それでも吐く息は白く


 朝起きた瞬間に、風邪をひいてしまったことをウタは自覚した。頭が重く、体も怠い。まだ発熱していないだろうことは感覚で分かったが、無理をすれば高熱が出そうな気配がした。
 出来ることなら一日寝ていたかったがそうもいかない。荷物をまとめたウタは早々にチェックアウトし宿を出た。手には昨日もらってきた不動産屋のチラシを持っている。昨日当たりを付けていた物件もいくつかあった。
 いくつか候補を絞り込んでいたおかげか、内見二件目で住居を決めた。天空闘技場のある地区から電車で一駅のモラダ地区にあるアパートだ。1階はパン屋になっており外階段を上がったその2階の部屋である。ウタの部屋の他にも3部屋あるが真ん中は空き部屋になっている。東側の部屋は若い男(パン屋の甥っ子という情報は不動産屋からだ)が住んでおり、反対の西の角部屋がウタの借りる部屋というわけだ。天空闘技場からほど近いこともあり外に出れば聳え立つ巨塔がよく見える。しかし天空闘技場は部屋の北北東側に位置しているため、部屋の中からでは南側に面したベランダおよび西側に面した出窓のどちらからも窺い見ることは出来なかった。
 部屋の契約を終えると、太陽はちょうど南中していた。朝よりかは頭の重さはなくなった気がするがどうも寒気がする。一応ウイングに住居が決まった旨をメールし、次は必要最低限の家具と日用品の調達にかかった。家具はおいおい必要な物を買い足すとしても、カーテンと寝具はないと困るだろう。配送サービスのある隣町の家具屋が店舗も広くそこで調達することとした。最低カーテンと寝具だけ、と考えていたが結局カーテンと寝具の他にベッドと小さなダイニングテーブルとパソコン用机と照明器具にソファ、鍋とフライパンと包丁とまな板を一つずつにいくつかの食器、そして単身用の小さな冷蔵庫と洗濯機を買った。なかでも気に入ったのは二人掛けのソファで、中古の品だというが良質な革張りで光沢のあるダークブラウンとウォールナット材の肘掛が美しい。この買い物で貯金の半分がなくなったが、お金を稼ぐことにさして不安を感じていないウタは特段気にしていなかった。
 配送の車にウタも同乗させてもらうことができ、新居へと向かう。部屋の中にはまだ何もないので家具の配置を指示したウタは配送業者に設置を任せ、洗剤やら石鹸やら日用品の買い出しに出た。
 全てが済んですっかり部屋の様相を呈した新居に戻ってきた頃には、ウタの体調も最低に悪くなっていた。配送業者にお礼を言いチップを渡したウタは、一人になった部屋でズルズルと座り込んだ。体が熱く頭がぼーっとする。元々風邪っぽかったのに加えて今日一日バタバタと忙しなく動き回っていたからだろう。相当熱が出ていそうだ。西側に面した出窓から鮮やかな西日が差して、カーテンも取り付けなければ、と上手く回らない頭でぼんやりと考えていると不意に携帯が鳴った。着信だ。
 のろのろとした動作でポケットの中の携帯を取り出し画面を見るとヒソカからであった。何故だかほっとして、ほんの少し頭が覚醒する。
「……はい、もしもし」
「もしもし、ウタ?さっそく調べてくれたみたいだね。どうもありがとう」
 取ってつけたような朗らかな声でお礼を述べるヒソカに、一瞬何のことかとウタは考えた。ややあって、ゴンの搭乗記録のことだと思い至る。
「ああ、うん……詳細はメールに書いた通りよ……陸路で移動していなければ、とりあえず今はパドキア共和国にいるはず」
「じゃあまたゴンが飛行船に乗ることが分かったらよろしくね」
「……ええ、うん」
 緩慢なウタの受け答えに電話口の向こうでヒソカが戸惑っている気配がした。
「……どうかしたの」
「ちょっと……熱っぽくて……少し休めば……」
「熱?大丈夫?今どこなの?」
 問いただすヒソカの声はいつものような笑いを含んだ声音ではなかった。
「新居よ……今日借りたばかりの……モラダ地区の……」
「モラダ地区のどこ?」
「ええと、パン屋の二階の……」

 ウタが覚えていたのはそこまでで、後の記憶は定かではなかった。自分で通話を切った気もするのだが、どうやら通話中に床に突っ伏してしまっていたらしい。


 揺蕩う生暖かいオーラの中に使っているような感覚の中、ウタは夢を見た。
 真っ白い景色だった。真っ白い景色の中でオリーブブラウンの瞳が優しくウタを抱いていた。守られている絶対的な安心感と心地よい温もりに、きっとこれは母親なのだろうと思う。母親の顔ぼやけてよく分からない。しかしウタの耳に優しい歌声が聴こえた。懐かしいメロディ。ほのかなミルクの匂い。ただただひたすらに暖かい場所だと感じた。
 やがて母親は消えてなくなり、真っ白の中でウタはポツンと独りぼっちになった。暖かったはずの白は厳しい冷たさを持ち、強い孤独がウタを襲う。泣き出しそうになっているとウタを見下ろす瞳があった。今度は琥珀色の瞳だ。またあのメロディが聴こえる。歌声ではなく、鉄琴を弾くような澄んだ音色は――オルゴールだろうか。真っ白な冷たさと琥珀色の瞳と肉の焼ける強烈な匂い。
 またしても場面が変わり、真っ白なシーツの中でウタは寝ていた。薬品の匂い。今度こそ本当に誰もいない。いないと思っていたはずが暗転して辺りは真っ暗になる。そして目の前に現れたごん太。あの屈託ない笑顔をウタに向けている。あ、と思いウタは手を伸ばす――――。





 昼過ぎにウタからメールを受けたウイングは何か必要な物があれば遠慮なく言ってください、と返信した。それに対する返信はなく、色々と忙しいのだろうとさして気に留めていなかった。しかし日が沈んで夕食を食べ終えても未だ返信がないのでそこでふと心配になった。
 賢そうな子ではあったが、年端も行かない妙齢の美しい女が知らない土地で一人、大丈夫だろうか。何かトラブルに巻き込まれていないかと思い始めるとどうも気になってしまい、迷ったあげく電話することにした。
 登録したばかりの番号にかけると呼び出し音が鳴るばかりでなかなか出ない。まだ忙しいのか――いい加減通話を切ろうとした矢先、相手が出た。しかしそれは、ウイングの予想したウタの声ではなかった。
「……もしもし」
 男の声だ。ウイングは、いよいよ嫌な予感を具体的に想像し始めていた。
「ウタさんの携帯に電話をかけたつもりでしたが、どちら様でしょう?ウタさんに代わっていただけますか」
 穏やかな口調の奥に、問い詰めるような気配が出ていることをウイングは自覚していた。相手の男はしばらく黙っていたが、戸惑いがちに口を開く。
「彼女は……熱があるみたいなんだ。すごく体が熱くて意識もない。病院に連れていきたいんだけど、連れて行っていいものなのか分からなくて」
 分からないも何もないだろう。具合が悪いならさっさと医者に診てもらうに越したことはない。何か特別な事情でもあるのか。ウイングは複雑そうな彼女の境遇を思った。
 男の説明は要領を得なくて、とにかく電話口では埒が明かない。現在地を聞き出すとそこから近い市民病院を伝え、病院で落ち合うこととした。

 病院前に着くと、ウイングは大層驚いた。背中にウタを負ぶって立っていた男に見覚えがあったからだ。天空闘技場のあるこの界隈ではちょっとした有名人である。奇抜な服装と気まぐれで残忍な性格、そして圧倒的な戦闘力を持つヒソカという男だった。ウイングも、何度かその試合を見たことがあった。
「すごい高熱なんだ」
 向こうも電話の相手だとすぐに気づいたみたいで、ヒソカの方から話しかけてきた。
 なぜウタがヒソカに負ぶわれているのか、知り合いなのか。浮かんでくる疑問はひとまず置いておいて、ウイングはウタの容態を確認する。意識がなくぐったりとしていて、額に汗をかき苦しそうだ。
「すぐに医者に診てもらうべきですね……なぜ中に入らないのです」
「彼女、国民IDがない。医者に診てもらえない」
 ウイングは眉を顰める。
「そんなもの、保険証を忘れたとかその場しのぎで言ってしまえばよろしい。仮に保険証がなくても、高額な医療費を払うだけです」
 ウイングの言葉に、ヒソカは呆気に取られたような顔をした。
「そうなのか」
 ウイングが早く中に、と言うより早くヒソカは市民病院の正面玄関を潜っていた。

 受付でウタの症状を申告すると彼女はすぐに担架で運ばれた。依然意識はないが高熱にうなされ苦しそうだ。
 当然保険証の提示を求められ、今は持っていないことも伝えると、念のために鞄の中を探してみてくださいと受付の中年女性に言われてしまった。
 見られている手前探そうともしないのも怪しいので、ウイングはためらいがちに鞄の中を探る。財布と、小さなポーチが一つと、ハンカチだけしか入っていなかった。まだ新しいそうな小ぶりな財布を開ける。カード入れにはいくつかカードがあった。申し訳ないと思いつつもそれらのカードを一応確認していく。
「……ありました」
 ウイングの抑圧したような声に、ヒソカものぞき込む。
 確かに、保険証と、なんと国民IDカードまであった。名はどちらもキャスリーン=ライラック。歳は16歳。国民IDの方にはしっかり顔写真まで載っており、その顔はウタそのものであった。キャスリーン――……船に乗るときにウタが名乗った偽名だ。
 ヒソカが顔を上げると神妙な面持ちのウイングと目が合った。
「……用意がいいのですね」
 含みを持った言い方で言うウイングに返事をせずに、ヒソカは眉根を寄せる。
 侮っていた。彼女はIQ200の天才なのだ。心配するまでもなく、彼女は偽造IDを入手していたのだ。こんなことならさっさと病院に連れてくるべきだった。
「ウタはとても賢いからね」
 ようやく口を開いたかと思ったらヒソカは独り言のように淡々と呟いた。
「……彼女、は」
 何か聞きたげな雰囲気のウイングに一瞥もくれずにヒソカは病院を後にした。

 外はすでに暗く、細い三日月が東の空に見える。今夜は比較的寒さがましだ。それでも吐く息は白く、街灯の下あっという間に消える呼気に何か思い出さなくてはいけない気になった。
 ヒソカは目を閉じ、切なく澄んだ旋律を頭の中で奏でた。




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