窓の外の様子が気になって仕方ないのはきっと


 真っ白な部屋だと思った。ウタがこの光景を見るのは二度目だった。
 しかしよくよく辺りを見てみると、一度目に見た時ほどの真っ白さはない。記憶とは実に曖昧なものだ。壁は厳密に言うと薄灰色だし、蛍光灯の灯りもやや暖かみのある色だ。シーツは確かに白いけれど、窓からの光を照り返すほどの強さを持っているわけでもない。そもそも天気ははっきりとしない曇り空である。廊下からは見舞客の話声やナース達の忙しく働く雑音が、日常の喧騒が、非現実的な響きを伴って聞こえていた。
 ウタはベッドから上体を起こして幸いにも同室者がいない病室の窓から日常であったはずの街並みを眺めている。時折窓は風にカタカタと揺れて、全体的にグレーがかった景色と道行く人の格好から今が真冬なのだと知る。ヒソカと出会った季節だ。ウタが別の世界に飛んだ季節。そして、ごん太が死んだ季節。

 ウタはもう全て思い出していた。
 ごん太と待ち合わせをしていたあの学校帰り。オルゴールの音色に誘われるように大通りに出てしまったウタ。そんな自分を守ろうと飛び出したごん太。突き飛ばされる衝撃。血塗れになって倒れている幼馴染。叫び、絶望し、ウタは飛んだのだ。
“ここではないどこかへ”
 ヒソカの元へと飛んだウタは都合よく嫌なことは綺麗さっぱり忘れていた。呑気に元の世界へ戻る方法を探して、その実、心の奥底では大切な幼馴染を亡くした恐怖とその原因になってしまった自責の念を必死に押し殺していたのだ。
 そして次に戻ってきたのは――あれはもしかしたら夢の中だけかもしれないが――ウタが流行り病に倒れて病院に運ばれた時だ。あの時ウタはごん太の死を悟ったのだ。そして再び絶望の沼に沈み、助けを求めるようにその記憶を忘れて、向こうの病院で目を覚ましたのだ。
 ここは、確かにウタの元いた世界だ。ウタの育った街だ。現実逃避で、別の世界に飛んだウタは、もしかしてただ夢を見ていただけだったのだろうか。三か月――向こうにいた期間に起きた出来事も、出会った人たちも、ヒソカでさえも、ウタの夢の中だけの本当は存在しないものなのか。
 ゆっくりと瞬きをし、しかしヒソカの琥珀色の瞳をはっきり思い浮かべることが出来た。あの筋肉質な腕も長い指も人をからかうような声音も、まだウタの中にちゃんと残っている。ともすれば、あちらの世界が現実だとも思う。今ウタがいるこの場所こそが非現実で、まだ夢を見ているだけではないか。
 夢の中なのか確かめようとウタは自分の腕を抓ってみようかとも考えたが、それには至らなかった。全身に力が入らなくて、しようと思えばわけないことなのに、ごん太が死んだことだけは間違いなく現実であると理解していたからだ。
 ただただ時計の音だけが白々しい空間で、ウタは窓の外を眺めるともなしに眺めて肉体と乖離した脳で今までのことを考えていた。育ってきた合澤家での思い出。ごん太との思い出。突然見知らぬ土地に飛んで目まぐるしく過ごした日々。出会ったヒソカという奇妙な男。

 病室のドアが開く音にもウタはすぐには振り向かなかった。
「ウタ」
 懐かしい自分を呼ぶ声にそちらを見れば、育ての親である合澤夫妻が立っていた。二人とも随分小さく見えた。
「……あ、」
 ウタは返事をしようとして上手く声が出せない。まだここが現実であると納得できないでいた。
「良かった。無事で、本当に良かった――」
 合澤のおかみさんが駆け寄ってきてきつくウタを抱きしめる。その温もりと懐かしい匂いに、ようやくここが現実でウタがきちんと生きている実感が得られた。
「……ごめんなさい、心配かけて」
 ウタは謝りながらも無表情で、おかみさんに抱き寄せられたまま合澤の旦那さんが瞳を潤ませているのを見ていた。普段寡黙な彼がここまで感情を露わにするのも珍しい。そこまで自分のことを心配してくれていたのだ、とどこか他人事のようにぼんやりと考えていた。
「いいんだ、こうして生きていてくれただけで」
「そうよよく戻ってきてくれたわ」
 口々にウタを労わる夫妻に、思わず目を伏せる。
「でも、ごん太が……私を助けて――私の代わりに――……」
 消え入りそうな声で呟くウタを、おかみさんはことさら強く抱きしめた。
「――知っているのね」
「……はい」
「ごん太君のことは本当に残念だわ。でも決して自分を責めるべきではないのよ」
 おかみさんは優しくウタの頭を撫でつけて優しく言った。ウタはごん太の両親の顔を思い出していた。どんな顔をして彼らに会ったらいいか分からない。
「だけど私がもしもっと気を付けていれば……。一人だけこんなのうのうと生き延びて……」
「そんなことを言うものではありません」
 おかみさんは強い口調で諫める。
「そんなことを口にするのは、ごん太君にとっても失礼なことですよ」
「……ええ」
 再び目を伏せてウタは脱力した。この先どうやって償っていけば良いのか、そればかりを考えていた。
「あれは不慮の事故だったの。あなた達を巻き込んだトラックは居眠り運転をしていて、歩道側に大きくはみ出ていたのよ。いくらあなたが気を付けていたって突っ込んでくる車を避けることなんてできないわ。ウタ、三か月も生き抜いてこうして戻ってきた自分を、もっと誇っていいのです」
 不慮の事故。居眠り運転。避けられない運命。それでもごん太が死んでしまったことに変わりはない。償い。どうすれば。生き抜いて。三か月。ウタはじわじわと目を見開いた。
「……え?」
 余りの驚きにおかみさんの腕を掴み、その顔をまじまじと見つめた。
「今……何て……。三か月って、だって、今は事故の翌々日で、一月の九日でしょう?」
 ウタは確かめるように問いただした。力の入らなかったはずの体には感覚が戻り、熱い血が全身を駆け巡って温めるのを感じた。ようやく表情らしい表情を見せたウタに、夫妻は神妙な顔つきで、しかし少しの安堵の表情で、頷く。
「そう、確かに今日は一月九日だ。こちらの世界では」
 合澤氏の言葉にウタは脳天を殴られたような衝撃を受けた。
 こちらの世界?やっぱり夢じゃなかった。それならどうして合澤夫妻はそのことを知っている?一体いつから?
「……いつから知っているのですか」
 ウタは慎重に言葉を選んだ。
「ウタが我が家に預けられるずっと前からだ。儂はこちらで生まれて育ったが、この人は向こうの生まれだ」
「預けられる?」
 ウタはつい声が大きくなる。
「私は家の裏の祠に置かれていたって――捨て子だと――」
「そう、その通りだ。ある日突然赤ん坊のお前が置かれていたことは間違いない」
「しかしあなたの母上から事前に聞かされていたのです。向こうで自分の身に何かあれば娘を我々に預けると。そしてそれは近い将来訪れると」
 ウタは唖然となりながらも二人の話を頭の中で整理する。二人は知っているのだ。ウタの生まれを。母親のことを。この世界のからくりを。
「本来、あなたの十六の歳に打ち明けるつもりでした。それが今回の事故をきっかけに三か月も向こうに飛んでしまって――」
「ええと、少し待ってください」
 質問は山ほどあるのだが、ウタはとりあえず今の疑問を口にする。
「どうして私が向こうに飛んだと分かったのですか。そしてそれが三か月の期間であると。こちらでは一日しか経っていないのに」
 何か時間の流れに法則性があるのかもしれない。あるいは向こうの様子を知る手立てを夫妻は持っているのかもしれない。しかしウタの見込みとは裏腹に「ああ」と夫妻は今思い出したかのように廊下の方を見た。
「ウタ、あなた向こうの人間をひとり、一緒に連れてきてしまったのよ。あの祠に昨夜倒れていてね、彼から成り行きを聞いたの――“入ってきなさい”」
 おかみさんは突然日本語ではない言語――ハンター世界側の言葉だ――で廊下に向かって呼びかける。ウタは心臓が跳ね上がった。連れてきてしまった人間に、心当たりなど一人しかいなかった。
 控えめに病室のドアが開き、現れたのは、ウタの思い描いていたまさしくその人でこの世界には似つかわしくない男だった。
「……ヒソカ」
 ヒソカはウタが知る限り初めて見るような恰好で入口の近くに所在無さげに立っていた。羽織っている紺色のドカジャンは山仕事をするのに何度か合澤氏が来ていたのを見たことがあったから彼から借りたものだろう。ヒソカは無表情で、初めて会った時と同じように吸い込まれそうな琥珀色の瞳でじっとウタを見つめていた。
 ヒソカの名を呟いたウタはハッとする。自分の頬に一粒温かいものが流れたことに気付いたのだ。ヒソカの姿を見てほっとして無自覚の内に感情が溢れ出していた。
「ウタ」
 そんなウタの様子におかみさんは再びウタを優しく抱きしめる。
「がんばりましたね」
 がんばった?そうか、がんばったのか――。ウタはおかみさんを強く抱きしめ返して深く頷いた。ようやく、ここが現実で、向こうの世界もまた現実で、あの三か月間は確かにあって、そして帰ってきたのだと確かに実感できた。
 おかみさんから離れてヒソカを見上げてウタは微笑む。意外な表情をしてみせたウタにヒソカは少し面食らった顔をしていた。
「ヒソカありがとう。また……助けてくれて」
「助けて?」
 ヒソカは本気で分からないらしく首を捻っていた。
「天空闘技場で銃を持った男達に襲撃された時に、庇ってくれたでしょう。そして窓から落下した私を追いかけてきてくれた……それでたぶん、ヒソカまでこっちに来る事態になってしまったのだろうけど」
 ウタは少し申し訳なさそうな顔をさせる。ヒソカはようやく「ああ」と合点した。しかしすぐに状況を把握して飲み込むウタの頭の良さはやはりさすがだと内心感心していた。
「まあ、ウタを助けて……私からもお礼ヲ言うわ、ありがとうございます」
 おかみさんは合澤氏に日本語で説明した後にヒソカに向き直って向こうの言語で、深々と頭を下げる。その様子を見つめて、ウタは改めて疑問を口にした。
「おかみさんは向こうの言葉を喋れるのね。旦那さんは喋れないようだけど……それは先ほど言っていたようにこちらの世界の生まれだからですか。おかみさんはいつどうやってこっちの世界に?そもそも何故世界が二つあるのでしょう」
 聞きたいことは山ほどあった。おかみさんは頷き説明しようと口を開いたが、合澤氏が制止する。
「ちょっと待てあいつの前で話すのか」
 合澤氏はヒソカを指差した。
「言葉が分からないとはいえ、他人の前で話すのか――我々の秘密を――王国のことを――」
「何の話か分からないけれど、ヒソカはペラペラ誰かに喋るような人じゃないわ」
 ウタは反論したがおかみさんも迷っているようである。その様子を見ていたヒソカは肩をすくめた。
「僕、ちょっと出てるよ」
 ウタとおかみさんはヒソカを振り向く。日本語での会話の内容は分からないはずだが、何となく察したようだ。
「……ごめんねヒソカ」
「それじゃあ一時間後にマタ来てくださいな。ソウだわちょっと待ってこれを」
 おかみさんは鞄から小さながま口のお財布を取り出した。
「時間潰すにもお金が必要でしょうカラ使って。一階には売店とか喫茶店もあるわ」
 メモの切れ端にウタは“売店”と“喫茶”と書いてヒソカに渡す。
「はい。こっちが売店でこっちが喫茶という文字ね。買い物も、数字は同じだから値札を見れば同じ金額渡せば大丈夫よ」
 ヒソカは一瞬戸惑い、そしてくすりと笑った。よく気の回る所は二人全く同じだ。やはり間違いなくこの老婦人はウタの育ての親なのだ。
「じゃ、また後でね。ごゆっくり」
 病室を後にするヒソカの背中を見送るウタは「またあとで」の言葉の有難さを噛みしめていた。数日前まで、もうヒソカとこうして喋ることは出来ないかもしれないと思っていたのに。そしてほんの少し前には、焼け付くような嫉妬の感情が溢れていたというのに。こうしてお互い無事で、言葉を交わして、また会う約束が出来ることがこんなにも有難い。
 病室のドアが閉まり、ウタは真剣な顔つきで合澤夫妻に向き直った。
「一つ一つ説明していきましょう」
 おかみさんも真面目な顔で、淡々と話し始める。
「まず、世界が二つあると先ほどあなたは言いましたが厳密に言うと本当の世界は向こうだけです。こちらの世界が後から創られたものなのですから」
 ウタは然程驚かなかった。十六まで育ったこの世界だけれど、“ここではないどこかへ”という想いはずっと抱いていた。向こうに飛んで向こうで過ごした時間は危険もたくさんあったのに、ウタにとって妙にしっくりくるものだったのだ。
「そして、この世界を創ったのはある王国の女王です。王国の名は“カランマ”。カランマ国は“ゲブドラ”族という単一民族の国で、我々夫妻はその末裔」
「ゲブドラ族の――カランマ王国」
 初めて耳にする言葉をウタは反芻した。
「カランマは女王制の国で、この世界は初代女王が創ったとされます。女王の“箱庭”と呼ばれ、有事の際の避難所になっているの」
「創ったって……、それは念能力によるもの?」
 世界を創るだなんて例え念能力であっても俄かにも信じ難い。人間の能力の範疇を遥かに超えている。しかしおかみさんは肯定した。
「ええその通りです。この“箱庭”は代々女王に引き継がれ、その女王次第で時間を止めることも、進めることもできるわ。女王の能力が高い程時間を進めることが出来るとされていて、初代女王は一代で惑星の誕生から人類の誕生まで時を進めたそうよ。それから第五代、七代女王も非常に能力に秀でた方でそれぞれ数千年から数万年ずつ進められました」
「人類の誕生まで……」
 途方もない話にウタは目をぱちくりさせる。
「それじゃあ、今まで習ってきたこの世界の歴史は全て創られた偽りのものなの?」
「そうとも言えるし違うとも言えるわ」
 おかみさんは難しい顔で首を振った。
「最初に創ったのは、我々の初代女王。それは間違いないことです。そして生物がより高位の生物に進化しそして人類が誕生し繁栄するような気象条件だったり環境を整えたのも事実――けれど人類の誕生以外の生物の進化や人類の歩んできた歴史についてはほとんど手付かずです。だから動植物の生態系は本当の世界とは大きく異なるし、文明や言葉もまた然りです。しかしながら本当の世界同様、人類は絶えず争いを繰り返し、大なり小なり国家を形成し、そして科学力の発展も、本当の世界とさほど差異がないのは興味深いことですね」
 少し微笑んだおかみさんの顔を見つめてウタは考える。
「……そう、そうね。“箱庭”の目的は二つあるのねきっと。一つ目はさっきおかみさんが言っていた有事の際の避難場所。それからもう一つはこの“箱庭”の中で手放しにされた人類がどういった歴史を歩み文明を発展させていくのか――その観察の場でもあるんじゃないかしら」
「その通りだ」
 的確なウタの指摘に旦那さんが驚き頷いた。
「そして私がこの“箱庭”に来たのは赤ん坊の頃――事前に私の母親がその旨を伝えていたのであればきっと理由は前者――何か“有事”が、王国または女王にあったのね」
 合澤夫妻は顔を見合わせる。そしておかみさんはほう、とため息を吐き感嘆の眼差しをウタに向けた。
「さすがだわ……ウタ、あなたの言う通りです」
 改めておかみさんはウタに真正面から向き直る。
「ゲブドラ族の特徴として一番に挙げられるのはその知能の高いところです。一般的なヒトよりも遥かに高い知能指数を持ち優れた文明を築いて来ました。そしてその最たるものが女王なのです。カランマ国が女王制を採るのも、優れた女王の遺伝子を受け継ぐためです。女王の子の中から最も優れた女児が次代の女王となり王国を守ってきました。初代女王の時代から先代――十三代女王の時代まで小さな小競り合いこそあれ侵略されることもなくその国力を誇っていたのです。しかし十三代女王の就任直後に、カランマ国は侵略を受け滅亡の危機を迎えます。女王はその御力の限りを尽くして国民を逃がしました」
 まるでつい昨日の出来事のように合澤夫妻は悔しさを滲ませた。
「侵略とは――誰に?」
 ウタの質問におかみさんは首を振る。
「分かりません。私はその時まだ戦争の話に加わるには些か子供で、詳しい話は聞かされませんでした。覚えているのは国民を守り抜く神々しい女王の御姿だけです。国民は世界各国に散り散りになり、ある者はこの“箱庭”の中へ逃げ込みました。私の家族もそのうちの一つで、私が十二の時にこちらに移住して来たのです。女王はあくまで選ばせてくれました。何が起こるか分からないけれど本当の世界で王国の復興を夢見ながら生きていくか、もう二度と戻れないかもしれないけれど比較的安全な“箱庭”の中で暮らしていくか」
「二度と戻れない――?」
 ウタは怪訝な顔をした。
「“箱庭”は代々女王のものです。女王以外は、本当の世界と“箱庭”の中へ続く道を作ることは出来ません。滅亡しかけたカランマ王国の女王が亡くなれば、元の世界への道は永久に閉ざされるのです」
 ウタは心の中に引っ掛かりを覚える。もしかして、という小さな疑念は次第に膨らんでいった。
「そして多くの国民が“箱庭”を選んだのは、十三代女王が当時ご懐妊されていてそしてその御子が女児だったからです。次代の女王が誕生すれば王国の復興も決して夢物語ではない――そう信じることが出来たからです」
 合澤夫妻のウタを見つめる眼に、尊崇と畏怖の光が宿ったのを、ウタは確かに見た。
「そして私はこの“箱庭”の中で同じカランマ国民であるこの人と出会い結婚しました」
 合澤氏が重々しく頷く。
「儂は生まれも“箱庭”だった――。王国は平時から、“箱庭”の中にごく少数の国民を送っていた。いわば番人のようなものだ。儂の家は古くからその役目を仰せつかっていて、儂は“箱庭”生まれ“箱庭”育ちで本当の世界とやらを知らん。しかし代々誇りを持って“箱庭”の世界を内側から、秘密裏に見守ってきた。しかし半世紀以上前に、ある時一度に多くの国民が移住してきて――王国の崩壊を、知らされた」
 合澤氏は本当に悔しそうに、唸るように言った。
「そして王国民同士の伝手で私たちが知り合いそして夫婦となって五十年後――十三代女王は我々の元を訪ねられました。女王は少しやつれていたけれど五十年前と変わらず若々しく美しく、その腕には御子を抱いておられました。我々に重大な使命を言付けられました。それから数か月後、その御子は一人ぼっちで、我が家の裏の祠に置かれていたのです」
 おかみさんの目には涙が浮かび、ウタは予感が確実なものとなるのを感じる。
「その御子が――つまり先代の十三代女王の一人娘こそが――――ウタ、貴女なのです。そして先代女王の消息が絶たれた今、あなたがカランマ王国の現女王なのです」
 ウタはゆっくりと瞬きをし、長い睫毛がその瞳に影を作った。
 自分は他人とは違うと、確かに感じていた。己の知能が他よりも抜きん出て遥かに高い自覚もあった。何か為すべきことのある特別な存在――とまではさすがに思わないが、自分の能力を余すことなく生かせばなんだって出来ると、そう信じていたのも事実だ。
 しかし、まさか、一国の女王だなんて。それも――もう滅びた国だ。
 合澤夫妻がウタの反応を待ってじっと見つめるものだから、ウタは何とか口を開いた。
「……おかみさんが十二の時にこっちの世界――“箱庭”に来て、その時に女王は身籠っていた。でもそれから五十年後に再び会った彼女は生まれて間もない赤ん坊を抱いていた――つまり、“箱庭”の時間を進めたということですか」
「その通りです」
 おかみさんはウタの飲み込みの早さに感激しているようで声を震わせていた。
「先代女王が昔と変わらぬ姿で現れた時、時を進められたことを私達は悟りました。そして同時に遣る方ない気持ちになりました。国民の多くは王国の復興を信じて“箱庭”の中に避難したのです。しかし女王は“箱庭”の時を進められた。当時を知る国民のほとんどは年老いて、そして天寿を全うした――国の礎となる民がもう僅かしかいないのです」
 おかみさんは鼻をすする。その肩を優しく合澤氏が叩いた。
「年老いた私達の前に現れた女王は告げられました――“国民を守ることに力のほとんどを費やし私の命はそう長くはない”と――そして“私が亡き後にどうか我が子を慈しみ育ててほしい。願わくば、この子が分別の付く歳になるまでは、どうか王国のことも告げずにただ一人の女の子として成長させてあげたほしい”と。そしてその数か月後に、貴女があの祠の前に置かれていたのです。祠は女王の作った道の出口の一つになっていたし、何より女王に抱かれた貴女を見ていたのですぐに分かりました」
 おかみさんは潤んだ瞳でそれでも力強く、それでいて優しくウタを見つめた。何と言った良いか分からずウタが目を瞬いているうちにおかみさんは続ける。
「当時は、そう――確かに、落胆もしました。多くの国民が“箱庭”の中で生涯を終えることで王国の復興が途方もなく遠のいたのですから。けれど、今では女王の判断は正しかったと思えます」
 ウタは眉を下げた。
「正しい……王国が破滅の一途を辿る最中に“箱庭”の時を半世紀進めることが?」
「ええ」
 微笑むおかみさんの顔は厳しさの中にもこの上ない優しさが垣間見えて、それはウタの大好きなおかみさんの表情の一つだった。
「もし“箱庭”の時を進めずに貴女を“箱庭”の中に避難させていたら、多くの国民が貴女を祭り上げる。生まれた時から女王だと敬わられ、多くの民の期待を背負い、今は亡き国の為に心を砕くこととなる。自ずから、あなたの選択肢は女王となり王国の復興を目指す以外なくなってしまう。しかし先代女王が時を進めて当時を知る国民が少なくなったところであなたを避難させた。それによって貴女は貴女の生まれも運命も知らずに育った。十分に思慮深く、聡明に育った貴女に道を選ばせるようにしたのです。それは先代女王の母としての愛であり――そして平穏の地で生きる国民をまた戦禍に巻き込みたくないという女王としての愛でもありました」
 ウタは思わず目を伏せた。正直、記憶にない母親の愛がどうのと言われてもいまいちぴんとこなかった。ウタにとって自分を育ててくれた親という存在は間違いなく合澤夫妻なのだ。
「高齢の子もいない夫婦です――普通に育てられたかと聞かれれば分かりませんが――……」
「そんな」
 ウタは声を張り上げる。
「これ以上ないほどに、たくさんのものを頂きました。私が預けられたのが合澤さんの家で本当に良かったわ――きっと、ええと母も――この旦那さんとおかみさんだから、私を預けようと思ったのよ」
 母という単語に慣れないウタは少しまごつきながらも訴えた。おかみさんは口元を緩め優しく微笑む。
「ありがとう。普通に育てられたかは自信はありませんが、貴女が真っ直ぐに、聡明で気高い女性に成長だれたことだけは、胸を張って言えるわ」
 旦那さんが背を向けて窓の外の様子が気になって仕方ないのはきっと彼も涙ぐんでいるからだろうとウタには分かって、胸の内が熱くなった。





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