怖い、とは、またとても久しぶりな


 眩く熱い光は、いつしか冷たい光になっていた。
 厳密に言えば光が冷たいのではない。頬に当たる感触が冷たいのだ。

 ヒソカは僅かに顔を動かし、自身が冷たい地面の上に横たわっているのに気が付いた。硬い砂利の感覚が頬を通して痛覚を訴えたが、身体は酷く気怠く動かすことがこの上なく億劫である。まるでオーラを使い果たしたかのような疲労具合だった。
 チラチラと白い光が暗い瞼の上を行き来して、どうやら何者かにライトで照らされているらしい。どうにか頑張って瞼をこじ開けて光の方を見ると懐中電灯をこちらに向ける小柄な男のシルエットが確認できた。近くにウタの気配は感じられない。
(ここは、どこだろう。ウタは……?)
 さっきまで自分はウタと二百階の高さから落下していたはずだ。ヒソカはうまく働かない頭で記憶を辿る。ウタを抱き寄せて、最後に見たのは眩い光だ。熱くて目も眩む強烈な光に包まれていたのは、あれはウタの能力か。それならば彼女の能力で飛んできたこの場所は、彼女の元いた世界ということなのだろうか。それならばウタは?彼女は一体どこへ?まさかヒソカだけが飛ばされたのではあるまいな――それならばウタはそのまま落下して――……。
 ヒソカは急に頭が覚醒して、僅かに残る力を総動員して起き上がった。懐中電灯をこちらに向けながら男が近付いてきていた。
「それ、眩しいからどけてくれないか」
 ヒソカは唸った。外気がとても冷たいせいか、吐く息は白い。男は猶もこちらを照らし続けていて、ヒソカは少し苛付いた。
「聞こえなかったかい」
 顔を上げると、すぐ脇まで来た男が立ち止まり、ようやく懐中電灯で照らすのを止めてくれた。高齢の男だった。そして懐中電灯がヒソカを照らすのを止めると辺りは暗闇で、今が夜であるということにようやくヒソカは気が付く。
 ウタと落下していたのは夕方だ。感覚的にはついさっきのはずだが、そんなに長い間気を失っていたのだろうか。
 ヒソカは自身が倒れていたのは木々が生い茂る林の中であるらしいことも確認した。すぐ背後にはヒソカの腰くらいの高さの小さな祠が建てられている。木製で大分古そうではあるもののその木は朽ちることなく綺麗に磨き上げられていて、不思議な光沢を放っているほどだ。
 年老いた男はヒソカに何やら話しかけた。しかしヒソカにそれを聞き取ることは出来なかった。
「……何」
 ヒソカは聞き返したが、やはり聞き取れない。老人のしゃがれた声量が小さいわけではない。ヒソカの全く知らない言語だったのだ。老人もヒソカの言葉が分からないらしく首を捻っていた。
「まいったな」
 ヒソカは独り言ちて項垂れる。疲れで思考能力が奪われていた。なおも見知らぬ言語でヒソカに話しかける老人の声を聞き流していると、もう一人近付いてくる気配がした。億劫な気分で顔を上げると、高齢の今度は女だった。女は男の連れ合いであるらしく、ヒソカについて男に問いただしているみたいだ。もちろんその言葉は分からないが、心配の入り混じった怪訝な顔でヒソカを見ながら男としきりに話している。
「やあ、こんばんは。僕はヒソカ。ウタを知らないかい」
 通じるはずもないのに、ヒソカは半ばやけくそになって喋った。すると男に話しかけていた女の動きが止まり、驚いた顔でヒソカを見ている。知らない言語に驚いたのだろうか。いやどうも、そうではないらしい。
「あ、アナタは、向コウ世界の」
 片言だけれど、女の喋るその言葉は確かにヒソカの知っているものだった。
 ヒソカはハッとなり目を細めて言葉を続ける老婆を注視する。
「ウタの、知リ合イなのネ?」
 ヒソカは老婆から目を離さずに頷いた。
「そう。そうだよ。ウタを知ってるんだね。彼女とさっきまで一緒にいたはずなんだ。ここはどこだい。ウタは今どこに?」
 早口でまくし立てるヒソカを、老婆は手を上げて制した。小柄で年老いているけれど一本芯の通った厳しさが垣間見えるような女だ。
「ゆっくり、お願イ」
どうやら聞き取れなかったらしい老婆に頷き、ヒソカはゆっくりとなるべくはっきりと発音して繰り返す。男の方にはやはり通じないらしく、怪訝な顔付きで成り行きを見守っていた。
 女はヒソカについて男に通訳し、二人で未知の言語で話し合う。時折後ろの祠を指差し、二人とも神妙な顔をしていた。やがてヒソカに再び向き直り、笑みを向けた。皺皺の厳しそうな顔つきだが、確かに優しさを感じられる表情だった。
「コノ人は、アイザワ。私は、ソノ妻。私達が、ウタ、育てた」
 ヒソカは目を見開く。ウタは確か孤児だったと言っていた。そして拾われた老夫婦に育てられたのだと。この人たちがウタの育ての親なのだ。
「ついて来ナサい」
 ヒソカは頷き立ち上がろうとするも上手く力が入らずにふらついてしまった。老夫婦に両脇から支えられながらなんとか歩く。アイザワという老人もその妻も小柄で、大柄なヒソカを支えるのに二人とも息を荒くさせていた。さらにかなりの冷え込みで老夫婦は厚手の衣服を着込んでいたのですぐに汗を浮かべていた。四月だというのに、ウタの住んでいたこの地はとても寒い。
 三人で塊になってのろのろと時間をかけて歩き、老夫婦の住む家に辿り着いた。家に上がると玄関で靴を脱がされ、通されたのは客間のような部屋だった。枯れ草を編み込んだような硬い敷物が床一面に敷き詰められていて、光沢のある黒い木製のローテーブルが中央に置いてある。その周囲には四隅に房の付いた平べったいクッションが数個置かれていて、ヒソカはその上に座らせられた。
 アイザワ氏の妻が熱いお茶を出してくれて、一口飲めば疲れと冷えで強張った体にじんわりと温かさが広がった。
「疲れたデショう」
 老夫婦はヒソカの対面に二人並んで座る。
「正規のルートを通ってキタとハ言エ、飛んデクルのハトテも体力を消耗スルノ」
 ヒソカは老夫婦をまじまじと見つめた。
「あなた達はあっちとこっちを行き来できるの?」
 アイザワ氏の妻は首を振る。
「行き来出来るノハ、女王だけ。ここは女王の”箱庭”。我々国民は、女王が道を開いた時ダケ、通れる」
 まだイントネーションはおかしいものの、彼女はだいぶヒソカと話すことに慣れたらしく当初よりスラスラと喋った。同様に、ヒソカがある程度の速度で話してもしっかり聞き取っていた。
「女王?」
「ええ、私は元々向こうに住んでいたノヨ。この人は、生まれも育ちもコッチ。私は十二の時に、コッチに移住して来たの」
 なるほど、それで妻の方だけヒソカの世界の言葉が通じるのだとヒソカは合点した。彼女が現在いくつかは分からないが、十二歳でこの世界に来てから数十年、元の世界の言葉も覚束なくなるはずだ。
「それで、ウタは」
 ヒソカは身体が温まって急激な眠気に襲われるのを自覚していた。今すぐにでも休みたかったが、ウタの行方を知るまでは休むわけにはいかない。
「ウタは一昨日の帰宅途中に交通事故に遭ってね、入院していたのだけレド」
 彼女は気ぜわしげに手を揉んだ。
「昨日突然姿を消して、少し騒ぎになって……でもマタ病室に戻っていたと連絡があったわ。そして、同時にアナタがあの祠に倒れていた」
 ヒソカは老婆の後ろの壁かけの時計を眺める。時刻は十一時を指していた。やはり夜遅い時間だ。そしてその下に掛けられたカレンダーが目に入り眉を顰める。縦長で、月ごとに捲るタイプのものだ。もちろん書いてある文字は読めないが、しかし、数字という記号はヒソカの世界と共通らしかった。そしてその意味合いも同じであるのならば、今はなんと一月という事だ。この老夫婦が三カ月もの間カレンダーを捲り忘れた可能性を除けば、向こうの世界とこっちの世界の時間はずれているらしい。
 ヒソカは酷く疲れた頭を懸命に働かせた。
「確か……ウタは車に轢かれて気付いたら見知らぬ場所にいたと……」
 あれはそう、一月のことだった。そしてハンター試験の二次試験が終わった後の移動の飛行船内で、彼女が突然現れたのだ。アイザワ氏の妻は夫にヒソカの言葉を通訳しながらも思案顔で頷いた。
「まあ……、ウタは前後の記憶がなくなったのね。彼女は事故に遭って意識を失ったまま入院していたのだけレド、今朝になって病室から姿を消してね。病院側も我々も必死になって捜索していたわ。それで、つい先ほど病院から連絡があって、いつの間にか病室に戻っていたと。意識も戻っているそうヨ」
「ウタが飛んできたのは確か……一月七日の深夜だ。彼女が病室から姿を消してあっちの世界に飛んできたというのなら……それが今朝、いや、実際には昨日の深夜のことであるなら……今日は……一月八日?」
 ヒソカの独り言のような問いかけにアイザワ氏の妻は「ええ」と頷く。
「そんな……僕は確かに三か月ウタと一緒にいたんだ。ウタが向こうで過ごしたのはそんな一日程度の時間じゃない」
 ヒソカが揉みしだくように眉間を指で挟むのを、アイザワ夫妻はしばし無言で見つめていた。ややあって、アイザワ氏の妻が口を開く。
「……それは、きっと、あの子が向こうで過ごしている間こちらの時間が止まっていたんだわ」
「どういうこと?」
 信じがたい言葉に聞き返すも、彼女は首を振る。
「詳しい話は明日にしまショウ。明日私たちは朝一番に病院に行くわ。まずはウタに……あの子に、全てを話さないと」
 あなたも行くでしょう。という彼女の問いかけにもちろんヒソカはすぐに頷いた。
 そこからは彼女は素早くヒソカの布団を拵え、小さいかもしれないけど、と寝間着を用意してくれた。風呂も勧めてくれたがヒソカにそんな体力はこれっぽっちも残ってなく、布団に倒れ込むなり気絶するように眠りに付いた。

 翌早朝、目を覚ますとまだ外は薄暗かった。
 それでもあまり日頃から睡眠をとらないヒソカがこれだけまとまった時間ぐっすり寝ていたのは久しぶりのことだ。おかげで疲れはすっかり取れて、頭もよく冴えている。
 改めて寝ていた部屋を見回すと、昨日の客間と同じ枯草を編んだような床の上に直接寝具が敷かれている。ヒソカが寝ていた痕跡で掛布団はぐちゃぐちゃになっていた。引き戸を開けて廊下に出ると生活音がした。既に夫妻は起きているらしい。ヒソカの寝ていた隣の部屋が昨日の客間で、向かいには二階に上がる階段がある。廊下の端は玄関に繋がり、その反対側突当りにドアがありその向こうから生活音が聞こえた。恐らくリビングルームになっているのだろう。
 ドアを開けるとヒソカの想像通りリビングルームになっていた。テレビには朝のニュース番組が流れ、テーブルにアイザワ氏は腰掛けて新聞を読んでいる。向かって左側はキッチンになっていてアイザワ氏の妻が朝餉の支度をしていた。焼き魚とスープの良い匂いにヒソカは急に食欲を思い出した。
「あら、早いのね。おはよう」
 アイザワ氏の妻が声をかける。彼女は小柄な老婦人ながらその背はピッと伸びて、てきぱきと動いていた。
「アナタ昨日はお風呂に入らずそのまま寝てしまったでショウ。もう少し時間かかるから先にお風呂に入ってらっしゃい」
 彼女は夫に声をかけ、新聞を読んでいたアイザワ氏は立ち上がり部屋から出ていった。
「あの人がさっきコンビニに行って下着を買ってきたのだけれどさすがに洋服は売ってないわ。この時間だと服屋も空いていないし」
 彼女はスウェット姿のヒソカを困ったように見上げた。小柄な老夫婦とウタの三人で暮らすこの家にはヒソカの体格に合う服などないのだろう。
「これそのまま着るから……」
 ヒソカは何と答えたらいいか分からず、所在無さげに呟いた。わざわざ下着を買ってきてくれたことにお礼を言うべきなのか、と思い至ると同時にアイザワ氏がビニールの買い物袋を手にリビングに戻ってきた。彼は何やら怒っているらしく、ヒソカを指差して言葉が通じないというのに強い口調で一言だけヒソカに何かを言った。
 アイザワ氏の妻は夫に何事かを言い返し、二人は少しだけ言い争って、夫人はヒソカに向き直る。
「彼、なんて?」
「気にしなくていいわ」
 アイザワ氏はどかりと椅子に座り再び新聞を読み始め、夫人は台所に戻っていったのでヒソカはそれ以上追及することなく風呂に向かった。

 風呂から上がると朝食の準備が出来ていた。主食はライスらしい。二本の棒状の食器――箸というらしい――をヒソカが使えないことを慮って、手で掴んで食べれるよう塊に握られて黒い海苔が巻かれている。オニギリというらしい。茶色いスープと、鮭の焼き魚、それと緑の青菜の和え物、それから蓮根にひき肉を挟み衣を付けて揚げられたものと、実に種類豊富な朝食だ。
 家庭の色が濃い食卓にヒソカは少し戸惑った。覚えている限りでは、何かしらの家族の中に入って一つの食卓を囲むだなんてヒソカには経験がない。そして異国の料理にも戸惑いこそしたが、そのどれもが美味しかった。そう夫人に伝えると彼女は「口に合って良かったわ」と微笑む。血が繋がっていないそうだが、その表情はどことなくウタに似ている。生活を共にすると自然と表情も似てくるのだろうか。
「このスープは見たことある。ウタがカップのやつを見付けて、喜んで飲んでいたから」
「まあ、あの子ったら……そんなインスタントのものばかり……」
 しかしアイザワ氏の妻はウタの健康状態を案じているらしく難しい顔をしていた。アイザワ氏は基本的には無口で、時折ニュース番組に目を向ける他は黙々と食事を口に運んでいる。
 家族の食卓とは、奇妙なものだ。
 複数人が集まって、当たり前の顔をして同じ飯をつつく。実に奇妙なものだとヒソカは感じた。しかし彼らからしてみればヒソカの存在の方こそ、奇妙なのであろうという自覚ももちろんヒソカにはあった。それでもヒソカには慣れない場で、どことなく落ち着かない気持ちになるのだった。

 ウタが入院しているという病院はアイザワ夫妻の家から車で二十分ほどの距離にあるという。アイザワ氏の運転するグレーの乗用車の後部座席にヒソカは座り、窓の外に流れる市街地の風景を物珍し気に眺めていた。住宅地を抜けて大通り沿いに出るとビルやら飲食店やら服屋やら車屋やらがある。夫妻の家は木造建築だったけれど、あの家が特別古いだけでこの世界の少なくともこの地域の建物のほとんどはコンクリート造りだ。文字は読めないけれど向こうの世界とそう大差ないようにも思える。
 カーステレオから流れるラジオと時折交わされる未知の言語での夫妻の会話をBGMに、ヒソカは窓に頭をもたれかけさせてただただウタの育った街の景色を眺めていた。その服装はこっちに飛ばされてきたままの上下スウェット姿だが、傍らには紺色の所謂ドカジャンと呼ばれるジャンパーが置いてある。唯一あの家の中でもヒソカに合ったサイズのもので、外は寒いし何より上下スウェットでは余りにもだらしなく見えるから着ていけとアイザワ氏に無理やり渡されたものだ。
「私もその意見には賛成ね」
 助けを求めるようにアイザワ氏の妻を見れば、彼女は厳しい顔付きでヒソカの服装を見ていた。ウタのいつでもぴっちりお行儀よくしている生活様式は、間違いなくこの夫妻の元で培われたのだとヒソカは確信した。

 到着したのは大きな総合病院であった。暖房の効いた車から降りると冷気がヒソカの首元を刺して、ぶるりと震える。有難くドカジャンを羽織って夫妻の後に続いてヒソカも駐車場を横切り病院の正面玄関に向かった。
「車に轢かれたって言ってたけど、怪我の程度は?」
 歩きながら尋ねると夫人は厳しい目付きでヒソカを振り返り、折れ曲がったドカジャンの襟元を正す。
「怪我はかすり傷程度でほとんどないわ。実はあの子は車には轢かれていないノ。間一髪の所でウタを突き飛ばして助けてくれた子がイテね」
 夫人は一旦言葉を切る。きつく結んだ唇は心なしか震えていた。
「……ウタを助けたその子は、車に轢かれて亡くなってしまったわ」
「へえ、そうなんだ」
 痛ましい表情の夫人とは対照的に、何の感慨もなくヒソカは答えた。
「その子はウタの幼馴染でウタにも良くしてくれてね……明るくて優しくて……、本当にいい子だったわ」
 鼻をすする夫人の言葉に、ヒソカは思い当たる節があってようやくその”幼馴染”に興味が湧いた。
「その幼馴染って名前は、ええと確か」
 ヒソカはウタとの会話を思い出そうと上空を見上げる。どんよりとした曇り空が高く広がっていた。
「ごん太君とイウ子よ」
 知ってるの?と聞き返す夫人にヒソカは「まあウタからちょっと聞いて」と小さく呟く。
 正面玄関をくぐれば病院特有の清潔で消毒液臭い匂いが胸に広がった。その匂いがそのまま苦みを増してヒソカの体を駆け巡る。ロビーを抜けて東側の病棟まで進みエレベータに乗り込むまでの間ヒソカはずっと視線を感じていた。上背がありなおかつこの辺では見ないような顔立ちのヒソカはやはり目立つようだ。辛気臭い蛍光灯の明りがヒソカの前髪の下に影を作る。
(ウタは、幼馴染が生きているような口ぶりだった)
 ヒソカは天空闘技場でいつかウタと話した会話の内容を反芻していた。
(きっとウタも彼が死んだことを知らないんだ。ウタを助けて死んだことを)
 ウタの愛らしい笑顔が、今は何故かぼんやりとしか思い出せない。
 五階でエレベータを降りて廊下を進み、夫妻は一つの病室の前に入ろうとしたがヒソカは少し離れたところで立ち止まった。
 どうしたの、というような目を向ける夫妻にヒソカは肩をすくめる。
「先に入って」
 夫妻は顔を見合わせた後に、「少ししたら入ってらっしゃい」と頷いた。開けたドアの向こうからは確かにウタの気配がしていたけれど、その表情を見るのが僅かに怖かったのだ。
 怖い、とは、またとても久しぶりな感情であった。




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