
 瞬間、作り物の人形のようだった女は生きた人間として温度と湿度を伴ってクロロの前に現れた。彼女は笑うと幼く見えたが、その微笑みは聖母が湛える種類のそれである。本来相反するような無垢なものと成熟したものは、女の中で違和感なく溶け合い、独特な、ともすれば神々しいとも形容できる雰囲気を作り上げていた。
 抜けるような青い空と巨大な入道雲と濃い緑の作るコントラスト。様々な顔をしたひまわり達。そしてポツリと浮かぶ赤を身に纏った少女。きっとこの光景はなかなか忘れ得ぬだろう。
 喧しい蝉の鳴き声を聞き流しながら、クロロは強烈なコントラストのこの一場面を網膜に焼き付けた。
 


 女の案内でクロロは再び民宿を訪れた。民宿の主人は裏庭にある畑で作業をしていたらしい。日に焼けた顔は想像よりも若かった。都会からの出戻りで、最近この地で民宿業を始めたとのこと。クロロのボストンバッグは既に二階の部屋に運ばれていた。外観に違わず室内も古い木造りだが手入れはしっかり入っているようだ。クロロの泊まる部屋は八畳の広さで、卓袱台が一つ置いてあるだけだ。磨りガラスの窓の下は裏庭の畑になっている。畳と呼ばれる草を編んだ敷物の青い匂いが心地よかった。

 一階の食堂に降りると宿の主人と先程の女が茶を飲んでいた。クロロに館内の説明を終えると、主人は畑の仕事に戻っていった。
「まだ名乗っていなかったね。クロロだ」
 女に向き直り、クロロは人好きのする笑顔で話す。
「ウタといいます」
 ウタと名乗る女もクロロに負けず劣らず愛想の良い笑顔で返した。ワンピースの首元には、隙間なく目の詰まった金色のチェーンが見え隠れしている。
 クロロとウタは初対面に相応しい他愛ない会話を交わした。何もない村だが、壮大なひまわり畑がここ近年マニアックな旅行者から注目を集めていること。ウタもひまわり畑にすっかり心を奪われたこと。二人の他に宿泊客は地元ジャポンの中年夫婦と、アイジエン大陸出身のバックパッカーの若い男がいること。バックパッカーの男は明日にはもう出発するのだということ。名産の蕎麦のこと。最近流行りのジャポン料理店のこと。
 ウタという女は愛らしい見た目通りの感じのいい女で、出しゃばり過ぎず退屈過ぎず、思慮深く話の引き出しも深い。賢さと品性が内からにじみ出るような人間だった。
「クロロさんも村の蔵書を読むためにいらしたのですね」
 ウタの言葉にクロロは頷く。
「本が好きでね。閉鎖的なこの島国の歴史書なんて興味がそそられる」
 この村にはジャポンのいくつかの古い歴史書と多くの民俗学に関する蔵書があるという。国の法律で持ち出しは禁止されているため、閲覧するためには直接訪れるしかない。ジャポン以外にも、こういった決まりの国は少なからずともあり、クロロは休暇の度にこういった僻地を訪れては本が生み出す知の世界に埋没していった。
「長期のお休みじゃあ、ゆっくりできますね」
「とはいえ、九月に入ったら大きな仕事があるから、ここに滞在するのは十日くらいだ」
 当たり障りなく身上の説明をするクロロに、ウタが長期の休みのある仕事について尋ねることはなかった。自然とそういった感覚が身についているのか、考えてのことなのかは判断が付かない。いずれにせよ、賢い女であることに間違いなかった。

 この村の蔵書を読むためには管理者に鍵を借りに行く必要があるのだそうで、ウタはその手順を案内してくれると申し出てくれた。休暇中は一人で過ごすことを好むクロロだったが、彼女の申し出を煩わしいと感じることはなかった。思慮深く差し出がましさのない言動は好感が持てた。他方で、「出来過ぎている」と、もう一人のクロロがウタの存在に警戒心を抱き始めてもいた。

 翌朝、宿の朝食時に再びウタと顔を合わせる。今日発つのだというバックパッカーの男は既に身支度を整えていた。痩せた体躯に大きな荷物を背負い、宿の主人に見送られるところである。長い黒髪を無造作に束ね、お世辞にも小ぎれいとは言えない格好で、細長く猫背のシルエットに厚い瞼がどことなく仕事仲間の一人を思い起こさせた。そういえば、彼のルーツも確かジャポンにあった。来月になれば顔を合わせるのだから土産話でもしてやろうとクロロは考える。
 朝食を終え、クロロとウタは連れ立って村への道を下った。管理者は村に住んでいるため、また、鍵は毎日返却する必要があるため、毎日村へ往復する必要があるのだそうだ。天候は昨日に引き続き気持ちのいい夏晴れである。
 村へと続く畦道は昨日と同じだけの暑さと湿度を伴っているが、隣を歩く女が涼し気な顔をしているせいか、昨日程の不快さはなかった。今日のウタは薄浅葱色の足元まで丈のある長さのワンピースを着ている。大きな鍔の麦わら帽子を被り、やはり長い髪をおさげにして夏の美しさを体現してるようだ。しきりに鳴く蝉の声ですら、この季節に彩を与えている要素に思えた。太陽の下で見ると彼女の瞳は単なる黒茶ではなく、光の加減によって緑の虹彩が滲むことにクロロは気が付いた。

 管理者の家は民宿から下って村のすぐ入り口の所にあった。蔵自体が村と山を登った民宿の丁度中間地点にあるから近いところに居を構えているのか、あるいは、近いところに住んでいるから管理の職を受けているのかもしれない。管理者は還暦を超えたくらいの白髪の男だ。愛想も何もないが、冷たさがあるわけではない。ウタと挨拶を交わし、クロロのことも紹介してもらう。二三、他愛無い会話を交わす以外に田舎人特有の無益な世間話を続けないことは、クロロにとっても有難かった。蔵の鍵はシンプルな造りのウォード錠で簡単に複製できそうな代物である。鍵自体も大きいが同じくらい大きな木の札がぶら下がっていて、長年の使用により手触りはつるりと滑らかになって光沢が出ていた。
 管理者の男に礼を述べ、来た道を戻る。帰りは上りになるから、自然とウタの息も上がっていた。民宿への山道は一本道だと思っていたのだが、石段を登り始めてすぐのところで彼女は脇に逸れた。一見道などないように見えたが、地面の草は人一人分かき分けられ、かろうじて小さな道が出来ている。サンダルから覗くウタの白い滑らかな踵が雑草に何度も撫でられるのがクロロは気になった。
「蚊に刺されそうだね」
 ウタは振り返り得意げに笑う。
「よく効く虫除け薬があるんです。よろしければお貸ししましょうか」
 少女よりもむしろ少年らしさのある笑顔に、そんな顔も出来るのかとクロロはときめきにも似た密かな感心を覚えた。この子が本気になれば大抵の人間を虜に出来るだろう。
 蔵は脇道に逸れ五分程歩いた場所にあった。木々が開けた場所にぽつんと建っている。例に漏れず古いが、存外造りはしっかりしていた。ウタは大層な誂えの扉に鍵を差し込み回し解錠した上で、木製の大きな閂を外す。彼女が華奢な手で力強く引くと扉は軋んだ音を立てて開いた。想像通り、埃っぽい。そして古い紙の匂いがする。クロロはこの匂いが好きだった。外から差し込む日によって、舞った埃がきらきらと輝いて見えた。
 蔵の中に足を踏み入れる。蔵の中の温度は外よりも低く、湿度も下がった。蔵の高い天井まで届きそうな本棚が横に五列並んでいる。そのどれもにぎっしりと本が詰まり、さらに本棚と本棚の間の狭い通路にさえ、本は積まれていた。クロロは中央の通路に進む。乱雑なようでいて、ある程度のカテゴリー分けはされているようだ。それに埃っぽいのは埃っぽいのだが、厚く堆積するほどの埃ではない。本は種々の厚さ大きさのものがあり、重厚な革張りのものから、ただ紙をまとめただけのものまで、果ては巻物さえもあってクロロは心を踊らせた。
「きちんと人の手が入っているんだな」
 第一声のクロロの芯を外した感想に、しかしウタは呆れも笑いもせずに真面目な顔で同意した。
「一年に一度、蔵書を全て出して掃除をしているんですって。本は虫干しをして、蔵の中は綺麗に拭きあげて」
 ウタの説明にクロロは感嘆の息を漏らす。これだけの量だ、相当な労力だろう。
「毎年十月に大掃除をするそうです。秋晴れのよく乾いた日に。だから今は、一年のうちでも一番埃の積もっている時期なんだそうですよ」
 勿論クロロはそんなことは気にならなかった。そしてウタの表情を見ればクロロと同じく、本の保存に手を抜かないこの村の人々に尊敬の念を抱いていることはよく分かった。村の主力産業であろう稲作は収穫の秋が最も忙しい。少し時期はずらしているのだろうが、それでも人手のいる作業を毎年行っているのだ。恐らく、村人はここに眠っている本をほとんど読むことはないのも関わらずだ。利益に直結する稲作の農繁期に、小銭の一つも稼げないもののために時間を割くなど、その価値が分かっていないとそうそう出来るものではない。

 クロロは歴史書を中心に五冊選び、ウタは十冊を選び、それぞれ鞄に詰めて宿へと戻る。クロロはウタの十冊のうち三冊を持ってやった。本当は全部運んであげるつもりだったが、彼女が恐縮して遠慮したので三冊がお互いの妥協点だった。
 その日は昼まで各々本を読んで過ごした。クロロは自室に籠りっぱなしだったが、ウタはまたひまわり畑に足を延ばしあの木陰で読書に勤しんでいたらしい。昼時に再び食堂でウタと顔を合わせた際にそう聞いた。ひまわり畑の中で本を読む美しい女は、様になり過ぎていて創作の中の登場人物みたいだとクロロは思う。
「そういえば、虫除けをお貸しするのを忘れていました」
 午後の一番暑い時間を避けて散歩に行くつもりだという話をしたら彼女がそう申し出た。クロロは蚊に限らず虫の類は慣れっこだから大して気にしてはいないが有難く借りることにした。
 それよりも意外だったのが、彼女がクロロを自室に通したことだった。愛想が良く他人に親切な女だが、他者との明確な一線を持っていて、有り体に言えば身持ちが固い。知り合って日の浅い男を部屋に招くには、虫除け薬は弱い理由だと思った。
 想像通りウタの部屋は整然としていた。旅行用鞄が一つ床に置いてある他は机の上に借りてきた本が並べられ、持ち運び式のノートパソコンが閉じた状態で置かれている。いくつかの文房具もきちんと机の隅にまとめられていて、後は空き瓶が二本戸棚に並んでいるのみだ。長期滞在している割にはよく片付けられていた。部屋に備え付けの木製の椅子にクロロを座らせ、ウタは机の引き出しからプラスチック製の小さな容器を取り出してクロロに渡す。透明のキャップを外せば簡易的なアトマイザーが出てきて、噴射するタイプの薬剤なのだと分かる。クロロはそれを両足の脛の辺り、首裏、手首にふきかけ擦り付ける。香草の独特な匂いが広がった。
 ふと、ウタの視線が宙を漂っていることに気がついてクロロはそれとなく視線の先を追う。クロロの探る視界を絡め取るようにウタが再びクロロに視線を戻した。蚊が一匹飛んでいた。
「さっそくですね」
 感情の起伏なくウタは言った。人間を不快にさせる甲高い音で飛ぶその虫が目の前に来た瞬間、クロロは両手を勢いよく打ち合わせて叩き潰す。
 ウタの視点が危うげに揺れたのを、クロロは視界の隅に捉えた。叩き潰した蚊は血を吸ってはいなかった。
「セーフだったよ」
 刺されていないことを示し、クロロは軽く告げる。
 ウタの部屋を後にしてすぐ、首の後ろの膨らみにクロロは気が付いた。触れると小さな盛りあがりが確認できて、認知した途端に痒みを訴えてきた。気づかぬうちに刺されていたみたいだ。

 午後も三時間少し読書に勤しみ、背中が凝り固まった頃に本を閉じる。大きく背伸びして窓の外を見やると照り付ける日はまだ高く、相変わらず暑そうだった。
 再びウタの部屋を訪れたクロロは扉の前で足を止める。閉められた扉の向こうで話し声がした。
 打ち合わせ。明日。料理人。新メニュー。新大陸への進出。事業拡大。電話をしているであろうウタの声でいくつかの単語が聴こえてきて、自然とクロロは息を潜める。足音なく扉の前から離れ、一階の食堂に向かう。冷たい麦茶を飲み一息ついてから、もう一度階段を上がりウタの元を訪れた。今度は静かだった。ノックをするとウタはすぐに返事をする。
 扉を開けたウタはどこか神妙な顔付きをしていた。
「散歩がてら蔵の鍵を返却してくるけど、ついでに返す本はある?」
 クロロの申し出にわずかの思案の後、ウタは頷く。
「すみません、それじゃあ何冊かお願いできますか?」
 声音は穏やかだが、どことなく上の空のようなぼんやりとした表情だ。
「もちろん――ところで鍵返却後も借りてていいのは何冊まで?」
「特に決まってないみたいです。最終日に返せば」
「そこら辺は意外と適当なんだな――これ見てよ」
 クロロが差し出したものにウタは目を丸くさせた。ビニール袋に入ったボロボロの本だ。劣化したページがいくつも剥がれ、透明なポリプロピレン素材の復路の内側に無惨に張り付いていた。
「ちょっとページを捲っただけで破れちゃった――返却までにはどうにか直せそうかな」
 ウタはじっと本を見つめ、口元を緩める。
「意外とそそっかしいんですね……補修用のテープは、宿の主人に言えば貸してくださるかもしれません」
 ウタに少しだけ笑みが見えて、不本意ながらもクロロは安心感を覚えた。彼女が笑うと自然と空気が浄化されるような気がした。

 ウタから本を受け取り、自らの読み終わった本も鞄に詰めてクロロは蔵に向かう。蔵の中は外の熱気を溜め込んでいるかと思いきや想像した程の蒸し暑さはなかった。涼しいとまでは流石に言えないが、蔵自体が周囲の木々の木陰に位置しているおかげか驚くほどに気温も湿度も低く感じる。返すべき本を返すと、クロロは新たな本を物色するでもなく、ただ宙を見つめた。入口から差し込む光の筋に照らされ、舞う埃が輝いている。聴こえてくるのは外の木々が風に揺らされる音と虫の鳴き声のみである。人の気配はとんとない。
 時が止まったかのような静けさの中で、ぼんやりと物思いに耽る。一人きりで、こんな雰囲気の中で考え事をするのは嫌いじゃない。クロロは上の空で適当な本を何冊か見繕い鞄に詰めつつ、不思議な女のことを思った。ウタからは、何故か引き寄せられる引力のようなものを感じる。この不思議な感覚の根源は何なのか。これを単なる感情と結び付けるような安直なことをクロロはしたくなかった。感情に結び付けてしまうと、往々にして本質が見えなくなってしまうからだ。小さな針を挿すだけで他人を意のままに操れることや、触れただけでその記憶を手に入れることが出来るのを知っているだけに、自らの感情もまた疑うべきものだとクロロは熟知していた。
 蔵から出ると爽やかな蒼い風が通り抜ける。ジャポンの文化や歴史は好きだ。一番大切な念能力の本にジャポンで使われる漢字を用いるほどに。慎ましい生活様式も、豊かな自然もそれに対する尊敬の念も、隣人への思いやりも厳しさも辛抱強さも好ましく思っていた。だからだろうか。この空気感の中で出会う女に言いようのない気持ちを抱くのは。この国のどこか懐古的な鄙びた雰囲気が、クロロとウタの間に何かしらの引力をもたらしていた。

 その夜の食事にウタは姿を現さなかった。そればかりか、その翌日も姿を見せなかった。
 彼女に再び会ったのは一日を挟み、やはりよく晴れた日の昼近くになってからだ。
 あのひまわり畑でウタのように朝から読書をしていたクロロだが、山の裾野からチラチラ見え隠れする臙脂色の人影を見つけて読んでいた本を閉じる。
「おかえり」
 民宿の入口まで迎えにいくと大きな荷物を抱えたウタが珍しく額に汗を湿らせていた。今日は長い髪を編み込み、器用に後頭部に結い上げている。
「部屋まで運ぶよ」
 クロロの申し出にウタは少し申し訳無さそうに、しかし嬉しそうに笑む。
「ありがとう。助かります」
 帆布で出来た彼女の鞄は肩から斜めに提げれるように長めの肩紐が付いている。その重量から中身の大体の想像はついた。ノートパソコンが一台、一泊分の着替え、それから食品がいくつか、そんなところだろう。
「お土産に街で話題の和菓子を買ってきたの。もうすぐお昼だから、午後に食べましょう」
 軋む木の階段を上りながらウタは嬉々として言った。これだけ見れば無垢で無邪気な少女だ。髪を上げたことにより露出した白く華奢なうなじは美しいカーブを描いている。マチのものともパクノダのものともシズクのものとも違うラインだ。きっと、女というのはそれぞれが個々の美しさを持っているものなのだろう。花は蝶になれないように。蝶は人形にはなれないように。
「上機嫌だね。商談はうまくいった?」
 クロロの問いかけに前を歩くウタが振り向く。その瞬間、愛らしい顔は美しいがどこか恐ろしい無機質な彫刻の顔に変わった。クロロの脳が警鐘を鳴らしたのは一瞬のことで、ウタは穏やかな表情で小首を傾げた。
「ごめんね、盗み聞きするつもりはなかったんだけど電話で話しているのが聞こえたんだ――今話題のジャポンレストランヤマト≠フ経営者なんだろう」
 不思議そうにクロロを見つめていたウタは、合点したのか柔らかく頬を緩める。
「そうですか。別に隠しているわけでもないけれど、少し驚きました」

 昼食は地域の特産品でもある蕎麦だった。竹で編まれた平べったい籠に艷やかな灰色の麺が盛られている。さらに別の皿で夏野菜の天婦羅が何品か。宿泊していた中年夫婦は今朝チェックアウトしたから、クロロとウタの二人だけだ。
「蕎麦はヤマト≠フメニューにないの?」
 この国の慣習に倣って音を出して蕎麦を啜りながらクロロは聞いた。
「蕎麦は難しいんです。原料の蕎麦粉が重要ですが、輸出するにあたって制限があって。何より、蕎麦は大陸では受けないですよ。だから当面は、うどんだけ」
 ウタもジャポン式に蕎麦を啜るが、彼女の食べ方は上品で出す音に不快感は全く感じられない。
「ふうん、うどんは受けるんだ?」
「ええ、味のバリエーションも付けやすいですし。香りを楽しむ蕎麦とは違って歯ごたえや喉越しが大事ですから。汁はどうにでも」
 天婦羅の衣はサクサクに揚がっていて、野菜の甘みと苦みがいい塩梅だ。
「天婦羅はまだメニューにないけれど、もう少しジャポン食が大陸に浸透したら入れるつもりです。やっぱり味がはっきりしているものの方が、最初は受けやすいですから。それからヘルシー志向は一部の人の中でもこれからどんどん拡がっていくわ。その需要にもジャポン食は一致すると思うんです」
 ウタよりも早く蕎麦を平らげ、クロロは頬杖をついて彼女を眺めた。
「何が大陸で受けるか、手に取るように分かるみたいだね」
 感想を漏らすとウタはくすぐったそうに微笑む。お世辞などではなく、彼女は人々の流行を、社会の流れを熟知しているとクロロは感じた。これからの世界の行く末さえも知っているのではないかとすら思える。それはまるで、一つのモデルコースがあるかのように。
「界隈を騒がせている凄腕の実業家……流星の如く現れ、ジャポンレストランヤマトはただの取っ掛かりで、あっという間に経済活動や流通を支配し始めている。通称大商人ガネーシャ≠ェ、まさかこんな可憐で年若い女性とはな」
 世間一般には知られていないが、資産家や政界人、金融業界では今をときめく名前をクロロは口にする。
「人は見かけによらないって、クロロさんはよくお分かりになっているんではないですか」
 こざっぱりとした清潔な笑みを口元に湛えるウタをクロロは真正面から見つめた。
「クロロでいいよ」
 ウタの質問には答えずに唐突にクロロは申し出た。返答に困っているのかウタは笑みを引っ込めすぐには答えない。
「親も商人? 何してる人?」
 急に心理的距離を詰めたクロロの問いかけに、ウタはゆっくりと瞬いた。どこか夢見心地のような、なんとも言えないとろりとした瞳がクロロを捉える。
「いいえ、母は一国の女王様」
 今度はクロロの方が瞬いた。
「へえ、何ていう国?」
 途端に、ウタは吹き出した。肩を揺らして可笑しそうに笑う様は人間を虜にする妖精のようだ。
「おかしな人」
「そう?」
「だって、真面目な顔で聞き返すんですもの」
 尚も笑い止まらないウタにクロロは後頭部を掻いた。
「でも、君ならピッタリだと思ったんだけどな」
「ふうん」
 笑いは収まったものの、好奇心に満ちた丸い大きな目がクロロを見定めている。無垢でありながら気位の高いこの目に見つめられると、どうにも落ち着かない気持ちになる。
 クロロは食べ終えた食器類を下げると、机の上に本を三冊置いた。
「また蔵に行ってくるけど、何か返すもの、もしくは借りるものはある?」
 机の上に置いたのは深緑の装丁の「山岳地帯の民俗と信仰について」、茶色い皮のカバーのタイトル不明の本、それから、黒いハードカバーで表紙に大きく「極」という漢字と手のひらの絵が描かれたものだ。
「いいえ、まだ平気です。ありがとう」
 ウタはクロロの本に興味はないようだった。



 それから二日後の昼過ぎ、俄に空気が湿っぽくなるのを感じ、クロロはひまわり畑に足を向けた。いつものようにウタが読書をしている。本を読んでいる時の彼女はとても集中していて、神秘的な雰囲気があった。今日は長い髪を緩めの編み込みにして、背中に垂らしている。
「しばらくしたら、雨が降るよ」
 クロロが忠告すると、ウタは数拍の後に顔を上げた。クロロから、木陰越しに空を仰ぎ見る。真上には濃い青空と眩しい太陽。ここ連日と同じく、気持ちの良い夏晴れだ。
「天気が分かるんですか」
「肌で感じる湿度で、だいたいね」
 それにほら、あの雲がこちらに向かっている、とクロロは西側の大きな入道雲を指差した。縦に大きく発達し、頂上の辺りは開き始めている。激しい雨を降らせるのも時間の問題だ。
「でも、たまには雨も降らなくちゃね」
 ウタの呟きにクロロは頷くと、そのはす向かいに腰かけた。手には二冊の本――「サンイン地方における神々の継承」――と、「極」のタイトルの黒い本だ――それから雑に畳んだ新聞を持っている。
「アイジエン大陸の砂漠地帯は今は乾期だろう。やっぱり、全然雨が降らなかった?」
 手にした新聞を広げて読みながら、クロロが尋ねた。ウタはわずか目を細めてクロロを見つめる。新聞を折り返して読んでいるため、ウタ側からは二面の記事が見えた。“カキン宮廷に盗み入る――懸賞金二千万ジェニー”の文字が大きく打ち出されている。
「どうしてアイジエン大陸から来たって知っているの?」
「君の部屋にあった空き瓶――あれは確か、カキンで売っているジュースの瓶だったって思い出してね」
 ウタの質問に、クロロは新聞に目線を落としたままで答えた。その回答にウタは驚きや安堵の表情は一切なく、今朝食べたものを聞いたかのような軽やかさで微笑む。
「よく見ているのね」
 わざと置いていたんだろう、とは口に出さずにクロロは一枚新聞紙を捲る。二面のカキンに関する記事だ。
「すごい額の懸賞金だな。聞くところによると盗まれた宝石の価値はせいぜい数百万ジェニー程度というじゃないか。何をこんなに固執しているんだろうね?」
 独り言のように続けるクロロに、ウタは口を挟まない。ただ人形のように、彫刻のように、完璧な佇まいで話を聞いている。
「盗み騒ぎで上手く隠されているが少し前に有能な医者を探し回っていた件はどうなっただろうか。かなりの地位にいる者が重篤な病気かまたは怪我を負ったと予想できる報酬だったが」
 そこまで言って、クロロはようやく新聞を畳んだ。真っ直ぐにウタを見つめる瞳には好戦的な光が宿っている。

「何をそんなに焦っているの?」
 素朴な質問というようにウタは聞いた。クロロは一つだけ瞬きをする。
「焦って――……そうかな、焦っているのかな」
 また独り言のようにクロロは呟いた。
「強いて言うのなら、三日後にはここを発つこと、それなのに、未だに君の能力の全貌が全く見えないことが、俺を焦らせているのかもしれない」
 それでも答えないウタを真正面から見つめてクロロは頬杖をつく。下ろされた前髪が額に流れ、真っ黒な瞳に深い影を作った。
「謎に包まれた、再生の巫女……直せないものは何もないというその女がやんごとなき立場の人間の欠損箇所を直した。代わりに大した資産価値もない宝石を持ち去って」
 二人の間を湿った風が通り抜けた。水分をたっぷり含んだ気流の吹き荒れる積乱雲はもうすぐ近くまで来ている。
「再生の巫女アマテラス……その正体も、君なんだろう」
 何の建物も取り繕いもなくクロロは指摘した。人形のように話を聞いていたウタの唇が弧を描く。するとどうだろう、初めてクロロに笑いかけた時と同様に彼女が生きる血肉として、生々しい生の感触を伴って現れた。
「正解」
 世界は途端に色と音を思い出し、風さえ強くなるがそれは爽やかな夏の眩い彩りに満ちたものではなく、雷雨の到来を告げる不穏な空気だった。どこか懐古的にさせるような清らかな生ではなく、人間の本性を濃く煮詰めたような多種多様な生だ。ひまわり畑が風にざわめき、海鳴りのような音を轟かせた。
「一体いくつの顔を持っているんだい?」
 問いかけるクロロの顔もまた、勝ち気な笑みが浮かんでいた。二人の頭上にある樫の木もまた、湿度の高い風に叩かれさんざめく。
「まあそれはこれからの楽しみとして残しておくとして、どうやって直すかの方が今は気になるな」
 クロロは徐ろに立ち上がるとひまわり畑に向かい、その中の一本を手折った。ウタの元に戻り再び座る。何重にも折り重なる濃いオレンジの花弁を無遠慮に掴み、引き千切った。
「直してみてよ」
 尊大な命令というよりは、無邪気な子供の我儘に近い口調であった。
 今さっきまで生々しい瑞々しさを持って咲き誇っていた花弁はあっという間にただの物に成り下がる。ウタは芝の上に散った向日葵の欠片からクロロの真っ黒な瞳、そして傍らに置かれた本と順に視線をずらした。
「その本が気になる?」
 そんなに不自然だっただろうか、とクロロは自らの行動を振り返る。そしてすぐに否定した。彼女がこの本を警戒しているのはクロロの誘導がお粗末だったからではなく、彼女が突出した知能を持つからなのだ。黒い本――“盗賊の極意”から視線を上げ、ウタの茶色い瞳がクロロを捉える。
「この本に触れること、能力を見ること、その他にも、きっと条件があると思うのだけれど」
 問いかけるウタの瞳は黒い茶色で、暗雲が頭上まで来ている今、その中に散るオリーブグリーンの色彩は見えない。
「あなたなら、脅すなりして全ての条件を満たすことは容易いのでは? わざわざこんな小芝居を打たなくても」
「傷つけないで済むなら、それに越したことはないだろう?」
 淡々とクロロは返す。湿った土の匂いの風が頬に打ち付け、雨がすぐそこまでやって来ていることを悟る。
「ところで、俺が誰だか、いつ知ったの? 最初から?」
 生暖かい風はウタの前髪を散らし、丸い綺麗な額が露わになった。
「あなたが――誰か?」
 ウタは可笑しそうに繰り返す。
「誰、とはどれを指すのかしら――。そうね、幻影旅団の団長クロロ・ルシルフルだということは、あなたが名乗った時に。あなたのルーツについては、その日のうちに」
 クロロは眉を潜めた。
「……ルーツ?」
「そう、あなたが、何処から来たのか」
 俄かに、轟音が響いた。地の底から響くような重低音は上空からのもので、入道雲の中で雷が放電したことによるものだ。鼻先に一粒、雫が落ちる。湿度の高い風が方々に吹き付ける。あ、と思った次の瞬間には雨が降り始めた。雨はあっという間に勢いを増し、土砂降りになった。
 瞬く間に世界は一段階彩度を落とし、草木も地面もクロロもウタもずぶ濡れになる。濡れた土の匂いが、熱くなった大気の熱を奪い去った。
 クロロは天を仰ぐ。自分が何処から来たのか――……。激しい雨粒がクロロの瞳を刺す。
「宿に戻りましょう。風邪を引くわ」
 ウタの提案に、クロロは素直に頷いた。


 宿に戻ると、主人が気を利かせて風呂に熱い湯を張ってくれた。一人用の小さな浴室ではあるが、一応男女別になっているためクロロとウタは待たずにそれぞれ湯船に浸かることができた。
 熱い湯に浸かっていると、クロロの好奇心に満ちた興奮もいくらか鎮まった。しかし腹の奥底で渦巻く言いようのない切なさは相変わらずである。
 早々に風呂を出て部屋に戻る。タオルで乱暴に髪を拭いていると部屋の外を通り過ぎる足音があった。ウタだ。一階の浴室から階段を上がり、最奥に位置する彼女の部屋に戻るにはクロロの部屋の前を通る必要がある。廊下の向こうで扉が閉まる音を聞き終わらないうちにクロロは部屋を出た。気配も足音も隠そうとせず廊下を突き進み、今閉まったばかりの扉を開けて室内に押し入る。
 ハッと顔を上げるウタと目が合った。まさに着替えるところだったらしく浴衣と呼ばれる軽い衣を羽織った状態で驚きに固まっている。湯上がりの彼女の肌は白くしっとりと輝き、頬と耳たぶ、露出した肩が入浴の作用で紅く染まっていた。濡れた細い髪がこめかみとうなじに張り付き浴用石鹸が香る。
 浴衣を胸の前で打ち合わせただけで腰帯を結んでいない状態なので、隙間からウタの裸体が垣間見えた。内から発光しているかのような白く瑞々しい肌。肉付きが少なく無駄なものなど何一つ付いていない。腰から臀部にかけての滑らかなラインも控えめな乳房の膨らみも生命の神秘と尊さに満ちていた。彼女の身体は性的な興奮を誘発するものではなく、むしろ芸術品を見ている感覚に近い。この美しい体の内にも、臓物が詰まっているのだ。クロロはウタの綺麗な腹を裂き中身を引きずり出す想像をした。首を切り、折った手足は顔の両脇に添える。丸い額には釘を打ち反吐が出るような書置きを張り付ける。溌溂として聡明な顔をしたいつかの少女が、目の前の女に重なってまた腹の底の淀んだ澱が渦巻き、尽きることのない怒りを訴えかけてくる。
 自身の内に住む怪物が唸り声が上げる前にクロロは深く息を吸った。業火に麻痺した脳に酸素を送り、目の前の女に照準を合わせる。ウタは不思議そうな顔でクロロを見つめていた。薄い布一枚だけをまとった状態で、その下の裸体を見られて何の抵抗もないみたいだ。
 クロロはウタの頬に手を伸ばし、そっと掴む。少し力を入れれば爪が食い込み肉を裂くだろう。ウタが少し身じろいで、肩にかけた浴衣がずり落ちる。その美しい身体の全貌が露わになって。クロロは息を詰めた。
 ウタの左の乳房のすぐ下には、タトゥーが彫られていた。
 大きな鎌を持った奇抜な格好をした道化師が墨色で描かれている。傷一つない美しく清らかな身体の中で、妖しい笑みを湛えるそのタトゥーだけが異質だった。
 時が止まったようにタトゥーを凝視しているとウタが頬を掴むクロロの手に自分の手を添え静かにどかした。
 無理矢理にタトゥーからウタの顔に視線を戻しクロロは無意識に止めていた息を小さく吐く。
「身の危険が迫れば能力を使うと思ったんだけどなあ」
 刺すような視線とは裏腹なのんびりした声音でクロロは言った。ウタは眉を下げて少し笑う。はだけていた浴衣を羽織り直し体の前で打ち合わせると器用に腰紐を結んだ。
 彼女はクロロに椅子に座るよう勧め、自身はベッドに腰掛けた。二人の間には小さな丸テーブルがある。ウタはそこにガラスのコップを二つ置いた。何の装飾もない、十五センチメートル程度の高さのありふれたストレートのコップ。それをウタはじっと見つめる。クロロも見つめた。一見すると何の変化もないが、集中して目を凝らすと――読んで字の如く凝を行うと――コップの周辺に薄っすらと立方体の透明な箱が見えた。そして次の瞬間、眼下のコップは消えクロロの背後で硬質な音がした。ウタが視線を上げてクロロの背後を見ている。振り返ると入口近くの棚にコップが置かれていた。
「空間を切り取っているのか――」
 クロロの呟きに答えるように、ウタは再び能力を使う。今度はさらに大きい範囲を切り取り、コップとともに隣の水差しを移動させた。丸テーブルの上で、水指の中の水が揺れる。ウタの白く細い指が水指を持ち上げ、コップに水を注いだ。
「視線を向けた方に移動できるのかな」
 クロロはウタに勧められるがままにコップの水を飲んだ。風呂上がりの渇いた喉に冷たい水が染み渡る。
「ええ、そうです」
 ウタは笑みを湛えて頷いた。
「どこまで飛ばせるの?」
「見えないところには飛ばせないわ――直接ピントを合わせられる範囲でならどこへでも」
 端的だが必要な情報を詰め込んだウタの発言をクロロは咀嚼した。なかなか使い勝手の良さそうな能力だ。
「直す能力の方は? それを見たかったんだけど」
 無遠慮な申し出にウタは声を漏らして笑う。彼女もまた水を飲み喉を潤し、クロロを悪戯っぽく見た。
「そっちはだめ、手放しでは貸せないわ」
 クロロは片眉を吊り上げる。
「貸す?」
 そして端正な顔立ちに微笑みを浮かべる。
「借りるつもりはこれっぽっちもないんだけどな――ほら、盗賊だからさ」
 両手の平をウタに向けてひらひらと振りクロロは言った。
「私の話を聞いたらきっと、借りるのも悪くないと思うはずだわ」
 ウタはベッド脇の机の引き出しからペンを一本と紙を一枚取り出した。紙は一般的なコピー用紙くらいの厚みで、二つ折りにして丁度封筒に入るサイズの便箋だ。
「盗んだ場合、盗まれた私は能力を使えなくなる――そんなデメリットしかない状況は残念だけど甘んじられないわ。だからあなたに能力をあげるつもりはない。けれど返してくれるのなら――条件付きで貸しましょう」
 喋りながらウタは紙に文字を書き綴っていく。一番上に「貸借契約書」と書き記し――条件とやらを箇条書きにした。
「まず空間を切り取り三次元的な場所を移動させる能力について、こちらはあなたが自分の能力――なんて言ったかしら――そう、“盗賊の極意”――これを使用して盗んだ時と同様に使えるようにしましょう。もちろん私は能力を使えなくなるわ。見返りに私はあなたのオーラをいただきます。貸出期間はあなたがオーラを自由に使えなくなるまで。自由に使えなくなるの定義は、そうね――……」
 さらさらと書き綴っていたウタは一旦手を止め思案する。
「オーラを使い切って、自分の力じゃオーラを練れないような状態が十二時間継続した場合としましょう。他人の能力や、自らの制約によって使えない場合も同じとします」
 再び手を止め、ウタは顔を上げてクロロの顔を窺った。クロロは肩をすくめるだけに止まった。まだ続きがあると分かっているからだ。ひとまず、最後まで話を聞こう。
「そして次に、時間を戻す能力について――こちらはさっきも言ったように手放しでは貸せないわ。だから回数と時間の制限を設けます」
 ウタはペンを持たない方の手で指を三本立てた。
「三回」
 ゴロゴロと雷雲が唸る音は、大きな猫が喉を鳴らしているようだ。ウタは再び契約書に向き直り数字を書き入れていく。
「三回までの使用に限ります。さらに戻せる時間は合計二十四時間まで。三回のうち二十四時間をどう割り振るかは自由です。均等に八時間ずつでもいいし、一回で二十四時間使っても構わないわ。ただしその場合はあと二回分は使えなくなるけれど。こちらの能力はあなたが使った後に限り私は使えなくなるわ。あなたが戻した時間分だけ。だから例えば、あなたが二十四時間時間を戻せば、二十四時間の間私は能力を使えなくなる」
 しばらくペンを走らせる乾いた音だけが響く。契約書を書き終え、ウタはようやく顔を上げた。
「さて、質問は?」
 クロロは契約書に視線を落とす。彼女が説明したことが項目立てて記載されていた。生乾きのインクが鮮やかに照っている。
「たくさんあるけれど」
 クロロはゆっくりと瞬き、足を組み直した。もうこの時点で既に、彼女の持ちかけた話に乗るしかないのだろうと薄々感じていた。そしてそれがこの上なく癪だった。雷が落ち瞬間的に窓の外が明るくなる。
「能力を借りる代償に渡すオーラの量は?」
 数秒遅れて轟く雷鳴とは真逆の、凪いだ水面の穏やかさでクロロは問う。
「あなたの活動に支障が出る程もらうつもりはありません。オーラ総量の五パーセントを、貸出期間中毎日もらいます。オーラ量が総量の三十パーセントを下回っている日があった場合には、回収は行いません。ただしオーラ量が八十パーセントまで回復した時にまとめて回収します」
 ウタの説明にクロロは思案する。毎日満タンまで回復したとしても、常に九十五パーセントのオーラ量になるということだ。微々たるもので、大した支障にはならない。しかしオーラ量が低下している状態が数日続くと、回復した時にそのツケをまとめて支払う必要がある。戦闘が長く続くような場合は注意が必要であるが、三日以上の戦闘状態が続くことは極めて稀である。三日であればオーラのツケは総量の十五パーセント分――やはり、あまり支障はないように思う。再度雷鳴が轟いた。
「貸出期間はオーラを自由に使えなくなる状態までということだが、それは君からの攻撃も含むのか?」
「ええ、私自身を含めて、如何なる事由によるものでも、十二時間オーラを練れない状態が続けば貸借契約は終了します」
「他人のオーラを回収ができるのも、君の能力によるもの?」
「そうね。でも誰からでも回収出来るわけではないわ。王国民の血が流れていないととても難しいの」
 ウタはさらりと言い放つ。クロロは改めて目の前の美しく、儚く、そして恐ろしい女を見澄ました。稲光が瞬間的にウタの頬を照らし強い陰影を作る。
「君の母親が女王だって話?」
 クロロが聞き返すとウタは満足そうに微笑んだ。
「ええ、そう。王国の名はカランマ、そこに住まう民をゲブドラ族と言います。そしてあなたにもその血が濃く流れているの」
 王国の名も、民族の名も、初めて聞く言葉だった。
「……どうして分かるの?」
「血がほんの一滴でもあれば、ゲブドラの血が流れているか知る方法があるの」
 血。どうやって入手したのか。そんな機会などなかったはずだと記憶を辿るクロロの心に何かが引っかかる。奇しくもこの部屋で、虫除け薬を借りた時のこと。あの時蚊が飛んでいた。仕留めた蚊から、血が出ることはなかった。しかしどうだったか。クロロは自然とうなじに手を伸ばす。もうそこには何の痕跡もないが、あの日確かにクロロは蚊に刺されていたのだ。外に出た時にでも、気付かぬうちに刺されていたのだろうと思っていた。
 あの日と同じ位置に座るクロロは振り返る。部屋の入口の木製のドア。その横の造り付けの戸棚。最上段にはガラス越しにカキン製のフルーツジュースの空き瓶が見える。下の段には恐らく元々部屋に置いてあったであろうコップと小振りなカンテラ、黒い編みのボール――……。視線を彷徨わせていたクロロは拳大くらいの黒いボールを見つめた。目の細かい網目になっていて、中は空洞だ。つまり球体の虫籠である。大層細かい網目の中の小さな虫にピントを合わせるのは骨が折れそうだが、視力の良さと慣れがあれば出来ない芸当ではない。籠から出し、目標の人物の血を吸わせ再び籠に戻す。後から蚊を潰せば血が取り出せる。
「……やられたな」
 クロロはウタに向き直り薄ら笑った。その顔を何度目か分からない稲妻が照らすが、雷雲は遠ざかっているようでその光は随分と弱い。
「それで、君は女王の娘だから次期女王なわけだ」
 ウタは徐に首を振った。
「母が亡き今は私が女王です」
 ウタの返答にクロロは目を細める。癪だと思う気持ちは、すっかり消えていた。
「しかしカランマは既に滅んだ国です。それでもこうして王国民は女王の力になってくれる」
「それも女王のなせる業なのかな? ……確かにこの契約は悪くない話だけれど」
 今のところ、クロロには盗賊の極意の条件を全て満たすための良い考えは思い付かなかった――暴力に訴えるやり方を除いては。
 ウタを無闇に傷付けたくないという気持ちも勿論あるのだが、この騙し合いを暴力で制するのは負けを認めることなり、どうにも気が進まなかった。そんなクロロの性質をも勘案に入れていたのなら、大した女である。
「私の力になってくださる?」
 ウタの問いかけには答えずにクロロはまだ少し濡れたままの前髪をかきあげた。
「再生の巫女アマテラス、大商人ガネーシャ、そして亡国の王女、か」
 独り言のように呟き、浅く息を吐く。ウタの持ついくつもの顔が、トランプの絵柄のように抽象化された姿でクロロの瞼の裏に浮かんだ。
 ふと、彼女の左季肋部に掘られた道化師が、実在の人物に重なった。ここ最近旅団の一員となった危なげなオーラを纏ったピエロのような男だ。
「いくつもの顔を演じていると本当の自分が分からなくならないか?」
 一度二つを結び付けてしまえば、もうそうとしか思えなくなる。ウタは相変わらず穢れを知らぬような楚々とした顔でクロロを見つめていた。
「それは私に言っているの? あなた自身に向けた言葉じゃなくて? ……私は私よ。演じているわけじゃなく、全て私なの」
 澄んだ声はクロロの胸の奥深くにそっと沈む。ゴミ山の煙たい景色、緑深い森と、激しい雨の匂いがクロロの心臓を掴み、嫌な音を立てて軋んだ。
「あなたはどう?」
 低く落ち着いたウタの声は、雷鳴よりもずっと大きくクロロの中で響く。真っ黒な瞳で、クロロはここではない、過去のある一点を見つめた。
 幼気な少年が、ゴミ山の中で佇んでいる。小さな白い手をきつく握り締め、身を焦がす程の怒りと憎しみを燃え立たせ、佇んでいる。あれからずっと、その手に滴る血が乾くことはなかった。
 クロロは親指を強く噛む。ぷくり、赤黒い液体が玉状に浮かんだ。
「誓うよ。君が困った時には力になろう」
 血が滲み出た指先を契約書に押し付ける。縞模様の血判が乾いた髪に写された。今や雷鳴は遥か遠く、山の向こうで微かに響くのみだ。
 ウタは聖女の微笑みをクロロに向けた。

 力になりたいと思ったのは、本心だ。一方で、高い位置から全てを俯瞰するこの女を出し抜いてやりたいという気持ちや、将来的な利益を合理的に判断する損得勘定もまた確かにあった。
 今はまだ、よい。
 ひとまずは彼女にこの知恵比べの勝利をくれてやろう。近いうちに彼女は再びクロロに接触する。貸与の条件に期間が入っているのがその証だ。きっと、クロロがオーラを使えなくなる状況に陥ることに、何かしらの確信があるのだろう。
 勝利はその時までに取っておこう。
 負けず嫌いの自分が顔を覗かせるなど大層久しぶりで、思わずクロロは苦笑した。
「本当のおれ自身……か」
 囁く声は最後に落ちた雷鳴によってかき消された。





 クロロの能力「盗賊の極意」
 他人の念能力を盗んで使うことができる。盗まれた側は、その能力を使えなくなる。具現化した本に盗んだ能力を封じ込め、自在に使うことができる。
 盗むための条件は以下の四つ。
 @相手の念能力を実際に目で見る。
 A相手の念能力に関して質問をして、相手がそれに答える。
 B本の表紙の手形と相手のてのひらを合わせる。
 C以上の三つを一時間以内に行う。

 ウタの能力「クローバー」
 対象のオーラを回収できる女王独自の能力。ゲブドラ族の血が濃く流れている程回収できるオーラ量は増加する。回収にあたっては対象と契約を交わす必要があり、契約を成立させるための条件は以下の四つ。
 @対象者に王国の名前と女王であることを明かす。
 A対象者が女王の力になることを約束する。
 B女王の与えたものを対象者が口にする。
 C以上の三つを一時間以内に行う。

 制約をクリアすれば念能力を発揮できる。ただし、複数の念能力者の制約が一つの事象に重なった場合、先に条件をクリアした方、あるいはより強い誓約が優先される。




 三日後の朝、クロロは民宿を発った。一日前にはウタが一足先に出立していたのでここを訪れた時同様に共に行く人のない道だ。
 名残惜しいけれど、一週間後にはヨークシンシティでの大仕事が始まる。

 山道を下り、田舎の畦道を歩く。さらに村を通り過ぎ、濃い緑のトンネルを抜けるともう秋の気配がした。
 ひまわりが揺れる色濃い夏の景色の中に浮かぶ女の顔を、忘れることは出来やしないだろうとクロロは一人笑う。いつかの、無邪気な少年のような顔で笑う。

 仰いだ空は突き抜けるような青で、それでも昨日までよりもずっと雲は高かった。





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