怒りで頭が熱を帯び


「合格です」
 驚きと賞賛、そして少しばかりの畏怖の表情を滲ませてウイングは微笑む。ウタが発を行ったグラスの中の水に浮かぶ葉は、立派な根をグラスの底に届かんばかりに生やし、葉の表面からさらに新しい芽が息吹きそこから元の葉と同じ葉が生い茂り、蕾まで付けていた。
 能力を使えるようになってから一晩経ち、ウタの発のレベルは一気に合格レベルまで達していた。

「なるほど……空間を切り取る能力ですか」
 ウタは昨夜ヒソカにやって見せたのと同じように目の前のグラスに浮かぶ枝葉が生い茂った――元は一枚の葉だったものをウタの発によってここまで成長したものだ――その葉を窓の向こう、外側のサッシの上に移動させた。葉から滴る水が、乾いたサッシの上に染みを作る。
「はい。今日ウイングさんに見ていただく前に色々試してみて分かったことがいくつかあります」
 ウタは窓の外に移動した葉をじっと見つめ、次の瞬間には再び目の前のグラスの中に葉を戻した。葉が水中に浮かぶ衝撃で水面が揺れ、少し水が跳ねたが零れるほどではなかった。
「まず、私が焦点を合わせられる範囲なら今お見せしたように、ガラス等、間に物理的な障壁があっても切り取り、移動は可能です。しかしこれが目で直接見れなくなってしまうと不可能になる。たとえば、見えない壁の向こうに移動させることはできません」
「レンズを通して見たものは?眼鏡や――あるいは双眼鏡など」
 ウイングの質問はウタも最初に考えたところであった。
「可能です。レンズを通しても焦点さえ合えば切り取れます。要は光の屈折で私の目に届く現象全てに適用されるようです。逆を言えば、テレビの映像の中のものなど直接見ていないものを切り取ることは出来ません。それから」
 ウタは再び目の前のグラスを見つめる。今度はグラスごと、ウイングの後ろの棚へ移動した。
「切り取れる空間の範囲内であれば移動できる個数に制限はありません。先ほどのように水に浮かぶ葉だけ移動させることもできるし、グラスと水も同時に移動させることもできます。しかし、ある物質の一部だけを切り取ることはできない――この葉で言えば、枝に付いた蕾をひとつだけ、なんてことは出来ません。私なりにどこが境かを考えた結果、どうやらその物質を構成する組成が分子的に結びついているものは切り離せないみたいです」
「なるほど……」
 ウイングは舌を巻く。よくも一日でまあこれだけの分析が出来たものだ。
「切り取れる空間の大きさ、移動できる距離は今はこれくらい、そして回数も日に四回も行えばどうやらオーラをほぼ使いきってしまいます」
「ふむ、しかしそれはオーラの絶対量が増えれば自ずと増やせるでしょう」
 ウタは疲れた顔で、しかしにっこりと笑う。
「それを聞いて安心しました。しばらくは技を繰り返し練習し精度を上げつつ、基礎修行でオーラの絶対量と持続時間を増やそうと思います」
 ウタはウイングの元を卒業した。これからは、ウタ自身の問題だ。ウタが練習と研鑽を重ねていくしかない。ここから先どうやって能力を磨いていくのか、生かすも殺すもウタ次第なのだ。それでもウイングは「何か困ったことがあればいつでも相談してください」と言ってくれた。

 日没頃に帰路に就き、ウタは外灯の灯り始めた街路に出る。大通りの角を曲がったところで、散髪屋の看板の下にもたれかかるように立っていたのはヒソカだった。
「ヒソカ……」
 驚いてウタが声をかけると、ヒソカは顔を上げる。いつもの奇術師スタイルで遠目に見てもヒソカだとすぐに分かった。
「どうしたの?」
「迎えにきたんだよ」
 一寸の思案の後に、ウタはヒソカが昨日のことがあって心配してわざわざ迎えにきてくれたのだと思い至る。
「ありがとう……今日はホテルに泊まるつもりだったのだけれど」
「もう予約したのかい?まだなら、今晩も僕の所においで」
 目を細めて笑うヒソカにウタは小さく頷く。正直なところ、まだ心細いウタにヒソカの申し出は有難かった。見知らぬ男に襲撃されたことは、心配かけまいとウイングにも話していなかった。
 天空闘技場のヒソカの部屋に帰る道すがら、二人は夕食をとるためにちょっとした飲み屋に立ち寄った。気軽につまめる肴と豊富なアルコールと女主人の快活な人柄が自慢の店だ。羊のひき肉を使ったハンバーグのようなもの、それからムール貝(に見えるがこの世界特有の全く別の貝かもしれない)のバターソテーがテーブルに届き、野菜も食べたいからとウタがサラダを頼んだところでヒソカはライオンフルーツ大の包みを卓上に置いた。ゴトリ、とそれなりの重量のある音がした。
 喧騒の店内をさりげなく見回し、ウタは「なに?」とヒソカに尋ねる。
「プレゼントだよ」
 苦みの強いペールエールを口に含み、ヒソカは答えた。恐る恐るウタが包みを開くと、隙間から鈍い銀色のボディが見えた。銃だ。映画の中でしか見たことがない。この世界に来てからだって、本物を見るのは初めてだった。訝し気にヒソカを見上げるウタに対して、当の本人はどこ吹く風でハンバーグを頬張っている。
「護身用だよ」
 付け合わせのピクルスは器用に避けてハンバーグを半分ほど食べた後にヒソカは再びペールエールを流し込んだ。
「護身用」
 ヒソカの味覚はかなり子供よりだと皿に残されたピクルスを眺めながら、ウタは反芻する。
「そ、持っていることに越したことはないだろう」
 続いてムール貝に手を付けながらヒソカは肩をすくめた。
 全く、なんて物騒なものを、とウタが眉を顰めたのも僅かな間のことで、サラダが運ばれてくる頃には成程一理ある、と納得していた。ウタは念での基本的な攻撃こそできるものの、攻撃に特化した能力者ではない。念にこだわらずとも、既存の武器に頼る方が余程手っ取り早いのだ。
 ヒソカはトマト味のパスタとクリームリゾットも追加で頼み、つられて食べたウタもすっかり満腹になって、二人は一緒に天空闘技場の部屋へと帰った。
 天空闘技場の二百階以上専用の射撃練習場で何発か銃を試し打ちしたが、反動が強すぎてウタには上手く扱うことはできなかった。ヒソカからしたら片手で軽々扱えるようなハンドガンなのだろうが、一般的な女子ですぐに38口径の弾道の威力を支えられる者はそうはいないだろう。ヒソカはもう少し小さい扱いやすいものにすればよかったねと残念がったが、鉛色の銃身と、オートマチックのものより充填時間はかかるものの弾薬の融通が利きそして何より機械的にシリンダが動く見た目の美しさをウタは気に入った。

 天空闘技場へ着くと、ちょうどあと十分で今日の目玉試合が始まる所だった。ゴン対ギド戦だ。
「見ていくだろう」
 驚きつつも、ヒソカの提案を断る理由はない。
「昨日の今日でもう試合なんて」
 二百階に上がってすぐにゴンが対戦する相手のギドについてウタは脳内に記憶されている情報を集めた。彼も”洗礼”を受けた一人で、一本足の念の使い手だ。その能力は無数の独楽を操るというもので決定打に欠けるが、果たして昨日念を修得したばかりのゴンがどこまで食らいつけるか――……。
 予想通り、試合はゴンの負けで終わった。しかしその内容を見れ誰もば単なるゴンの敗北とは言えないだろう。ゴンは何と、絶をした状態で小一時間も独楽を避け続けたのだ。独楽を出したギド本人も呆気に取られて行く末を見守るばかりであった。結果として死角から来た独楽がきっかけとなりゴンは大怪我を追ったのだが、観客の声援は勝者のギドではなく鮮やかな体捌きと根性を見せたゴンに送られた。
 正直なところウタは気が気ではなかった。あんな危険な戦い方、命がいくつあったって足りたものではない。ゴンが無数の独楽に襲われた時、悲鳴を上げそうになったが、致命傷には至らないことを知ってホッと胸を撫でおろしたのだった。


 翌朝、二人はウタの提案でモーニングを食べに出る。ウタの借りている部屋のすぐ近くの喫茶店だ。天空闘技場からは少し歩くけれど美味しいコーヒーとホットサンド、長居出来る雰囲気をウタは好んでいた。
「……いたわ」
 熱いコーヒーを啜りながらウタは呟く。窓の外、こちらを窺える位置のベンチに腰かける男は紛れもなく先日ウタを襲撃した男であった。新聞を読む体でこちらの動向を探っている。ヒソカはそちらをちらりとも見ないで首を傾げた。
「殺そうか」
「やめて」
 昨日も言ったけど、とウタは頭を抱える。
「自分で何とかできるし、するわ」
 しかし男がウタの住まいの近くで張っているとなると、いよいよもって家に帰ることは困難に思えた。
 そこから三日はヒソカの部屋にお世話になり――ヒソカはいつだってベッドをウタに譲ってくれた――その三日の間にウタは男の素性を調べ上げ、ヒソカからもらった銃は何とか後ろに倒れずに撃てるところまで扱えるようになった。結論から言うと、ウタと男に接点はなかった。しかし男の雇用主とその繋がりから、どうも天空闘技場の賭博に関係しているらしいことが分かった。そしてウタは、男が雇用主からヒソカが近日戦う対戦相手に負けるように小細工をするよう仰せつかり、そのための一手段としてウタに接触を試みたことに気が付いた。つまりは、ヒソカと親しくしているウタを使っての脅し行為をしようとしていたのだ。これはヒソカに言わない方がいいな、とウタが判断したのは言うまでもない。
 それからウタはいつまでもヒソカの世話になるわけにもいかず、天空闘技場からほど近いホテルでしばらく過ごすこととした。黙々と修行に励む月日の間、ウタはビジネスにも力を入れて資本を増やし、その傍らで天空闘技場の試合を観戦し念の研究をし、時折ヒソカと会っては近況報告をし合い、ある種穏やかな日々を送った。

 カストロから食事に誘われたのは、市場の花壇に色とりどりのチューリップが咲き誇るようになった頃だった。
 ほとんど挨拶しかしたことのないカストロと戦闘マニアに集いで顔を合わせたウタは、彼が自分を見つめる瞳に含みのあるものを感じ取る。案の上彼はウタに近付いてきて、食事の約束を取り付けた。彼の意図するところがヒソカ絡みのものなのか、単なるウタに向けられた好意によるものなのかは図りかねていたので、ウタは食事の誘いを注意深く受けることとした。
 結果、彼から女性として好意を向けられているという結論に至った。
 小洒落た店で流行りの料理をつつきながらウタは嬉しそうに将来プランを語る男をひどく冷静に観察していた。
「私は次のバトルオリンピアで、必ず優勝するよ」
 少し赤くなった顔で、彼は雄弁に語る。ウタは「まあ」と相槌を打ちながらも、元は純朴な男なのだろうなと考えていた。彼の戦闘能力の高さと才能に目を付けて出資するパトロンがいるのだろう。都会人らしい言動を心がけているものの、カストロの言葉の端々に朴訥で馬鹿正直に真面目な青年の本質が見え隠れしていた。
「男として生まれたからには最強を目指す。天空闘技場の一参加者で終わるつもりもない。しかし――」
 平素より饒舌なカストロの話を熱心に聞く姿勢を見せながらも、ウタは心の内ではこの男の利用価値を推し量っていた。あまり使える男ではなさそうだ、と計算してしまった自分の狡猾さを自覚していた。
「しかし、まずは奴を――ヒソカを倒さないことには始まらない。奴を倒して、ようやく次のステップに進めるのだ」
 カストロが二百階に上がってすぐに、ヒソカに戦闘不能直前までに追いやられて大敗していたのをもちろんウタも心得ている。ウタは良心的な笑顔で、頷いた。
「時に――君は彼と親しいのかい?」
 躊躇いがちにカストロが尋ね、ウタは初心な表情でカストロを見つめ返す。
「彼に命を助けられて、そこからのご縁ですの」
「奴が……?しかし、うむ……そうか」
 ウタの澄んだ瞳にカストロはまごつき、ワインを流し込む。酔いが回って少しとろんとした目で、彼は頭を振った。
「いや、いや、しかし彼には気を付けた方がいい。腕は立つけれど……倫理観に欠如していることもまた、確かなのだ」
「心得ていますわ」
 心配ありがとう、と微笑むウタをカストロが熱っぽい視線で見つめていた。
 彼に二杯分の水を勧め、二人は店を出る。生温い風が頬を撫でた。
「送っていこう」
 赤い顔をして申し出るカストロは純朴で、少しの驕りがあり、だからこそ扱いやすく、ウタからすれば微笑ましかった。
「ありがとう。でもすぐそこなので大丈夫です……あら、何かしら」
 高級飲食店街の立ち並ぶ通りの片隅に、人だかりができていた。ウタとカストロは顔を見合わせ、人だかりに近付く。
「何があったのです」
 カストロがいかにもなさからしい顔で集まる人に尋ねた。
「男が死んでいたんだ――警察が検分しているとこだ」
 濃い鉄錆のような匂いに、ウタはこの大陸に向かう船内での殺人事件のことを思い出していた。狭い船内で窃盗を働き、ヒソカに殺された男のことだ。あの時と同じ、濃密な死の匂いがした。人だかりの向こうの死体を覗き込もうとつま先立ちをし、ちらりと横たわるその姿を目に写し、ウタに衝撃が走る。
「見ない方がいいよ。もう行こう」
 ウタを気遣って話すカストロの声も、聞き流す程にウタは唖然としていた。死体の男の顔に、見覚えがあったのだ。
「大丈夫かい――?」
「ごめんなさい、私もう帰るわ」
 カストロを一瞥もせずにウタは走り出していた。ただならぬウタの様子にカストロが茫然としている気配を感じたが、構っていられなかった。
 ウタはわき目も振らずに天空闘技場の二百階へ行き、ヒソカの部屋のチャイムを鳴らす。三度鳴らしたが留守らしく出てこなかった。渋々ホテルへと帰ったが、ヒソカに会えなかったことで猶更ウタの中の怒りは膨らんだ。ベッドに入ってからも怒りで頭が熱を帯び、脈は激しく波打ち、なかなか寝付けない。

 死んでいた男はまさしく先日ウタを襲ったあの男で、そして男の身体には無数の切り刻まれた痕があったのだ。それは船内でヒソカに殺された男と、全く同じ傷跡だった。
 ヒソカが、ウタを襲ったあの男を殺したのだ。




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