自由な夜に溶けだして


 合澤夫妻と共に家に帰ったはずのヒソカが、夜遅くに現れた。病室の窓をノックするような音に何が当たっているのかとカーテンを捲るとヒソカが窓枠にぶら下がっていて、ウタはうっかり悲鳴を上げるところだった。だけどすぐに笑顔になり、鍵を開けてヒソカを室内に入れてやる。
「一人で来たの?おかみさん達には何て?」
「まさか、止められるだろうから何も言わないで来たよ。ご老人は夜が早いからね」
 妖しく笑みを湛えるヒソカはウタが出会った頃のヒソカのままだ。彼はウタの左腕のシールに目を止めた。
「それ注射?」
「うん。採血とか他にも色々、検査ばっかりで疲れちゃった」
 合澤夫妻とヒソカ達が帰った後の検査を愚痴り、ウタは拗ねた表情を作る。
「でもおかげで異常がないと分かって明日には退院できるって」
「良かったね」
 ヒソカはベッド脇の丸椅子に腰かけて見舞いの品のリンゴを一つ手に取った。どうぞ食べて、とウタが促すと彼はそのままで齧りつく。
「夕飯は?食べてきたんでしょ?」
 ウタの質問にヒソカは思い出したかのように目を細めた。
「ああそうだ。チキン南蛮ていうの――あれすごく美味しかったよ。ウタ作れる?」
 チキン南蛮はおかみさんの得意料理のうちの一つだ。体格の良い成人男性が食卓に加わって、おかみさんもきっと張り切ったのだろう。
「うーん……チキン南蛮は自信ないなあ」
「そう」
 ヒソカは特段がっかりするでもなく頷いて、またリンゴを一齧りした。
「聞いてくれる?」
 しばらくヒソカがリンゴを齧る様を黙って見ていたウタは、リンゴが芯だけ残して綺麗に平らげられたところで口を開く。
「私の生まれのこと。どうしてこっちからあっちの世界に行ったのかを」
 ヒソカは頬杖をついてリラックスした様子でベッドに座るウタを見上げた。
「もちろん、ウタが望むなら」
 ウタはありがとう、と穏やかに微笑んで昼間夫妻から聞いた話をヒソカに話し始める。ヒソカは終始静かに聞いていて、ウタが一国の女王であると知っても特に驚く様子もなく、ウタとしては肩透かしを食らった気分だ。
「女王様、か」
「驚かないの。私にとっては青天の霹靂だったっていうのに」
 ヒソカは首を傾げる。
「うん、ウタって何ていうかフツーじゃないし」
 真面目な顔のヒソカにウタは「失礼ね」と唇を尖らせる。その仕草が普段は大人以上に落ち着いているウタを幼く見せて、ヒソカは笑った。
「むしろ女王様って聞いてしっくりきたよ」
「ふうん……フツーじゃないのはヒソカの方よ」
 ウタもクスリと笑う。
「ところでその“カランマ王国”っていうのはどこにあった国なの?」
 ヒソカの質問にウタは急に悪戯っ子の顔で、笑みを湛える。
「それがね」
 ヒソカにとっては滅びた王国に然程興味はなかったが。ころころと変わるウタの表情はずっと見ていられると思った。
「なんと世界地図の外側にあるのよ」
 突拍子もない言葉にヒソカは目を瞬かせる。
「外側?そういえば前船に乗った時にそんなようなことを言っていたね――海の外のさらに外には陸があるのかい」
「おかみさん達の話だとそうみたい。向こうの世界では“暗黒大陸”と呼ばれていて、かつてその地を訪れた人もいたらしいけど、その全貌はほとんど明らかになっていない、というのが定説でカランマ王国はかつてその暗黒大陸にあったそうよ」
 瞳を輝かせるウタに、いつかこの子はその地を訪れるのだろうな、と予感した。
「正直ね、亡くなった国には何の未練もないの」
「だろうね」
 ヒソカの目から見てもウタは権力や名声に執着するタイプではない。
「けれど世界の外側には本当はもっと広い世界が広がっているなら――そう、この世界が本当はただの“箱庭”で、ヒソカ達の住む本当の世界があったように――その世界の外側にまだ未知の場所があるなら、それは大変興味深いことよね」
 この愛らしい、それでいて化け物みたいな知性を持った少女の心を動かすのは、いつだってその好奇心だ。“知りたい”という欲求に突き動かされて、彼女はどこへでも羽ばたいていくのだろう。その為にはなんだって出来るのが彼女のすごいところで、ヒソカは尊敬さえしていた。
「それで、女王サマ、手掛かりはあるのかい」
「その呼び方やめてよ――えっとね、母が残した手紙があるそうなの」
 ウタの母親ということはつまり先代の女王だ。
「合澤夫妻に事前に会った時に、私が十分分別の付く歳――具体的には高校一年生の冬が来たら本当のことを話して渡して欲しいと言われていたそうよ。明日退院して家に帰ったらもらう予定……どれ程の情報が書かれているかは分からないけれど」
 王国の情報はともかくとして、“箱庭”を扱うための説明は欲しいところだ。一つの惑星を作るというこれだけの能力だ。女王の力がいかに強大と言えどきっと何かからくりがあるはずだ。思案していたヒソカは一つの可能性に気が付く。
「……あれ」
 どうしたの、とウタが顔を覗き込む。
「“箱庭”って……つまりこの世界って惑星だよね。……もしかしてそれってあのオルゴールか――」
 ヒソカの呟きにウタは頷いた。
「たぶん、そう」
 ヒソカは十数年前に赤ん坊のウタが所持していたオルゴールをずっと持っていた。それは上面がガラス張りになっていて中には青い鉱石で出来た丸い地球のようなものがあり、オルゴールを奏でると地球が自転するかの如く少しの傾斜を付けて回転するのだ。
「ヒソカの話だと、赤ん坊の頃の私の持ち物はオルゴールとトランプが一組。きっとオルゴールが箱庭そのもので、トランプが“箱庭”の能力に関する鍵じゃないかと思うの。“箱庭”から向こうの世界に飛んだ時、ジョーカーのカードからは色が抜けたわ。そしてヒソカがずっと持っていてくれた残りのカードのうち、スペードの組が全て消えて代わりに一枚の大きなカードになった」
 ウタはポケットから件のカードを取り出してベッドの上に広げた。一枚の大き目なスペードのマークだけのカードと、残りの三種類の絵柄のカードが十三枚ずつ、そして白黒のジョーカーとまだ色の付いているジョーカーが一枚ずつだ。肌身離さず持っていたらしい。
「……チケットはジョーカーかな」
 呟くヒソカをウタはじっと見つめた。
「やっぱりそう思う?」
「うん、他の能力とカードに関してはよく分からないけれど……少なくとも、ウタが“箱庭”から出てくるのに伴って持っていたジョーカーのカードの色が抜けたならこれが世界を行き来するチケットになっているのだろう。そして恐らく使えるのは――」
「たぶん、あと一回、よね」
 もう一枚のまだ色が付いているジョーカーを二人で眺めて、しばし沈黙が続いた。
「あのね、ヒソカ」
 やがてウタが沈黙を破って揺れる瞳でヒソカを見つめる。
「なんだい」
「あのね……ごめんね」
 いきなり謝るウタにヒソカは虚を衝かれてわずかに目を見開いた。
「ヒソカが私を襲った男を殺したとき――余計なことをしないでなんて言って。勝手なことをしないでって言って。ヒソカはいつも私を守ってくれたのに。それ以外にも酷いことを言ったわ。それにオルゴールのことを知った時も――そもそもヒソカがずっと私のトランプとオルゴールを捨てずに持っていてくれただけでも奇跡的なのに――……。私きっと、ヒソカが私に優しくしてくれて何度も救ってくれたことを、どこかで当たり前に思っていたんだわ。ヒソカが自分の為に、思い通りに動くって驕りがあったんだわ――ごめんなさい」
 ヒソカはびっくりしてウタをまじまじと見つめる。こんなにしおらしく誰かに謝られたことなどなかった。いやそれ以上に、思いがけず知ったウタの心の内に驚いたのだ。
「全然」
 ヒソカは短く答えて、端的過ぎるなと後に言葉を続ける。
「そんな全然気にすることじゃないのに。僕が好きでやっていることだし」
 自分を見上げるウタに触れたら壊してしまいそうだとヒソカは思った。
「それに僕もたいがい気まぐれで、もう少しウタの事情をくみ取れば良かったね――だから、僕の方こそごめん」
 まさかヒソカから正直に謝られるとは思っていなくて、今度はウタの方が驚く番だった。ヒソカはポリポリと頬を掻く。
「ウタに意地悪してしまう時があるのはその方が面白いし頭の良いウタが驚いたり感情を露わにするのが見たいからで、あとはうーん……たぶんジェラシーかな」
「ジェラシー?」
 さらに驚いてウタは眉を顰めた。
「そう、ジェラシー。特にウタにメロメロになっているような誰だっけ――あの――ああそうカストロだ、彼と仲良くして食事に行ったりするのは、それは面白くなかったよ」
 思いも寄らない言葉にウタは口をあんぐりと開けた。まさかこの男にそんな感情があるとは。口を開けてポカンとするウタにヒソカは可笑しそうにクスクスと笑い出す。
「ああたぶん、そうだね――きっと僕はウタのことが好きなんだね」
 今気が付いたかのように話すヒソカの口調は軽く、胡散臭かった。でもウタにはそれが嘘ではないと分かった。ヒソカはあえて黙っていたりすることはあっても、ウタに嘘を付いたことはただの一度もなかったのだと、ウタはこの時思い至った。
「そう、ありがとう……。私もヒソカが好きよ」
 ウタも口元を綻ばせて返した。まるで幼い子供達が言い合うような好きだけれど、二人はそれで満足だった。

 外に出たいというウタの一言でヒソカはウタを抱えて窓から飛び立った。
 刺すように冷たい冷気の中で左側の欠けた月が淡く照っている。ものの数秒で屋上に辿り着くとヒソカはウタをそっと下ろし自身もその横に腰掛けた。ヒソカは合澤氏のドカジャンを羽織り、ウタは薄い病院着なのでベッドから毛布を拝借してきてそれに包まる。辺りは静かで、少し離れた国道を走るトラックのエンジン音が時折聴こえるだけだ。
「寒くない?」
 ヒソカがウタの包まる毛布を首の上の方まで重ね合わせて聞いた。
「平気」
 育ったこの世界で、ヒソカと並んで月を眺めるのは何とも奇妙で不思議な心地がした。その奇妙な違和感は、この“箱庭”の中では間違いなくヒソカが異分子であることに起因しているのかもしれない。
「何だかとっても……自由になったみたい」
 呟くウタをヒソカは不思議そうに見つめる。
「そうだね」
 とりあえず肯定するかのような返事をするヒソカが可笑しかった。
「なんだってできるよ」
 その言葉は、いつかずっと遠い昔に誰かからもらった気がする。月明かりに照らされる琥珀色の瞳を眺めると、本当に何だってできるように思えてくる。力が湧いてくるのだ。
「私が今まで感じていた不自由さはきっと、どこかへ行きたいけど行けないような、予定調和のこの世界に上手く自分だけが当てはまらないような、そんな漠然としたものだったけれど……まあ当たり前よね」
 ウタは鼻まで毛布に埋めて呟く。
「もちろん色んな人が助けて導いてくれたわ。合澤の旦那さんにおかみさん、学校の先生、友達――…ごん太だって」
 ヒソカは口を挟まずにただウタの言葉を静かに聞いていた。
「予定調和の世界で、これから真っ直ぐに成長して大人になって、全てが上手くいくはずだったごん太を、私が死なせてしまったんだわ」
 ウタは自分の声が震えているのに気が付いていた。それでも吐き出さずにはいられなかった。
「私が“箱庭”から出るというこの世界の予定調和にないことをしたから――ごん太の未来は――」
 ウタはとうとう泣き出した。
「本当に大切な友達だったの。全て計算で考える私とは違っていつも真っ直ぐで優しくて私にも手を差し伸べてくれたの――ごん太の未来はこの世界で輝いているはずだったのに――」
 声をあげて泣きじゃくるウタをヒソカはそっと抱き寄せる。熱い腕に抱かれて今まで我慢していた悲しみや悔しさの感情が溶けだしていくかのようだった。子供みたいな泣き声だ、なんて気にすることなくヒソカはただウタを泣かせてくれた。ただ黙って、熱くて大きい腕で優しく力強くウタを包んでくれた。
 じんわり滲む月が、ウタの混沌とした感情と共に自由な夜に溶け出していく。やがてそれは守られた“箱庭”を潤し外に羽ばたいていくための糧となるのだろう。




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