神々しい満月を見上げていた


 元の世界に戻るのは、母からの手紙を読んだすぐ翌日に決まった。合澤夫妻曰く、月が満ちているほど箱庭と元の世界との道が通りやすく、手紙を読んだ翌日がまさに満月だったからだ。
「これも持っていきなさい」
 おかみさんがウタに渡したものは一冊のノートだった。
「これって……レシピ本?」
 パラパラとノートを捲ると几帳面な手書きの文字がびっしりと書き込まれている。中には今回ヒソカも食べたチキン南蛮や煮込みうどん、ハヤシライスのレシピもあった。
「わあ、これでいつでもあの味が食べれるね」
「レシピ通りに作っても、おかみさんのように美味しく作れるとは限らないわ」
 ヒソカが無邪気にはしゃぐので、ウタは慌てて訂正した。おかみさんがくすりと笑う。
「くれぐれも気を付けて……あちらの世界に残った元王国民は少なからずともいます。接触は十分注意を払って。それから何よりも健康が第一です。しっかり体を休めること。そして何よりも自分を大切にすること。いいですね」
 いつもは力強いおかみさんの目が、寂しそうな色を乗せていることには当然ウタも気付いていた。
「……ウタを育てて十数年」
 合澤氏がぽそりと呟く。
「この小さな箱庭の中はウタにとって窮屈な思いをすることもあっただろう。最初は国民全ての希望の光である御子を託されたことに、これ以上ない崇高な誇りと、重すぎるほどの責任を感じていた。しかしそれはすぐに別の想いに変わっていった……ただこの子が健やかに育ち、心から笑える未来があればそれでいいと、そう思っていたのだ」
 ウタは深い皺が刻まれた合澤氏の目に、きらりと光るものを確かに見た。
「不敬を承知で言うが……ウタさえ幸せなら、王国の行く末はどうでもいいとさえ、今は思っている」
 ウタは泣くまいと必死にこらえて頷く。
「ウタ」
 震え声のおかみさんがウタの手を取った。
「元の世界に帰ることはあなたが決めたことです。私達はいつだって応援しているわ。あなたが王国を復興しようともしなくとも、箱庭に戻ってこようとも戻らなくとも、あなたが幸せならそれでいいのです。私達はずいぶんなおじいさんおばあさんだけれど、あなたのことはずっと大切な娘だと、そう思っています……私達の元へ来てくれて、本当にありがとう」
 ウタはおかみさんの目を真っ直ぐ見つめ返してきつく唇を結んだ。
「……はい」
 少し俯き、再び顔を上げたウタの目は慈愛と哀愁と、そして何より意志の固い力強さが滲んでいる。
「こちらこそ、今までお世話になりました。約束するわ、必ず、また帰ってくる」
 これを今生の別れになど、絶対にしないとウタは強く心に誓った。
「ヒソカさん……あなたもお元気で。そしてどうか、この子をよろしくお願いします」
 ヒソカは思いがけず声をかけられて一瞬戸惑った顔をした。しかしいつもの何を考えているか分からない表情で頷く。
「うん、僕がそばにいる限りはとりあえず死なせないよ」
 ヒソカの軽い言い方におかみさんもウタも小さく笑う。
「あなたみたいな強くて頭の切れる人がいてくれて心強いわ……そういえば」
 ふと、おかみさんが何かを思いついたかのようにヒソカを見上げた。
「ヒソカさん、あなた出身はどちらなの」
 ヒソカはきょとんとして首を捻る。
「さあ、気付いた時には孤児だったから」
「そう……それじゃあご両親のことも出自も分からないのですね」
 思案顔のおかみさんに「どうして?」とウタは尋ねる。
「頭の回転の速さを見るに……もしかしてカランマ王国民の――つまり、ゲブドラ族の血を少なからずとも引いているんじゃないかしら」
 唐突な台詞にウタとヒソカは顔を見合わせた。
「僕が?」
「相当に頭が切れるのでしょう?」
 おかみさんがウタの方を向いて聞き返すので、ウタは慌てて頭を振る。
「ちょっと待って、確かにヒソカは頭が切れるし、特に戦闘に関しての分析力や回転の速さは天才的だとも言えるけども……それでゲブドラ族の血が流れているだなんて、あまりにも短絡的じゃないかしら。それに、王国の崩壊は私が生まれる直前でしょう?ヒソカは私よりもだいぶ年上で、孤児になった年齢を考えても計算が合わないわ」
「そうとも言えないわ。意外にもゲブドラ族の血を引いている者は少なくなく、各地に散らばっているのよ。それから、最終的に王国が崩壊したのは確かにあなたが生まれる直前ですが、先々代の――つまりあなたの祖母君の時代から――少しずつ王国民を国外へ逃がしていたの。もっといえば、昔から国外へ出ていく者も僅かなりともいたわ。だから、血は薄くなっているかもしれないけどゲブドラの血が流れている可能性は十二分にあるのです」
 おかみさんの説明に、なんとかそれを否定する理由を探している自分がいることにウタは気が付いた。
「もし本当に相手がゲブドラ族の血が流れているか知りたければ方法がないわけではないのですよ」
「……“ゲブドラの花”ね」
 ウタは小さく呟く。
「そうです……知っていたの――そうね、先代女王は手紙の中で説明されたのですね。王家に伝わる“ゲブドラの花”という宝石に血を一滴垂らし、黄金に発光すればゲブドラ族である証になるわ。血が濃ければ濃い程強く、薄い程弱く発光するのです。もし多少なりとも血を引いていれば、女王の能力の一つであるオーラの回収はよりしやすくなります」
 相手の同意次第ですが、と付け加えておかみさんは微笑む。
「もし宝石を入手することができて、必要があれば試してみるのもいいかもしれません」
「そうね……考えておくわ」
 答えながらも、きっと試すことはないだろうなとウタは感じていた。“ゲブドラの花”は今後手に入れるつもりだ。それを使って王国民を見分けることもあるだろう。しかしヒソカの血を試すことはしたくなかった。
「月が一番高い位置に登った。そろそろ」
 合澤氏が皆を促した。いつの間にか満月が林の木立を回り込んで、煌々とウタ達を照らしている。
「ええ、本当にありがとう。必ずまた来るわ。旦那さんもおかみさんも体には気を付けて……どうかお元気で」
 ウタは深々と頭を下げた。
「ごはん、美味しかったよ。ごちそうさまでした。煙草臭くて騒がしい“喫茶店”も楽しかったしね」
 ヒソカは含みのある言い方で合澤氏に向けて笑み、ウタに倣ってぺこ、と頭だけ下げる。
「それじゃあ、行くわよ」
 ウタは祠の前まで進みヒソカの手を取った。じっとその顔を見つめれば琥珀色の瞳が不思議そうにウタを見つめ返す。
(ああ、そうか)
 ウタはジョーカーのカードに集中して、念を練った。
(ヒソカの血を試したくないのは……ヒソカにゲブドラ族の血が流れているのを否定したいのは……きっと)
 二人の周囲は段々と光に包まれていく。夜だというのに辺りは昼間のような明るさになっていた。
(ヒソカが何度か私を救ってくれたことに、“王国民だから”という理由が付くのが嫌なんだ)
 一際強く周囲の光が発光する。ぐいと何か強い力で引っ張られるのを感じ、ウタはヒソカの手を握る力を強くした。
(私を助けてくれたのは、彼が王国民ではなくて、私が女王だからでもなくて、血に導かれたものでもなくて……ただのヒソカとして、助けてくれたって、そう信じたいんだ)
 目も眩むような眩い光の中、二人の身体は消え、祠の前には合澤夫妻のみが残された。箱庭のこの小さな林の中は、再び夜の闇が広がり、満月の明りが照らすのみである。
 ウタが箱庭の外へ出たことは分かり切っているのに、合澤夫妻は自然とウタがそこに飛び立ったかのように神々しい満月を見上げていた。




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