この時はまだ彼自身気付いていなかった


 厄介なことになった。
 第一王子であるベンジャミンの飼っている虎が、第二王妃であるドゥアズルの指を噛みちぎったのだ。八月に入ったばかりの酷暑の中での事件だった。ドゥアズルはカキン帝国の現国王ホイコーロの第二王妃であり、第二王子カミーラ、第五王子ツベッパ、第七王子ルズールス、第九王子ハルケンブルクの四人もの王子達の御母堂である。
 ベンジャミンの虎は普段は堅牢な檻の中で飼われていたはずだが、鍵が外れて逃げ出し、人々の悲鳴に興奮し、襲いかかり、一人が死に三人が重軽傷を負い、運悪く近くを通りがかっていたドゥアズルもまた右手の人差し指を食い千切られた。ドゥアズルを庇って死んだ護衛以外のその場にいた従者の首は全て刎ねられた。檻の管理をしていた飼育者の男も当然即死刑になるところなのだが、虎が檻から出てすぐに男は姿を消していた。恐らく被害が出る前から、自身の身の危険を感じて早々に逃亡したのだろう。無論のこと男には指名手配が出された。虎についても、ベンジャミンは猛抗議したが殺処分が決定した。
 しかしいくら使用人の首を刎ねても虎を処分しても、ドゥアズルの指がくっつくわけではない。
 宮中は上へ下への大騒ぎとなった。第一王子のペットが第二王妃の指を噛みちぎったというセンセーショナルな事件に加え、離れ離れになったドゥアズル王妃の右手の人差し指と掌をくっつけることが出来た者と、それを探し出した者には莫大の褒賞が授けられるというお触れが出たことが、より話題性を増していた。褒賞はホイコーロ国王側とドゥアズル王妃側からそれぞれ出るというのだから、相当な額になるだろうと王族から使用人に至るまで誰もが興奮した。莫大な資産と名誉を得ようと宮中の者達は先を争うように血眼になって高名な医者を国内外から探し回った。
 それでも我こそはと名乗り上げる医者は中々見つからなかった。切り離された指を元どおり、出来る限り後遺症も痕も残さずにくっつける手術はそもそも難しく、仮に失敗すれば今度は自分の首が飛ぶのだからどんなに優秀な医者でも首を縦には振らない。多くの医師が恐れをなして依頼を受け付けず、王妃の切断指が防腐溶液に漬けられたままで悪戯に時間だけが過ぎた。

(チャンスだ)
 ツェリードニヒはそう思った。莫大な報酬が欲しいのはもちろんその通りだ。しかし事態はそれ以上にメリットに満ちていた。宮廷の権力争いには積極的な姿勢を見せないながらも子供の数から最も寵愛を受けた王妃として名高いドゥアズル。ツェリードニヒの母である第一王妃ウンマのような発信力はないものの、その存在の与える影響力は決して無視できるものではない。実母の第一王妃に加え、第二王妃の後ろ盾があれば近い未来に起こるであろう王位争いにおいて大分有利に立てる。
 著名な医者が誰一人として依頼を受けない様を見ていたツェリードニヒは、すぐさま別の角度からの捜索を始めた。そしてそれはすぐに見つかった。
 アマテラス。この人物に行き当たったのは裏社会に通ずるツェリードニヒの人脈と、彼特有の趣味の賜であると言えよう。
 人体収集に大きな関心を寄せるツェリードニヒは人体保存と復元の観点から技術者を探し、以前取引を交わしたことのある売買業者からアマテラスという謎に満ちた事業者の存在を知る。表の世界では一切広告を出すことのないアマテラスが、裏の業界人向けに出している売り言葉は次のものだけだ。

 あなたの大切なものを直します。ただし下記ご留意ください。
 破損部位が八割五分以上残っていること。
 長辺が三十センチメートル以内であれば破損してから七日以内のもの。
 長辺が一メートル以内であれば破損してから三日以内のもの。
 長辺が一・五メートル以内であれば破損してから一日以内のもの。
 死体は蘇らせません。

 これ以外は、一切が謎である。個人なのか団体なのかも分からない。直すものの対象もはっきりしない。直すということは一般的に物に対するものだろうが、死体を蘇らせることはできないということは、欠損した人体も治せるということか。
 一見お断りというわけではないようではあった。しかしアマテラス辿り着くためには利用したことのある者から連絡先を聞くしかないのだから、実質のところ紹介制度である。なおかつ業務の連絡はアマテラス本人ではなく代理人を通して全て行われた。
 ドゥアズルの人差し指が保存液に沈んで三日。直したい対象物と国からの報奨金を伝えるとアマテラスは二時間後に依頼を引き受けるという返事を寄こした。

 アマテラスがカキン帝国の王宮を訪れたのはその翌日、乾いた熱気が強い風に運ばれてくる猛暑日だった。冷暗所で恭しく保管されているからそんなわけはないのだが、ツェリードニヒは猛暑の中でどろりと溶ける妃の指を想像せずにはいられず、ある種の興奮にぶるりと震えた。
「到着なさいました」
 使用人が自らの公室に連れてきた客を見てツェリードニヒは驚く。てっきりこれまで連絡を取り合っていた代理人を伴っているものだと思っていたのだが、噂のアマテラスはなんと単身で参殿したのである。この国の強烈な日差しと乾いた熱風を防ぐための深紅の鮮やかな長く薄い織物をドレスのように纏っていた。深紅の織物にはこの地に住まう民族特有の刺繍が施されていてツェリードニヒにとっても馴染み深いものだ。
 アマテラスの背は低く痩せていた。日差しを遮るための背まで布の垂れた帽子はやはりこの国によく見られるものだ。薄い織物を口布のように巻いているおかげで目元しか見えない。目の際に引いたアイラインは大きく跳ね上げられ、恐らく付け睫毛であろうが綺麗にカールした真っ黒な睫毛は長く、虫の羽を思わせた。これだけ濃いアイメイクだが目じりには深い皺が刻まれており、老婆であることが窺えた。
 なんとなく、アマテラスは男性である想像していたツェリードニヒは小さく落胆する。老婆と分かると、途端に存在が胡散臭くなるのは何故だろう。
 アマテラスは両手を胸の前で合わせてカキン式の最敬礼のお辞儀をしてみせたから、世間知らずな老婆ではなそうだった。
「ご足労感謝する」
 一応の礼節として労りの言葉をかけたものの、尊大な態度が滲み出た自覚はあった。
「この度はご依頼ありがとうございます」
 アマテラスには一国の王子に対する畏怖も、権力者への媚びも、不遜な態度への嫌悪も何一つ見えない。声は低いが、年齢の割には張りがあった。
「さっそくお願いしよう」
 ツェリードニヒは控えていた使用人に促し、自身もまた立ち上がった。「本当にできるのか?」「どうやって直すのだ」などという無駄な問答はしなかった。直すにあたっての条件は代理人を通して再三確認してきたし、もし出来ないのであれば詐欺罪で処するだけだ。
 アマテラスもぐだぐだと無駄な口上を述べることはなかった。一切の質問なしに使用人とツェリードニヒに続く。多目的に使用される中程度の広間に通され、しばらく使用人とツェリードニヒ、アマテラスの三人で待つと専属の執事と護衛に伴われてドゥアズル王妃が姿を現した。事件以来ツェリードニヒは初めて王妃に会ったが、ふさぎ込んでいるという噂の通り沈痛な面持ちである。
 執事の一人がジュラルミン製のケースを机の上に置き蓋を開ける。中から保冷のための冷気が靄のように溢れ、それが収まるとガラス容器に入った肉片が見えた。
「出来ないのであれば、今のうちにおっしゃってください」
 ようやく口を開いた王妃の声は割合落ち着いていたが、やはりその表情は暗い。
「指を治すと騙り、出来ずに結局首を刎ねられた者がおりました。この三日で五名です」
 王妃の悲壮な顔は、自身の怪我よりもその為に殺される者が立て続けに出たことに起因しているようだった。
「ドゥアズル王妃、それならば心配に及びません」
 ツェリードニヒは内心舌打ちしながらも、穏やかな表情を作る。
「もし直らなかった場合のこの者の処分は王妃にお任せ致します。王妃がお望みとあらば、極刑は避けるようホイコーロ王にも私からかけ合いますから」
 もちろん嘘だった。現実問題としてこの老婆が失敗したとて生かしておくことはそう難しくないのだが、そんな生ぬるいことをしているとあの父の耳に入ったら王位から遠ざかりかねない。そして何より、この自分に対して詐称を働く人間を許し生かしておくなど、ツェリードニヒ自身が我慢ならなかった。
「事前に提示された情報の通りなら、そう難しいことではありません。指を御目にいれるのが痛ましいのであれば、目を瞑っていただいたままでも差し支えございません」
 アマテラスが抑揚なく言った。余程自信があるらしい。
「では早速、取り掛かってもらおうか」
 ツェリードニヒが促すが、しかしアマテラスはすぐには動かなかった。
「事前にいただいたお話では、立ち会うのは王妃御本人の他、護衛の者二名だけということになっておりましたが」
 抜け目ない老婆の指摘にツェリードニヒは室内を見回す。ドゥアズル王妃、ツェリードニヒ、ツェリードニヒの使用人が二名、王妃の執事が一名に護衛が二名。
「あー……、お前、とお前とお前。席を外してもらってもよろしいですか」
 ツェリードニヒは自らの使用人と王妃の執事と護衛一人ずつを指し、最後は王妃に向かってお伺いを立てる。
「私は構いませんが」
 固い表情ながらも王妃は提案を受け入れたが、王妃の護衛はとんでもないとばかりに狼狽え止めようとした。
「しかし、こちらからの条件は護衛は二名と……でなければ王妃様の安全を担保できません」
「俺が護衛の代わりになりゃいいだろ」
 護衛の申し出をツェリードニヒは一蹴した。第三王子に睨まれたとあっては、一護衛にそれ以上できることはなかった。護衛は口を噤み、ドゥアズル王妃を窺い見たが、彼女は護衛が誰であろうと気に留めていない様子だった。
「いいな?」
 最後にアマテラスに確認の為に振り返り、ツェリードニヒは一瞬ドキリとした。老婆が真っ直ぐにツェリードニヒを見つめていたからだ。否、観察していたという方が正しいかもしれない。ツェリードニヒが同席するこの意図、その是非を見極めようとしているのか。焦茶の瞳は、窓から差し込むカキンの夏の日差しを受けて不思議な緑色に反射していた。白目は老婆と呼ぶには余りに青白く澄んでいる。それはまるで、穢れを知らぬ無垢な少女の瞳であった。
「ええ」
 アマテラスは頷く。長い睫毛が瞬き瞳の煌めきが遮られる。再び瞳に光が差し込む時には、彼女の視線は既に王妃の指に向いていた。
 使用人と護衛達が退出し、室内には王妃と王妃の護衛一人、ツェリードニヒに、アマテラスの四名だけとなる。ツェリードニヒは先ほどアマテラスの瞳の中に見出した神秘的な何かを掴もうと彼女を見つめ続けていたが、老婆はそれきりあの深淵な瞳をツェリードニヒに向けることはなかった。
 アマテラスがジュラルミンケースからいよいよ保存容器を取り出したのでしがない老婆への気まぐれな興味を押し通すわけにはいかず、ツェリードニヒは無理矢理に視線をアマテラス本人からその行動に移した。
「こちらへ右手を」
 アマテラスが促し、ドゥアズルは言われるがままに机の上に手を差し出す。すぐ脇には護衛が控え、何かあればすぐに老婆を取り押さえられるよう構えていた。王妃に危害が加えられることは最優先で防がねばならないが、二日前には超能力者を名乗る者が指を持ち出し逃げようとした前例もあった。その手の売買ルートでは王族の体の一部は高値で取引されることを、ツェリードニヒは勿論知っている。
「失礼します」
 アマテラスは王妃の手に巻かれた包帯を解いていく。包帯の下の人差し指は中途半端な長さで、先端には保護シールが貼られている。それも剥がすと、千切れた箇所の肉がむき出しになった。王妃は顔を背けていたが、ツェリードニヒはまじまじと切断箇所を眺めた。血の塊が赤黒く瘡蓋状になっていて、その下には真新しい肉が再生しつつある。盛り上がり箇所は白っぽく、その下は新鮮なピンク色だ。
 アマテラスは絹の手袋を装着したままでホルマリン漬けになった王妃の指を掴み取り、王妃の右手の先、元々くっついていたであろう箇所にそっと置いた。防腐溶液が大理石製の机の天板に拡がりツンとする不快な匂いが漂う。
 アマテラスが両手を王妃の右手の上からかざす。護衛の男は前のめりになって老婆を注視した。一体この先どうするのだろう。胡散臭い気持ちで成り行きを見守っていたツェリードニヒだったが、突如として全身の毛が逆立った。依然としてアマテラスが王妃の右手に両手をかざしているだけだが、悪寒にも似た何かしらの圧を確かに感じた。
 何かが、起きる。そう直感し、ツェリードニヒはその何かを見逃すまいと刮目する。しかしどういう訳か、その次の瞬間には王妃の右人差し指の第二関節から先の空白はなくなり、肉片だったはずのものが生きた指としてくっついていた。
 全く訳が分からずに、ツェリードニヒは固まる。護衛の男さえも、アマテラスが王妃の指に直に触れたというのに動けずにいた。
「終わりました」
 その声でようやく王妃自身も指が結合したことに気が付いた。ひゅっと息を吸い、自らの指を凝視する。皆が見たものを信じられずに固まる中で、アマテラスは手袋と同じ絹製の織布を取り出し指に滴る防腐溶液をふき取った。
「動きをご確認ください」
 アマテラスに促されるままに、ドゥアズルは恐る恐る右手を目線の高さまで掲げ、ゆっくりと折り曲げた。伸ばし、握り、開き、反対の手でなぞる時には、小刻みに震えていた。
「……信じられないわ」
 か細い声でどうにか絞り出し、ドゥアズルはようやくアマテラスに視線を戻した。目には涙さえ浮かべていた。
「どうやった」
 王妃が礼を述べるより早く、ツェリードニヒは尋ねた。
「申せません。そう契約時に取り決めたはずです」
 にべもなくアマテラスは答える。確かに、代理人を通してそう約束した。不審なことこの上ないのだが、業界からのアマテラスの評判の高さに提示された条件を飲み、また、問題があれば首を刎ねればいいと思っていたのだ。ツェリードニヒは苦々しく顔をしかめる。まさかこんな訳の分からぬうちに直してしまうなどとはどうして予想できよう。その種を知りたかった。しかし、契約上、知ることは出来ない。
「ありがとうございます。もう諦めておりました……。まだ夢をみているようだわ……どう感謝申し上げれば……」
 ついに王妃の頬に涙が伝った。アマテラスは僅かに目じりを下げた。ここに来て柔らかな笑みを見せる老婆の正体を、ツェリードニヒは暴きたくて仕方がなかった。
「依頼をお受けしただけです。お約束の品を賜れば、それで十分でございます」
「ええ、ええ。もちろんですわ」
「王妃、念の為精密検査を」
 感極まる王妃の使用人達を呼び戻し、ツェリードニヒはアマテラスに向き直る。彼女の顔から王妃に向けた菩薩のような俗世離れした笑みは消えていた。
「……どうぞ、こちらへ」

 広間を出て長い廊下を渡りながら、どうすればアマテラスの素性を暴けるのか、ツェリードニヒは目まぐるしく考える。
 仮にも一国の王子――それも王位に近い第四王子だ――なのだから、適当な理由を付けて拘束することは容易い。だがしかし、それをしてしまうとツェリードニヒが大切にしている裏の人体売買業界での信頼を損なってしまう。
 階を一つ下り、地上三階にあたる部屋にアマテラスを通した。先程の広間よりもずっと狭いが、室内の装飾は華美である。ツェリードニヒが個人的な取引を行う際によく使う部屋だ。部屋の中央には中世期のクカンユ国で用いられていた飴色に染まったヴィンテージの丸机が一脚置かれていて、四本の猫脚が朱色の絨毯に深く沈み込んでいる。机の上には陶器製の小箱が一つ、封筒が一枚と真っ白な手袋が一双置かれ、脇にはツェリードニヒの使用人が控えている。
「約束の品だ」
 目線で合図を送ると、使用人は手袋を装着し、恭しい手つきで小箱を開けた。クッション性の高い中貼がされた箱の中にはネックレスが入っていた。金のスネークチェーンは細く波打つように光を反射している。中央のペンダントトップは石が一つだけのシンプルなものだが、その石がとても大きい。ゴールドの金枠に嵌められた楕円形の石は五百ジェニー硬貨程の大きさがあった。色は薄い乳白色である。一見するとムーンストーンのようにも見えるが多面的なカットが施されているのを見るに、白濁した色のある所謂ホワイトダイヤモンドの類だろう。これが混じり気のない無色透明であったり、或いはブルーやレッドなど鮮やかな発色のカラーダイヤモンドであったのならばこのカラットでその価値は計り知れない。中途半端に濁ったこの宝石は、高く見積もっても四桁までの額はいかぬだろう。
 だからこそ、アマテラスが報酬としてこの宝石を指定したことがツェリードニヒには不思議であった。カキン王家の所持する品の中でも資産価値の高いその他の貴金属を選ばず、報酬の現金を上乗せするのでもなく、何故このネックレスなのか。
 当然ツェリードニヒは当ネックレスの由来を使用人に事前に調べさせている。数年前にカキン北部に領土を頂戴している貴族から滞納された税の代わりに召し上げたものだ。その貴族はまだ景気の良かった時代に出入りの商人から購入したという。その商人の更に入手元まで辿れば、もしかしたらアマテラスの正体に辿り着くかもしれない。
 アマテラスは宝石箱の正面に立ち、乳白色の石のネックレスを見澄ました。日除けのための手袋をはめたままでネックレスに手を伸ばす。
 次の瞬間、摩訶不思議な出来事が起こった。
 乳白色の石から光が溢れ出したのだ。思わず目が眩んで反射的に瞼を閉じたツェリードニヒだが、何が起きているか確かめようとすぐに目を開く。強烈だった光は穏やかになり、石の内部に収束しつつある。収まった光のおかげで石の姿を捉えることが出来た。光り輝く黄金色だ。驚き凝視していると、緩やかに黄金の明度は落ち、気が付けば元の乳白色に戻っていた。

「確かに、頂戴します」
 アマテラスの言葉にツェリードニヒは我に返る。彼女はネックレスを取り上げると早々に自らの首に下げていた。
「おい、なんだ今のは」
 ツェリードニヒの問いにアマテラスが答えることはなかった。
「契約をお忘れではないでしょう」
「勿論だ」
 噛みつくようにツェリードニヒは返す。王妃の指を治す方法について詮索しないこと。出自や目的について詮索しないこと。依頼終了後は速やかに報酬の受け渡しを行うこと。全て了承の上で依頼をしている。
「だが、目と鼻の先でヘンテコなことばかりされて、みすみす見逃すわけにもいかんだろう」
 ツェリードニヒの言い分に畏れも怒りもなく、アマテラスは真正面から傍若無人な王子を見つめた。その瞳は暗い茶色だが、窓から差し込む日を受けて一部緑色に反射している。
 見下されている。
 ツェリードニヒは咄嗟にそう判断した。狡猾で強かな老婆の、その性質とは相反する無垢な少女のような瞳に見咎められていると感じた瞬間、反射的に彼女へと手を伸ばしていた。
 アマテラスはするりとその腕を躱す。部屋のドア側には使用人が立っていた。万が一上手いこと交わして室外に逃げたとて廊下に控えた別の使用人にすぐに捕らえられるだろう。
 そう高をくくっていたツェリードニヒの目の前で、アマテラスは地を蹴る。同時に身に纏った日除けの織物をマントのように翻し体を包むと、なんと彼女は部屋の西側に位置する窓を突き破って体ごと外へ飛び出した。
 使用人は驚きのあまり固まっていた。ツェリードニヒは本日二度目、忌々しい老婆に虚を突かれたことが許せなく、すぐに窓際に駆け寄る。足元に散らばる大小様々なガラスの破片が踏み潰されて硬質な音が鳴った。見事に割れた窓から下を覗き込む。

 そこに、落下しているはずの老婆の体は見当たらなかった。
 音に驚いた鳥が何羽か羽ばたいていっただけで、整然と整えられた庭木はいつもと変わらぬ様子で佇んでいる。時折キラキラと陽の光を反射しているのは散ったガラス片か。
 忽然と姿を消したアマテラスに、先程までの不心得に対する如何ともしがたい怒りは不思議な程に収まっていた。
 代わりに顔を覗かせたのは、摩訶不思議な力を使う老婆に対する好奇心だった。
 宝石の色が変わった後、アマテラスの左の指先が赤黒くなっていたことをツェリードニヒは見逃さなかった。あれは、間違いなく血だ。血が宝石の色を変えたきっかけに違いない。さすれば、アマテラスの力の秘密も血に由来するものか。

 慌ただしく使用人が部屋を出入りし、アマテラスの消え去った庭の捜索に向かう。そのうちの一人を捕まえ、ツェリードニヒは命じた。
「敷地内だけでなく国中を隈なく探せ。それと同時に世界中の名だたる探偵に連絡を取りあの女の素性を洗え」
 肉食獣が獲物を前にしてそうするように自然と、舌なめずりをする。
「面白い力だ――逃がしてなるものか」
 ツェリードニヒの周りに禍々しいオーラが淀んでいることに、この時はまだ彼自身気付いていなかった。




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