果ての見えない夜の海にも似ていた


 男の話では、盗まれたのは財布に入っていた現金10万ジェニー。出港した時には確かに財布の中に入っており、朝起きて確認するとお札がごっそりなくなっていたとのこと。昨日の夕方に出港してから今朝までの間になくなったことは間違いない。
 なぜウタがこんなに詳細を知っているのかというと、盗難事件について一人の乗組員に尋ねるとペラペラと気前よく教えてくれたのだ。
 少し具合が悪い、とウタは思った。ウタは明け方の人気の少ない船内を歩き回っており、それを乗組員に目撃されている。旅客居住区ではないためウタを疑うようなことはないだろうが、不審なことに変わりはなかった。その上、ウタは念のために現金を多めに持ち歩いていたのでもし持ち物検査が行われると少々厄介かもしれない。
 しかしウタの心配を余所に、何か捜索が行われる気配はなかった。もちろん盗難は犯罪であり特に狭い船内では許されることではなく、犯人が見つかれば容赦なく警察に届けられるだろう。だが本船の乗組員は基本的に自己責任と考えているらしく、積極的に捜査が行われることはなかった。

 しかし盗難騒ぎから2日後、また事件が起きた。
 今度は別の旅客の腕時計が盗まれたのだ。さらに次の日はまた別の旅客の携帯電話と現金が。腕時計はブランド物で30万ジェニー程、携帯電話は最新機種ではないので5万ジェニー程度、現金は約3万ジェニーだそうだ。
 いよいよ自己責任などとは言っていられなくなり、船内がぴりついた雰囲気になってきた。
 旅客同士、あるいは乗組員に対してもお互い懐疑的な目を向け、必要なこと以外は言葉を交わさない。疑心暗鬼になっている中で、次は自分の者が盗まれないようにするのは勿論のこと、自分が犯人だと疑われないようにすることに皆が注意を払った。
 業務の合間を縫って、乗組員による聞き取り調査も行われた。一人一人船長公室に呼ばれ、船長立会の元、それぞれ盗難の起きた時間帯にどこで誰と何をしていたかを尋ねられた。
 ヒソカの番になり、乗組員に呼ばれ食堂を出ると、その場にいた旅客達がひそひそ話を始める。
「あいつ見るからに怪しいよな」
「いつも一人でうろうろしている」
「金目の物を物色しているんじゃないか」
「犯罪者の目付きだ」
 酷い言われようだが、ヒソカのあの見た目では無理もない。ウタは新聞を読むフリをして会話の集団を観察した。四人の男と一人の子供だ。一つの机を囲んで食事を取っているが、ウタの記憶では元々の知り合いではなかったはずだった。一人は最初に現金10万ジェニーを盗まれた眼鏡の男。その左隣の二人組はいつも連れ立っているのを見かける20代くらいの血気盛んな若者達だ。眼鏡の男の右隣りには初老の男が座り、確か彼は腕時計を盗まれている。そしてその更に右に座るのは彼の孫だ。盗難被害に遭った二組に、噂好きな若者が同席し、同調して興奮している――そんなところか。
 ウタは自分の腕時計に目を落とした。午後5時13分。黒い革のベルトに、女物にしては大きな文字盤で、ウタの腕の細さを強調していた。強化ガラスでできた文字盤の左上のLEDランプは緑色に点灯している。続いてウタは、それとなく彼らの身なりに注目した。眼鏡の男はカッターシャツにウールのカーディガンを羽織り、折り目のしっかり付いたスラックスを着用している。靴は値の張りそうな革靴で、クッション性の高そうな厚いソールが付いていた。若者二人はお世辞にも綺麗とは言えず、薄汚れたシャツに裾のほつれたジーンズ、ぼろぼろのスニーカーといった出で立ちだ。初老の男は毛玉だらけのセーターを着ていたし、その孫のトレーナーの裾はヨレヨレである。いずれも履き潰した汚い靴だ。眼鏡の男以外は、この船に乗る平均的な旅客の格好だった。
「儂の腕時計は娘からもらった高価なものなんだ、許せん」
「私も悔しいですよ、ああしっかり戸締りしておけば」
「しかしいつ盗まれたんだ」
「携帯と現金3万盗まれた奴は、風呂に入っている隙にやられたって話だ」
「おいおい脱衣所まで携帯と現金を持っていったのか?」
「いやどうも部屋に置いていたらしいが鍵が開けられていたそうで」
「儂は食事の時での、腕時計を部屋に置いて、盗まれるものもないからと思っていたが、ああ悔しい」
「じいちゃん鍵はちゃんと閉めてたよ!」
「犯人はどうやって部屋に入ったんだ?」
「そりゃ合鍵を持っているか、鍵を盗んだか、もしくはピッキングの類だろう」
「こういう所では貴重品はたとえ鍵をかけた部屋でも、置いとかないで肌身離さず持っていなければいけなかったんだ!とにかく犯人を見付けたら警察に突き出してやる!」
 おや、と思いウタは新聞から顔を上げた。集団の中の、ぼろぼろのスニーカーの若者と目が合う。
「……なんだい嬢ちゃん何か文句でもあるのか」
 俄かに絡まれて、ウタは困ったように曖昧に微笑んだ。
「いえ、そんな」
「だいたいアンタの連れの男は怪しいね、あんなピエロみたいな」
「僕が、なんだって?」
 思いがけずかけられた声に、男達と、ウタまでもが飛び上がった。いつの間にそこにいたのか、ヒソカが不気味な笑みを湛えて立っている。
「次、ウタの番だそうだよ」
 キャスリーンという偽名で乗船しているのに、と内心口を尖らせつつも、ヒソカの言葉にウタはそそくさと立ち上がる。
「ありがとう。じゃあ行ってきます……あ、肩に埃が付いていますよ」
 男達の机を通りざま、眼鏡の男に教えてやると先ほどの絡んできた若い男にぎろりと睨まれてしまった。

 船長公室とは言っても、八畳ばかりの部屋に船長の机と椅子、それに向かい合うように三人掛けのソファが置かれているのみで想像よりも遥かに狭かった。船長は椅子に座って煙草をふかし、机の横には中年の乗組員が書類を手に立っている。船長は赤ら顔に小太りで帽子の下から覗く白髪はいかにもイメージ通りの船長といった風貌だ。
「やれやれやっと最後か……それじゃあいくつか質問させてもらうぜ」
 船長が何度も繰り返したやりとりにうんざりしているのは明らかだった。
「まず出港してから明朝六時までの行動を教えてくれ」
 ウタは18時に夕食を取った後は船酔いで明け方まで部屋で休み、その後は船内を散策し外の空気を吸いに出たこと、途中で乗組員とすれ違いその後ヒソカと合流したことも包み隠さず、淡々と話した。
「あのヒソカって男はどうも怪しいねえ……、まあいい。次は、一昨日の夜17時から18時の間はどうしてた?それと昨日の16時から16時半の間は?」
 どちらも部屋で読書していたので素直にそう答えると、乗組員がメモを取る。答えながらも、ウタの脳裏には同じような聞き取りをされ、しかしいつものように要領を得ない回答をするヒソカの姿が目に浮かんだ。疑われても無理はない。
「それじゃもう一つ聞くがその時間にヒソカって男はどこで何をしていたか知っているかい?」
 ウタは首を横に振る。本当に知らなかった。ヒソカはたまに食堂に見かけるだけで、ウタにとってもその行動の一切が謎だったのである。
「そうかい、ありがとよ……。しかし犯人が出てこなければ手荷物検査をしなければならねえ。全く、この忙しいってのに」
 悪態吐く船長にウタは尋ねる。
「今のやり取りは全員としているのでしょうか」
 静かな少女が自ら口を開いたことが、船長には少し意外で、しばし機嫌の悪さを忘れた。
「そうだよ。旅客全て、17名にだ。何か問題でもあるのかい?」
 探るような目で、船長はウタの顔を覗き込む。
 ウタは少し思案した。自身には何ら関係のない盗難騒ぎ。特務課から逃げる身としては目立ちたくない。疑われるヒソカ。このまま犯人が出てこなければ行われるであろう持ち物検査。少し物騒なものも持ち歩いているウタは出来るなら避けたい。そもそもヒソカは素直に持ち物検査に応じるだろうか。気まぐれで何人か殺しかねない。
 ウタが伏せていた目を上げる。その目を見て、賢い子だ、と船長は直感した。
「……あらかじめ持ち物検査が行われることが分かっていれば犯人は盗んだものを隠すでしょう」
 ウタの言葉に船長は肩をすくめる。
「そりゃあ、まあそうだな。持ち物検査で出てこなければ、船内を捜索する。それでも出てこなけりゃ今度は旅客の下船前にもう一度持ち物をチェックすりゃあいい。そうすりゃ少なくとも犯人は盗んだ物を持って下船できないだろう」
 ウタは頷く。
「それでは犯人の得にもならないでしょうが、損にもなりません。盗難されたものも返ってこないでしょう。第一、盗まれた現金は本人のものなのか確認のしようがありません」
 船長は眉をしかめた。
 口数少なく存在感なく、顔は整っているだろうに地味でどこか生気のないような少女。それが当初彼女に抱いた印象だった。しかし今はどうだろう。ともすれば彫刻のようにも感じた生気のないその顔は今や聡明さがありありと見て取れ、瞳は勝気な色を宿し輝いている。その自信も彼女を魅力的に見せていた。
「詳しく話を聞こうじゃないか」
 船長は身を乗り出す。大きな波が船体に当たって大きな振動が響いた。







「おかえり」
 ウタが食堂に戻ると一人トランプ遊びをしていたヒソカが声をかけた。待っていてくれたのか、とウタは嬉しく思った。
 食堂の人はまばらになり、噂話に夢中な男達もいなくなっていた。ヒソカの他には中年の女とその息子と思しき青年がいるのみだ。ウタが腕時計を見やると針は午後6時45分を指していた。文字盤の左上のLEDランプは橙色に点滅している。
 疲れた様子でヒソカの向かいに腰掛けるウタにヒソカは首を傾げた。
「長かったね」
 ウタはヒソカを一瞥して、首を振った。
「色々質問されて参っちゃったわ」
 セルフサービスで飲むことのできる紅茶のティーバッグをカップの中のお湯に浸し、ウタはため息を吐く。
「ヒソカ、あなただいぶ疑われてるわよ」
 そんなこと、とヒソカは微笑む。その様子にウタは少し声を大きくした。
「そんなこと、じゃないわ。おかげで私も色々聞かれて……なんだか疑われているみたい」
 ティーバッグをカップからどかし、一口すする。まだ少し早かったみたいで茶葉の味は薄かった。
「疑われるどころか、次に盗難に遭うのは私じゃないかって気が気じゃないのに」
 どういうこと?とヒソカが先を促す。その顔はやはりどこか楽し気だ。
「現金も盗られたらもちろん困るのだけど、実はメンチからいくつか宝石をもらっているのよ」
 ウタが一息で、しかし最後の方は声を潜めてそこまで喋ると、ヒソカは依然微笑んだままできょとんとしていた。
「メンチ?」
「いやだ、忘れたの?ヒソカの受けたハンター試験の試験官をした、グルメハンターのメンチよ。シングルハンターの称号をもらっている実力者だわ。彼女が、けっこうな値の張りそうな宝石をくれたのよ。もしもの時の為にって」
 信じられないという顔をしてヒソカを見ると、当の本人はクックックと声を漏らして笑っている。何が可笑しいのか、ヒソカの考えていることは分からない。
「だから私、貴重品は空き部屋に置くことにしたの。このことは誰にも秘密よ……ほら、三部屋とっていたでしょう?私の泊まっている2号室、ヒソカの15号室、それと予備の4号室。もちろん鍵は私が持っているからしっかり掛けておくわ。その4号室に置いとけば、いくらなんでも空き部屋に高価な物が置いてあるとは誰も思わないでしょう?」
 周囲を気にしながらもウタは得意げに説明した。腕時計にまた目をやる。
「この船の乗組員は何だか当てにならないから……自衛しなくちゃ」
 ウタは憤然として言い切ると紅茶を飲み干す。
 そろそろ休みましょう、と二人は食堂を後にした。


 食堂から階段を下り、居住区域の廊下に立ったヒソカはウタを振り返った。薄暗い照明が陰影を作り、盗難騒ぎで鬱蒼とした船内の雰囲気に拍車をかけているようだ。
 彼女はまだ階段の途中、後5段程残した位置でヒソカを見下ろしている。その顔は先刻までの憤然とした態度が嘘の様で、無表情でしかし聡明な、あの無慈悲な彫刻のようなウタであった。
 彼女は愛嬌だったり、知性だったり、あるいは魅力や愛くるしさといったものを自在に出したり消したりできるかのようだった。
「それで?」
 ヒソカの問いにウタは大きな目を少し細めただけで、答えない。
「どういう手筈だい?囮作戦だろう」
 彼女は再び腕時計に目をやると歩き出しヒソカを追い越した。ヒソカも黙って後に続く。
「……宝石なんてもちろんないわ。鍵をかけた4号室の中に空の金庫を置いて、犯人がそれを持ち出すあるいは開けようとしたところを現行犯で捕まえる。当直の人間を一人割いて、見張りに回してもらうの」
 歩きながらウタは淡々と説明した。暖色系の照明が作る影が、彼女のミステリアスな雰囲気を強めている。
「ふうん……犯人の目星は付いているのかい?」
「ええ、最初に盗難に遭った眼鏡の男よ。現金10万ジェニーが盗まれたと訴えているけど、それも虚偽の報告ね。あの男の話は辻褄が合わないところがあるから。そして現金以外の盗品は浴室横の倉庫に隠しているわ。ピッキングした跡が見られて、なおかつ普段人が足を踏み入れない倉庫内の厚く積もった埃に靴跡が付いていた。乗組員の履いているデッキシューズではなく防音性の高い高級メーカのソールの形の靴跡のね。埃まで肩に付けて、詰めの甘い男だわ」
 ヒソカは眼鏡の紳士的な顔をした男がこの船には見合わないきちんとした格好をしていたことを思い出した。靴はどうだっただろうか、そこまではさすがに分からない。
「すごいね。いつの間にそこまで調べたんだい」
 ヒソカの問いにウタは立ち止まりちょっと悪戯そうな笑みを見せた。たちまち彼女の雰囲気は無表情な彫刻ではなく、少し勝気で蠱惑的な女性のものとなる。
「ヒソカこそ、どうしてさっきの会話が次の盗みを誘うためのものだって分かったの?」
 弧を描くウタの唇に見入りながらヒソカは答えた。
「やけに説明調だったから、“秘密”の宝石の話を誰かに聞かせたいのかと思っただけさ。それに何度もその腕時計を気にしていたし……何かを確認していたんだろう?恐らく盗聴器の類を」
 ウタは微笑んで再び歩き出す。
「その通りよ。この腕時計、ちょっと改造して広範囲の周波数を拾うようにしてるの。盗聴器は私たちが座っていた後ろのテーブルの裏に付いているわ」
 ウタが見せた腕時計を覗き込むと、文字盤の右上のLEDは緑色に点灯していた。彼女
曰く、今は犯人が盗聴に使っている周波数の電波は発信されていないとのこと。
 改造?簡単に言ってみるが、自分で?そしていつ盗聴器を見付けたのか?
 この少女は、ヒソカが思っている以上に賢く、多才で、強かであるようだった。
「でもヒソカってやっぱりすごいのね」
 ヒソカがウタに対してしみじみと思っていることを、彼女が口にしたもので、ヒソカは一拍遅れてから聞き返す。
「何が?」
「さっきの会話でそこまで分かること。会話の内容だけじゃなくて私の仕草や視線、目の動きからそこまで読み取ったんでしょう。もちろん戦闘の経験で培ったものもあるのだろうけど……観察力がある。それを分析する頭の良さも」
 恐ろしく頭の良い美しい少女に褒められて、悪い気はしなかった。ありがとう、と素直にお礼を言う。
「その作戦の見張り、僕もしていいかな?」
 しかしヒソカの申し出にウタはあまりいい顔をしなかった。
「君が犯人だろうって言ったあの眼鏡の男、人を殺しているし今後も人を殺すことに躊躇いはない。見張りにつくのは屈強な海の男と言っても、たかが船員、戦闘は素人だろう」
 ウタは驚いてヒソカを見上げる。男が過去に人を殺しているだなんて、どうしてそんなことが分かるの?と尋ねる。
「勘さ」
 ヒソカはにんまりと笑った。
 その顔をまじまじと見つめ、恐らくヒソカは同じ匂い――つまりは殺人鬼としての同類を嗅ぎ分けているのだろうと推察した。きっとウタの頭の良さでは分からない。人を殺した者にだけ分かる、狂気の匂いだ。
 狭い船内だ。話しながら歩いているうちにもうウタの部屋の前まで来た。
 もう一度腕時計を確認したウタは2号室の部屋のドアノブに手をかけ、聡明な瞳でヒソカを見上げる。
「殺さないでね」
 彼女の口から出てきたのは思いがけない、しかし常識的な言葉だった。
「どうして?」
 ヒソカはゆっくり聞き返す。瞬きをするウタの睫毛は長く、繊細な作り物のようだ。
「さすがにかばいきれないわ」
「……約束はできないけど、善処するよ」
 ヒソカの答えに、ウタは肩をすくめる。おやすみなさい、と彼女は静かに部屋に入っていった。

(かばいきれない……か)
 一人廊下に残ったヒソカはペロリと唇を舐めて笑う。世間的な善悪を一言も持ち出さず、彼女は自身の基準で行動する。ウタの言葉はいつもヒソカの予想を超えてくる。それがヒソカには面白かった。
 少女はその愛くるしい見た目とは裏腹に、内に何か化け物を飼っているようだ。
 それはまるで得体の知れない大きな暗闇で、果ての見えない夜の海にも似ていた。





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