プロローグ


 それは底冷えのする一月の夜のことだった。

 昨夜から降り始めた雪は強さを増し、街道をうっすらと白く染めている。
 ヒソカは外の様子を見に出て、しばし舞い散る雪を無心で眺めていた。だが寒さに堪えきれず五分と経たずに再びテントの中へと舞い戻った。
 かじかむ小さな自らの手に息を吹きかけるも、そもそもテント内の気温が低いためまたすぐその手は冷たくなる。少しでも火のあるところへと足早に奥へと進む。
 大人の胸ほどの背丈のヒソカは軽い身のこなしで狭い通路を抜け、内幕を二枚捲り、芸事に使う小道具が並ぶ部屋へと出た。部屋と言って良いものか、木箱や衣類が雑多に並んでいるばかりの狭い空間である。衣装は主に原色が多く、北国育ちのヒソカにとっては毒になりそうな禍々しさを感じた。
 芝居道具の溢れる木箱、木箱、木箱……。
 その中でもひと際“地味”な布地に包まれた物体へとヒソカは近付いた。
 それは一見するとただのボロボロな端切れのようでいて、中心には黒い艶やかな髪を生やした赤ん坊が寝ていた。すやすやと、まるでこの世の悪意など全く知らないような顔で寝息を立てている。
 ヒソカはその清らかな頬に触れ、そして髪へと手を伸ばした。シルクのように柔らかな手触りだ。
 ああ、いのちとは何と愛くるしくて儚いのだろう。

 主に倉庫として用いられているこの部屋に火の気はないがさらに中心に近い隣の部屋からは本日の演目を終えたサーカス団員達の歓談する声が聞こえ、焚火の暖かさが伝わってくる。
 賑やかな声はどこか遠く感じ、布一枚隔てただけの空間なのにあちらとこちらとではまるで別世界みたいだ。
 赤ん坊―――とは言うものの乳児というには大きく、子供というには小さい。今までこんな小さい命に触れたことのないヒソカには、赤ん坊の月齢など皆目分からない。すやすやと眠り、目を閉じていても睫毛の長さが目立つ。小さな鼻に小さな口。そしてくりくりとした大きな目に、赤ん坊であっても女の子であると顔を見れば分かった。
 生まれたばかりでも将来はきっと美しくなるに違いないと確信できる容姿だ。守らなければいけない存在なのだと、まざまざと感じさせられる。

 ヒソカは物心ついた時には既に孤児であった。
 家族というものが、存在した時期もあったかもしれない。でもよく覚えていないし思い出そうとも思っていない。ここより遥か北の地方都市でその日その日に食べるものを盗み、時には暴力で奪い、暮らしてきた。そんな彼がこのサーカス団に拾われたのは半年前のことだった。手先の器用さやまだ手足が伸び切っていないものの優れた運動神経がリーダーの目に止まったのだ。
 しかし街から街へと渡り歩くこの生活が刺激的だったのも最初だけで、ヒソカはもう飽き始めていた。
 まだ裏方仕事ばかりだが演者になったとしてもあまり面白くもなさそうだしそろそろ潮時かと思っていた。
 そんな折、この赤ん坊が拾われてきたのは一週間前のこと。
 どこで拾ってきたのか、名前さえも分からないがヒソカは何故かこの赤ん坊に強く惹かれた。時間があればずっと眺めていられると思っていた。家族の顔さえ知らない孤児であるヒソカが、無条件で愛し、守るべき存在だとさえ感じていた。
 赤ん坊の隣には木製の箱が置かれている。ヒソカはその箱を手に取った。ちょうどヒソカの掌の上に乗る大きさである。
 箱の蓋に当たる部分の上面はガラス張りになっていて青い球体が見えた。濃紺の中に時々緑が混じったそれがどんな鉱石でできているのか知らないが、光を浴びると濃紺の部分がキラキラと反射する。
 赤ん坊の唯一の持ち物はこの箱と、今ヒソカの右ポケットに入っている一式のトランプだけだったそうだ。一般的な絵柄と数字だけのシンプルなトランプだ。しかしヒソカはこれが気に入りこっそり自分のものとしていた。
 箱の方に関しては蓋を開けることはできず、何かで強く接着されているみたいだ。
 ひっくり返すと裏面にはゼンマイがある。それを時計方向へ二、三周回すと音楽が流れ出す仕掛けになっている。
 三音程度の和音で奏でられるこの曲名をヒソカは知らない。
 神秘的だが、聴いていると力が湧いてくるような不思議な音楽だ。
 音に合わせて中の地球も一緒に回る。机に置かれたランプの光をキラキラと反射して綺麗だとヒソカは感じた。
 このオルゴールがまだ売り飛ばされていないのはかなり古く、たいした値打ちにもならないと考えられているからだろう。音楽が止まると同時に地球も止まる。
 そしてこの赤ん坊もまだ売り飛ばされていないのは、美人になるであろう容姿がサーカス団としても後々利益になると判断されているからだろう。

(もう決まっているんだ。この子の未来も)
 でも、本当にそうだろうか。
 ヒソカは自分の掌に目を落とす。
 ヒソカ自身だって、独りで今まで生きてきた。食にありつくとか欲しいものを手に入れるだとか、大抵の願望も叶えてきた。
 そしてこれからだって、何だってできるのではないか。
(きっとこの子だって)
 ヒソカは再び赤子に視線を戻す。

「……だいじょうぶ、なんだってできるよ」
 それはなかば、自分自身に言い聞かせているようでもあった。



 しばらく睫毛に揺れる炎の影をじっと見つめてヒいたヒソカだが、微かな異音に顔を上げる。
 それは遠くから聞こえたが間違いなく叫び声だった。
 隣の部屋の歓談する声で聞き取りづらかったが、耳を澄ませると大量の足音も地鳴りのように聞こえ、しかも段々と近づいてくる。
 異変を感じたヒソカは素早く立ち上がり、手に持ったままのオルゴールをポケットに突っ込んだ。
 まだ静かに眠っている赤ん坊を見つめ迷ったが、ややあって抱きかかえる。腕の中の小さな命はとても暖かく、ほんのりとミルクの甘い匂いがした。
 ヒソカが赤ん坊を抱えて外へと駆け出した頃、ようやく隣の部屋の大人達も異変に気付きざわつき始める。しかし時すでに遅く、刃物を持った男たちによってサーカスの団員達は次々と刺殺されていった。

 天幕からテントの外へと出ると強烈な血と灰の匂いがした。巨大なテントの反対側の端は夜だというのにオレンジに明るく、どうやら燃えているらしかった。叫び声は最早あちこちで聞こえる。
 ここからほど近い港町が最近凶悪な海賊に襲われたと、大人の団員達が噂していたのをヒソカは思い出した。
 とにかく逃げなければと火の手が上がる方と逆へ走り出したのと、テントから男達が出てきたのは同時だった。
「ガキが逃げるぞ! 待てっ!」
 野太い怒鳴り声が聞こえ、ヒソカの腕の中の赤ん坊が泣きだす。
 ヒソカはテントの裏手に広がる林へと逃げ込んだ。
 すばしっこいヒソカなら後ろから追ってくる男達を林の中で撒くくらいできたが、いかんせん赤ん坊を抱きながら走るのではそう容易くはいかなかった。諦めて一本の木の根元に赤ん坊を置く。
 置いていかれると感じたのか彼女は小さな両手をヒソカに伸ばしてさらに泣き声を大きくした。
「ちょっと待ってて……。まいったな」
 ヒソカに赤ん坊を泣き止ませる知識はなかった。焦ってポケットの中を探ってみてもオルゴールと、トランプと、チューイングガムしか出てこない。
 ダメもとでトランプの中の一枚、ジョーカーのカードを赤ん坊に見せる。
 大きな鎌を持ち不気味な笑みをたたえた道化師の絵柄を赤ん坊が気に入るとは思えなかったが、意外にも彼女はカードに見入って泣き止んだ。ヒソカよりさらに小さく柔らかな手に近づけるとカードを握り、たどたどしい動きで上下させ眺める。
 少し時間を稼げそうだ。
 すぐ背後で追手の足音が止まってヒソカは振り返る。追手は一人だった。日に焼けて皺だらけの顔で、目だけが異様に鋭いその男は血の付いた長剣を手にしている。

 ヒソカは残りのトランプの中から一枚取り出す。スペードのキングのカードだ。
いつからか使えるようになった“念”。そのオーラをカードに集中させると切れ味が刃物のように鋭利に、鉄よりも固くなることを知ったのは最近のことだ。

「へへへ……悪いな、若い女以外は殺せと言われてるんだ」
 男は下品に笑い近付く。
 しかしヒソカが口元を歪めて笑うものだから、男は思わず動きを止めた。
 不気味な子供だと男は思った。不気味なばかりか、まだ十にも満たないであろう子供から放たれる溢れんばかりのこの殺気はなんということだろうか。
「気味が悪い!」
 男は叫んで長剣をヒソカへ振りかざす。それをかわしオーラで強化したカードで切りつける。
 男の右腕に掠る程度だったが、しっかりと切り傷を作った。
「この……ガキィ!」
 半ば恐怖心を抑え込むかのように男は叫ぶ。
 再び振りかざされた刃をくぐり相手の懐に近づくとヒソカは男の首を思い切り切りつけた。こんな汚らしい男でも、飛び散る鮮血は綺麗ですらある。
 一拍後、ヒソカは激しく噴出する血飛沫に我に返る。
 今男が立っている場所は先ほど赤ん坊を置いた場所だったのだ。慌てて残った男の胴体を横に押し退けたヒソカは唖然とした。

 そこにいるはずの赤ん坊は影も形もなく、積もった雪に男の足跡とその血痕があるのみだったのだ。






 あれから十数年の月日が流れた。

 基本的に過去を振り返ることのないこの男は正確に“あれ”がいつだったのか覚えてはいなかった。
 それでも忘れないでいるのは、いまだヒソカがあの時のオルゴールを持っていて、時折気まぐれに眺めてみたりするからだろうか。
 何故まだ捨てないで持っているのか、理由は特になかった。強いて挙げるとすれば、気に入っているから。ただそれだけのことだった。
 ヒソカは無表情に窓の外を眺める。ホテルの上層階から眺める夜景はさすが大陸の都市部だけに煌めいていて、車がひっきりなしに行きかっている。

 頭痛がした。
 最初はあの雪の夜に聞いた叫び声が聞こえた。それが次第に赤ん坊の泣き声に変わり、今は若い女の叫び声に聞こえる。
 ここ数日、時折聞こえるその叫び声はヒソカの頭痛の原因でもあった。なぜ聞こえるのかどこから聞こえるのか全く分からない。あの日の出来事をフラッシュバックしているのか、どこかの誰かの念能力か、それともただのヒソカの思い込みか―――…。
 こつん、と窓に額を当てるとひんやりとした冷気が気持ち良い。
(やはり頭の中から聞こえているな……)
 いまや泣いているようにも聞こえる叫び声はどこか遠くからではなく確実にヒソカの頭の中だけで響いていた。ということは何かの念能力である可能性が高い。
 心当たりなどあり過ぎるほどあるヒソカなので誰から恨まれようとも気にも留めないが、さすがにこの叫び声はイライラした。段々と叫び声と頭痛の感覚は短くなっているような気もする。
(明日からはハンター試験が始まるし、何か手掛かりを探れるかもしれない)
 窓を離れて椅子に腰かける。机の上に置いた古いオルゴールを見つめてから、緩慢な動作でゼンマイを巻いてみる。
 久しぶりに聴いた音色は澄んだ水滴が水面を弾くようで、幾分頭痛がやわらいだような気がした。どこまでも澄んでいて、それでいて力強い音色。ヒソカの根底の何かに直接働きかける音色だ。

 瞼の裏にはなぜか、冷たい雨の中眩い光が高速で迫ってくる残像が見えた。




back



- ナノ -