今の自分に出来ることは


 翌朝早くに、ウタは再びヒソカの元を訪ねた。昨日までの暖かい陽気とは打って変わって、しとしとと雨が降る肌寒い日だ。傘を差してもしっとりと衣類が濡れるような細かい雨もウタは気に留めずに真っ直ぐに天空闘技場へ向かう。昨夜から燻る怒りはウタの脳を火照らせ、しかし中枢部分は酷く冷静で、意識と思考が乖離しているのをそこはかとなく感じた。そもそも、ウタがこれだけ怒りを持続できるのも珍しいことだった。
 長いエレベータを昇り、ヒソカの部屋のチャイムを鳴らすと早朝だというのにヒソカはすぐに出た。とても機嫌が良いようで、それがさらにウタの怒りを助長させる。人を殺しておいてこんな上機嫌なんて――いや、殺したからこそ上機嫌なのか――ヒソカに対するあらゆる詰責の言葉を脳内に巡らせ、ウタは部屋に足を踏み入れた。
「どうして殺したの」
 ヒソカがドアを閉めるなりウタは問う。当の本人は首を傾げていた。
「誰のことだい」
「とぼけないで」
 ウタは静かに跳ねのけた。ウタの顔を見れば朗らかにお喋りをしに来たわけではないことくらい明らかなのだが、ヒソカはのらりくらりとしている。そのペースに飲まれるものか。
「この間、私を尾行していた男。昨夜テーファジエ通りで死体で転がっていたわ。ヒソカでしょう」
 ヒソカはゆっくりと瞬きをし、不思議がるような、はたまた小馬鹿にしているようにも取れる表情でウタを見つめた。
「ああ、そういえばあの辺りに食事に行くと言っていたね。楽しかったかい?」
「今はそんな話をしていないわ」とウタはヒソカを睨みつける。
「怖い顔をしないでよ。ウタにとってもあの男がいなくなるのはいいことだろう?」
 ヒソカが両手を上げてみせてとぼけるものだから、ウタの怒りはますます増すばかりであった。
「全然良くなんかないわ」
 ウタの冷たい声音にもヒソカの感情は揺れないようだ。ウタだって、感情に訴えかける会話は本来好まない。あくまで論理的に、詰問する予定だった。それでも湧き上がる沸々とした感情を抑えられない予感がしていた。
「殺してなんて、頼んでない。余計なことをしないで」
 ピシャリと言い放つウタの言葉に、ヒソカの眉毛がピクリと動く。
「別にウタのために殺したわけじゃない。僕が殺したいから殺しただけだ」
 ヒソカの声もウタに負けず劣らず冷たさを放っていた。
「それでも、この街の人々の中からあの男を殺そうと思い至ったのは私がいたからでしょう。私があの男に襲撃された件がなければヒソカがあの男と知り合う可能性は限りなく零に近いし、目にも留めていなかったはずよ」
 ウタはズバリ正論を言った。ヒソカは沈黙する。
 こんなのではいけない。熱く沸騰しそうな頭の片隅で、酷く冷静なウタが警告していた。前もこれで失敗したじゃないか。正論を言って、言葉で相手を打ち負かして、それで孤立しかけたじゃないか。この世界に来てもまた同じことを繰り返すのか?この世界で初めてウタを救ってくれた恩人に対して。
「僕がいつ誰を殺そうと、いちいちウタに許可をとる必要があるのかい?」
 目を細めるヒソカに、ウタは自分の感情を制御できないのを感じた。
「そういうことを言っているんじゃないわ!必要があればヒソカに何か頼むこともあるし頼まれることもあるだろうけど、それ以外で私に関して勝手なことをしないで。ヒソカをあてにしなくても大体のことは何とか出来る――私が何を求めているかは私にしか分からないものだし、それはヒソカが推し量ることじゃないの!」
 ウタは声を荒げてヒソカを批難した。ヒソカは珍しいウタの様子に、細めていた目を少しばかり開いた。
「ヒソカがいつ、誰を殺そうが、そりゃヒソカの勝手よ!でもそれなら私に関係しないところでしてちょうだい――知らないとこで、思う存分、好きにやったらいいわ!」
 睨み上げる少女をヒソカはじっと見下ろす。
「ああ――うん、そうだね」
 ヒソカはウタから目を離した。その瞳は、ここではないどこかを遠く眺めているようである。ぷつりと、繋がりかけていたヒソカとの絆が切れるのをウタは感じた。
「僕は僕の好きにするよ。今まで通り、ね。ウタも好きにしたらいい。どこぞのお金持ちの集まりに顔を出したりだとか、将来有望な念の使い手と食事に行ったりだとか、よく分からないコネクションを作って、お金を集めて、好きなことをしたらいいさ」
 ヒソカの辛辣な皮肉に、ウタはこれほどまでに、自分のことが分かってもらえていなかったのかと軽くショックを覚える。ウタにとってコネクションを作ることもお金を稼ぐことも、一手段でしかない。この世界で生き抜きそして自分が飛んできてしまった理由を知るための、そのために必要な方法なのだ。
「ええ、好きにするわ」


 ウタは泣くことすらせずに、今まで以上に念の修行に心血を注いだ。銃の練習も一心に取り組んだ。それと同時に、今着手しているビジネスも凄まじいスピードで処理をしていった。詰め込めば詰め込むほど、ヒソカのことを考えなくて済んだからだ。
(ヒソカなんか、いなくたって)
 恐るべき集中力と処理能力の成果は目に見えて上がり、ウタはまた一財産を築いた。空間を切り取る能力も格段に向上していた。
 そして驚くべきことには、ウタはとうとう撃った銃弾を切り取り、移動させることに成功したのだ。元来動体視力には自信があったが、初めて銃弾を移動させた時にはウタの胸は歓喜に満ちていた。タイミングを計るのが非常に難しくまだ成功率は一割といったところだが、これは大きな武器になる。銃弾を撃ったあとに移動させれば、対峙する敵の背後から打ち抜くことも可能なのだ。
 自分の小さな手に包まれた銃身はずしりと重く鈍色に輝いている。毎日練習の後は欠かさず手入れをしていた。一人でも、何とか戦える。その実感が湧いて、ウタはきつく銃身を握りしめる。そしてすぐに、この喜びをヒソカと共有することが叶わないことを思い出して、落ち込んだ。ヒソカをきつく批難したのは自分なのに、ウタはもう後悔し始めていた。
 ヒソカは確かに、常人とはかけ離れた感覚を持つ殺人快楽者であり戦闘狂だ。息をするように人を殺し、より強い者を求めてそれ以外のことには稀に見せる気まぐれ以外では興味を示さない。けれどヒソカはこれまで、何度もウタを助けてくれた。たとえそれが彼の気まぐれであったとして、それは紛れもない事実なのだ。今回のことだって、ヒソカはああ言っていたけれど、少しくらいはウタの為を思って、良かれと思ってのことなのではないか。ウタに危険を及ぼす存在を殺すことが、彼なりのウタへの好意の表れなのではないだろうか。

 ヒソカと会わなくなってから一月半が過ぎた良く晴れたある日、いつかヒソカと行った市場に足を運んだウタはゴンとキルア、それにウイングとズシが連れ立って歩いているのに遭遇した。ゴンとキルアはウイングに念の指南を受けているとウイングから聞いていたが、確か彼らは勝手に試合に出場した罰として念の修行を禁止されていたはずだ。
「あれっ、もしかして――」
 ウタに最初に気が付いたのはゴンだ。彼は先日のギド戦の怪我が痛々しく、右腕にはギブスを付けている。
「やっぱり!ウタさんだ!」
 怪我なんて何てことないかのように、ゴンが駆け寄ってきた。
「こんにちは。こんなところで会うなんて偶然!」
 キラキラした笑顔のゴンに、ウタも肩の力を抜いて笑った。ここのところ、肩に力が入りっぱなしで、知らず知らずのうちに表情も硬くなっていたみたいだ。
「久しぶり。偶然といえば偶然だけれど、そうでもないわ」
 漠然としたウタの言葉にゴンは首を傾げる。
「ウタさんは、君達の言わば姉弟子ですよ」
 きょとんとするゴンに、追いついたウイングが説明した。
「彼女は、ついこの間まで私の元で念を学んでいたのです」
「ウタさんの念はすごいっす!」
 ズシも得意顔で付け加える。
「ええっウタさんも念を?」
 ゴンはウタとウイングの顔を交互に見た。キルアは頭の後ろで腕を組んで、「へえ」と興味深そうに話しを聞いている。
「そうなの。ハンター試験の飛行船の中で少し話したけど――その、元いた場所から何故か飛んできてしまったっていう話――それがどうも、念能力に関係してそうで、ネテロ会長の紹介でウイングさんに指導していただいたの」
 初夏の陽射しがゴンの目をさらに輝かせるのを、ウタはどこか懐かしい気持ちで眺めた。
「天空闘技場に来てからのゴン君達の試合も、見てたのよ。押し出しのゴンに手刀のキルアの快進撃ね」
 悪戯っぽく笑うウタに、ゴンは「あはは」と照れ臭そうに笑う。
「でも二百階に上がってすぐに負けちゃった。念はまだまだ」
「あんたは試合には出ないの?」
 キルアの質問に「まさか」とウタは首を振る。
「私は戦えないもの」
「でもウタさんの念の才能はピカイチですよ。彼女はすでに発まで習得して、私の元を卒業しましたから」
 ウイングに褒められてウタは謙遜するも、ゴンは素直な称賛の眼差しを向けてきた。
「それじゃあ元いた場所に戻る方法も分かったの?」
 ウタは困ったように微笑んで否定する。
「それがなかなか……念能力は順調に修得していってるけれど、まだ手がかりも掴めていないわ」
「そうなんだ……」
 しゅんと俯くゴンは、しかしすぐに顔を上げて真っ直ぐにウタを見た。
「でもきっと、出来ることをしていたら何か手掛かりが掴めるよね」
 純粋で無垢でそれでいて力強いゴンの言葉に、ウタは思いがけず胸を打たれる。
「私に出来ることを……そう、そうね」
 まじまじとゴンを見つめ返し、ウタは頷いた。自然と光を放つゴンの瞳は不思議な引力がある。この少年を見ているとまるで全てが上手くいくような気にさせられる。
 昼中の陽射しに照らされた新緑の鮮やかな煌めきは、さながらゴンのようだった。


 やがて数日もしないうちにヒソカの試合の予定が組まれる。ヒソカ対カストロという両者天空闘技場の目玉選手同士の対戦に、界隈は賑わいを見せていた。ウタが天空闘技場を訪れてから、まともにヒソカの試合を見るのは初めてだ。何しろ前回の試合、ヒソカは会場に終ぞ現れず不戦敗の終わったのだ。
 ウタは今日チェックインしたばかりのホテルの一室で、備え付けの机に座り何をするでもなくじっと壁を見つめていた。ホテルはおよそ一週間おきにチェックアウトしては、別の部屋を借りていた。保安上のためだ。
(ヒソカがカストロと試合を)
 カストロの顔を思い出そうにも、ぼやけてしか思い出せない。端正な顔立ちをした青年だったという情報はウタの中に蓄積されてこそすれ、その顔は霞がかっていた。カストロは、この天空闘技場でも上位を争うかなりの実力者だ。
(どちらが勝とうと、きっと拮抗した試合になるわ)
 ほぼ無意識のうちに、ウタは机の上に二枚のカードを並べていた。小さい方は色の抜けたジョーカーのカード。一回り大きいそれは、スペードのマークだけが描かれたカードだ。
(でもきっと、ヒソカが負けることなんてない)
 カストロの顔はぼんやりとしか思い起こせないのに対し、ヒソカの顔は嫌という程はっきりと瞼の裏に浮かんだ。目前に置いたジョーカーのカードのせいもあるのだろう。ウタはその表面をそっと撫でる。
(だけど勝ったとして、)
 ウタはジョーカーのカードよりも一回り大きいスペードのカードを手に取り、じっとその模様を見つめる。念字で描かれているというそれはよく見るとミミズのようにのたうち、スペードの中を黒く塗りつぶしている。
(きっと怪我は避けられない)
 ウタの脳裏に浮かんだのは先日のゴン対ギド戦であった。ヒソカ程の実力者が、まさかあんな試合をすることは想像できないが――しかし――ヒソカもかなり度を越した戦闘狂だ。一時のスリルや快楽目当てで、一か八かの危険を冒す可能性は十二分にある。
(もしヒソカが取り返しのつかない怪我を追ってしまったら――)
 窓から射す日差しはウタの白い腕にも濃い陰影を作り、カードの端を黒く染めていた。日は傾きかけていたがまだまだ気温は高い。ここのところすっかり日は伸びて、夕方になっても外は活気に満ちていた。
 ふと、ウタはスペードのマークの内側を塗りつぶす念字がぐにゃりと動いたのを見た気がした。錯覚だろうか、と目を凝らすと、やはり、念字がまるで意志を持ったかのように動いている。お互いの文字同士がぶつからないように細くなったり太くなったり形を変えつつ這いずり――そして気付けばまた元の位置へ戻っていた。
 ウタは穴の開くほどカードを見つめ、自分の内側から力が湧いてくるのを感じ取る。そして思い至った。
“私に出来ることを――”
 先日のゴンとの会話が思い出される。そして自分に出来ることが何なのか、ウタは突然閃いたのだ。カードを見つめながら自分の内の力に耳を傾ければ、自ずとすべきことは分かっていた。
 ベッドサイドに置かれたホテルの小さな目覚まし時計。ウタはそれを手に取り、机の上にスペードのカードと並べて置いた。瞬き一つせずにウタは時計を見つめる。時計は16:37を示している。やがて時計の周辺には半透明の薄膜が立方体を作り空間が切り取られた。ここまではいつもと一緒だ。ここから目線を余所に向ければ切り取った空間ごと移動できる。いわば三次元の移動が出来る。
 しかしその座標軸にもう一つの次元がある可能性に、ウタは気付いた。時間という座標軸だ。切り取った空間を、その中の時計を見つめながら頭の中では多次元的な座標が浮かんでいる。
 スペードのカードの念字がぐにゃりと動くのと連動するように、頭の中のグラフは放物線の頂点を起点として線がぐにゃりと歪んだ――眩暈がするような感覚を堪えて時計を見つめ続けると針が反時計回りに動き始め――息をすることさえ忘れていたウタは酸素の供給が少なくなったことで意識が遠のいていく――……。
 失神寸前のところで手を机に付いた。机の脚と床が滑る音が大きく響き、ウタは深く息を吸う。額にはじんわりと汗が滲んでいた。
 肩で息をしながらも時計を見れば、針は16:34を指していた。
 つまり切り取った空間の中だけ、三分時間が戻っていたのだった。

 今の自分に出来ることはなんなのか、考えた時に浮かんだのは他の誰でもなくヒソカの顔だった。




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