行ってみればいい


 穏やかな冬晴れの日である。丸い船窓の外の日差しは柔らかく、本日は比較的揺れも少なかった。しかし日陰側になっている窓には若干の結露が見られ、外の空気は冷たいのだと伝えていた。
 石油ストーブと机、L字型のソファがあるだけの娯楽室もまた、例に漏れず狭い。壁際にはスチールロッカーが置いてあり、中には貸出用の本が並んでいる。ただそれだけの空間だ。
 ウタはソファに座り片端から本を読んでいたが尋常ではない速さで読むもので、そのうち船内中の本を読みつくしてしまうのではないかとヒソカは思った。

 石油ストーブの上のやかんが沸騰を告げる甲高い音を鳴らすと、ウタはようやく顔を上げた。
「ヒソカ、紅茶飲む?」
 彼女の小さく綺麗な手がやかんを鍋敷きに置くのを見届けて、ヒソカは首を横に振る。
 ウタはそう、と呟くと一人分のお湯をティーポットに注いだ。十分に蒸らしてからカップに琥珀色の液体が注がれる。
 ヒソカは作りかけのトランプタワーに目を戻す。残り三段で完成だが、興味が削がれてしまった。もうどうでもよくなり、完成前のそれを指で弾いて崩す。足場を失ったカード達はばらばらと床に落ちた。
 ヒソカは、退屈だった。
 結局、盗難の犯人はあっけなく捕まってしまった。ウタの推理通り、最初に盗難被害を訴えた眼鏡の男が犯人であったが彼はなんとも呆気なく乗組員によって捕らえられたのである。何が船員だ。煙玉まで用意して、犯人が混乱しているうちにその腕を捻り上げる早業は堅気には見えなかった。
 出港してからもうすぐ1週間。ハンター試験後はさして面白いこともなく、せっかく面白そうな盗難騒ぎも呆気なく終わり、ヒソカは暇を持て余していたのだ。
 しかし床に散らばったカードを集めて拾い、シャッフルしているうちにヒソカは思いついた。掌の中には黒と赤のマークのカード達。
「そういえば、思い出したよ」
 今まで静かだったヒソカが声をかけると、ウタは本に伏せていた目を上げる。大きな丸い瞳は愛らしく、先日素晴らしい推理力を見せた知性の化け物と同一人物とは思えなかった。
「ウタが前に聞いてきたあのジョーカーのカード……どこで見たのか思い出したよ」
 ヒソカが口の端を上げてそう続けると、ウタの元から大きな目がさらに大きく見開かれる。彼女が開いていた本を閉じたことが、より一層ヒソカを満足させた。
「もちろん、教えてあげるけど――条件がある」
 にんまりと笑うヒソカの顔はジョーカーそのものだ。
「誰がいつどの飛行船に乗ったか調べられるって言っていたよね。ちょっと調べてもらいたい人がいるんだ」
 ウタは一拍置いて、しかしすぐに頷いた。
「いいわよ。今は電波が繋がらないから陸に着いてからになるけれど、誰を?」
 聞きながらも、ウタにはその答えが分かっているのではないかとヒソカは思う。
「ゴン」
「分かったわ」
 すんなり聞き入れるウタに、暇を持て余しているヒソカとしてはちょっとくらい驚いてくれてもいいのにという気持ちと、やはり予想付いていたのかという感心とが半々だった。
 紅茶を飲み終えるとウタはやかんとカップを片付け始める。
「どこ行くの?」
 ヒソカが尋ねるとウタは嬉しそうに答えた。
「この間の盗難犯人逮捕に協力したお礼として、エンジンルームを見せてもらうことになっているの。ヒソカも行く?」
「……いや、僕はいいや」
 じゃあ、また後でね。と娯楽室を後にするウタは新しいおもちゃを買い与えられた子供のように上機嫌である。エンジンルームなんか見て、楽しいのだろうかとヒソカは一人口を尖らせた。


 エンジンルームは、居住区よりもさらに狭かった。
 ディーゼル発電機が3台と、蒸気を作る重油焚きのボイラー、それから冷却用の清水や居住区に飲料水を運ぶためのポンプが所狭しと設置されている。
 帆船であることを差し引いても狭すぎる。なぜこんなに狭いのか。
(推進力を生むためのメインエンジンがないからだわ)
 ウタは合点した。
 考えてみれば当たり前のことなのだが、この船は帆で風を受けて進む。そもそもプロペラはなく、動力源であるエンジンも必要ない。燃料費削減の為に使っていないのではなく、元よりエンジンが存在しないのだ。
 そういえばこの世界に来てから読んだどの本にも、エンジンを搭載した大型船についての記述はなかった。しかし車はあるではないか。航空機は?そうだ、航空機も前時代的な飛行船などという手段を使っている。
 ウタはもう一度エンジンルームを見回した。ボイラーや機械の熱で暑く、発電機の音が煩い。機械油の臭いはするが綺麗に保たれている、方だとは思う。
 車のエンジンだったり、今目の前にもこうしてディーゼル発電機はあるのだから、その先にプロペラを付ければ良いだけの話ではないのか、とウタは頭を捻った。ウタは機械工学の専門知識はそれほど深くない。もしかしたら大型船を動かせるほどの推進力を生むまでエンジンを大型化するのはこの世界の技術では難しいのかもしれない。

 当直中の乗組員にお礼を言い、ウタはエンジンルームから立ち去った。居住区に戻ると、通路の方がエンジンルームより寒いくらいだ。
 夕食まで少し時間があるので、外の景色を見ようとウタは思い立つ。そろそろ陸地が見えるかもしれない。
 中央階段の踊り場で、大きな世界地図が目に留まった。最早見慣れたこの世界の地図だ。この船が今まで走ってきた航路が赤線で地図中に記されている。
 ふと、ウタは違和感を感じて立ち止まった。
「どうかしたか?」
 呼び止める声は船長のものだった。
 階段の下からウタを見上げる彼はいつものように煙草をふかし、その赤ら顔はキャプテンの制帽を被っていなければゴロツキに見えた。
 ウタはお疲れ様です、と挨拶をした。
「あの、少し質問があるのですがよろしいですか?」
 申し出に、船長はがははと笑う。
「昨日あれだけ船橋で質問攻めにしたってのにまだ足りないかい。いいよ、何だい」
 彼の言う通り、昨日船橋を見学させてもらった際に操船方法やら計器の扱い方やら海図の読み方まで質問して乗組員を疲弊させたことを思い出し、ウタは少し赤面した。
「すみません、仕事中ですのに次から次へと……」
 しおらしく、小さくなる少女は年相応に見える。あの盗難騒ぎの推理がなければ愛らしい、全くもってただの少女だ。彼女は船長の前で静かな彫刻に擬態することを止めたらしい。その代わり、あふれ出る探求心を次々にぶつけてくる。賢い子だから、それだけ色々なことに興味が湧くのだろう。
「構わねえよ、船長なんて、普段は仕事なんてあってないようなもんだからな」
 それで、何を聞きたいんだい?と先を促すとウタは控えめに喋り出した。
「この地図に記されている航路は、この船が就航以来辿って来たものでしょうか」
 船長も踊り場の壁に掲げられた大きな世界地図に目を向ける。赤い線が、文字通り世界中を走っている。
「まあ、重複しているところなんかは載っていないものもあるが、そうだな」
「たとえば、この航路――サヘルタ合衆国の西岸からカキン帝国の東岸に行く場合ですが」
 サヘルタ合衆国はヨルビアン大陸――この世界地図では左下に位置する――の西半分を占める大きな国だ。一方カキン国はアイジエン大陸――この世界地図では右上に位置する――の中央やや南寄りにあるこれまた大国である。
「この航路を見ると、サヘルタ合衆国西岸の湾内を出た後は北上し、ヨルビアン大陸の北側を東に向けて走り、大洋を横切って、そこからさらにアイジエン大陸南側の運河を通り抜けて、東側に回っていますよね」
 地図上の赤い線はウタの言う通りに走っている。要は、世界地図の右下西側のほうから左上東側の方まで、地図を横切っているのだ。
「でも、この航路を行くよりも、ヨルビアン大陸の西側からそのまま西に航行してアイジエン大陸の東側に回った方が早そうな気が……するのですが」
 ウタはそこで船長の顔を見て、何かまずいことを言ってしまったなと気が付いた。船長は面食らった顔で、ウタをまじまじと見ている。
「あんた何言ってんだい?」
 船長は咥えていた煙草を指で挟んで口からどかした。何がおかしいのか。端から端まで横切って行くよりも、反対から――要は、世界地図の左端に行き、そしてその続きは地図の右端に繋がっているのだから右端に出た方が、最短距離のはずだ。

「ヨルビアン大陸の西側、つまり地図で言うと左端にずっと走っていったら、地図の外側に出ちまうだろ?」
 今度は、ウタの方が面食らう番だった。
 地図の、外側?
 一瞬にして様々な疑問が駆け巡る。そして船長にこれ以上不審に思われない最適な質問は何かと考えた。ウタがこの世界の者ではない、という非常に込み入った事情を知っているヒソカに聞いた方が良いかとも考えたが、ヒソカは割と、この世界の常識を知らない。
「……これよりも広域の地図はあるのでしょうか」
「これよりも広い地図は……どうだかなあ、俺の知る限りではないね」
 ぼりぼりと頭を掻く船長は冗談を言っているようには見えない。
「では、外側には何が……?」
 船長は怪訝な顔をし、再び煙草に口を付けた。
「それは船乗りの――というか、この世界のタブーだな」
 信じられないという顔をして船長はウタを見つめている。ウタの常識のなさが信じられないのだろう。
 ウタもそれ以上何を言ったらよいか、考えを整理していると、船長は少し気の毒そうな目をした。
「海はな、広いんだよ」
 最後に深く煙を吸い、そう呟いた船長の言葉が深くウタの胸を貫く。



 その後は陸地が見えるかどうかなんてどうでもよく、真っ先にヒソカの部屋へと向かった。
 ヒソカは狭い船内でもいつも所在が不明であったが、この時は部屋にいたようでノックをすると数秒後にドアが開いた。
「珍しいね、どうしたんだい」
 相変わらず奇抜なフェイスペイントを施した顔でのんびりと話すヒソカにじれったさがこみ上げてくる。
「ちょっと、いい?」
 部屋に入ろうとするとヒソカはわざとらしく両手をあげてドアからどいた。
「若くてろくすっぽに戦闘能力もない可愛い女の子が、不用意に男の部屋に入るものじゃないよ」
 ヒソカの言葉を気にせずウタは部屋へと入る。備え付けのベッドと机以外は、全く私物がなかった。勝手に椅子に腰かけると、ヒソカは特に文句を言うでもなくベッドに腰掛ける。
「エンジンルームは楽しかったかい?」
「まあ特に新しい発見は、エンジンルーム“では”なかったわ。それよりも」
 一応投げられた会話のボールを返してから、ウタは早速切り出した。
「世界地図あるでしょう?最初にヒソカが飛行船の中で見せてくれたようなやつ。あの世界地図の外側には、何があるか知ってる?」
 ヒソカは質問の意味を測りかねてか、きょとんとした顔をした。
「……宇宙?」
 的外れな言葉に、ウタはもどかしい気持ちになる。
「そうじゃなくて、縦の動きじゃなく海面上をずっと横に進んだらどこへ行くの?外側には何があるの?」
 ヒソカは首を捻った。
「さあ、行ったことがないけど、海が続いているんじゃないの?」
 やっぱりヒソカは何も知らないのだ。しかしウタは少しもがっかりしなかった。ヒソカの言葉で分かった。世界地図を端まで行くと反対の端に出るという常識は、この世界では常識ではないのだ。この世界の、少なくとも世界地図に描かれている範囲よりも外側があり、そしてそれは恐らくこの世界の多くの人間が知らない場所だ。なぜなら今まで大量に読んできた本の中に、外の世界の記述なんて一つもなかったからだ。
 そしてもう一つ分かるのは、宇宙という存在もあるから、ここは確かに惑星なのだ。
「ヒソカは地球が丸いって知ってる?」
 確認のために聞いただけなのだが、ヒソカは口を尖らせた。
「馬鹿にしてる?」
「違うの、確認しただけよ」
 軽く言い返すとウタは再び今まで読んだ本の内容を思い返す。
 本からの知識では、この世界も地動説に基づいて天文学を語っていたし、この世界が一つの惑星であることも一般常識として周知の事実であるらしい(現にヒソカも知っていた)。火星や木星など太陽系の他の惑星も、配置を含めて元いた世界と同じである。ただ世界地図と、その世界の未知の部分が大きく違うのだ。

「そんなに気になるなら行ってみればいいんじゃない?」
 何気なく放たれたヒソカの言葉は、思考に耽っていたウタの意識を現実に戻した。
 行ってみればいい。その通りだ。
 ヒソカの言葉はウタの中で限りなく正解だった。
「それもそうね」
 急に胸がときめいてくる。未知のものを目の前にして、持ち前の好奇心と探求心が溢れ出し、ワクワクしてきたのだ。
 眼を輝かせるウタを不思議なものを見るような目でヒソカは眺めていた。
「ウタって頭の良い大人なんだか無邪気な子供なのかよく分からないね」
「大人になりかけのすごく頭の良い子供なのよ」
 にべもなく言い返すウタに「あっそう」と肩をすくめながらも、ヒソカはふふと笑みを溢した。つられてウタも微笑む。次第に笑いが伝播し合って、二人とも声を出してクスクス笑い出していた。
「ウタは楽しそうなことがたくさんあっていいね」
 散々笑い合った後に、ヒソカが言う。
「ヒソカは楽しいことないの?」
 聞きながらも、ヒソカが楽しいのはどんなことだろうとウタは考える。基本的に周囲のことに関心の薄い男だ。唯一楽しそうなのは戦闘の時、それと、人を殺している時、か。
 物騒な映像を思い出す傍ら、ヒソカは首を傾げた。
「楽しい時以外は楽しくないよ」
「そりゃあそうだろうけど」
 哲学的な返事をするヒソカはやはり普通の人とは感覚が違うのだ。不吉な返事が返ってきそうなので、「じゃあ楽しいのはどんな時?」という質問をウタは飲み込んだ。




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