きっとこれから如何様にも


 嫌な感じがしたのは、もうあと十分程で家に着こうかという時であった。
 土曜の夜、日中の修行の後に夕方からちょっとしたパーティーに参加して、すっかり遅くなってしまった。この時間になっても今夜は吹く風は生温く、いよいよ本格的に春が訪れようとしている。
 誰かが、ずっと跡をつけてきている気がした。僅かな不安は徐々に濃さを増し、よく朝食を食べる馴染の喫茶店の角を曲がったところで確実なものとなる。明日は日曜だから定休日だな、などと頭の片隅でおよそ関係のないことを考えながらもウタは家とは反対方向に走り出した。後ろから隠そうともしない足音が追いかけてきた。これは、まずいやつだ。
 必死に走る合間になんとか後ろを振り返り自分を追い回す男の顔を確認したが、とんと見覚えがない。一体誰だろう。近頃要人とのコネクションを持つようになったウタに良くない感情を向ける者か。あるいはウタをどこぞの金持ちの令嬢と思い込んでの誘拐犯か。それともただの変質者か。それとも――もしかして――特務課の捜査の手がここまで伸びたか。あいにくここは住宅街とオフィス街の狭間で、夜深しこの時間に道行く人は全く見えなかった。
 近場の人気のある場所とそこまで逃げる手段と時間を計算している間に、男は一瞬で距離を詰めてきていた。男は腕を伸ばしてウタの体を掴もうとする。その動きは体術の心得がある者のそれだった。
(念での攻撃なら――!)
 ウタは男の身のこなしに動揺したが、相手に重傷を負わせる覚悟で念を右手に込める。なりふり構っていられずに右手で男を払いのけた。男は数メートル後ろに飛んだが、倒れることはなく、大した痛手も見えなかった。
(――念能力者だ)
 ウタは青ざめた。
 体術は多少の心得があるので護身程度には使える。自分より遥かに体格のある男相手でも、最悪念を使えばどうにかなる。しかし相手が念能力者となると話は別だ。オーラの流れを見るにウイング程の使い手ではないが、それでもウタより格上なことは確実だった。
 男が一足飛びで向かってくる。持ち前の動体視力でスローモーションのようにその動きを凝視しながら、ありとあらゆる対処法を一瞬のうちに考え巡らせた。だめだ。助かる術がない。目の前まで距離を詰めた男の拳を再び払い除ける――男のオーラの量が多く力負けしてしまう――ウタは後ろに倒れた――ニヤリと笑う男――……。
 ウタは男の背後に焦点を合わせた。二階建てのコンクリート造りの建物。その屋上に照準を合わせると、正六面体の薄膜が現れる。

 次の瞬間、周りの景色が一変した。いまだ依然として夜。吹く風の温度も匂いも変わらない。しかし視線は高く、男は消えた。
 絶。ウタは訳も分からぬままに咄嗟に気配を消した。
 そしてその選択は正解だった。
 ウタの立っているところは先ほど見えていたコンクリート造りの建物の屋上で、眼下に男が見える。男はウタが突如として消えたことに狼狽えていた。きょろきょろと周囲を見回す男に見つからないようウタは背を低くし息を潜めた。心臓が早鐘のように打っている。
 男が諦めてその場を立ち去った後もしばらく動けずに、ウタはその場にずっと石のように蹲っていた。
 全くもって予想しなかった時に、思いがけずウタは能力を使った――これがきっかけというものなのか――身の危険を感じて、ようやくウタの能力が開花したのだ。待ちに待った能力の開花と、得体の知れない男に襲われた恐怖が一度にやってきて、気持ちを落ち着けようと深く息を吸う。濃密な春の夜の匂いがした。
 ずっとここに留まっているわけにもいかず、ウタは絶をしたままでやがてそっと建物から降りた。
 到底家に帰る気にはなれず、足を街の方へ向けた。細心の注意を周囲に払い、一駅分の距離を足早に辿り着いたのは天空闘技場だった。ウイングの所へ行こうかとも思ったが迷惑をかけたくない気持ちの方が強かった。天空闘技場も深夜ともなると人気は少なく、必要最低限の守衛しかおらず受付にも人はいない。VIP専用カードでエントランスの改札を抜け、エレベーターホールに入る。
 もし襲ってきたあの男が戦闘マニアの集い関係であるならば、天空闘技場も決して安全とは言えない。人気のない建物内で襲われたら今度こそ逃げ場がない。落ち着かない気持ちでエレベーターが降りてくるのを待ち、ようやっと一階に到着したエレベーター内に人影があったのでウタは腰を抜かしそうになった。それが何度か見かけたことのある天空闘技場の受付の女だったので心の底からホッとして胸を撫でおろす。彼女は夜勤であったらしく、ウタに会釈しエレベーターを降りていった。
 エレベーターが二百階まで地上七百メートル以上の距離を高速で昇っていく間、ここに来てよかったのかとウタは何度も自問する。彼に助けを求めてどうする?彼にウタを助ける義理はない。そもそも不在かもしれない。しかしウタには、彼以外頼る相手などいなかった。
 二百階に到着し、ウタは迷うことなく廊下を進む。目的の部屋の前に立ち、躊躇いがちにチャイムを鳴らすとしかし、すぐにドアが開いた。ヒソカが少し驚いた顔で、しかし上機嫌そうな様子で立っていた。
「こんばんは。一体こんな時間にどうしたんだい」
 ウタは遠慮がちにヒソカを見上げる。
「……こんばんは。遅くに申し訳ないのだけれどちょっとお邪魔してもいいかしら」
 ヒソカは何を考えているか分からないあの笑みを湛えて首を傾げた。
「どうぞ」
「ありがとう」
 足を踏み入れた二百階クラスの部屋は高級ホテルの一室かと思う程の豪華さだった。リビングルームには座り心地の良さそうなソファ、美しい木目の机、そして大きな液晶テレビ。もう一部屋寝室が奥に見えて、いわゆるスイートルームというやつだ。しかしそれなりにこの部屋に滞在しているであろうヒソカの、生活感というものが全く見えなかった。もしかしたら毎日ルームクリーニングが入るのかもしれない。
「ずいぶん上機嫌ね」
 鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気のヒソカをウタは怪訝な顔で見上げた。ヒソカはソファに座るようウタに勧め、自身は革張りのスツールに腰掛ける。
「ゴンとキルアが二百階まで来たよ」
 ヒソカの上機嫌の理由にウタは納得した。
「まあ随分早い……」
「念を使えないと洗礼を受けるから、そんなもったいないことはしたくなくて追い返したんだ。でも、彼らすぐに念を覚えて戻ってきた」
 二百階クラスの念による洗礼はウタも聞き及んでいるところだった。ウタが思うよりずっと、ヒソカはあの二人に執着しているみたいだ。
「たった数時間で……さすがね」
 ゴンを気にかけているウタも、今更ながらに安堵した。洗礼を受けなくて本当に良かった。彼らはこれからもどんどん成長し強くなるだろう。
「ね。見るたびにどんどん美味しく実っていく……」
 ヒソカがぺろりと舌なめずりをするのを見て、ウタは何だか肩の力が抜けて含み笑いする。
「なんだい」
「ううん、ヒソカはヒソカだなあって思って」
 笑うと、先程まで感じていた見知らぬ男に襲われた恐怖がするりと溶けていった。しっかり対策すれば大した問題ではない。きっとこれから同じような事にいくつも遭遇するのだ。あの程度のことに怯えていてはいけない。
「ウタだってゴンのこと気に入っているじゃないか」
 ウタの言葉の意味をどう受け取ったのか、ヒソカが反論する。
「あはは、そうね。彼は人を引き付けるパワーがあるわ。それに少し……幼馴染に似ているの」
 ごん太のことを思い出し、ウタは目を細めた。
「幼馴染?元いた場所の?」
 ウタは静かに頷く。
「そう。素直で、どこまでも真っ直ぐで、明るくて、皆に好かれるような子。私の味方でいてくれてね」
 穏やかに微笑むウタを、ヒソカは風変わりなものを見るようななんとも妙な真顔で見ていた。
「恋人なのかい」
「違うわ」
 ウタはすぐに否定する。そしてあの時ごん太が言おうとしていたことが何だったのか、思案した。本当に告白だったのだろうか。やっぱりごん太のことは大好きで大切だけど、どうしても友達以上には思えない。無事に元の世界に戻れたら――もし本当にごん太に気持ちを告げられたら――きっぱりと断ろう。そしてごん太さえ許してくれるのなら、良い友達のままでいたい。
 自分の気持ちをしっかり見つめられただけでも、この世界に飛んできた意味があるかもしれないと、ウタにしては非合理的なことを考えた。
「ふうん」
 さして興味なさそうに、ヒソカは曖昧に返事する。ヒソカの子供っぽい飽き性にウタは内心苦笑した。
「それで、今日はどうして訪ねてきたの」
 そもそもの本題に立ち返り、ヒソカは尋ねる。ウタは勝気な笑みを浮かべた。
「能力、使えたわ」
 ヒソカは再び興味を惹かれたみたいで、目を僅かに見開く。
「本当かい?どうやって?どんな能力なの?」
 ウタはヒソカに今さっきあったことを話して聞かせた。最初は嬉しそうに聞いていたヒソカも、ウタが男に襲われた件で顔を曇らせ、最後には冷酷な殺人鬼の表情を浮かべていた。
「……ずいぶんと危ない目に遭っているじゃないか。嬉々として語る出来事ではないよ」
 ヒソカにもっともらしいことを言われて、ウタはたじろぐ。そんな常識的な感想を言われるとは思わなかったのだ。
「うん……そうね……無防備だったって、反省したわ。これからは気を付ける。きちんと対策するわ」
 しおらしくなるウタから視線を外しヒソカは天井を見遣る。
「殺そうか」
「やめて」
 ウタは即座に拒否した。「そう」とつまらなそうに返事するヒソカをウタは注視する。ヒソカには前科がある。この大陸に来る道中、狭い船内で犯罪者とは言え人一人を殺しているのだ。あの時もウタにかかる迷惑なんてヒソカはどこ吹く風だった。
「確かに、まあ……正直言うととっても怖かった」
 ウタは男と対峙した時の自分に向けられた悪意あるオーラに直に触れた感覚を思い出し、ぶるりと震えた。
「でもね、そのおかげと言ったらなんだけど、能力を使うきっかけにもなったわけだし」
 ウタの前向きな様子にヒソカも表情を少しだけ柔らかくさせた。
「良かったね」
 ウタは誇らし気に頷く。
「コツを掴めば簡単て、本当だったのね」
 ウタは机の上に一枚の硬貨を置いた。さっき能力を開花させたばかりで試すのはもちろん今が初めてだが、上手くいく確信がウタにはあった。硬貨をじっと見つめるウタを、ヒソカも静かに観察していた。
 やがて硬貨の周りに黄金色の一筋の線が薄く入り、やがてそれは三つに分かれ、頂点を作り、そこを起点に十センチ四方程の薄膜状の立方体となった。ウタはパッと硬貨から目を離し視線を上げる。次の瞬間、硬貨はテレビの前の床に硬い音を立てて落下していた。
「へえ」
 ヒソカは興味深そうに硬貨とウタとを交互に眺めた。
「瞬間移動に見えるけど……空間を切り取る能力?」
 ずばりヒソカは言い当てる。ウタは一目で能力の本質に気付いたヒソカに感嘆のため息を漏らした。
「さすがね……」
 集中して能力を使ったウタは脱力してソファにもたれかかる。
「正六面体に切り取った空間内の物質を別の空間に置き換えることが出来るわ。切り取れる空間も置き換える先も、私が目で見て焦点を合わせられる範囲みたい。切り取れる空間の大きさと切り取るスピードは今はまだこれが精いっぱいだけど」
 ウタの説明にヒソカは薄く笑む。
「でもさっきはウタ自身が飛んだんだろう。ということは倒れていたことを考慮に入れて少なく見積もっても百五十センチメートル四方くらいの空間を、それも限りなく瞬時に切り取り移動させるだけの潜在能力はあるはずだ」
「その通りね」
 ヒソカは戦闘や念に関することだと驚くほど頭が切れた。
「しかし良いのかい。自分の能力をそんなにペラペラと喋って」
「いいのよ」
 ウタは力強く言った。
「元よりヒソカがいなかったら私はこの世界に来た時にオーラを垂れ流したままで死んでいたもの。一回命拾いした私の能力をヒソカに教えるのは、何て言うかその、せめてものお礼よ」
 ヒソカはウタの言葉が可笑しいのかクックックと喉を鳴らして笑う。
「それじゃあこれから僕とウタは貸し借りのない、対等な関係だね」
「そうなるわね」
 ウタも悪戯っぽく笑った。

 映画でも見よう、というヒソカの提案で二人の夜更かしが始まった。
お風呂を借りたウタがリビングに戻ると、机いっぱいに駄菓子やジュースが広げてあった。お気楽なコメディ映画を、駄菓子をお行儀悪く食べながら鑑賞する。普段は飲まないような甘くて安っぽい味のチューハイも美味しく飲んだ。くだらない映画に二人でケラケラ笑いながらも、ウタが男に襲われた恐怖を紛らわせてくれようとヒソカはしているのではないかと推量した。
 翌朝起きた時にはウタはベッドに寝かされていた。寝落ちしたところをヒソカが運んでくれたのだろう。ヒソカが寝ていた気配はないから、彼はリビングルームで休んだか、もしくは寝ていないかもしれなかった。時計は十時過ぎを指していて、ウタにしては随分なお寝坊になったがたまにはいいかと一伸びする。
「おはようウタ」
 リビングルームに行くとヒソカはテレビを見ていた。
「おはよう。ヒソカは寝てないの?ごめんなさいまたベッドを取っちゃって……」
 綺麗なウタの髪が珍しくはねているのを見て、ヒソカはクスリと笑う。
「いいよ、眠くなかったし。昨日の映画の二作目を見てた」
 やっぱり寝ていないのか、とウタは半ば呆気に取られた。
「朝ごはん――という時間ではないけれど、ルームサービスでいいかい?」
「わあ、ルームサービスもあるのね。嬉しい」
 やがて運ばれてきた朝食はやはり高級ホテル顔負けのそれで、ふわふわのオムレツや良質なバターで作られたパンを食べ、濃厚なミルクティーを飲むウタは久しぶりにゆっくりとした朝を迎えたと感じた。日曜の取り留めのないワイドショーをヒソカと眺めながら、満ち足りた気持ちになる。
 先日感じた、ヒソカとの繋がりを不躾に切られたような感覚はすっかりなくなっていた。別にヒソカとの間に運命的な何かがなくてもいいじゃないか。ヒソカとの出会いがたまたまでも一向に構わない。
 絆と呼べるほどの誠実さはないかもしれないけれど、彼と縁なら、きっとこれから如何様にも作っていけるのだ。





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