眩い光の渦に


 きつく手を握りしめ、ウタは試合の行く末を見守っていた。血の気のない顔は蝋人形のようで、目だけが困惑気味に揺れている。

 ヒソカ対カストロの試合は凄惨たるものだった。何度も血が飛び散り、激しい殴打と念での攻撃の連続だった。しかしスリリングで刺激の強い試合にざわめく観客席の声援や野次もウタには関係のないものだと思える。目の前で繰り広げられるグロテスクな光景にあがる悲鳴でさえ、ウタには余計なものだった。ヒソカの右腕が千切れた時にはさすがに唇をわずかに震わせたが、ウタは声を上げることもなくただひたすらに試合を注視している。飛び散る血潮、肉がぶつかる打撃音、獲物を捕らえるかのようなヒソカの鋭い眼光。それだけが今のウタの世界の全てだった。
 やがてヒソカが自ら左腕の方も差し出した時に、ウタはヒソカの勝利を確信した。最初からウタはヒソカが勝つことを信じて疑わなかったが、ヒソカが左腕を差し出した時の不気味な笑顔を見て間違いなく勝つと、ようやく断定できた。ヒソカは一般的な物差しでは計れないし、有り体に言えば狂っている。しかしせっかくの楽しい試合をやけくそのような捨て鉢の行動を起こすほど浅はかではない。自ら左腕を差し出すというこの奇天烈な行動も、勝利への――さらに言えばカストロを殺すための――シナリオが、はっきりと見えたからこそであろう。
 ウタは前のめりになっていた上体を座席の背もたれに戻し、ため息を吐く。最初に切り落とされたはずのヒソカの右腕が復活し、突然手品を披露し始めたところだった。どうやってヒソカの腕が復活したかは分からない。この後どうやって反撃する算段なのかも検討も付かない。それでもヒソカの楽し気な様子を見れば到底負けるとは思えなかった。
 腕時計に目をやる。ヒソカが最初に右腕を切り落とされてから八分が経過していた。無駄なお喋りをするヒソカに、ウタは苛々し始めていた。
(早くしないと――戻せなくなってしまう)
 ウタは気持ちを落ち着けようと深く呼吸する。オーラの流れが乱れぬよう努めたが、今の精神状態では難しかった。“時間軸”を戻せることに気付いてからというもの、ウタは毎日のほとんどをその能力を伸ばす修行に費やしていた。おかげで、万全な体調であれば三十分程まで時間が戻せるようになった。しかしそれ以上は自信がない。時間を戻せる空間の範囲や距離、それにウタの精神状態にももちろん左右される。
 カストロが舞うようにヒソカのトランプに串刺しにされた時も、ウタは何の感慨もなくその光景を眺めていた。審判がヒソカの勝利を告げると同時に、ウタは立ち上がる。ヒソカの腕が切り落とされてから二十二分が経過していた。

 ヒソカは部屋に直行したようで、ウタもエレベータに乗り込み彼の部屋へと向かう。果たして彼がウタの申し入れを受け入れてくれるだろうか。ウタがヒソカの腕を元に戻すことを余計なお世話だと思ったりしないだろうか。何しろ、数カ月前に勝手にしてと口論して以来、一度も口を聞いていないのだ。それでも、何としてもヒソカの腕を戻さなければ。ヒソカの腕が千切れたままだなんて我慢ならない。嫌われてもいい。ヒソカとの縁がこれきりになってもいい。腕だけは治させてもらうよう、ヒソカに強く頼み込もうとウタは自分を奮い立たせていた。
 ようやくヒソカの部屋のあるフロアに辿り着き、遠目にそのドアが見えたところでウタは立ち止まる。ヒソカの部屋のドアが開いたのだ。そして中から出てきたのは想定していた長身の奇術師ではなく、妙齢の女性だった。
「団長自ら制裁に乗り出すかもよ」
「それは恐い……」
 女性の言葉に部屋の内から答えたのは紛れもなくヒソカの声だ。
「ところでどうだい、今晩食事でも――」
 楽しそうな声音のヒソカを一瞥することもなく、女性は冷たくドアを閉めた。彼女はウタに気付いているようだが、特に気にするでもなく廊下をこちらへ向かって歩いてくる。和風な上衣とショートパンツに身を包み、長い手足がすらりと伸びている。ボリュームのある髪を高い所で括っていて、大きな猫目に控えめだけれど紅色の唇、丸みを帯びた頬と、間違いなく美人の特徴を兼ね備えていた。
 ウタは不躾なまでにその顔を眺め、いたたまれなくなって目を逸らし、しかしまたすぐに目線を戻した。彼女がすぐ目の前まで近付いて、すれ違うかという時にウタは意を決して口を開く。
「あの……、あなたは」
 ウタは自分の声が震えていることに気が付いた。女性は歩みを止めて、わずかに目を細めてウタを見た。
「なんだい」
 決して大きな声量ではないがよく通る声で彼女は聞き返す。
「ヒソカの、」
 そこまで言いかけて、ウタは言い淀んだ。何を聞けばいいのだろう。ヒソカとどういう関係ですか?ヒソカに何の用だったのですか?どちらも違うような気がした。
「ヒソカの……知り合いですか」
 最適な質問が浮かばずに、尻すぼみになって尋ねるウタに女性は眉を顰める。彼女は不可解なものをみるような目付きでウタを見ていた。
「知り合いといえば知り合いだけど……仕事を頼まれただけさ」
 冷たい声音ではあるものの、答えてくれたことにウタは少しだけ安堵する。
「仕事……」
「そう、落とした腕をくっつける仕事」
 何でもないように言い放つ彼女を、ウタは唖然として見つめた。
 腕を――くっつける?そんなことが可能なのか――いや可能なことはウタ自身分かっているはずだ――念能力という特殊な力を使えば――衝撃を受けたのはそうではない――ウタが必死になってやろうとしていたことを、彼女は事も無げに――……。
「それで……それじゃ……ヒソカの腕は……」
 虚ろな表情のウタを、彼女は怪訝な顔で見下ろした。
「治ったよ。悪かったかい」
 なおった。
 ウタは頭の中で反芻する。良かった。ヒソカのよく筋肉の付いた腕は、ごつごつと目立つ逞しい手の節は、長くて美しい指先は、無事なのだ。
「いえ……ありがとうございます……」
 俯き無表情で会釈するウタに、女性は不審の念を隠そうともしなかったが、何も追及することなくその場を後にした。
 女性が去ったその後もウタはすぐには動き出せずに、廊下に一人佇んでいた。ヒソカを訪ねる理由がなくなった。ヒソカと会う口実がなくなった。ヒソカと以前のように気軽に話せるようになる、きっかけを失ってしまったのだ。
 腕時計を見るとヒソカの腕が切り落とされてから三十五分が経過していた。今更会ったところで、もう戻せる時間はウタの能力の限界を超えている。しかし、もし――もしまだ何か出来ることがあるならば――やっぱり、ヒソカと会うべきだ。自分の目で見てその無事を確かめなないと。
 のろのろとした動きでヒソカの部屋の前まで歩き、チャイムを鳴らす。ヒソカが出てくるまでの時間は重篤な病気の宣告を受ける患者の気分だった。ヒソカはウタを見て、どんな顔をするだろう。

 ドアを開けたヒソカはウタの予想に反してひどく上機嫌であった。
 シャワーを浴びたところらしく上裸のヒソカは、先日の口論がまるで嘘のように当たり前の顔をしてウタを招き入れる。その腕は、綺麗にくっついていた。
「うで……」
 蒼白な顔をして、それだけをようやくウタが呟くとヒソカは満面の笑みを湛える。高級な石鹸な匂いが、ヒソカの濡れた髪から香っていた。
「ん?ああ、腕ね。そう。縫物が得意な知り合いがいてね」
 鼻歌交じりに答えるヒソカに、どす黒い感情が沸き立つのをウタははっきりと感じた。
「さっきそこで会ったわ」
 冷たく言い放つウタをヒソカはまるで無垢な少年のような瞳で見つめる。
「そう」
 ヒソカはにっこりと頷いた。縫物が得意、というその言葉で彼女が如何にしてヒソカの腕を治したのか大体の見当は付いた。ウタのそれよりも遥かに合理的な能力だろう。そして同時に、ウタは自分の胸の内を渦巻く感情の正体に気付いてしまった。
 それは、紛れもなく嫉妬の感情だった。
 ヒソカにもヒソカの人生があり構築されてきた人間関係がある。ウタのあずかり知らないところでその歴史を紡ぎ今ここに至るのだ。ヒソカの狭いコミュニティの中でも自分は特別であると僭する思い。ヒソカを治せるのは自分だけだという驕り。それらを嫌という程自覚して、ウタは唇を噛みしめた。自分はヒソカにとってある種特別な存在なのだと、ウタは無意識に思っていたけれど、そうではないと否定する女性の存在がウタの胸の内を激しくかき乱したのだ。
「具合が悪そうだね」
 大丈夫かい、とウタを覗き込む琥珀色の瞳が、さらにウタの心を引っかき回してさざ波を立てた。大丈夫、というようにウタがゆるゆると首を振ると、ヒソカは煩わしげな顔でため息を吐いて、スウェットのトレーナーを被った。
「そんなにカストロが死んだのがショックだったかい」
 ヒソカの言わんとすることが分からなく、ウタは眉を顰めた。
「カストロが……ショック?どうして?」
 トレーナーに腕を通して、今度はヒソカが怪訝な顔をしてみせた。
「どうしても何も食事に行っていただろう」
 困惑した面持ちでヒソカを見上げる。ヒソカは不愉快な心持を隠そうともせずに首を捻った。トレーナーを頭から被ったおかげで濡れた髪が少し跳ねている。
「少なからずとも好意を持っているから……食事に行くんだろう」
 しかしヒソカの言葉は、ウタに更なる衝撃を与えた。つまり、食事に誘った先ほどの女性を、ヒソカは好ましく思っているという事なのだ。
 ウタが何も言えずにただただ自分のつま先を睨みつけていると、ヒソカは本日二回目のため息を吐いて頭を振った。その仕草が、ひどくウタを苛立たせた。
 何か反論をしようとウタが顔を上げると、ふと机の上の置物に目が留まる。
 その置物は掌の上に乗るような木製の小さな箱で、上面はガラス張りになっていた。ウタは吸い寄せられるように机の端に立ってその箱を見つめた。ウタはその箱の引力に、興奮と哀しみを覚える。目が釘付けになって離せない。ウタがただただその箱を見つめる間、ヒソカは何も言わずにウタの様子を窺っていた。
 やがてウタは悟った。こんなにも気になって仕方がない、ある種魔力を持つこの箱は間違いない――私のものだ、と。

「これは、なに」
 箱から目を離さずにウタはゆっくり問うた。
「拾った」
 しばしの沈黙の後にヒソカが短く答える。
「いつ、どこで?」
 間髪入れずにウタが聞き返すと、ヒソカは明後日の方を向いて頭を掻いていた。
「十五、六年前に。サーカス団で。ああうん――そう、君にこの間あげたトランプのカードと一緒に、拾われた赤ん坊の持ち物だったのさ」
 ウタは出来る限りの憎しみを込めて、ヒソカを睨め上げる。ヒソカは不思議そうにウタを見つめ返した。トランプのカードと一緒に赤ん坊――つまりきっと、それはウタのことだ――が持っていたなら、これは間違いなくウタのものだ。
「どうして黙っていたの」
「どうしてって」
 ヒソカは肩をすくめた。
「聞かれてないもの。僕が聞かれたのは”トランプ”に関してだけだ」
 ウタは怒りを納めようと深く息を吸う。いや、怒りではない。厳密に言えば、ウタは悲しかった。所詮ヒソカにとって、ウタの存在などその程度なのだ。明日にもその顔を忘れるかもしれない一風景であり取るに足らないすれ違うだけの道行く人で、成程たしかに、ヒソカにウタを慈しむ義務などない。ヒソカの気分が乗らなければ、ウタが不利益を被ろうが知ったことではないのだ。

「分かった、もういい」と言おうとして。それは敵わなかった。
 強烈な爆裂音とともに、部屋のドアが吹っ飛んだのだ。
 破片が吹きすさぶ中で次いで聞こえてきたのは最近耳に馴染んだ破裂音。銃声だ。
 何者かの襲撃に遭ったのだとウタが思い至るよりも早く、熱い腕がウタを包んだ。ヒソカだ。彼は銃弾よりも速くウタを引き寄せてチェストの裏に転がり込んだ。
 銃声が連続して響く中でウタは必死に頭を働かせる。この襲撃は一体誰を狙ったものなのか。銃声の間隔から恐らく敵は三人以上。ウタを狙ったものかもしれないし、はたまたカストロを殺して試合に勝ったヒソカを狙ったものかもしれない。二人とも命を狙われるに十分過ぎるほどの心当たりがあった。
 ウタの体をすっぽり包むヒソカの筋肉が収縮するのを服越しに感じ、まさに攻撃に転ずるのだというその瞬間、机が被弾し弾ける。ウタは件の小箱が宙を舞うのを見た。窓ガラスが割れ、小箱は放物線を描いてその外に放り出された。
「あ……」
 気が付けばウタはヒソカの腕の中を抜け出し、小箱に向かって身を乗り出していた。何の躊躇いもなく窓枠に足をかけ蹴り上げる。小箱をその手中に収めたウタは、地上七百メートルの上空に身一つで落下していた。勢い余って窓の外――それも二百階の高さだ――に出てしまっていたのだ。咄嗟に空間を切り取る能力を使うことなど出来なかった。ただひたすらに、この箱を逃がしてはならないと、飛びついてしまったのだ。
(どうする)
 ウタは重力加速度により過ぎ去る天空闘技場の外壁を眺めながら考えを巡らせた。どこかに視点を合わせて自分ごとこの空間を移動しなければ――しかし視点を合わせられるところが見付からない――移動したところでこの加速度は維持されるから早いところ決めなければ――……。

「ウタ」
 飄然とした声が降ってきて、ウタは刮目する。再び熱い腕に引き寄せられて、涙が出そうになった。
 ヒソカが、小箱を捕まえようと窓外に飛び出したウタを追って飛び降りたのだ。自分を抱き寄せるヒソカが墜ち行くウタの世界の全てになって、真っ直ぐに自分を捉える琥珀色の瞳に知らず識らず見惚れてしまった。
 この人を、死なせてはいけない――……。
 ウタが強く望むと同時に、落下する二人は眩い光の渦に包まれていった。





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