変わっているからね


 目を覚ましたウタは、自分が今どこにいるのか全く分からなかった。
 目に映るグレーの天井。周囲を囲むカーテン。糊のきいたシーツの余所余所しい匂い。こういった場所を知っている気がした。あれは、そう、確か、保健室。
(いや違う)
 ぼんやりとした頭でウタはすぐに自分の考えを否定した。
 ここは慣れ親しんだ土地の通い慣れた学校ではなく、全くわけのわからない異世界なのだ。頭を動かさずに視線だけ下げると、自分の左腕からチューブが繋がっているのが見えた。点滴だ――ここは病院なのだ。
 この大陸に着いて早々に酷く体調を崩したのである。病院に運ばれた経緯は全く思い出せないが、どうにかして医者に診てもらったらしい。
 まだ頭は重く、体中の節々が痛いうえ、とりあえず安心して休んでいいらしいことを悟ると瞼が自然と閉じてきた。ウタは先ほどまで見ていた夢を思い出そうとした。
 真っ白な世界だった。懐かしい人が幾人か出てきた気もする。靄がかかったようでほとんど思い出せないけれど、忘れてはいけないことの気がした。確かごん太が出てきたような――なぜこんなに胸騒ぎがするのだろう――そして、こんなにも悲しい気持ちになるのは何故だろう。やるせない感情を抱えたまま、ウタは再び深い眠りの沼へと沈んでいった。



 次に目覚めた時、ウタは夢のことなど綺麗さっぱり忘れていた。
 見知らぬ場所に寝かされていることを再度訝し気に思い、しかし今度はすぐに思い出すことができた。生活の基盤を作る忙しさに体調不良が重なって、倒れてしまったことを思い出したのと、そんな自分を情けなく思う気持ちが湧いたのは同時だった。
 そして次には、話し声が聞こえることに気が付いた。自分が起きたのはこの話し声によるものだったのだと気付く。周囲を囲むカーテンの向こうはオレンジに染まり、今が夕暮れ時であると分かった。話し声はオレンジの陽射しの射す反対側から聞こえる。カーテンの隙間にチューブの繋がった腕を伸ばし、そっと開くと看護婦と見たことのある男が喋っていた。
「……ウイングさん」
 ウタの声は発音の仕方を忘れたみたいに弱々しく掠れていたが、二人はすぐさまこちらを振り向いた。そうだ、あの後頭部の髪をはねさせて眼鏡をかけた男は、ウイングという念の使い手だ。
「良かった、気付いたのですね」
 ウイングがウタに向かって優しく微笑む。看護師は「バイタルチェックしなきゃ」と器具を取りに部屋から出ていった。
「まったく、心配しましたよ。ウイルス性の風邪です。この時期この大陸で毎年流行るもので、あなたは予防接種を受けていないうえ免疫力が落ちていたのでかかったのでしょう」
 怒った口調で、しかしあくまでその表情は優しくウイングが言うものだから、ウタは申し訳ない気持ちでいっぱいになった。ベッドサイドまで近付いてくる彼をウタは所在無さげに見上げる。
「すみません……病院に連れてきてくださったのはウイングさんだったのですね」
 詫びるウタをじっと見つめ、しばしウイングは無言を貫いた。ややあって、彼は首を横に振る。
「……いえ、あなたを最初に連れてきて来たのはヒソカという男です。彼をご存知ですか?」
 ウイングの言葉にウタは目を丸くした。一瞬言葉の意味が飲み込めなかった。ヒソカが私を?どうやって?そういえば倒れる直前に電話したような――……。
「はい、彼とは知合いです」
 倒れる直前の記憶を朧げに思い出し、状況を把握したウタはすぐに頷いた。ウイングはため息を吐く。
「そうですか。ならいいのですが……」
 ウイングは複雑な表情を見せて一旦言葉を切った。
「彼がどういった人物かは、詳しい所は私は何も知りません。あなたの人間関係に口出しする気も、ありません。ただひとつ確認しておきたいのはあなた自身が彼をどういう人物か知っているのかということです。彼が――」
「戦闘マニアの殺人狂だと?」
 言いにくそうにするウイングの言葉を引き継いでウタが答えた。ウイングは頷く。
「分かっているのならいいのです。そこにある関係性が真っ当なものでも、あるいはビジネスライクな関係でも、私がとやかく言うことではありません。知った上で付き合いがあるなら、あとはあなたの問題ですから。それだけ確認しておきたかったのです」
 ウイングは再び優しく微笑む。ウタもぎこちなく微笑み返した。これだけの会話から、このウイングという人間がいかに優しく、かつ個人の意思を尊重するのかが分かった。

 ウイングからウタが病院に運ばれた詳しい事の成り行きを聞いているうちに先ほどの看護師が戻ってきた。血圧やら心拍数やら体温やらを測り、簡単な問診を行った後で彼女は退散した。すぐに医者が来て、似たような質問をされてその日は終わりとなった。どうやらウタは、一昨日に夕方に倒れ病院に運ばれ、丸一日寝ていたらしかった。
 不思議なもので、これだけ寝てもまだ体は休息を欲しているようで、医師の診察が終わりウイングが帰ったあとにウタはすぐに眠りに付くことが出来た。久しぶりに夢を全く見ない、平和な睡眠であった。
 さらに丸一日大事を取って入院し、その翌日には退院することが出来た。

 入院して四日目の昼過ぎ、契約したばかりの部屋に帰るとしっかり鍵がかけてあった。
(ヒソカがかけてくれたんだわ)
 鍵をまじまじと見つめ、ウタはそっと鞄に戻した。入院中にヒソカにお礼のメールを入れたが、返信はない。
 部屋に足を踏み入れると、暗いな、とウタは感じた。それもそのはずだ。窓枠にはしっかりカーテンがかかっているのだから。そしてそれは、ウタが体調不良の為かけずに床に放置していたものだったのだから。
(これをかけてくれたのはウイングさん?それとも――)
 ウタはゆっくり瞬きをする。脳裏に浮かんだのは、奇抜なフェイスペイントを施した男の顔。ウタが目を覚ましてから、部屋の鍵はずっとウタの手元にあった。ウイングから部屋に入ったという話も聞いていない。だからそう、きっと、このカーテンはヒソカがかけてくれたのだろう。
 ウタはカーテンを手繰り寄せて無意識にその匂いを嗅いだ。
 新品の布地の匂いと、少しばかしの埃っぽい匂いがするだけで、何かが分かるわけではなかった。
「……よし!」
 顔を上げたウタは髪をまとめ上げ、腕まくりをした。新品の雑巾を絞って壁から床から拭きあげると自然と心が落ち着く。元の世界でしていた習慣に救われた心地がした。雑巾がけを終える頃には、床は滑らかに輝き空気も清浄された気がする。ようやくここで新生活を始めていくのだと実感が湧いたのだった。


 ウイングの心配を余所に、さらにその翌日からウタは稽古を付けてもらうことになった。入院期間の数日にたっぷり寝たおかげで体調はすこぶる良く、肌艶も良くなっていた。しかしたった数日といえども毎日継続していた念の修行を怠った代償は大きかった。オーラを練る感覚が遠のいてしまったようで、纏を行うのにも酷く苦労したのだった。
「焦らず、一つ一つ確実に覚えていきましょう」
 ウタの心中を察してか、ウイングが諭す。
「何よりも大事なのが毎日の反復練習です」

 しばらくは、基礎体力を向上させるためのトレーニングと、自らの念をより明確に感じ取れるようにするための纏の修行が続いた。いずれも地味で辛い修行だった。それでもウタが弱音ひとつ吐かずに修行に打ち込めたのは、自分よりもだいぶ年下のズシという少年が同じく弱音を吐かずに修行に打ち込み、ウタを励ましてくれているからに他ならなかった。彼の前で弱音は吐けないというプライドもあったのだろう。
 念の修行の傍ら、天空闘技場に足を運び他人の――特に念を用いた戦闘になる二百階クラス以上の――試合を積極的に観戦し、様々な念のスタイルや応用を研究することにも余念がなかった。自分の念系統は未だ分からないがウイングから知識として教わってはいるので、自分なりに他人の念能力を分析しその使いこなし方を直に見ることはウタにとって修行でもあり、なおかつ趣味の時間でもあった。元来物事を考察し深く考えることが好きなのだ。何よりもこの分析力は後々のウタの財産になる予感に満ちていた。

 さらにウタは、同時に人脈作りも進めていた。
 最初は天空闘技場のVIP席に座る要人に目が留まった。その人物の氏名、職業、社会での立ち位置、家族構成から趣味嗜好に至るまでを調べ上げ、次の日には多額のチケット代を払ってVIP席のすぐ横のプレミア席で何食わぬ顔で観戦をした。こんな野蛮な場所でいわば暴力を観戦するために年端の行かない可憐な少女が一人座っているのは明らかに異質であった。それを十分分かった上で、ウタは何てつまらない試合だろうという顔で(実際には試合中に出場者のうちの片方の足が吹き飛ぶというエキサイティングな展開で、観衆は大いに盛り上がっていた)澄まして座っていたのだ。
 試合後、ウタは天空闘技場からほど近い喫茶店に足を運んだ。大通りからは離れ地下にひっそりと佇むこの店は一目には喫茶店であると分かりづらいが質のいいコーヒーと、何より夜には年代物のウイスキーや小洒落たカクテルを提供することから知る人ぞ知る隠れた名店だという。
 薄暗い店内には初老のバーテンダーがカウンターの向こうに立ち、客は中年の男女が一組ボックス席に座るのみだが、うら若いウタが足を踏み入れるとやはり注目を浴びた。
 澄ました顔でカウンターの左から三番目の席に腰掛け、パドキワ産のコーヒーを頼む。カウンターは一枚物の木で出来ていて、相当な値が張るだろうなと思った。出されたコーヒーは酸味が強めのもので、メンチの淹れてくれたコーヒーに匹敵する美味しさだった。
 やがて少しも経たないうちに新たな客が来店した。天空闘技場のVIP席で見かけた男だ。男はおや、という顔でウタを見た後、少しの思案の後にウタから二つ離れたカウンター席に腰掛けた。ウタはその間、ちらりとも男を見ずに優雅にコーヒーを啜るのみだ。もちろん、ウタの目的はこの男であり、この店が男の行きつけで、天空闘技場で試合を観戦した後はここで一杯ひっかけてから帰るということも織り込み済みで、待ち構えていたのだ。
 男はウイスキーをストレートで頼み、一口二口飲むと、案の上声をかけてきた。
「やあ、随分若いお客さんだね」
 半ばマスターを巻き込んで、男は喋り出す。男はオフホワイトのセーターの上に仕立ての良さそうなチャコールグレーのジャケットを羽織り、左腕には高級メーカーの腕時計がいやらしくない程度に存在感を放っていた。
「良い店だろう、その若さでよくここに辿り着いたね。どうやって知ったの」
 ウタはゆっくり瞬きし、小首を傾げる。
「良いお店があるって、噂で聞きましたの。とっても美味しいです」
 男というより、マスターに向かってウタは返す。マスターは「ありがとうございます」と恭しく頭を下げた。
「そうだろう、そうだろう。コーヒーもだが、酒もなかなかいいものを扱っている」
「まあ、素敵」
「どうだい一杯?奢るよ」
「あら、私、故郷の法律ではまだ飲酒年齢に達していなくて」
「そうか、しかし、この国の法律では?ここでは十八から飲めるが……」
 ウタはじっと男を見つめ微笑む。
「さあ、どうかしら」
 楚々とした可憐さと、一方でどこか妖艶な魅力が同居するその顔に男が釘付けになっているのが、手に取るように分かった。
「よし、決まりだな。甘いのがいいかな?」
「同じものを」
「これかい?ウイスキーがいけるんだね、上等上等」
「舐める程度ですが」
「旨いウイスキーってのは呷って飲むもんじゃないから、それでいいんだよ」
「美味しい……。確かオチマのウイスキーですね」
「おっ詳しいね。なかなか良い趣味だ」
「私はあまり……友達が好きなものですから」
「実を言うと、君を天空闘技場で見かけたんだ」
「まあ」
「君みたいな可愛らしい子があんな猟奇的な試合でも顔色一つ変えないもんだから、驚いたよ」
「今日の試合は派手だったけれど、戦闘の技術や技巧といった点では面白みに欠けていて――ごめんなさい、私ワクワクするような戦いを見るのが好きなの――変わっているでしょう」
「いいや、そんなことはない。僕も一緒だよ。あっと驚くような技、見る者を魅了する知能戦、スリルある駆け引き……戦いってのは、どんなスポーツにも勝るエンターテインメントだと思うね」
「ええ……本当に」
「そんなに戦闘を見るのが好きなら、どうだい?戦闘マニアの集まりがあって、ちょっと顔を出してみないかい?年齢層が高いけれど、なに気後れすることはない。君みたいな美しくて賢く、戦闘の見る目もある女性なら皆大歓迎だよ」
「まあ……」
 ウタはゆっくりと瞬きをし、魅力的な笑みで男を見つめた。

 そこからは容易いものだった。
 男の招待してくれた戦闘マニアの集いは月に一度ないしは二度開催され、ウタの目論み通り大企業の社長や幹部、政治家等各界の要人が参加していた。ウタは持ち前の知性と人心掌握術で瞬く間にコネクションを作りあげていった。ビジネスでこの国に長期滞在しているという事にしているが、皆ウタのことを何か堅気じゃないことで稼ぐ家の娘か何かだと思っているらしかった。戦闘マニアの集いというだけあって、そういった者もちらほら参加している集まりなのだ。

 再びヒソカと会ったのは、四回目の戦闘マニアの集いを数日後に控えたある日のことだ。緯度の高いこの国でも大分春めいてきており、特に暖かいこの日ウタはメンチにもらったお気に入りのワンピースを着ていた。午前はウイングのところで修行を付けてもらい、午後から天空闘技場の試合を見に来ていたのだ。
 VIP席ではなく一般席の二階に座ってすぐに、後ろから声をかけられる。
「やあ」
 最早懐かしい声に、ウタはハッと振り向いた。
 紛れもなく、ヒソカがそこに立っていた。あのピエロのような恰好ではないが、黒いジャケットに黒いパンツ、そしていつものようにオレンジ色の髪を逆立てて奇抜なフェイスペイントを施した彼は目立っていたが、上背もあるためモデルのようで、全身真っ黒と奇抜なヘアメイクのそのスタイルがとてもよく似合っていた。
「ヒソカ……」
 複雑な思いでウタがまじまじと見つめていると、ヒソカは当たり前の顔をして隣に腰掛ける。
「久しぶり」
「本当だわ。どうして返信くれなかったのよ。そもそも狭い船内で勝手に人を殺していなくなって、あの後の事情聴取が大変だったのよ」
 口を尖らせまくしたてるウタに、ヒソカはクスクスと笑った。
「ごめんごめん」
「待って、そうじゃないわね……こちらこそごめんなさい」
 ウタは肩の力を抜いてヒソカに向き直る。
「まずはお礼を言わなくちゃ。この間、ヒソカが病院まで連れていってくれたんだってね。ありがとう」
 ウタに言われ、今思い出したかのようにヒソカは「ああ」と返事する。
「どういたしまして」
「どうやって私の借りた部屋が分かったの?住所を言ってなかったと思うけれど」
 誰かから聞いたのか、もしかしたら何かの能力かもしれないと期待してウタは聞いた。
「倒れる直前、電話口でモラダ地区のパン屋の二階だって君が言ってたんだよ」
 ウタは頷く。確かにそれは記憶にあった。
「うん……それで?」
「それで?それで、モラダ地区にあるパン屋の二階を虱潰しに探したんだよ」
 ウタは「えっ」と声をあげた。ちょうど試合会場に選手が入場したところで、客席から歓声やら野次やらが飛び交っていた。がっしりとした体形の短髪の男と、ローブのような衣類を身に纏い長い髪を肩まで伸ばした美形の男の対戦だ。
「あの地区のパン屋を?全て?」
 選手からヒソカに視線を戻してウタは尋ねた。決して広い街ではないが、それでも相当な数に上るはずだ。ヒソカは肩をすくめる。
「なかなか骨が折れたよ。まあ君がまだカーテンを掛けていなかったおかげで、外から見て一目で分かったけどね」
「そう……ヒソカ、本当にありがとう」
 ウタは心底感動していた。ヒソカが、戦い以外に興味もなさそうなこの男が、ウタ一人の為に奔走していた事実が素直に嬉しかったのだ。それだけで、ヒソカが人を殺して勝手にいなくなったことは許せそうな気がした。
 試合が始まり、選手両名は睨み合っている。
「ふふ、構わないよ。ウタがいないとゴンの足取りも掴めないしね」
 試合を眺めながらヒソカは怪しく微笑んだ。
「あら、やっぱりそれなのね。ゴンなら恐らく、そろそろ動きがあるはずだわ」
 選手のうちの一人が攻撃に転じた。繰り広げられる打撃戦に観客が湧く。ウタの目に見ても、長髪の方の男が押していた。
「どうしてだい」
「ゴンが向かったのはきっとキルアのお家でしょう?ゾルディック家相手に物事がすんなり進むとは思えないけど……ゴンは通常の旅客ビザで入国しているの。そろそろ期限が切れるはずだから、キルアと会えても会えなくても、一旦出国せざるをえないわ」
「ふうん……」
 ヒソカの釈然としない顔は、どうしてハンターライセンスを使わないのだろうと疑問に感じているらしかったが、彼がそれについて尋ねることはなかった。
「あっ吹っ飛んだ。今のは念の打撃ね」
 目を凝らしてウタが小さく叫ぶ。長髪の方の男が繰り出した正拳突きで相手は場外まで飛んだのだ。その拳には確かに念が込められていた。
「凝は使えるようになったんだね」
「まだまだ時間がかかるけどね……ねえあの男……カストロと言ったかしら。打撃をあれだけ強化できるなら、彼はやっぱり強化系かしら?」
「どの系統でも、一流の使い手ならあれくらいの念の打撃はわけないよ。まあ、ウタの言う通り彼は強化系だけどね」
「そうなの……あっ今度は蹴りにもオーラが……あー、KOだわ」
「ウタは特質系かな」
 倒れてピクリともしない男と、堂々と立つカストロに観客は大いに盛り上がっていた。ウタはけりのついた試合から目を離し、ヒソカの方を向く。
「まだそこまでのレベルに至ってないから分からないけれど……どうしてそう思うの?」
「ウタは変わっているからね」
 思いがけないヒソカの言葉に「失礼ね」とウタはそっぽを向いた。







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