まだ花が咲くには少し早いようだ


 ヒソカが消えた。

 もう数時間後にミナ港に着こうかという早朝のことだった。
 下船準備で荷物をすっかりまとめ終えたウタは、俄かに騒がしくなった船内に何か非常事態の気配を感じた。大きなカバンが一つと手提げの小さなカバンが一つだけのがらんとした部屋の内から、聞き耳を立てる。
 こんな早朝だというのに慌ただしく通り過ぎていく足音と、切羽詰まったような話声。会話の内容までは聞こえなかった。
 ドアを開けするりと部屋を出ると階段の方へ駆けていく三人の乗組員の後ろ姿がある。ウタも後に続いた。階段を下り貨物を保管している倉庫区域に入る。乗組員の人だかりができていた。ひっきりなしに出たり入ったりバタバタとして、どの顔も緊迫している。
 人だかりの中心は、一つの倉庫の前であった。
 この倉庫は確か、今は空であるから、監禁にちょうどいいという話で――。
 ウタは微かに鼻先に鉄臭い匂いを嗅ぎ取り、嫌な予感がした。
「あの、何があったのですか」
 人だかりの後ろの方、手持無沙汰に成り行きを見ている一人の乗組員に尋ねる。
 何人かがこちらを振り向いたが追い返される様子はなかった。盗難騒ぎを解決してからというもの、ウタはこの船の乗組員達に一目置かれていたのだ。
「ああ、お嬢ちゃんか……大変なことになった」
 まだ若い乗組員は青い顔をしていた。とにかく入港準備だ、とか港湾関係者に連絡を、とか慌ただしく動き回る人の流れにただ事ではないことをウタは察する。
「ここに監禁していた盗難騒ぎの犯人……あの男が殺された」
 何となく予想していた言葉が返ってきて、ウタは眉を顰めた。若い乗組員は緊急事態に手持無沙汰のようで、ウタに説明をしてくれた。
「ええと、何から説明したらいいかな――監禁していた部屋には外から鍵がかけてあったんだ。南京錠で、内側からは開けられないようなやつな。で、今朝当番のやつが朝食を運びに来たらその鍵が壊されていて慌てて中の様子を確認したら男が死んでたってわけだ」
「死因は?自殺の可能性はないのですか?」
「そりゃあ、あの死体をみりゃあ……なあ」
 ウタの質問に思い出したくない光景を浮かべた彼は、苦々し気に表情を歪ませる。そこへ船長がやってきて、右往左往する乗組員達を怒鳴り上げた。
「いつまで油を売ってやがる!俺が指示を出した奴以外は持ち場に戻れ!あと一時間後には入港だぞ!!」
 バタバタと出入りする者、後ろの方で中の様子を伺う者、ウタに話をする彼のように泡を食う者、皆が蜘蛛の子を散らすように退散していった。残ったのは船長に現場の監視と調査を任されていたらしい数人と、船長本人と、それとウタだけになった。
 船長はウタに気付くと首を横に振る。
「……現場、見てみるかい?酷い有様だが」
 気遣わしげな様子で彼はウタに提案した。ウタは船長の申し出に遠慮なく事件の起こった部屋を見させてもらうこととした。
 部屋のドアは一つ。元は倉庫だったということで居住区のものよりも頑丈な造りである。元々備え付けの鍵に加えて、後付けの南京錠がぶら下がっているが、それは若い乗組員の言っていたようにひしゃげて折れ曲がっていた。何か強い力で引っ張られたようである。常識的に考えると道具を使ったとしか考えられないが、この世界には常識では通用しない力を持っている人種がいることを、ウタは知っている。
 部屋に入るとむわっと濃い血の匂いが鼻を突いた。だだっ広い部屋の奥で、盗難事件の犯人の男が足を投げ出して座っている。正面の壁を背もたれにし、足首には柱と繋がれた鎖が付いたままのその男は全身血まみれで、既に息絶えていることは一目瞭然であった。室内の血は主に男が座っている周辺のみで特別争ったような痕跡も見られない。二人の乗組員が部屋の内部や男の死体の写真を撮っていた。入港後に現場を警察に引き渡す時に一緒に渡す資料だろう。
 ウタは男の死体に近付く。頭を垂れたその顔を覗き込むと眼鏡さえも綺麗にかけたままで、しかし濁った瞳には何も映していない。ウタは死体を直にこの目で見るのは(それもこんな血みどろの、状態としては非常に悪い死体だ)初めてだったが、不思議と抵抗はなかった。
 死体の出血の出どころを目で探ると、無数の切り傷が付いていることが分かった。鋭利な比較的短い刃物で切り付けられたような跡だ。
「船長、船内を捜索してみましたが凶器らしきものは見付かっていません」
 新しく部屋に入ってきた乗組員が船長に告げる。ウタは窓のない室内をもう一度見回す。素手で鍵を壊し、手持ちの品で人肉を切り刻むことのできる人物に、ウタは心当たりがあった。
「それから乗客を食堂に集めました。ですがまだ全員は集まっていなくて、ええと、そこのお嬢さんと――それから、15号室の男がまだ来ていません」
 15号室は、ヒソカの部屋だ。ウタは確信した。
「……彼が犯人だわ」
 呟くウタに皆一斉に注目した。
「きっともう船内にもいないんじゃないでしょうか」
 苦虫を噛み潰したような表情のウタに、船長と乗組員たちは顔を見合わせる。
「確かに怪しい男だったが……いやしかし泳いで陸に逃げたのか?」
「まあ泳げない距離ではないが、この季節は湾内も波が高くてそれに、この水温だぞ」
「しかしどうやって鍵を壊したんだ?」
 ざわつく男達にウタは少し申し訳なさを覚え、上目遣いで皆の表情に目を走らせた。
「彼は一応プロハンターです」
 ウタの言葉に男達は驚き、しかしすぐに、どこか納得したようだった。ハンターというのは桁違いに強く、変わった生き物であるというのが共通の認識なのである。
「殺人の動機は……分かりません」
 ウタはそう続けたが嘘だ。殺人動機は単純だ。分かり切っていた。ヒソカは退屈だったのだ。
 あと少しで陸に着くものを我慢できなかったのか、と口惜しい気持ちでウタは静かに拳を握りしめる。しかしこれがヒソカという男なのだ。罪を犯した男を標的にするだけまだましだったかもしれない。脈絡なく、息をするように人を殺しそれに快感を覚える男なのだ。そこに伴う理由や感情はなんだっていいのだ。
 そうだ、ウタが悔しい理由はただ一つ。
(ちょっとくらい私に相談してくれても良かったのに)
 ヒソカが一言もウタに声をかけずに消えたことが、ウタを傷付けたのだった。ヒソカから携帯の連絡先は、既に聞いている。ゴンの行方を探す約束もした。これからも会おうと思えば会えるだろう。だけど、一緒に新しい陸地を踏むと思っていたヒソカが勝手にいなくなることが、ウタにはどうしようもなく恨めしかったのだ。



 それから程なくして入港し、地元警察による調査が行われた。警察は船から事件の連絡を受けていたらしく、岸壁で待機し着岸と同時に乗り込んできた。
 全乗組員および乗客に対して聞き取り調査が行われ、ウタは消えた容疑者――ヒソカについて殊更にしつこく聞かれた。他の乗客達からの証言でヒソカと一緒に行動していたことが分かっているからだろう。ウタはヒソカとはこの乗船で知り合って、深くはお互いのことを知らないと説明した。ウタお得意の愛らしく庇護欲を掻き立てられる雰囲気と、乗組員たちがウタに味方したのもあってか、それ以上追及されることはなかった。
 そんなこんなで、朝入港し、乗客が解放されたのは午後の鐘が三つなってからだった。ミナ港からバスに乗り、目的の街に着く頃にはもう夕方になってしまっていた。
 少ない荷物ではあるが疲労の溜まった体で背負って歩き回るのも嫌気がさして、ウタは段々とヒソカへの怒りが湧いてくる。ヒソカがあと数時間我慢していればさっさとこの街に着いていたし、昼食を食べはぐることもなかったのだ。
 静かな怒りでぐるぐると同じことを考えながらウタは黙々と歩く。長く伸びた自身の影を踏みながら足早に歩を進め、石畳の細い路地を抜けた先に目的の建物はあった。怒りを一旦保留とし、ウタは目的を遂行するために頭をクールにしようと努めた。
 石造りの家屋は、この街の標準的な民家に見える。玄関横のポーチ部にはプランターが置いてあるがまだ花が咲くには少し早いようだ。もう一度住所を確認してからウタは呼び鈴を鳴らした。低いブザー音が外まで聞こえ、少し待つと中から足音が聴こえてくる。目の前の木のドアを開けて出てきた男は若く、地味な眼鏡と特徴のない顔が真面目そうな印象を与えた。
「はい、どちら様でしょう」
 若そうな見た目とは裏腹に、その声は落ち着いている。穏やかで実直そうな男だ、とウタは内心安堵した。
「突然お尋ねして申し訳ありません。ウイングさんでしょうか」
 礼儀正しくお辞儀をする少女を眼鏡の男――ウイングは不思議そうに眺める。
「ええ、私がウイングですが。何の用でしょう」
 ウタは顔を上げるとウイングを真っ直ぐ見据えた。
「初めまして。私はウタ=アヤメノと申します。急で大変不躾なお願いではありますが、私を弟子にしていただきたいのです」
 ウイングは少し厚い瞼をピクリとさせた。一瞬の間が空く。
「残念ですが私は今新しく弟子を取っていません」
「そこをどうか、お願いいたします」
 再び頭を下げ、顔を上げたウタの目に少年の姿が映った。玄関先で応対するウイングの開け放したままの扉の向こうで、道着姿の少年が何事かとこちらを見ていたのだ。
「師範代、新規入門者ですか?」
 話が聞こえていたらしく、少年はパッと顔を輝かせる。年の頃はゴンやキルアよりも少し下だろうか。無邪気で真っ直ぐな少年らしい表情に、ウタはしめた、と思った。
「ズシ、勝手に口を挟むんじゃありません」
 ズシと呼ばれた少年を窘めるウイングの台詞は師匠然としていたが、その口調に全く棘はなく、穏やかな人となりが窺える。ズシ少年は「ウス」と控えめに頭を下げた。彼が再び奥に引っ込むより早く、ウタは口を開く。
「私に念を教えていただきたいのです」
 奥に戻ろうとしたズシが足を止めてこちらを振り向いた。ウイングはほんの一瞬だけ驚いた表情を見せ、しかしすぐに険しい顔となる。
「……既に少しは使えるようですね」
 目を凝らすようにウタを見つめるウイングは、ウタの身体の周りのオーラを確認しているらしかった。ウタは頷く。
「どこでこの道場のことを知ったか知りませんが、紹介のない者を門下に迎える気はありません」
 ウイングの言葉に信じられないという顔をしたのはズシの方であった。
「師範代、でも自分は」
「ズシは黙っていなさい」
 ピシャリと一蹴するウイングに、ズシは押し黙る。ウタはあえてズシには目を向けずに、ウイングだけを見つめ続けた。
「紹介状は……ありません。ただ、ネテロ会長の門下生ということで、伺いました」
 ウイングは静かにウタの言葉に耳を傾ける。ズシは緊張した面持ちで師匠と見知らぬ少女との顔を交互に見合わせていた。
「ネテロ会長が、人を教えるのが抜群に上手い弟子がいると教えてくださいました。もちろんお月謝もきちんとお支払い致します」
 ウタは真剣に訴える。ウイングはほんの少し首を傾げてみせた。長めの前髪がパラパラと眼鏡にかかる。
「それならば、紹介状がないのは何故?」
 ウタは猶もウイングを見上げたままで目を逸らさずにいた。ウイングが、ウタの瞳の中の真意を見出そうとしているような気がするのだ。
「私はある日気付いたら見知らぬ土地にいました。恐らく念の力によるもの……この世界には私の元居た場所はありません。でも、念を習得することが、元いた場所へ帰る鍵なのです」
 一息でそこまで言い切ると、ウイングの顔に戸惑いの色が浮かぶのが分かった。突拍子もない話に、どう判断したら良いか決めかねているみたいだ。ウタは風向きが変わってきたのを感じる。
「そうですか……いやしかし」
 ウイングはとうとうウタから視線を外し、戸惑い気味に頭を掻いた。ウタはウイングの後頭部に寝癖が跳ねていることに気が付いた。
 再びウイングが何か言おうとした矢先に、電子音が鳴り響く。ウタのものではない。ウイングがポケットから携帯電話を取り出した。メールのようだ。
 ウイングが携帯を操作する間、ウタは彼の後ろに立ち尽くす弟子に目を向ける。真っ白な道着を来た坊主頭の少年は息を潜めて事の流れを見守っていたが、ウタと目が合い控えめに会釈した。ウタも頭をわずかに下げ、嫌味じゃない程度に曖昧に微笑んだ。
 ため息の気配に、二人はウイングに目を戻す。ウイングは困った顔でまたぐやぐしゃと髪を掻いたので、寝癖が余計に酷くなる。
「今まさに話していたネテロ会長からです。“かわいこちゃんが訪ねたら親切にしてやってくれ”……だそうです。まったく、あの人は」
 そう言って携帯のメール画面を見せたウイングは苦笑いで呆れながらも、しかしその表情が柔らかいものだったのでウタはホッとした。しかしタイミングを見計らったようにメールを寄こしてきたネテロ会長には驚きだ。今もどこかで見ているのではないかとウタは一瞬考えた。
「まったく、本当に、あの人には敵いませんね」
 ウイングが諦めたように笑うので、何でもお見通しのそういう人なのだろうとウタも思い込むこととした。


 家の中に通されたウタはズシと手合わせることになった。ウタの実力を見るためだそうだ。念の使用は禁止で単純に体術のみの手合わせだ。一見すると接戦で実力はほぼ互角かのように見えた。しかし三回行った手合わせのうち、必ずズシが決め手となる攻撃を出してきてその全てをウタはくらった。ほぼ互角のように見えて、その実体術は確実にズシの方が上である。
「っス!ありがとうございました!」
 ズシは礼をした後に、すぐさまウタに駆け寄ってきた。
「大丈夫っすか」
 心配そうに覗き込むズシにウタは大丈夫と微笑む。心優しい少年は、女の子に怪我をさせていないかと気を揉んでいるようであった。痛みをこらえてウタは何でもないというような表情を心がける。
 続いてウイングは練と絶をしてみるよう指示した。四大行のうち、オーラを留める練とオーラを断つ絶だけサトツというハンターから習ったとウタが申告したからだ。ズシの拳を受けて脇腹が痛んでいたが、毎日欠かさず練と絶の訓練をしていたおかげか思いのほか集中してできた。
「よろしい……けっこうです」
 ウイングの声にウタが伏せていた目を上げると、彼は満足気に微笑んでいた。その後ろでズシが驚いた顔で、しかし目を輝かせてウタを見ている。
「体術はズシの方が上ですが、念のレベルは今のところあなたの方が高いみたいですね。ズシの良いライバルになりそうです」
 ウイングはそう頷いた。ウタは念を習得したいだけで強くなりたいわけではなかったが、強くなることが念の習得には必要なのかもしれない。
「今日この街に着いたばかりということですけれど、住む場所は?」
 ウタが汗を拭いているとウイングが現実的な話を始めた。ウタは首を振る。疲れからか頭が少し重いような気がした。
「まだ決まっていません。今日は宿に泊まって、明日決めるつもりです」
 ウイングは頷く。
「分かりました。では明日は何かと忙しいでしょうから明後日以降、落ち着いたらまた来てください。一応、連絡先も」
 
 ウイングと連絡先を交換し、最後にズシにもう一度お礼を言って外に出る頃には、すっかり辺りは暗くなっていた。この街は最終試験会場のあった国よりもだいぶ緯度が高い。冬の夜の冷たさに汗が冷えてウタは身震いする。
 明りの消えた不動産屋で物件のチラシを束でもらい、宿にチェックインした。古く、小綺麗ではあるがベッドと机だけの殺風景な部屋に着いたウタは底冷えするような寒さにすぐさま暖房を入れる。狭い机に座りパソコンを開いた。電脳ネットに不正アクセスし、航空券の予約履歴を覗く。宿のネット回線の速度は、まあ悪くない。目的はゴン=フリークス――すぐに見つかった―― 一週間前、つまりハンター試験が終了してすぐにパドキア共和国行きの飛行船に乗っている。同乗者はクラピカとレオリオだ。キルアに会いに行っていることは容易に想像が付いた。続いてパドキア共和国の入国検査記録を調べる。ハンターIDを使わずに通常の旅客ビザで入国している。パドキア共和国の通常ビザ期間は一カ月。
 欲しい情報が粗方手に入りウタはパソコンを閉じる。携帯に手を伸ばしたがしばし迷った。勝手にいなくなったヒソカにこうも簡単に情報を教えるのは少し癪な気もしたのだ。もう少し焦らしてやろうか――いや。ウタはメールを打つ。
 この世界に来てしまった鍵を握るジョーカーのカード。その情報との交換をヒソカと約束しているのだ。感情的になって無駄な時間を喰うよりも、早い所必要な情報を教えてもらった方が建設的だ。今得たゴンに関する情報を打ち終わり送信する。横になりながら不動産のチラシを眺めていたが、眠りにつくまでヒソカから返信が来ることはなかった。




back



- ナノ -